「どうせ言っても無駄だ」と言葉が重くなると、まわりまわって人の言葉がスルーできなくなる。

 
 言葉偏重 ということには、いくつもの事が影響すると考えられます。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 それは、ローカルルールというものが、現実ではなく私的な感情を覆い隠すために「言葉」でつくられているということ。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 なんら現実に足場がなく、言葉やイメージによって自分の価値が左右される理不尽な経験を通じて、言葉を信じるようになってしまう。

 例えば、「~~ちゃんは、意地の悪い子ね」なんていうのも、単なる言葉でしかありません。

 自分の物理的な実態は何ら問題がないし、揺るがないはずですが、
 言葉に振り回される経験をすると、現実や事実よりも「言葉」ということが重んじられ始め、言葉やイメージの世界(空想界)に巻き込まれるようになります。

 さながら、陰謀渦巻く伏魔殿のように。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 そして、それを後押しするのが、前回も取り上げましたように、「自分はおかしい」という根源への疑いです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源
 
 それは、虐待やハラスメント、愛着によってもたらされます。
 
 生じた根源への疑い(ニセの責任)を免責するために、解消するために、言葉を求めようとするのです。

 人の言葉にその解決の鍵があると思ってしまう。

 イメージの世界に巻き込まれている、ということも相まって、さながら他人の言葉が事実であるように、救いであるように感じてしまう。

 しかし、救いにはならず、さらにガツンとやられて、苦しむようになってしまいます。
 

 

 こうしたことに加えて、「言葉偏重」を促進する要素としてもう一つあるのは、「言っても無駄」と言った感覚や、「言って誤解される恐れ」というものがあります。

 自分が誤解されたり、理不尽が生じたりした際に、「どうせ言っても無駄だ」「言ってもなんにもならない」と思い、口を閉ざしてしまう。

 あるいは、自分が発言したことでその内容を無視されたり、「~~さんてキツい」とか「~~さんて言い訳が多い」などと、自分が意図したこととは全く異なる受け止め方をされた経験が重なる。
 

 

 すると、もう二度と誤解されまい、と言葉が重くなってしまう。
人といるときも口数が少なくなったり、他の人がワイワイとおしゃべりに興じているときも参加できない。

 重くなるとどうなるかといえば、結果として言葉の価値が高くなってしまう。
 喉が詰まるような感覚が生じ、発言したくても発言できなくなる。

 とっさに言うべきときに言えなくなってしまう。

 (ペラペラしゃべているときは、人格がスイッチして、躁的になってしまっているだけだったりします。 本来の自分として気軽にしゃべることができていない。)
 

 トラウマケアをしていて、のどに反応が出るケースが多いのは、こうした事も影響していると考えられます。

 親から、「~~は、減らず口ね」「生意気ね」なんていわれて、親に反抗しないように、仕向けされてきた、ということもあるかもしれません。
 映画「千と千尋の神隠し」で、魔女に主人公が口にチャックをされるシーンがありましたが、まさにあのような感じ。
  

 言葉を奪われている。
 独裁国家のように、まさに言論を奪われる。
 

 自分の主権を奪われたような状態。主権がなくなると、言葉は重~くなる。

 

 本人は、それを、自分は言葉を大切にしているからだ、なんて思っているケースもありますが、それは本当の信念ではありません。
 言葉を大切にしているのではなく、ローカルルール(他人の嫌な言葉)を守らされているだけ、主権を奪われているだけです。

 

 

 昔、筆者が、大きな会社に勤めていたときに、社内風土改革の取り組みがありました。その際にアンケートに答える機会があり、同僚が「大切なのはおかしいことに対して声を上げることだ」と書いているのを見て(聞いて)、「そんなこと意味あるかなあ?」なんて懐疑的に思っていたことがありますが、まさにそれは、この「言葉の重い状態」に染まっていたから。

 

 政治的な動きしかしない上層部とか、パワハラとかを目の当たりにしていたので、「言っても変わるわけない」という気持ちになっていたことで、言葉が重くなっていた。でも、それが回り回って、言葉の価値を高くして、自分が苦しむことになっていたのです。

