素直な気持ちで返せ[以直]

 

 

 私たちは、現場でどう対応したらいいのか、悩むことは多いものです。

 特に、なるべく良い人間でいたいとか、波風立てたくない、とか、嫌われたくない、といった思いがあればなおさら。

 さらに、職場では、ご近所同士では、といった要素が入ってくると複雑になってフリーズしてしまいます。

 

 自分のIDでログインする、というのはこのあたりの複雑なものを整えて、組み立てていくということでもあります。

 

 

 

 論語の憲問編にこんな話があります。

 ある人が孔子に尋ねました[或曰]。

 「他人からひどい事をされたときも、やはり、徳をもって対応するべきなのでしょうか?[以徳報怨 何如]」

 それに対して孔子は言いました[子曰]。

 「では、その徳は何が報いてくれるのか?[何以報徳]」

 「その時の率直な気持ちで応じればいい(つまり怒りたければ怒ればいいし、悔しければ悔しいと睨みつければいいではないか?)[以直報怨]」
  
 「徳というのは、相手も徳で応じてきたときに返すものです。[以徳報徳]」 

 と。

 

 

 私たちが思う孔子のイメージだと、「ひどいこと[怨]に対しても、徳を持って返せ、それが君子(立派な人間)だ」といいそうですし、
 質問した人もそれをなんとなく予想していたのだと思います。

 
 しかしながら、その予想に反して孔子は、ひどいことをされたら、そのときの素直な気持ちで返せ[以直]、と答えました。
 それが結局、目指す状態につながると。
 

 

 以前お伝えしたログアウト志向か、ログイン志向か、でいえば、

 ひどいことをされてもこちらが徳をもって応じるというのはログアウト志向です。
 反対に率直に返すのはログイン志向 といえます。

 
 さすが孔子先生は、ログアウト志向の罠に気がついていたらしく、ログインすることが大切だよ、質問者に伝えていたようです。
(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 

 

 しかし、トラウマを負っていると、私たちは過度の理想主義から真逆を行ってしまいます。

 失礼なことを言われても、動じない人間になろう、クールに対応できる人間になろうとする。徳をもって返そうとする。それが良い人間であると思っているために。

(参考)→「ニセ成熟は「感情」が苦手

 

 

 感情的に反論するような泥仕合になるようなことは絶対にしたくない。
 なぜなら、自分に嫌なことをしてきた人たちがそういう人たちだから。

 いかに、自分の感情を消すか、といった方向を目指してしまう。

 世の中にあるセラピーの本や「怒らない練習」みたいな自己啓発本を読むと、さらにその傾向は加速してしまいます。
 
 ログアウトしようログアウトしようという方向に持っていかれてしまう。

 

 実際に怒らないようにしていれば、現場でも何も感じなくなるか?といえば、そうはならず、相変わらず、失礼なことを言われたら、頭を殴られたような気がして、家に帰ってもぐるぐると次に同じことが起きたときのシミュレーションをしたり、自分や相手を責め続けることになるのです。
 

 この状態から逃れようとしていくら言葉を唱えたりしても(ログアウトしたままでは)スッキリ解消されることはありません。

 頭がぐるぐるするのはログアウトして自分が自分ではなくなったために起きていることです。 

(参考)→「ログインしていないから、頭がぐるぐる回る。

 

 

 そうこうしているうちに、いつしか失礼なことを跳ね返すための免疫力が奪われていってしまうのです。

 

 俗世間で生きる私たちとしてはそれではやっていけません。お坊さんみたいになるのは人生の終盤で良い。

 

 

 

 「徳」というのは、言い換えれば「公的環境」のことを言います。

 相手が私的な雰囲気で失礼な対応をしてきた場合に、公的環境を作り出すプロセスとして一喝することも必要になることがあります[以直]。
 これは皆、普通に行っていることです。
 

 「どういうことですか!」とか、
 「失礼じゃないですか?」とか、
 「いい加減にしてくれますか」とか、

 

