「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 目の前に起きたことは、偶然なのか、なにか本質を指しているのか?

 もっというと人生で起きたことは偶然なのか、自分のせいなのか?

 通常、私たちは本質そのものを捉えることはできません。

 TVの視聴率でも、1億人に聞くことはできないため、300世帯で計測されている。

 これはサンプル調査であり、推測統計と呼ばれる技術で全体像を明らかにしています。
 

 

 目の前で起きたことは、あくまで事象(サンプル)で、それが背後にある母集団を表している場合もあれば、そうでない場合もあります。
 
 調査というのは偶然の可能性もあり、視聴率調査でもおそらく1%くらいの確率で「偶然でした(実態とは違いました)」ということがありえます。

 

 
 自分にとって良くないことが起きると、たちまち「自分はだめだ」と断罪したり、されがちですが、それは本当なのか。

 

 「事実」とはなにか?

 

 以前の記事でも、「事実」というのは環境や人によって作られるものだ、ということをお伝えしてきました。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 
 作られた事実に縛られることがトラウマやローカルルールです。

 明らかにおかしなことであればはねのけられますが、
 ローカルルールは、「事実」を悪用します。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 今回は、トラウマ、ローカルルールから自由になるためにも、事実とは何かを、更に詳しく見てみたいと思います。
 

 そのために、手続きが厳密だとされる学術的な調査を例に取り上げてみたいと思います。
 

 

 さて、
 学術調査などで、統計を用いる際、どのようにして得られた結果が「事実」と判断しているのでしょうか。

 例えば、質問紙を用いた調査の場合の手続きを簡単に説明しますと、

 1.調査の設計の段階で調査の対象や、実施の方法をかなり綿密に計画します。質問の配置や調査の際の教示の仕方も、正しく回答が得られるようにできるかぎり練ります。 

 

 2.調査の結果、回収された質問紙に対して、「検票」という作業を行います。明らかにいい加減な回答、おかしな回答がないかを、人間の目でチェックします。

 

 3.検票が終わったら入力作業を行います。その際も間違いがないかダブルチェックを行います。
    

 4.さらに、入力したデータについて「クリーニング」を実施。どの程度までの回答が有効とするかをデータ上でチェックします。例えば、普通であれば同時につくはずのない回答に○がある場合は「いい加減な回答」として除外します。虚偽尺度として最初からそうした設問が設定されている場合もあります。同じ回答が多いものも除外することがあります。

 ここまでで回答の1~2割くらいが除外されます。

 

 5.それからデータにラベルを付けて、分析するためのデータが整います。
   次に、「仮説検定」を行います。仮説検定とは、調査したいことが「偶然に起きたことではない」ことをチェックする作業です。

   調査とは、目の前に起きている現象をもとに母集団(調べたいこと)を推定していくものですが、目の前に起きた現象が偶然であることも実は珍しくありません。そのために、仮説検定(偶然ではないことを確認すること)でチェックを行います。偶然ではないらしい」と判断されると本格的な分析に入ることになります。

   ただし、仮説検定を通っても、1~5%は偶然である可能性は残ります。

 

 6.いよいよ分析に入ります。
   統計解析を用いると、結果がすぐに出ると思うかもしれませんが、100~200個分析して、ようやく1つ意味のある結果が出るか出ないか、ということも珍しくありません。思っている以上に、分析結果とは、平凡で、取り上げる必要もないような結果ばかりが出てきます。

 

 7.なんとかひねり出してひねり出して、ようやく意味がありそうな結果を見つけることができます。ただ、それでもあくまで「ある仮説」というレベルです。

 

 つまり、起きた事象は、ここまでしてようやく「とりあえず事実らしい」といっていいレベルになるのです。

 ある一定のサンプル数(最低100サンプルはほしい)を確保して、かつ、これだけの手続きが必要になる。
 
 根気よく好きでなければできない面倒な手続きです。
( 多くの人は、勉強や研究がここで嫌いになるところでしょう)

 

 

  
 ただ、そうやって手続きを踏んだ研究結果でさえ、追試をするとだいたい6割くらいは再現できないことがわかるようになり、最近問題になっています。
 (米科学誌「サイエンス」が主要な学術誌に掲載された心理学と社会科学の100本の論文が再現できるかどうかを検証したところ、結果は衝撃的で、同じ結果が得られたのはわずか4割弱にとどまったとしています。

 関連:クリス・チェインバーズ 「心理学の7つの大罪――真の科学であるために私たちがすべきこと」(みすず書房))

 

 

 STAP細胞など、捏造が問題になりましたが、科学的な手続きを経れば自動的に事実が明らかになるのではなく、かなり人間の営みや意思が介在しています。捏造をした研究者たちももともと悪者というよりも競争や研究費を獲得するための焦りなど、いろいろな都合がまぜこぜになって違反を犯してしまうようです。
 (福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、科学者たちの人間臭いやりとりが紹介されています。)