 

 自分は絶望して言葉を放棄して(奪われて)、そうではない人は気ままに言葉を使って好き放題に言っていたりする。言葉が重くなると並行して、言葉の価値が重くなり、その言葉にやられて自分が悩み苦しむ、というおかしな構図。

 絶望するというのは、単になにかの価値観を放棄して“無”価値になるのではなく、ローカルルールの世界観に染まること、入会するということ。言葉が重くなるというのも、同様に、ローカルルールの世界に入会しているということ。

 そして、入会に際して、自分の主権はローカルルールの主に預けることになります。“言葉の重さ”の背景にはこうした事がある。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 言葉を重く捉えたり、大切にしてはいけません。言葉の価値がどんどん重くなって、他人の言葉にやられてしまいます。

 
 言葉とは軽く、戯れに使うものです。
 大切なのは現実。言葉の価値はとことん低くあるべきものです。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 価値があるのは、言葉を扱う人の側にあるのです。言葉には価値がなく単なる道具であり、無価値なものです。

 
 できるかぎり、戯れに、さっと発せられるものであって、そのためには、言葉の自由、主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「言葉」への執着の根源

 なぜ、なんの筋合いもない親とか友人の言葉を真に受けてしまうのでしょうか?なぜ、「言葉」偏重になってしまうのか?

(参考)→「「言葉」偏重

 

 全く資格も実績もないのにも関わらず。

 ズガーンと言葉が入ってきてしまう。
 
 ボクサーが脳やわき腹にパンチを食らったように、クラクラして、その日一日その影響でなにもできなくなるくらいに。

 

 

 よく考えてみると、これが営業とか販売でこんな事が起きたら、こんな楽なことはありません。
 営業マンや販売員の言葉が即、胸に突き刺さるのであれば、売る側はとても楽でしょう。
 

 でも、実際は、買う側も良い意味で疑いの目で見て真偽の吟味していますから、かんたんには買ってくれません。

 健康な状態とはこうしたもののはず。
 タイミングが合って、ニーズも満たされて、納得も得られれば、契約成立、というのが本来のやり方です。

 

 しかし、こうしたことを破るような間違った販売方法というのもあります。
 それが押し売りとか、脅迫めいた売り込みであったり、あとは、閉じ込めて集団心理を悪用して買わせるといった方法。
 
 まさに、機能不全の家族というのは押し売りのような空間と言えるかもしれません。

 

 さらに、マインド・コントロールを使った方法というのもあります。

筆者も、大昔に「マインド・コントロール」という本を読んだことがあります。いわゆる自己啓発セミナーの内実が書かれたものです。

 マインド・コントロールとはどのように行われるか、といえば、参加者にグループを作らせて、そこで、メンバーの欠点や悪い印象を互いに言い合いをさせます。すると、徐々に自我の土台が揺らいできます。
 
 自分が何者なのか? 自信と思っていたものが崩れてくるのです。

 

 そうしたあとに、「感謝」だとか、「利他の心」だとか、冷静に見れば陳腐なお題目を提示すると、不安になった参加者はそれにすがるようになります。
 健康な状態であればチェックして弾かれるはずの言葉が、ガーンと脳に入ってきます。

 最後に、自分の家族や知人が登場して拍手して、感動のフィナーレといったものです。

 
 こうしたものは人間の心理を悪用した詐欺的な手口ですが。

 
 かつての中国の洗脳もこうしたものに似ていますが、もっと緩やかで、その分強力なものだとされます。

(参考)→「「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 共通するのは、常識とのつながりを絶ち、「自分はおかしい」と思わせることです。

 「自分はおかしい」と思わせることで、それを覆すための手段をなんとか得ようとします。
 そうしなければ、この世に存在することができないような根源的な不安を感じてしまいます。

 

 覆すための手段が、新しい価値観の実践です。
 新しい価値観を実践することで免責、免罪される、というなかで、ローカルルールを受け入れていくのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 親や友達の言葉を真に受けたりこだわるのも、同様であると考えられます。