 そうすることで、相手がローカルルール人格状態になっていることに「常識(パブリックルール)」の冷や水を浴びせることができる。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 感情や自我というのは「常識(パブリックルール)」の乗り物です。

 感情や自我を表現することで「常識(パブリックルール)」が伝わり相手の私的情動に巻き込まれない状態を作ることができる。
 
 
 相手がこちらを感情的に巻き込もうとする場合などは、あえて冷静になることで感情や自我を表現して、巻き込まれなくする、という場合もあります。
 さらに、応用技として礼儀正しく伝えるということはあります。

 しかし、それも、奥底には「あなたの失礼な態度は受け入れられません」という自我や感情が備わっているから効果があることです。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 ログアウトして自分がない空っぽなまま、「私は何も感じてませんよ。動じていませんよ」とクールなふりをしても相手には全く伝わりません[何以報徳]。

 そうしても「あなたは人間ができている、感服しました」とはならないものです。
 (反対に、「あの人は失礼な人だ」と真逆の評価をされたりします・・)

 

 
 先日の記事で、自尊心とはなにか?ということを見ましたが、まさにそれとも重なります。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

  
 私たちに必要なのは、反応しない練習などではなくて、言葉を唱えるでもなく、ログインして適切に反応する練習です。

 失礼なことを言う人がいたら、ニコニコしながら、心の底に「そんなこと言われる筋合いはないよ!」という刀を仕込んで接する。

 (映画「バケモノの子」の中で「胸の真ん中の剣が重要なんだよ!」って台詞がありましたが) 
 

 
 自分をぐいっと前に出していく。

 

 失礼なことを言われる筋合いなどないのですから、[以直]をベースとしていれば、ローカルルールは崩れ、本来の秩序にスーッと戻っていきます。
 

(参考)→「自我が強い力を持ち、ためらいなく“自分”という国の秩序を維持する大切さ

 

 

 

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自然は真空を嫌う

 

 子どものころ、筆者は学校でおしゃべりでした。
 クラスでも冗談を言って笑わせていました。

 授業中も私語をして怒られたり。
 (まあ、子どもですからそんなものですが)

 ただ、そんな当時でも、なぜか、無口で落ち着いた人に憧れて、黙って静かにしようと努力をしたりしようとしたことがありました。

 すました顔でクールにしていようと頑張っていたことがあります。
 ただ、3日くらいするとそれもだんだん崩れてきてもとに戻ってしまうのですが・・

 

 中学の時に、人間不信になるようなショックがあって、それからは、さらに自分を抑えようとして、良い人間になろうとするようになります。おしゃべりが原因だから、おしゃべりをなくそうとしたのです。

 
 

 大学生の後半になると就職にむけて、我流の認知行動療法みたいなものを実践するようになっていました。

 
 自分の間違った考えや信念を修正していくことで自分が変わっていくのではないか?弱点をどんどんなくしていけば、ということで様々に取り組んでみます。

 
 以前にも書いたことがありますが、途中まではうまくいくのです。

 まあまあいい感じになります。でも、結局自分を否定してジェンガのように自分の足元を掘り崩しているために、効果は反転してきます。

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう」 

 

 

 そうした取組の中で、特に邪魔だと感じるのは「感情」。

 筆者は子供の頃、大人の諍いを見ていたために「あんな感情的な大人になりたくない」という思いも働きます。

 理想的な人間を目指しているのですから、どんな時も冷静に対応できる人間を目指そうとする。

 人から嫌なことを言われても、湧いてくる不快感を抑えよう、殺そうと努力する。

 驚くようなことがあってもポーカーフェイスでやり過ごす。
 

 社会人になると自己啓発の本などを読んでみたりするようにもなります。
 自分の我を捨てて、さらに良い人間になろうとがんばります。
 

 どんどんと、自分を捨てて、「無」になろうと取り組んでいったのです。

 

 しかし、生きづらさはどんどん増していきました。

 

 なぜか?
 
