真に社会的であるためには、反(抗)社会的であることも必須

 

 先日、オリンピックを見ていましたら、悔しくて号泣した選手に対して、バッシングがあって、という報道を目にしました。

 曰く、「進行を妨げた」とか、「武士道精神に反している」といったことを根拠としての批判のようです。

 私などは、素朴に「人前で感情を出せるなんて、素晴らしいことだ」とおもっていましたので、とても驚きました。

 
 東京五輪のときにも、サッカーの久保建英選手が、負けた後にグランドでワンワンと泣いていたのを見て、「感情を発露できて、とても素晴らしいことだな」と見ていました。

 

 

 今回の批判などはまさにローカルルールの典型です。

 つまり、批判したい側の本音は、不全感の発露。

 例えば、「自分は無邪気さや感情の発露を我慢しているのに、我慢していない人を見ると許せない」

 「感情的な人を見るとイライラする、不安になる」とかそういったものです。

 しかし、そのままそれを伝えたのでは、自分がおかしな人扱いになりますから、そこで、その不全感の表面をルールでコーティングする必要が出ます。それが「進行を妨げないのが常識」「武士道精神」といったものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 こうしたローカルルールは、選手に向けてぶつけられてその選手が苦しむ、あるいは萎縮するということもありますが、見聞きした世の中の人全体がその毒を薄く飲まされて共有される、ということもあります。

 そしてぼんやりと再生産(連鎖)されていくということになります。

 

 こうしたことからわかりますように、社会には、ローカルルールの汚泥がそこここに散らかってもいて、そうした沼に足を取られないようにしていく必要があるということがわかります。
 
 
 ローカルルールというのは、さながらウイルスのように私たちの社会性やよりよくありたいという心性の受容体に、ルールを偽って接着し取り付きます。

 

 ですから、ただ、無条件に社会的であったり、より良くあろうとしているとローカルルールの毒にやられてしまうことが生じるのです。

 

 

 

 こうしたローカルルールの毒に当たらないためには、実は、“反(抗)社会的心性”も必要になります。
 
 
 反社会的というと、犯罪を犯して、とか、不正をして、とかそういうことではもちろんありません。

 そうではなく、この場合の、反社会的とは「一見、道徳やルールとされることを真に受けない」「自分の感性を信頼してみる」「眼の前の共同体やグループが、真の意味で“社会”であるのか?ローカルルール(偽ルール)の場であるのか?を都度、判断する」といったことです。

 

 例えば、学校におけるスクールカーストなどは、真の意味での“社会”ではありません。ローカルに作られた、一面的な価値基準に基づく、仮の、偽の序列です。

 本来、真の社会とは、多様、多元的、包摂的、相互の尊重があることを基礎とします。

 

 しかし、ローカルルールによるニセの社会は、一面的な価値基準でコーティングして、こちらの自信のなさやコンプレックスにつけ込んでぐわっと飲み込むように迫ってきます。

 そうして、ああ、自分はおかしい、自分はだめだ、劣っている、という気持ちにさせられて、「申し訳ありません。」「許してください。」「努力してみんなに認められるように頑張ります」といった形で、そのローカルルールの一元的な価値基準に従わされるようになるのです。

 そうしたことから距離を取るためには、ただ、ローカルルールについての知識を真面目に知っているだけでは十分ではなく、自分の中にも、反(抗)社会的な姿勢を常に何割か持っている必要があります。
 

 協調(同調)する姿勢ではなく、同時に協調しない姿勢が必要なのです。

 トラウマを負った方は真面目な方も多く、あるいは、過去に家族などから「頑固だ」「協調性がない」「素直じゃない」といったような攻撃を受けたがために、強調しない部分、反(抗)社会的な姿勢を潰されてきているために、知識があってもローカルルールからうまく距離を取れない場合が少なくないのです。

 しかも、反(抗)社会的な姿勢が一見すると良くないことのように見えるので、まさかそれが大切だ、などと思いもせずに、抵抗する足場を作れないでいることがあります。
 

 第二次大戦の終戦直後の一億総懺悔という風潮の中で、評論家の小林秀雄が「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」といったような姿勢はまさにそうです。

