つねに常識に足場を置く

 

 年末に、M-1グランプリが開催されていました。 
 このブログでも、よく、お笑いのツッコミのようにアウトプットする感覚は参考になるとお伝えしてきました。

(参考)→「アウトプットする習慣をつける

 

 お笑いの中でも、特に漫才は巻き込んでくる相手とそれに対してツッコんで距離感を守る関係をデフォルメしたようなものでわかりやすいです。

 ボケは、ボケのおかしな世界、狂気の世界を作り出して笑いを誘います。

 ツッコミも、汗を書きながら振り回されます。

 しかし、振り回されても、その世界に一緒に呑み込まれたり、巻き込まれることはありません。

 
 常に、常識の側に足を置きながら、突っ込んでいく。

 そこには対等に関与しながらも、相手への暖かさがある。
 

 落語でも、ツッコミみたいな存在がいますが、「何いってんだい、あんた」「朝からボケてしまって、寝言は夢の中だけにしておくれよ」「も~、しようがないね~」というような感じで(有限の)愛想が尽きない範囲で付き合う。常識に足場を置いています。

 愛想が尽きたら、関係は終わりになります。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”」 

 

 

 反対に巻き込まれたり、イネーブリングと言う状態はどういったものか、といえば、相手の世界に足場を置いてしまう。相手の異常さを先回りして忖度して、秘密を飲み込んでしまう、というものです。

(参考)→「忖度とはなにか? 相手の負の世界を飲み込んでしまう。黙ってしまう。」  

 

 

 
 相手の狂気の世界を取り込んで、ズーンと重くなってしまう。

 そして、無限に相手について行ってしまう。

 口が重くなって、思考も暗くなってしまう。

 もし、漫才においてそんな事になってしまったら、漫才になりません。

 

 もっといえば、漫才は応答し合う、「対話(ダイアローグ)」です。
 それぞれが応答し合いながら高めあって、クライマックス(オチ)に持っていきます。

 

 
 一方、トラウマの世界、ローカルルールの世界は、「独話(モノローグ)」です。
 仮に、複数人がいたとしても、ある人物のトラウマ、ローカルルールに支配されて、その他の人物もそれを飲み込んでしまって、単一の言葉、モノローグになってしまう。

 自分本来の言葉が失われて、そこには闇以外に何も無くなってしまう。

 

 トラウマがあると、自分がよって立つ足場に自信がない。自分こそおかしいのではないか?と疑う必要のないことを疑ってしまう。そんなことは必要がありません。

(参考)→「足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 

 

 常識の世界というのは、多元的多様である、常に複数の声(ポリフォニー)で成り立っているのが特徴です。

 そのため、いろいろな人や考え、感情を包摂する力があります。

 私たちは、つねにそこに足場を置く必要があります。

 

 ユーモアというのはセラピーにおいても大切だとされ、本来の自分に戻るきっかけになるものですが、バラエティを見ながら、常識に足場を置いているか?相手の世界を飲み込んでいないか?と上記のような要素を自分に当てはめてみると、自分の状況のおかしさに気づくきっかけになるかもしれません。

 

 

 

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忖度とはなにか? 相手の負の世界を飲み込んでしまう。黙ってしまう。

 

 たまたま、TVのバラエティ番組で、女優さんに整形したようなメイクをしてもらって芸人に見せて、それを指摘するか、指摘しづらいか、みたいなことをドッキリみたいに試す、というのを目にしました。

 

 整形というと、その方の自己意識とかコンプレックス、プライドとか、そういう様々なものを背景にして行われる行為です。

 ですから、単に行動だけにとどまらず、そんなもろもろの感情や動機もそこには重なって、余計に指摘しづらい状況と言えます。

 ただ、芸人さんは、その場ではズバリは言いませんが、笑いを堪えられなくなったり、あとでロケバスの中では相方やスタッフとそのことに触れて忌憚なく考えを伝え合ったりしていました。

 

 

 これが、トラウマを負っている人ならどうなっているだろうか? というと、

 その場で指摘できないことはもちろんですが、相手のコンプレックスといった負の世界を丸ごと飲み込むかのようにしてしまう。
 相手の頭の中や、その背景も忖度して、察して、それを自分の中に取り込んでしまう。
 
 そして、相手の負の世界に縛られてしまう感じになってしまう。相手の秘密を自分が抱えてしまう。

(参考)→「他人の秘密を持たされる対人関係スタイル

 

 さらに、相手がいなくなった場面でも、そのことについて話題に出したり、言葉としてアウトプットすることができない。
 そんなことをするのは陰口を叩くことであると思っていたり、陰でその人のことを言うことが悪いことであるかのように考えている。

 すると、言葉が重くなって、自分の中にある相手の負の世界を吐き出すことができなくなってしまう。

 以前にも書きましたが、これが家族の場合であれば、「ファミリー・シークレット」といって、相手の秘密を自分のものとすることは心理的にはものすごくダメージがあるとされます。
 いわゆるアダルトチルドレンと呼ばれる状態を作り出してしまうのです。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 
 この一連の流れは癖になっているので、意識で止めようとしても、ほぼ自動的に起きてしまっています。 

 そして、それが「人を思いやること」「優しさ」であると錯覚させられている。

 これが「忖度」というもののわかりやすい状況です。

 

 

 「常識」や「社会通念」からみて相手に違和感があったら、まずは遠慮なく頭の中で距離を取る、突っ込む。

 これが健康な反応で、決して、程度の低いものでも、悪意でもありません。

 そうしないと、心の免疫が保てないのです。

 優しさや思いやりは、その次のステップでも十分発揮することができます。

(参考)→「アウトプットする習慣をつける

 

 

 

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「常識(パブリックルール)」が弱い、とはどんな状態か?