 自然な法則に反しているから、だと今ではわかります。
 

 

 

 私たちは、「無」になるとどうなるか?といえば、そこには他人の価値観が入り込んでくるようになるからです。

 私たちが生きる俗世では、自然は真空(無)を嫌う。

 なければ、そこは別のものが埋めるだけです。

 多くの場合、そこを埋めるのは、他人の価値観になります。

 

 いわゆる「無の境地」といったものは、自分の自我で自分を埋めた果てにある感情であって、自我を無くして自分を空っぽにするということではおそらくないのだと思います。

 

 私たちはもっともっと自分というものを「自我」とか「自分の感情」とか「自分の欲」といったもので埋めなければならない。

 そんなことをしたら暴走するのでは?とおもうかもしれませんが、私たちは、健康な状態であれば、満たされたら飽きます。 有限に循環していくものです。

 反対に不健康な状態は、無限。きりがないくらいに求めようとします。
 
 「無」を求めるというのも、ある種の不健康な状態。無限に乾き、無限に求めるようになってしまいます。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 私たち人間は、生まれてから発達する過程で、自分を自我で健全に満たして、反抗期などでは親の価値観を相対化し、自分のものにすることを学ぶ。

 自我で満たす・他人の価値観を相対化するとは、自分の資質に気づく・感じるということでもあります。

 さらに、社会で自分の資質に沿った「位置と役割」を得ることで、自我が公的に昇華されていきます。
 自分の中が公的な自我で健全に満たされていきます。それではじめて“人間”になることができる。

 “人間”になるステップを昔の人は、「道」とか「教え」、「礼」といいました。

 ここまでの一連の流れが完結することで、私たち人間は充足されます。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 どこかに瑕疵があると、生きづらさに苦しむことになります。
 自分の中で私的なドロドロとしたものがとぐろを巻いているような状態。

 「私的」というのは字義通り「私のもの」というものではなく、実際は多くの場合、内面化した他人の感情や他人の価値観、考えのこと。非常に混沌としてネガティブなものです。

 これを統御できないでいる状態が不全感というものです。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 「充足感」とか、「満たされた」という表現があるように、私たちが求めているのは自分を自我によって十分に満たすことにほかなりません。

 最近だと、無意識を活用して「無」になるというものもありますが、、
 「無」になれるのは一瞬で、すぐにぐるぐるとネガティブな意識が渦巻くことになります。

 なぜそうなるかといえば、それは、「無」になろうとするから。

 繰り返しになりますが、自然は真空を嫌うから。何も無ければ、そこに外からの雑念が入り込んでくる。

 俗世では「無」の状態でいることは出来ない。
 スポーツ選手等がいう「ゾーン」なども、勝利への欲の果てにある境地ですから。

(参考)→「俗にまみれる

 

 だから、自分の中は常に「自我」で満たしておく。

(もちろん、他人の価値観や他人を理想とするのでもない。)

 自我で満たしているから、外からくる余計なものも跳ね返せるし、その内側は安心安全でいられるのです。

 

 

(参考)→「本来の自分の資質に沿って生きる。

 

 

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もっとセルフィッシュ(我)であって良い

 

 少し前に本を読んでいると、昔、漫画家の水木しげるの事務所で働いていたことがある人が、水木しげるについてのエピソードを語っているのを目にしました。

 その方いわく、水木しげるは妖怪などは全く信じていなかったそうです。

 漫画家になってからも、散歩で墓地などにいくと、途中で墓石に立ち小便をして帰ってくるような感じだったそうです。

 バチが当たるとかそんな事は全く考えていなかったということですね。

 
 極端な例かもしれませんが、でも、俗の世界で生きる人間としては、そのくらいの感覚はまっとうではないかな、と思います。

 

 それに引き換え、神社に入るときは鳥居を迂回したり、参拝の仕方を妙に気にしたり、いつからこんな事を気にするようになったのだ、と筆者もふと自分を振り返ってみました。

 トラウマを負っていると、自分の努力が空回りした結果、スピリチュアルなルートで迂回しようとするようになる、ということはこれまでに触れたことがあります。

 あまりにもうまくいかなくなると、そんなものにも頼りたくなる、という感覚です。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 聖の領域というのは、本来は社会の周縁にあるものです。
 だから、日常では必要がない。