 冒頭の例だったら、泣いて非難されても「別にいいじゃないかよ、自分がオリンピックに出てみろ、バカ」でいいのです。
 

 

 会社で上司に怒られたら、表面的には反省のフリをしながら、内心「なんだよ、うるさいな」でよいのでしょう。
 (例えば、プロのスポーツ選手などはそんな感じでコーチの指摘にも腑に落ちなければ容易に反省などはしないようです。自分がある、とはこうした在り方だということではないでしょうか。)

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 

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みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

何十年も見せかけの“成功”が続くことは普通に存在する。

 

 私たちは、生きづらさから脱し、本来の自分に立ち戻るためには、自分の中にある、弱さやおかしさ、もっとベタに言えば、子どもがグズグズ、グダグダするような無邪気さ、といったものを肯定して、その上に自分を立ち上げていく必要があります。

(参考)→「自分の情けなさ、わけのわからなさ

 決して立派な自分である必要はありません。
立派な自分になる、というのは実は解決から遠ざかるログアウトする方向だったりするのです。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 発達のプロセスなどを見てみても、立派な自分を想定することは不自然で、十分にグダグダ、グズグズする時期、また、親に反抗するような時期、というものがあってはじめて、なんとか世に出て“立派”であるように振る舞う「社会人」
となれるのが通常です。

 しかも、立派であるように見える「社会人」も、それは一時的な条件下で果たされるもので、さながら芸能人が舞台の上で輝くようなもので、条件が崩れたりすると、維持できなくなることが普通ですし、プライベートでは、グズグズしているのが当たり前です。

 それが等身大の人間のあり方、姿です。

 

 しかし、世の中には幻想がたくさん転がっています。

 幻想とは「他の人は立派にうまくいっている」というものであり、「自分だけがうまくいっていない、いかない」という恐れ、無力感の根拠とされてしまうものです。
(参考)→「”自己の形成”という難しい問題

 

 特に現代は矛盾したままでも”成功”し続けるしくみが存在します。 
 さらに、演出、しかけも巧妙で、何十年にもわたり“立派に”成功しているようにみえるものがたくさん存在するのです。

 
 私たちは思います「一瞬ならわかるけど、何十年にもわたってうまくいっているなら、やはりそれは成功と言っていいし、そう見なければいけないじゃないの?」と
 
 
 いいえ、そんなことはありません。
 何十年もうまく成功しているように見せることは可能なのです。

 

 

 例えば、
 私が会社員をしていた頃、アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)社は、ウェルチというスター経営者の辣腕により、世界でも有数の高収益の会社として知られていました。
 20年の在籍期間中に売上高は5倍になり、株価は40倍以上になり、ウェルチ自身も1999年には『フォーチュン』誌で「20世紀最高の経営者」にも選ばれました。回顧録が出版され、生きる伝説のような存在でした。

 当時のGEは、世界中の会社の見本とされるような会社だったのです。

 GEの経営の代名詞の1つは「選択と集中」というもので、実際日本の会社もそれにあやかって、「選択と集中」を進めようとして真似た会社もたくさんありました。
 (三洋電機などもナニワのGEと呼ばれていました。もう吸収され無くなってしまいましたが・・)

 「20年もの間、結果を出したのなら、やはり本物ではないか?20年もですよ!」と思うかもしれません。

 

 しかし、実際はどうだったか?というと、当時はまだ許されていた金融子会社を通じての特殊な会計操作と、それまでの会社の資産の蓄積が可能にした業績だったのです。

 最終的にGEはどうなったのか?といえば、法改正によって会計操作はできなくなり、次の社長の代になるとその矛盾が露呈し、会社は衰退し、最終的には分割(解体)されてしまったのです。
 そうした経緯は、トーマス・グリタ, テッド・マン 『GE帝国盛衰史 「最強企業」だった組織はどこで間違えたのか』などで描かれています。
 