 原罪のように、「自分がおかしい」ということが根源にはあり、それを免罪するための方法として、身近な人の「言葉」があるように感じる。だから、わかっていてもスルーすることができない。

 受け入れたくないけど、執着しちゃうのは、それをしないと「この世にいることができない(存在してはいけない)」と感じているから。

 

 

 もう一つの側面は、愛着の問題。
 愛着というのは、特定の人(多くの場合は母親)との絆ですが、
 幼い頃のスキンシップなどで育まれるとされます。

 親の様々な都合で、そうしたものが得られない、あるいは過干渉すぎる、といった場合に、「不安定型愛着」「愛着障害」といった状態になります。
 
 愛着という安全基地がなく安心安全を感じることができないのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 この「安心安全」とは、身体的、物理的なものですが、精神的には「自分はおかしい」あるいは「この世に存在することができない」などと感じられる。
 (「安心安全」がないだけなら、警備会社に頼むか、保険に入るか、ボディガードを雇えばいいですが、それではおさまらない。)
 

 「自分はおかしい」とか、「この世にいることができない(存在してはいけない)」といったことは、もちろんニセの責任によるものです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

  
 愛着という身体的な問題からも生まれるし、虐待、ハラスメントなどの社会的な要素からもやってくる。
 

 このニセの責任の呪縛からなんとか逃れようと、免責されようとして、人の言葉に執着をしてしまう。自分にまつわる、全く根拠のないおかしなことでも真に受けて、信じてしまう。

 人の言葉に救いの鍵、答があるように、免罪符のように感じられて、そこにヒントを求めてしまう。

 でも、実際にそれは幻想ですから、言葉からハラスメントをさらに受けるような格好になってしまい、苦しみ続けてしまうことになります。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「言葉」偏重

 

 SNSが普及した現代では、ニュースや投稿に様々なコメントが寄せられます。
それぞれのコメントなど真に受ける人はいませんが、量や勢いで圧倒されて「炎上」ということが起きることはあります。

 

 かつてのインターネットがない時代では、世の中に自分の意見を言える人というのは、それぞれの分野でそれなりの実績があり、発信する資格があると認められていた人達に限られていました。

 出版社やマスコミ、各種団体等がそのフィルタになっていたわけです。

 人間の言葉とは常に戯言でしかありませんが、かろうじて意味があると認めてもらうためには実績、資格が必要だったということです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 近所のおじさん、おばさんが世間話で、政治や哲学を立派に語っていても真に受ける人はいません。

 「そうなんですね~」と言いながらスルーしています。 
  

 居酒屋で偉そうに武勇伝や説教をしている酔っぱらいの話を聞いて、真に受ける人もいません。
 

 スポーツなどで、あまり上手ではないのに「教えたがり」の人がいますが、それもそのまま真に受ける人はいません。

 

 それぞれに共通しているのは、「(それを言う)資格がない」ということです。

 人間の言葉とは、何を言うか、ではなく、「誰が言うか(資格、筋合いがあるか)」です。
 

 上記の近所のおじさんが「安倍首相はね~」というのは、内容は正しいかもしれません。でも、正しくても真に受けたりはしないものです。

 

 それは、健康な状況では人間は、「言葉」ではなく、「態度」や「資格」「筋合い」に目を向けるからです。もっといえば、物理的な現実を見ている。

 言葉ではなく、その「実態」を見ている。

 

 言葉は立派でも、そこに劣等感や嫉妬などを感じ取れば、それは、「劣等感」「嫉妬」なんだと捉えます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 近所のおじさんが「あなたはね~」と言っても、真に受けたりはしない。

 「安倍首相」が「あなた」になっただけで、近所のおじさんがそれをいう「資格」「筋合い」がないからです。

 この「資格」「筋合い」の範囲というのは、思っている以上に狭いものです。

 基本的に、なにか契約とか権限がなければ言うことはできません。

 
 どんな立派な人でも、通りすがりの人を捕まえて説教をたれたりすることはできない。「なんの筋合いでそんな事を言ってきているんだ?」でおしまいです。

 