 そこに頼ってみても、うまく機能しない。
 頼ると裏切られたりする。

 聖の領域は、祭りのときだけか、命の危機とか、にっちもさっちもいかない、というときや最晩年に関わるようなもの。
 (水木しげるというと、太平洋戦争では南方に送られて、そこでマラリアに罹ってジャングルをさまよった挙げ句、ぬり壁みたいなものに出会ったエピソードを自伝で見たことがありますが、そんな経験をしても、スピリチュアルな方向には行かなかったということですね。)

 

 日常では、自分というものでログインして生きていくのですから、水木しげるほど極端ではないけども、妖怪や神様なんているものか、自分こそ主人公だ、というくらいのある意味どこか罰当たりなセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)な感覚でちょうどよくて、そのくらいでないと、うまく自分というものは立ち上がらない。

 もちろん、そのセルフィッシュさは、発達の過程で成熟していきます。
 特に、「しごと」をすることで、社会の中での「位置と役割」を得ることで、丸くなって、公的人格(にんげん)となっていきます。
(参考)本当の自分は、「公的人格」の中にある」 

 

 セルフィッシュな私的な人間(我)のままでは人としては完成していないのですが、素材としては必要ということです。

(参考)→「「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 

 トラウマを負っていると、良い人間という“側(がわ)”“殻”だけをもってきて生きていますが、その中を埋めるセルフィッシュな素材(我)がないために、うまくログインができないまま生きているのです。
 (それどころか、他人の我(ローカルルール)を自分に詰め込んで、膨張して生きていたりします。)

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 俗の世界で生きているのであれば、仮にスピリチュアルなものを利用する際も、戯れとしてかあるいは功利主義的に利用するものです。

 

 

 事実、日本史などを見てもそうで、邪馬台国からヤマト王権や律令国家、王朝国家、武家政権などなど、スピリチュアルなものは、功利主義的に選別されてきました。
  
 力のない呪術や宗教はどんどんと力を失って、捨てられていったのです。

 ある時期の(室町時代頃?)そうした転換点を描いた作品が宮崎駿の「もののけ姫」だと言われています。
 力のない古い神様は人間に殺されていったのです。

 

 

 実際の社会で役に立たなければ廃れていく。人間が主体でシビアに選別がなされてきていく。
 現代でも、それが進んでいて、傍からは盛んに見えるイスラム圏でさえ宗教の力はいまも低下していっているそうです。
 
 
 俗に生きる人間としてはそれで良くて、自分を主体にして、「役に立つの?どうなの?」という感覚が必要です。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 例えば、手首にパワーストーンをつけたりしてもよいですが、それに負けて、恐れを持ってつけているのではなく、役に立つと自分で選んだからつけているんだ、という主体的な感覚が大切。役に立たなければあっさり捨てる。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 水木しげるみたいに、墓に立ち小便すると聞くと、トラウマを負った人間からすると、「バチが当たるかも?」とか、「嫌なものを引き寄せたらどうしよう?」とか、「そんなところで立ち小便をする人間にだけはなりたくない」とか思ったりしてしまいます。

 

 しかし、私たちは、目に見えないものの力を恐れすぎています。
俗の中にもそこはかとなく聖を感じるといった健全なあり方ではなく、ただただそれに負けている。振り回されている。

 そのことが、まわりまわって、人の言葉に振り回されて、真に受けて、人にやられるということになるのです。
 以前の記事ではないですが、失礼なことをされたら「殴ろうか?」でよい。

 「殴ろうか?」というのと、立ち小便することには根底でどこか通じるものがあります。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 目に見えないものを感じたり、キレイに生きようとしたりというのは、人生のずーっと先の話で、本来私たちは、もっともっとセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)で良いのです。

 

 

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自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 前回の記事では、「私」を出すと否定されると思わされてきたこと、そのことでログインとは真反対の方向に努力させられてきたことを見てきました。

本当は「私」を出して、自分のIDでログインすれば愛着的世界で生きることができるのに、回避することでどんどん生きづらくなっていることがわかります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 では、「自分のIDでログインしよう!」と気合を入れるだけでできるか?といえば、なかなか難しいものです。 

 なぜなら、私たちが、自分のIDでログインして生きていくためには環境が必要になるからです。

 

 では、環境というものはどの様に整えられていくのでしょうか?

