現在私たちが住む社会は近代社会と呼ばれます。
近代社会の定義というのは色々取りますが、一つには、出自によって制限がないこと、とされます。
出身地や身分によって、差別されたり、制限を受けることがない。
言い換えれば、Being(存在) ではなく、Doing(行動) のみで評価され、Doing(行動) によって人生を切り開くことができる。
以前記事にもかきました、ウェーバーという政治学者のテーゼというのは、まさに、プロテストタントは、予定説によって、Being(存在)の部分をまるごと神に預けて、人間はDoing(行動)に専念する。
それが、近代資本主義社会の駆動力になったのではないか?というものでした。
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
反対に、Being と Doing をつなげてしまうのは、前近代的な仕組みです。
なぜくっつくの?と聞かれたら、「いや、そうきまっているから」とか、「生まれがそうだから」といった答えが返ってくるような世界。
つまり、Being とDoing の間が、なにやら非合理的な、魔術的と言ってもいいものによって繋げられている状態です。
技術についてもそうです。
近代化された世界であれば、AをすればBになる、CをすればDになる、ということで、そこには非科学的なものが入る余地はありません。
すべてDoing の世界です。
(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感」
しかし、前近代的な発想であれば、Yさんが、Aをするから、Bになる。 ZさんがAをしても、Bになるかはわからない。Yさんも気持ちがこもらなければBにならないかもしれない。といったもので、AとBの間に、Beingの良し悪しや、何やら目に見えないものが介在していると考えるものです。
臨床心理では、フラクタル(相似形)という概念が用いられることがあります。
個人や社会のある部分で成り立つことは、形が似た他の場面でも成り立つというもの。
近代社会云々という例を取り上げましたが、人間個人の発達についてもこうしたことは当てはまります(フラクタル=相似形)。
人間が成人するというのは、まさに社会に置き換えれば前近代の状態から近代社会へと発展するということと相似形と考えられます。
実は、かつての社会であっても、一人前になる、というのは、その人が生きる世界において身分のや出自の制約が少なくなるということです。
例えば、大工の棟梁になる、というのは、それによって自分が生きる世界では制約が少なく自分の腕を振るうことができるわけです。
簡単に言えば、自分のBeing とDoing との間の繋がりが切れて、目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなる。
あくまで、Doing によって評価され、自分のBeingは、Doingの成否や良し悪しで左右されない状態になる、ということです。
気兼ねなく、Doing に集中することができます。
スポーツで言えば、試合に集中できている状態で、人格云々は問われない。
Doingのみに集中できていることで、社会の中で位置と役割を得て、それがやがてBeingへと健全にフィードバックされてくる、という感覚。
(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる」
反対に、発達の過程でトラウマを負っているとこうはいきません。
必ず、Doing とBeing には変な癒着がつけられています。目に見えないもの、魔術的なものが介在させられている。
「自分だからダメだ」「自分は変だ」といったものがついていて、Doingに専念できない感覚がある。
Beingにケチが付いていて、Doing と切り離すことを許されていない。
多くの場合は、親などの家族や、学校といった生育環境でその癒着という暗示をつけられている。
(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。」
A をすればBになるという確信がないから、仕事が積み上がらない。
他人がすればなるけど、自分の場合はそうなるかどうかわからない。
日々Aをして、Bになってよかった~!とほっとして、なんとか仕事をこなすのに、やりすごすのに精一杯という感覚。
そうしている間に時間は立つけど経験は身についた感覚はなく、精神はヘトヘト、というふうになっている。
(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。」
トラウマを負っていると、スピリチュアルなものにどこか親和性を感じる方が多いのですが、それも、実はBeing とDoing の癒着、魔術的なものの介在という暗示にかかっていることが背景の一つとして考えられます。
(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」
やっかいなのも、生きづらさや悩みから解決を図るはずのセラピーも、ポップなものほど、魔術的なものを肯定していたりする。
それが例えば、ポジティブシンキングであったり、口ぐせであったり、引き寄せ、といったものであったり、などなど。
魔術の世界から脱出させるのではなく、その世界の中にとどまったままで対抗しているような感覚。ここには大きな落とし穴があります。
映画「ハウルの動く城」で、魔法使いハウルが魔女を恐れて自分の部屋でたくさんのまじないやお守りに囲まれているシーンがありますが、まさにあのようになってしまいます。
目に見えないもの、魔術的なものというのは、結局はイメージや言葉の世界なので、他人から容易にひっくり返されやすいものです。
だから、安心! という感覚はなくどこかオドオドしているのです。
悩みを解決するために進むべき道は、魔術的なものの介在を排除することです。多くは家族などからもたらされています。物理や現実に立脚することが何よりも強く、私たちを守ってくれます。
(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」
孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざく」といいましたが、まさに至言です。
(ゴータマにもたしか似たようなエピソードがあったと思います。)
Being と Doing そして、Doing間での目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなっていくと、私たちはもっと生きやすく、自由になっていきます。
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