 電車の中などで、マナーの悪い人に注意する、ということでも、よほどわきまえてないと、トラブルになってしまうのは、「筋合い」が明確になりにくいからです。
   

 街中で人に関わる、というのは、「僭越ながら」という弁え(わきまえ)がないと成り立たないと言えそうです。

 

 

 では、家族同士はどうか?といえば、実はこれも基本的には同じです。

 家族といえども別の人間。

 夫婦などがわかりやすいですが、意見が通るためには「やることをやっていないと」いけなかったりします。 

 「やること」とは、夫としての機能(役割)、妻としての機能(役割)。
 しかもそれは時代とともに微妙に変化もしていきます。
 
 家のことを何もしないで、夫(妻)が妻(夫)に対して偉そうなことを言っても、話が通るわけがありません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 あと、例えば、キッチンなど妻の領域については、基本的には夫の意見は通らない。そこは権限(なわばり)外だからです。
 (家のこともしっかりやっていれば、聞いてもらえる一時的な資格は得られるかもしれませんが・・・)
(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 機能不全家庭に育ってトラウマを負ってしまった人は、その「資格」や「筋合い」がわからず、家のことはしないまま、妻や夫に実の母や父の役割を求めて怒り出したりして、混乱を起こしたりすることはよくあります。
 
 さらに、何が問題かわからず、「相手は頑固だ」とさらにイライラしてしまう。でも、それは相手が頑固なのではなくて、町中の人に説教するのとおなじく、資格、筋合いがないから耳をかさないのです。

 

 

 親子でも同様です。

 基本的には別の人間同士であって、さらに子どもは今は未熟でも将来は一人前の社会人として独立することが予定されていますから、過度に価値観を押し付けたりする筋合いは、実の親にもありません。 

 かつては生みの親というものの価値は低く、「~~親」という社会的な役割はたくさんありました。
 子どもは共同体で育てるもの、という考えもあるように、「血が繋がっている」というだけでは、ほとんど正統性はありません。  

(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 親は、自分の価値観を伝えるのではなく、社会の常識を自分が翻訳(代表)して伝える役割である、と言えます。

 さらに、子どもの年齢(発達の段階)によって関わり方も変わってきますから、柔軟に対応していかなければなりません。 

 

 うまく関わればよい(質)のではなく、関わる時間(量)も必要です。
  
 そうしてようやく、子どもに何かしら、偉そうなことを言える権利は発生します。でも、聞くか聞かないかは子ども側の権限です。   

 子どもは、反抗期には精神的に直訳していた価値を殺して独立していきます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ここまで見たように、何かを言うためには、資格が必要で、それ以外の言葉は受け取ってもらえません。

 
 「友達からなにか言われて傷ついた」という場合も、相手には言う資格がありませんから、もちろん「意味のない音」としてスルーする。

 愛着的人間観は、「人は皆、だらしがなくて、いいかげんで、どうにもまとまらないもの(人は弱い)」というものです。

 誰も自分を棚に上げて、他人のことを言うことはできません。

 立派に見える人でも、そう見せているだけ。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 社長を継いだ二代目が社員から認めてもらえずに苦労した、という話はよくあります。社長という肩書があっても、その役職に足る力があると認めてもらえなければ、部下も言うことを聞かないのです。

 戦国武将などもそうであったようで、部下の武将から認められるように常に心を砕いていた。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 親もそうで、親として日々機能していなければ、子どもも言うことを聞かないのは当然のことです。

 「とにかく、お母さんの言うことを聞きなさい!」というのは、「資格がないけど、私の私的感情をのみ込んでくれないと、居ても立っても居られないのよ」といって恐怖で言うことを聞かせているだけです。

 