 その参考になるものということで、先日NHKの番組取り上げられていました、大阪の西成高校で行われている「反貧困学習」について見てみたいと思います。

 

 生活保護の受給者が多い大阪・西成ですが、西成にある西成高校も非行や中退が多い教育困難校として知られていました。

 子どもの問題の裏には必ず家庭の問題があるとされますが、西成高校でも教師が家庭訪問をしてみると、家庭の問題が見えてきました。

 例えば、親が精神疾患で働くことができない、子どもを養育することができない。食事も十分に提供されない。
 親が出ていって不在、育児放棄されてきた、という場合もあります。
 子ども自身が家事をする、食事を作らないといけず、学校に行く余裕がない、といったことも。

 そうした背景から、学校に行こうにもいけない、行っても仕方がない、希望がない、と思い非行や退学といったことにつながっていることがわかったそうです。
 

  
 
 退学しても就ける仕事は非正規や安い賃金、過酷な環境の仕事で、そこでも不当な扱いをされて泣き寝入りといったことになりがちです。そうして貧困が連鎖していく、という結果になっていました。

 
 そこで、西成高校の教師たちが取り組んだのは「反貧困学習」という名の取り組みです。
 「反貧困学習」とは、生徒を取り巻く貧困とは一体どういうものか?何が背景にあるのかを教え、バイトなどで不当な扱いをされた場合は労基署に相談させる。親がいない場合は生活保護を受けさせる、といったように、具体的に貧困に立ち向かうための学習を提供していったのです。
 

 もちろん、日常でも家庭訪問を続けるなど地道な努力も合わせて行われています。

 そうするなかで、生徒たちは、世の中に関わる力、貧困の連鎖から抜け出す自信をつけていったのです。
 

  
 ここで興味深いのは、問題を抱える生徒に対して「本人のせいだとして叱責する」のでもなく、本人の心の問題だとして「カウンセリングを受けさせよう」ではなく、「反貧困学習を提供しよう」となった点です。

 人間は環境の影響で成り立っている生き物、環境のサポートがなければ、生きていけない存在です。

 子どもも大人の問題、社会の問題をとても敏感に受けていて、心身の不調や問題行動となって現れます。

 不調や問題行動を当人の責任とすることを「関係性の個人化」といいます。
環境の問題であるはずのものを、「個人のせいだ」としてしまうのことをいいます。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 そうすると、問題はかえって悪くなる恐れがあります。なぜなら、問題はその人のせいではないから。環境の問題を個人のせいにするというのは、まさに、“ニセの責任”を背負わされているということです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 「カエサルのものはカエサルに」とはキリストの言葉ですが、「環境の問題は環境に」が本来です。原因は正しく返さなければいけません。

 

 西成高校でも、個人のせいにされがちな非行や退学を「貧困」という問題として「社会化(外部化)」したことで、責任が本来あるべき環境へと返されたのです。それが効果を上げていきました。

 さらに、観念的に責任の所在を整理するだけで終わるのではなく、公的機関への働きかけなど具体的な行動でそのことを実現していきます。
 労基署に相談したり、といった個別の具体的な取り組みによって社会とのつながり、
「働きかけたら、必要なときに助けてもらえる」という効力感が生徒にも身につきます。

 貧困といった具体的な問題、物理的な問題に個別の物理的なサポートをおこなった。その中で社会とのつながりや、適切な距離感が作られていった、ということです。

 そうして、自分に主権、自尊心が戻っていった。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 「ヤル気の問題」「本人の問題」とされていたことを、学習を通じて、「ああ、環境のせいなんだ」「問題を解決する物理的手段があるんだ」と知っていくことで問題がもとのところへと返っていく。
  個人化されたニセの責任が、ドバーッと社会に戻されて行って解放されるようなイメージです。