 

 

 さて、ここまでお話をしたように、「事実」というものが私たちが思っている以上に厳密な手続きを経てようやくできるものです。

 

 上のような科学的な手続きを踏んだとしても何割かの「事実」はかなり怪しいものであるということですから、私たちの身の回りで私たちを評価するようなこと、私たちが何者かを示す事柄のほとんどは再現のできない「偶然」でしかありません。
 人の発言なんていい加減の極み。手続きを踏まないものはそのはるか以前の戯言レベルでしか無い、ということです。

 

 

 私たちは、ミスや失敗など、自分にとってマイナスになるような出来事が起き、それを他者が取り上げて、私たちを裁いたり、レッテルをはったりするようなことで苦しんでいます。
 それを別名ローカルルールといいますが、結局は「偶然」をとりあげて相手を支配しようとしているだけ。

 

 「あなたって、だめな人ね」というような他人の言葉はすべて戯言で、おそらく、統計を取れば、検票や虚偽尺度の段階で落とされるレベルのことでしかなかった。

 

 
 単に、「偶然だし、戯言だから気にしなくていいよ」というのは、勇気づけレベルにしか聞こえませんが、実際、学術的な手続きを踏んでもなかなか事実はわからない。
   

 

 自分に都合が悪いことが、立て続けに起きたとしてもそれはほとんど偶然でしか無い。
 

 「いや、そんなことはない」「自分はだめな人間で、その証明として都合が悪いことが起きてきた」
 「現実から目をそらすのではなく、客観的な事実を見て、向き合わなければ、おかしな人間になってしまう」

 と思うかもしれませんが、上にも書きましたように、その出来事を仮説検定にでもかければ帰無仮説(偶然)とされてしまうレベルです。

 仮にそれが通ったとしても、今度は再現できないからやっぱり事実ではない、となってしまう程度でしかありません。

 

 

 筆者が最近たまたま、Youtubeで見たある経営者の講演の内容で印象に残ったことがあります。

 それは、麻雀にたとえての内容だったのですが、
 
 「麻雀では、4人で卓を囲むので、平均して2割5分、強い人でもだいたい3割程度前後の割合でしか勝てないようになっている」
 「ただ、なぜか4回連続で最下位になることもある。そのときに、皆、精神を崩す。(単なる偶然なのに)自分のやり方はなにか間違っているのではないか、自分のおかしいところは何が原因なのか、見直さなければならないのではないかと不安になってブレる。そこでブレてはいけない。反対に4回連続でトップになることもある。そのときに調子に乗ってもいけない」といった内容でした。

 

 

 私たちも、普段「自分のおかしいところは何が原因なのか」と考えさせられているが、それは本当に事実に基づいているのか?
  

 ローカルルールというのは、たった1回の失敗でも取り上げて、「ほら、だからあなたはだめな人間だ(だから私に従いなさい)」とやってくるわけですが、これがいかに嘘であるか。

 「いやいや、ローカルルール人格だったとしても、私はそれ以外にも失敗しています」と思うのも、ローカルルールの影響です。

 経営者の発言でもあるように、4回連続の最下位もザラにある。

 

 

 私たちは、原因帰属を間違える生き物。

 繰り返しになりますが、科学の世界でも、起きた現象から事実を確定することはかなり難しく、査読を通った論文でも、あとからチェックしたら、
 4割が再現できないくらいなのですから(つまり事実ではなかった)、
 
 果たして、私たちの身の回りにいる人達が、1,2の事象を取り上げて、私たちを評価して、断定していることがどれほど怪しいか言うまでもありません。

 「事実は作られる」「人間の言葉は全ては戯言である」というのは、こうした点からもわかります。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」「“作られた現実”を分解する。

 

 

ローカルルールとは、まさにエセ科学。

 

 

 自尊心が機能している人は、「私は大丈夫」として否定的な事象を深刻に受け止めません。気の強い人なら失礼なことを人から言われたり、弱点を指摘されても「何よ!!ふん!」としてはねつける。

 一見、独りよがりだと見えるかもしれませんが、目の前の事象や“作られた事実”に惑わされずフィルタを掛けて偽りの事象から身を守っており、結果として“科学的な”態度と親和性がある。

 

 自尊心があることで、それがフィルタとなり、事実を検定(チェック)することになる。その結果、物理的な現実に根ざすことができたり、普遍的な何かを感じることができるようになるのです。

(参考)→「自尊心の機能不全

 

 反対に、ローカルルールにとらわれて、自尊心が機能不全に陥っていると自分を否定する事象が続いただけで、「受け止めなければ」「自分はだめなのでは」と捉えて、過剰な客観性、偽の誠実さに陥り、ブレて、まどって、作られた事実に振り回されてさらにローカルルールにとらわれていてしまうのです。

(参考)「過剰な客観性」

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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