 人が他人に介入できる場面というのは、本当にごく限られたもので、よほどの実績と筋合いと、さらに相手の同意とがなければ成り立たないものです。

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 
 野球では“超”がつく実績があるイチロー選手ですが、実は、マリナーズでは孤立して、最後は逃れるように移籍していったことがありました。どうやら、ストイックな態度がチームメイトから反発を買ってしてしまったようです。

 

 サッカーの元日本代表で、かつてローマなどで活躍した中田英寿選手がいましたが、ドイツワールドカップの日本チームの中では、海外の経験からこうするべきと主張するものの軋轢を生み、孤立してしまったようです。

 

 あれだけの選手でも、チームメイトの同意、つまり、相手の領域を尊重するといったことがなければ、その話(意見)を真に受けてもらうことはできない、ということです。

 

 実績で劣る選手でも同じプロ同士、「イチロー選手のご意見であればなんでも承ります」とはならないものです。

 

 自他の区別が厳然として存在していて、
 そこで人に何かを云うためには、資格、実績が必要。
 さらに、すごい実績があったとしても、相手の領域を尊重することがなければ(関係性ができなければ)、耳を傾けてもらえなくて当然。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 つまり、人間は、そもそも人の意見などは聞く筋合いはない、というところからスタートしているということです。相手がいくら偉い人でも、自他の区別の境界は絶対です。境界を明け渡すことはありません。

(参考)→「他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。

 

 これは会社の中であっても同様です。社長でも実績がなければ部下は言うことを聞かないのですから。
 

 かろうじて耳を傾けるとしても、せいぜい話半分で受け入れる、ということが人間にとっては健康なスタイルだ、と言えそうです。

 

 イチロー選手や中田選手の言うことでさえチームメイトは耳を傾けなかったのに、なぜ、私たちは、はるかに実績の劣る親や友達の言葉(おかしな理屈)を真に受けなければならないのでしょうか?
 

 

 しかし、ローカルルールとは、恐怖や不安とかなり変な理屈とで、こうした手続きを壊して、全権を委任したかのように、「すべての言葉を真に受けろ」という形にしてしまいます。

 

 変な理屈とは、「親子だから」「上司と部下だから」「あなたはおかしいから」とか、冷静に見れば、なんの根拠にもならないような因縁のことです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そして、いつの間にか言葉をやたらと真に受け重んじるような「言葉」偏重の状態、さらには言葉=現実としてしまうのです。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「自分(私)がない」ということを前提にしてみる

 

 以前、「自分(私)がない」という記事でもかきましたが、トラウマを負っている人は、自分がなかったりします。

 ぽっかり真空のように自分というものが空いている。

(参考)→「「私(自分)」がない!

 

 行動力があったり、色々と頭では考えたりしているので、とても「自分がない」なんて実感がわかない。

 でも、よくよく考えてみると、自尊心はなく、自分の考えだと思っているものは、親や周囲の価値観の直訳だったりする。

 そのことにも気がついておらず、ただ「失敗すると自分にダメ出しをしてしまう」「自分に厳しい」、あるいは「よくイライラする」と思っていたりする。

 
 しかし、それは、実は親(他人)の価値観を真に受けてしまっている(内面化)ために起きている現象だったりします。

(参考)→「他者の価値観の影響はかなり大きい

 

 

 他人の価値観を直訳しているというのは、いうなれば主権を奪われて、「植民地」のような状態になっているということです。植民地は、土地があって人があって、政府らしきものはあっても、主権を奪われてしまっています。

 同様に、人間は身体があって、頭が働いていて、行動していれば「自分(私)」なのではなく、「自分(私)」が成り立つためには、様々な要素が必要になります。
 自他の区別(国境)であったり、自分の考え・価値観(憲法や法律)であったり、ストレス応答系など身体の機能(警察や消防や軍隊)であったり、
 処理された記憶(歴史や伝統)、社会的地位と役割(正統性)であったり・・・ 

 

 トラウマを始めとして、生きづらさを感じているとうのは、上記の要素のなにかを奪われていたり、制限されていたりする。国でいえば、主権が制限されているのです。

 