 

 このように、現代の組織(会社、学校、家族)というのは、矛盾した状態でも数十年にわたり「繁栄」を演出することなどありえないことではまったくないのです。

 個人においては、SNSなどの演出装置が揃っていますから、従来であれば「何もない状態」を成功として見せることなど難しいことではありません。

 しかも、新聞、雑誌、出版社も、そうした会社や個人を持ち上げます。
 さらにいえば、「日本の会社はなにをやっているのか!」「同じように高収益にしろ」と煽ります。
 メディアもそうして商売をしているということです。
 そして、持ち上げる対象を次々と変えながら同じようなことを続けていっていたりします。
 

 

 

 しかし、あれは何だったのか?

 GEは公的に上場した会社で多くの人に監視されていたはずですし、
 経営者もエリートたちで、コーポレートガバナンスなども実施されていたはずでした。従業員数も多いときで30万人にも及びます。

 30万人を雇用する会社の、その20年のも及ぶ繁栄が幻想だった?

 そう、幻想です。

  
 前回の記事でもかきましたが、「私は発達性トラウマの症状を抱えてうまくいっていないけど、自分の妹や弟など兄弟はうまくいっている」あるいは、「親戚は立派な人達ばかり」「同世代は活躍しているのに、、」なんていうことは比較にならないくらいの規模です。

(参考)→「同じ環境でも問題が出ているのは自分だけだから自分に問題がある? おかしな環境は優等生を必要とする。

 

 しかし、私たちは、同時代に成功している組織や人や家族を見ると、うまくいっていない自分と比較して、「自分はおかしい」と自信をなくしてしまいます。

 「そうはいっても、あの人は結果出しているし、厳しいとされる人からも評価されている」
 「あの人は親戚の中でも評判がいい」
 「妹(弟)は、母父から可愛がられていた」

 などなど、、

 それが呪縛となって、自分の生きづらさを取り戻す機会を失ってしまうのです。

 でも、幻想なのです。

 「どう考えても自分はおかしく、相手が立派としか思えない。“証拠”も揃っている!!」と思える状況こそ、実は幻想によって成り立っていたりするのです。

 

 

 上に取り上げたのは会社ですが、「家」というのも同じく、見かけだけを整えることに一生懸命で、「あそこの家は立派だ」「息子さんもお嬢さんも、~~大学を出て、一流企業に勤めて、旦那さんは挨拶もして感じも良くて・・」なんて思われていながら、単に世間体を整えるための矛盾を数世代にわたり抱えている、なんていうことは珍しくありません。
 そんな家族には、家族全体で“秘密”を抱えていたりもします。

 

 社会でうまく言っているという比較対象も、実際はそうではないということは以前の記事でもかきましたし、個人に置き換えても、私たちなら生きづらい環境においても、自己を失ったまま数十年も活躍する人なんて、全然います。

 投資で数億儲かった、という話や、ビジネスの商品やサービスでもこうした見かけの「成功」「繁栄」はよくあります。それも、現代社会のしくみが短期的に可能にした成功話でしかありません。

 別の記事でもかきましたが、インスタグラムなどのSNSは幻想の宝庫です。 気楽に海外旅行にも行けてキラキラしています、ということなどは典型で、芸人の今田耕司さんが「ほとんど切り取ったニセモンの生活やもんな」と突っ込んでいました。

(参考)→「俗な規範は疑い、相対化する(しっかりと距離を取る)」

 

 ほんとうの意味で、健全にうまくいっている人たちでさえ、それはある条件のもとで成り立っていることで、その人達も、プライベートでは、グズグズ、グダグダする土壌がちゃんとあってできていることです。
 それらもなくいきなり「立派な自分」であることで成り立っているわけではありません。

 

 学校などは、本当に単純で、ごく短期間「イケてるグループ」とされる人たちを“成功者たち”としてスクールカーストを形成して真に受けて、自分は劣る、とするなど全くもっておかしな限りです。運動ができるといった程度の物差しで規定された小中学校でイケているグループの何人が今も成功しているのか? 実際にはお寒い限りではないでしょうか?