 具体的な取り組みを通じて、社会人としての人格形成(成熟)も後押しされていきます。

 まさに、みにくいアヒルの子が 「あれ?環境のせいで、そう思わされていただけだったんだ?」と気がついたような感覚。

 

 
 こうした取り組みは私たちが自分のIDでログインしようとする際にも、とても参考になります。

 悩みというのは、基本的には、自分の問題ではないもの、ニセの責任を引き受けてしまってるような状態。 
 その結果、自他の区別がつかなくなり、主権を奪われて、力を発揮できなくなっている状態のことです。

 例えば、養育環境での親の対応によって愛着が不安定になっている、というのは子どもには責任はありません。
 そのことで大人になってから生きづらさを抱えていることについても本人に責任を求められても困るものです。
 これらはニセの責任です。

 

 以前も、「おかしな連立方程式」として記事を書いたことがありますが、ニセの責任との複雑な連立状態になって解が出ずに疲弊している。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 西成高校の貧困学習とは、おかしな連立方程式を解体して、個別の式として離して解決していったといえます。
 しかも、具体的な社会的な手段によって。

 そこは、物理的な現実に根ざし、主権が自分にあることを知らせる取り組みです。

 それらが、ニセの事実やおかしな連立方程式などをねじ伏せるように壊していってくれる。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる

 

 

 「反貧困」というは、そのためのとても明確なキーワードです。

 一方、私たちの悩みの多くは原因の所在が一見して曖昧です(曖昧にみえるから長く悩まされるわけですが)。
 なので、「反貧困」というようにスパッと還元しにくいのですが、その構造は同じです。
 
 ニセの責任をほぐしながら、原因の所在を明確にしていく。
 多くの場合は、身近な人に巻き込まれているので、自他の区別(人格構造)を確立していく必要があります。

(参考)→「自尊心とは、自分の役割の範囲(なわばり)が明確であること~トラウマを負った人はなわばり(私)がない

 

 

 そこで大切なのは「主権」という意識。
 いいかえると、自分のIDでログインするということなのです。

 

 

 主権(「私」)を持とうとすると、理不尽な目に合う、責任を取らされるという恐怖心も湧いてきます。

 そこでカウンセリング、セラピーの出番。
 その恐怖心を解決しながら、自他の区別を確立していきます。
 (その際のカウンセリング、セラピーは、問題の責任はその方にはないということを前提にする必要があります。)
 

 

 具体的な場面での対処についても徐々に再学習されていく。

 自分に主権があって、自他の区別があれば、理不尽な言動する相手に理がないことは明らかです。  
 その明確な区別が「この人は犯し難い」という雰囲気となって伝わり始めるようになります。

 
 場合によっては、言葉で「やめてください」と伝えることもあります。
 以前だと伝えられなかった言葉がすっと出てきたりするようになる。

 そこで醸し出される雰囲気が「公的環境」です。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 相手も自分も解離せず、本来の人格同士の関わりになります。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 そうすると、他者から愛着を受け取ることもできるようになります。
 特定の一人ではなく、多くの人から少しずつ愛着を集められるようになります。
 それがメッシュ状のゆるやかな絆のネットワークです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 ネットワークの中で、「位置と役割」もよりはっきりを感じられるようになります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 
 なにか自分がミスをしたり、他者から感情をぶつけられても、
 「本質的に自分はおかしいからだ」という暗闇に落ち込むことはなく、少し凹んでもすっと立ち直ることができるようになります。

 自分と他人は別なんだ、責任は限定されている、という感覚。
 
 人間関係における基本と例外を分けて考えられるようになる。

(参考)→「人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 物理的な現実というものに基礎をおいて、1+1=2というように理屈が通ることが肌でわかる。 
 自分でログインしているから積み上げを感じることができる。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 こうしたことを繰り返しながら、人格も成熟していきます。

 
 自分のIDでログインする、自分をもって生きる、とはこういう環境に基づいた取り組みです。

 

 

 

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