 人間とは不思議なもので、植民地のように自分を奪われたままでも、他人の価値観を気が付かぬまま直訳して、あれこれと何十年も行動することはできる生き物だということです。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 全く動けなくなったりでもすればわかりやすいのですが、逆に行動的になったりするから、余計に気がつかない。

 

 生きづらさは確実に感じています。ただ、それは自分のせいにしたり、何か他の原因であると考えています。

では、どうすれば気がつけるのか?ということが気になります。
  
 

 「自分(私)がない」というと、何やら特殊で実感がわかない、ということになりがちですが、

例えば、

 ・自他の区別がついているか?  例えば、他人の考えや感情を先回りして考えたり、気をもんだりしていないか?
 (参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 ・自分の考えや価値観をしっかり持っているか?   好き嫌いやその考え、実は親や他人のものなんじゃないの?

 (参考)→「他者の価値観の影響はかなり大きい

 

 ・ストレス応答系など身体の機能   睡眠、食事、運動は十分ですか?少しでも足りないとすぐに人間は心身のバランスが崩れます。

 (参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 ・処理された記憶   過去について後悔したり、自分に駄目だしするような過去の記憶、ストレスはないですか?

 (参考)→「更新されない記憶と時間感覚」「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 ・社会的な地位と役割   何らかしらの社会的な役割についていますか?  社会的な役割がないと人間は自分を保てなくなります。 
 (参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」 

 

 といったことを具体的にチェックしてみることです。 

 

 とくに自分の考えや価値観は一番曲者で、ほぼ、他人のものだと、疑ってかかったほうが良いです。

 私たちは、仕事やプライベートで自分の意見が通らないと思っていたり、自分だけがないがしろにされている、バカにされやすい、とおもっていたりすることがあります。
 

 他人の考えや価値観からばかり発言したり行動したりしているのですから、他人に通るわけがない。

 (参考)→「自分の意見ではなくて、世の中こうあるべきという観点でしか意見や不満がいえない。

 

 あるクライアントさんは、電車などでよく人が自分のスペースに入ってきてぶつかったりして、嫌な思いをすることがある、とおっしゃっていました。

 それも、実は「自分というものがないために」他人からは自分は見えていないのかもしれない。
 (参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム」 
 

 「自分がない」という現象は、かつては特定のケースだけに起きているかと思っていましたが、生きづらさのある人はほぼ、なんらかしら「自分(私)がない」という事象が生じています。

 

 
 生きづらさを感じていたら、
 まずは、「自分(主権)がない」ということを前提にしてみることです。
 (参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」 

 

 すると、悩みの解決というのは単に症状を取るだけではなくて、自分(主権)というものを取り戻す取り組みでもあることが見えてきます。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

自尊心とは、自分の役割の範囲(なわばり)が明確であること~トラウマを負った人はなわばり(私)がない

  
 人間というのは、他人に干渉する道理、権利というのはありません。
 あっても道理が明らかな中での限られた役割でしかない。
 

 
 親が子どもに関われるのも、親という役割の中で関わる。

 親の権限がどの程度までか、というのは議論があるかもしれませんが、少なくとも現代の日本では、体罰はできない。あと、過度にストレスを与えるような精神的な関わりもできない(精神的虐待)。
 
 子どもというのはその時は未熟でも、健康に育てば独立した個人になることが予定されているわけですから、親といえども、社会通念を超えてその個人の人格に干渉することはできません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 会社もそうです。
 あくまで労働契約の中で会社に所属して、暫定的に上司-部下という関係があるわけですから、なにか指導する必要がある場合も、職務に関することまで。人格とかそうしたことに触れる権限は上司や会社にもありません。

 

 プライベートでの人間関係も同様で、仲の良い者同士でいじったりすることはありますが、基本的には人格面に立ち入って相手に干渉したり、ということはできない。

 

 

 自尊心の機能不全、ということについて以前触れたことがあります。

(参考)→「自尊心の機能不全

 私たちが、自信がないとか、自尊心が低い、といった場合に、「自分は大丈夫」といったような気合、意気込みみたいなものとして考えてしまいますが、そうではありません。

 