 

 こんな幻想や表層と自分を比較して「自分はおかしい」ということを動かせない“事実”とする必要はありません。
 (世の中は嘘だらけとして陰謀論みたいな世界観に堕するのも、もちろん違います) 
 

 常識と健全な生活感覚に根ざして、等身大で世の中を見てみることが、生きづらさから抜け出す段取り、ステップを後押ししてくれるのです。
  

 

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同じ環境でも問題が出ているのは自分だけだから自分に問題がある? おかしな環境は優等生を必要とする。

 

 トラウマによって自分を失っている人が自分を取り戻すためには、過去現在の環境の影響で苦しんでいることを自覚する必要がありますが、それを妨げるのが、同じ環境でうまくいっている人(優等生)の存在です。

 よくあるのが、家庭の中での兄弟(姉妹)の存在です。

 本当にひどい環境で育ったのに、症状が出ているのは自分だけ、弟や妹(姉、兄)などは元気にしている、あるいは、親に可愛がられている、というようなケースはとても多いです。

 すると、同じような状況でうまくいっている人がいるのだから、やはり自分はおかしいんだ、と思っている当事者は珍しくありません。

 

 
 もちろん、これらの結論(推定)は、ローカルルールに影響された思考によるもので、自分がおかしいという理由には全くなりません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

「でも、同じ環境で大丈夫な人がいるなら、自分に問題があるのでは?」とどうしても感じてしまうかもしれません。

 そんなことはありません。

 まず、兄弟で待遇に差があったり、長子の存在が風よけになり第二子以降のストレスが緩和されることはよくあります。
 別の例では、いじめの横行する学校やクラスでも比較的被害の少ない生徒がいることや、ブラック会社でも比較的ストレスが少ないという社員はいます。

 「同じ環境だから~」というのは、実は、かなり無理な結論だと言えます。同じ環境ではないのです。

 

 

 さらに、です。
 実は、待遇差は、ブラックな環境、ローカルルールの世界を成り立たせるために意図的に作られているということがあるのです。
 もっと言えば、ローカルルールが支配する環境が成立するためには、その中でうまくいっている人が必要なのです。 

 

 

 例えば、最近でも新興宗教に関連して、元首相の暗殺事件が生じるなどしましたが、その際に会見に登場した代表や幹部の方たちは、その組織の中で「エリート(優等生)」とされる人です。

 かつてのオウム真理教でも、幹部、エリートが存在しました。

 その組織の中で活躍している人たちもいたわけですが、では、その組織は問題なく、被害を受けた人が問題なのでしょうか?
 活躍している人たちはそんな環境でも克己して成果を上げれる優れた人なのでしょうか?

 もちろんそんな事はありません。

 なぜ、そんなおかしな組織でも活躍する人、高待遇な人達がいるのか?といえば、組織というのは、正統性を維持するためにはそれを証する要素、たとえば優等生が必要なのです。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 もし、すべての構成員全員がうまくいっておらず、不幸であるならば、その組織の存続に関わるからです。

 構成員を従わせるためにも「ほら、~~さんはうまくいっていますよ(あなたも疑問を持たず、従いましょう。苦しいのはあなたの問題です)」という見本が必要になるからです。
 

 

 かなり以前の記事にも書きましたが、
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 実際に、かつての中国の文化大革命などの時期には、「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」といって、共産主義社会の成功例をされていた地域がありました。もちろん、捏造です。

 あるいは、世界恐慌の頃は、ソ連は成功しているとされていました。
実際は、映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』に描かれているように、ウクライナなどから穀物を収奪し、繁栄を演出していただけだったのです。
(ホロモドールと呼ばれ、ウクライナの人口の2割!が餓死したとされます)

 しかし、当時のソ連は、世界恐慌に陥る資本主義と尻目に成長する成功事例とされていて、イギリスのバーナード・ショーなど、ソ連の宣伝を信じてしまう欧米や日本の知識人は大勢いたのです。