 「自尊心」とは何か? その機能とは何か?といえば、自分と他人に関わる責任、権限の範囲(≒自他の区別)がわかる、ということだと言えます。
 

 その範囲を超えて干渉してくるものについて「それ、私のものではありません」と外へ押し返す力ことが自尊心というものの原的なものではないか?
動物は、それをなわばり、というかたちで表している。犬などは他人のなわばりではシュンとしていたりします。
 

 

 自信がないとか、自尊心が低い、というのは、過去に理不尽に干渉されてきたり、ニセの責任を背負わされてきたために、本来干渉される筋合いのないことまで他人が干渉することが当たり前と思っていたりするために起こっている。

 他人がすごい人達に見えて、その人達によって自分が指導されなければならない、そのくらいに自分は変で、価値は低い、と考えてしまっている。 

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 

 

 しかし、愛着が安定している人、親の関わりが適切であった人というのは、自分に関わる責任、権限の範囲(≒自他の区別)が感覚的にわかっている。 
 だから、その範囲を超えてくると、表面的にはニコニコしていても、内面では「あれ?そんな筋合いはないぞ」と自然に考えることができる。

 前回の記事でも大企業の社長になるような人は、仕事の範囲について結構狭く考えていて、余計なこと(8割の要望や指示)はスルーしていたりします。

(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 

 

 健康な人が感じる、自分の責任範囲というのは、実は限定されてかなり狭い。

 限定されているからこそ、本来の役割に集中することができる。余計な役割は拾いません。余力があるので、イレギュラーなことにも柔軟に対応することができる。

 では、悪く評価されるかといえばそうではなく、そつなく仕事をこなして、仕事が速い、柔軟だ、と評価されたりするものです。
 

 反対に、トラウマを負った人の世界観とは、理想主義の世界、無理を美徳とする世界、堅苦しい責任範囲を超えてベストを目指す世界、です。

 無法で、理不尽なものにもヘッドスライディングするようなファインプレーで応えて、自分の存在意義を見出すような世界観です。

(参考)→「ファインプレーを目指そうとする

 

 ある意味、健康な人よりもずっとずっと能力があるといえるかもしれません。

 しかし、範囲が限定されていないので、いつも自信がありません。
 なぜ自信がないかといえば、上で見たように、自分の権限の範囲が明確でないから(≒自分のなわばりがないから)。なわばりの外ではライオンでも自分らしくいられないものです。
 なわばりがなく、自分の責任ではないことまで自分の責任であるかのように感じてしまって、常にビクビクしているような感覚なのです。頭の中で父親や母親が干渉してなわばりを張れないようにしていたりする。

 そのうち、エネルギーが切れてきて、パフォーマンスも出せなくなってきます。

 仕事はマラソンのような長距離戦ですから、継続できなければ人からは評価されません。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 そこから抜け出すためには、本当の自分の役割の範囲(なわばり)はなにか?を見直してみることです。トラウマを負っているということはニセの責任を背負わされて、責任の範囲が肥大化しています。肥大化すると広すぎてなわばりがはれなくなります。

 

 昔、大友克洋の「アキラ(AKIRA)」というアニメ映画(原作は漫画)で、鉄雄というキャラクターがブクーっと巨大に膨らむシーンがありましたが、まさにあれはトラウマを負った人の姿かもしれません。

 鉄雄みたいに肥大化した状態から、等身大の状態に戻す。

 

 それだけで、自尊心や自信というのはかなり回復します。仕事とか、対人での関わりは楽になります。
 (その際に、罪悪感が湧いてきたり、理想的な自分でなければという感覚が湧いてきたりしたら、それはトラウマの症状です。)

 自分の役割の範囲(なわばり)が明確になると、「あ、これは相手の責任なんだな」とか、「相手が怒っているけど、これは自分が感知することじゃないな」ということが見えてきます。

(参考)→「道理や責任の範囲が本来的になると、自尊心や自信が回復してくる。