 

 
 トラウマにおいては、過剰な客観性、自己責任意識や罪悪感から自分にも問題がある、と捉えがちです。
(「親のせいにばかりしていいのだろうか?」といった感覚。喧嘩両成敗といった誤った認識など)

(参考)→「過剰な客観性」「「喧嘩両成敗」というローカルルール」「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 「確かに環境にも問題があったが、自分にもやりようがあった」などというのは、公平に状況を見れていると本人は考えていますが、そうではありません。
トラウマに影響されて歪んで状況を見ているということです。

 トラウマをケアする、トラウマから抜け出して自分を取り戻すためには、こうした知恵(常識、教養)もあらためて身につけていくことも必要なのです。

 

 

 

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誤った適応

 

 前回の記事でも書きましたが、世の中でうまくいっていそうな人でさえも、実は万全ではありません。

参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 万全どころか、うまくいっているがために、そこから出られなくなってしまうことがあります。

 世間体、ローカルルール、人からの評価、学歴、キャリア、立場、役職、年収、家、服、装飾品、パートナー、キャラ など。

 誤った適応をもたらす罠はたくさんあります。

 特に「会社」という仕組みはある意味良くできていますから、誤った適応を促進します。学校スキームの残像が加わるとなおのことです。

参考)→「「学校スキーム」を捨てる

 

 そして、基本的に人間はうまくいくものは良いと学習して継続してしまいます。
  

 会社や家族といった共同体での立場や役職などはその最たるものです。

 

 

 カウンセリング、トラウマケアでは稀に「症状が動かない」という場合が出てきます。その稀なケースというのは、例えば、会社や親族の中で立場があって人あたりも”紳士的”なドラマに出てくるようなビジネスマンといった方など。

 

 立場があって、人当たりも巧みな人というのは人格が固まっていて症状が動かない、というのはカウンセリングの“あるある”です。

 それによって、困った症状が出ているのですが、本人としては、うまく言っている“立場の人格”や、“スマートな人当たりのよさ”を捨てる気、変えるつもりはさらさらなく、当然、症状は動きません。

 これはまさに“誤った適応”といえるでしょう。
 

 ハンナ・アーレントが取り上げたナチスの高官アドルフ・アイヒマンなども、ある意味そんな人格かもしれません。「ヒトラーの虐殺会議」という映画にアイヒマン役が登場しますが、アイヒマンは如才なくユダヤ人の処分計画を淡々と説明します。それでいて、冷酷な人間かといえばそうではなく、休憩時間には、秘書にコーヒーを持ってくる気遣いもある。

 しかし、アーレントが指摘したように、ナチの体制に誤った適応をしていますから、もし、アイヒマンをカウンセリングしたら、おそらく同じく症状は動かないことでしょう。

 

 最近話題のヤングケアラーや、アダルトチルドレンも、おかしな状況について誤った適応を強いられています。 

 本来は家族が担うべき役割を背負わされる。

 そうした結果、当事者が証言するように、自分がなくなり、世界が壊れる。

 しかし、ヤングケアラーやアダルトチルドレンの多くは決して誤った適応のなかで万全ではありません。その中で苦しんでいます。

参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 

 ヤングケアラーやアダルトチルドレンたちが、「症状が動かない」というケースと異なるのは、生きづらいと感じる感性がある、ゆらぎがあることです。どこかでおかしい、うまくいかないという経験があることです。
 

 ゆらぎがある人はメキメキと良くなります。

 生きづらさとは、自分が失われた結果であると同時に、ちゃんと自分が奥底に存在しているからこそ感じるものです。

 自分が失われても生きづらさも感じずに、あるいは生きづらさは感じているものの人当たりの良さやパフォーマンスを発揮してしまっていてそれを手放すきっけかのない人は、より深刻な不幸です。

 カウンセリングが何をしているのか?目標は何か?ということを一言で言えば、「誤った適応」を解除すること、本来の資質に基づく成熟へとリセットすること、と言えるかもしれません。
 

 

 

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