 

 
 前回、トラウマを負っている方は、「常識(パブリックルール)」が弱い と書きましたが、これは、もちろん俗に言うような意味で「常識がない」ということではありません。

(参考)→「自我と常識(パブリックルール)が弱い

 むしろ、他人からどう思われているか? 迷惑をかけていないか? をものすごく意識しています。

 「過剰適応」という言葉があるように、常識やルール、マナーということは意識しすぎるくらいに意識している。

 過剰なくらい”常識的”です。
 

 

 しかし、ここからが問題ですが、

 一方で、自分がどこか変だ、と感じている。

 なぜか、自分がマナーや常識というものがわからない感覚があって、それを人から指摘されるのではないか?と恐れている。

 だから、過剰に意識しているのです。

(参考)→「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 

 さらに、トラウマを負った人が考える「常識」とは、他人の考えを忖度することだったりする。他人の頭の中を覗きにいって、相手の機嫌を損ねないような振る舞いが「常識」と考えていたりする。

 

 本来は、他者の頭の中を経由せずに社会通念、社会でのルールをダイレクトに身につけるものが「常識(パブリックルール)」です。

 他人の頭の中を忖度したものは「ローカルルール」です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

  

 他人が言う理不尽なことも含めてそれが「ルール」だとして守ろうとする、合わせようとしてしまう。

 そうすると、段々と、ほんとうの意味での「常識(パブリックルール)」からはずれていってしまって、さらに自分の足場がわからなくなる。
 結果として、パブリックルールに支えられて形成されるところの「自我」も弱くなってしまう。

 

 人間は社会的な動物と言われるように、「自我」と「常識(パブリックルール)」とは、対の関係になっていて、「常識(パブリックルール)」の型がなければ「自我」は健康には成り立たないものです。

 一方で、「自我」がしっかりしていないと、「常識(パブリックルール)」もうまく根付かない。
  

 「自我」が曖昧なために他者の頭を忖度して、ローカルルールを常識だと勘違いしてしまう。
 
  
 トラウマを負った人のもつ常識とは、過去に受けた理不尽への対応集になっています。

 そうした状況を指して、「常識(パブリックルール)」が弱い、というのです。

 

 

 

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自我と常識(パブリックルール)が弱い

 

 ある学者が、「個人-中間集団-国家」と3層で考えたときに、日本は、個人主義と国家主義が弱い、みたいなことを書いていて、とても印象的でした。

 たとえば、戦前の日本は、国家主義で「お国のために」と建前では強調されていましたが、実際は国ではなく、省益や世間の圧力で動いていました。
 イメージとは異なり、戦前は国の力がとても弱い時代でした。

 事実、総理大臣でも戦争を止めることはできないし、予算も通せないし、大臣を選ぶのも自由にできない。
 天皇にも全く発言権はない。無責任体制と呼ばれるような極度な“分権制”でした。
 

 そのために機能不全に陥ってしまい、本音ではしたくもない戦争に突入して負けてしまった、ということのようです。

 

 

 この学者さんの指摘が印象的だと感じましたのは、機能不全に陥る状態が、トラウマを負った人とよく似ている、ということです。

 

 「1.自我」-「2.中間集団」-「3.公的規範」の三層でとらえた場合に社会と同様に、私たち人間にとっての機能不全状態とは、「1.自我」と「3.公的規範」が弱い状態を言います。

 反対に、機能している状態というのは、「1.自我」と「3.公的規範」がしっかりとしていて、「2.中間集団」はそれに従属しているような状態です。
 

「3.公的規範」とは言い換えると「常識(パブリックルール)」ということです。

 

 

(図解)機能している状態-機能不全状態の違い

機能している状態:「◎1.自我」-「△2.中間集団」-「○3.公的規範」

機能不全状態:  「●1.自我」-「◎2.中間集団」-「●3.公的規範」

 

「1.自我」というのはすべての土台です。
 これは愛着によって支えられます。
 愛着の支えによって健康に形成されていく「1.自我」は、教養、仕事を通じて「3.公的規範」に接続されます。
 

 「◎1.自我」-(教養・仕事)-「○3.公的規範」というラインが揃うと公的な人格として自我も発揮しながら自己一致、自己実現が果たされるのです。

 

 

 

 しかし、愛着が不安定であったり、トラウマによってダメージを負ってしまうと、「1.自我」がうまく確立しなくなる。そうすると、「1.自我」を確立するために内面化していた他者(通常は親)の規範がローカルルールとなって「1.自我」を支配するようになってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 
 

 「1.自我」は単なる不安定な私的情動となって、その人を苦しめるようになります。

 その結果、「3.公的規範」とうまくつながれていない「2.中間集団」のローカルルールに支配されやすくなります。

 「2.中間集団」のローカルルールとは、具体的には、家族の支配、学校でのいじめ、会社でのハラスメント、などが代表的です。

 

(図解)ローカルルールに支配されてしまう

「◎他者の規範」が支配 

   ↓
「●1.自我」→「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→「●3.公的規範」に繋がれない。
  

 

 中間集団に支配された自我は、さらに中間集団に従属あるいは他者を巻き込んでいって、というハラスメントの連鎖が起きるのです。

 (図解)ハラスメントの連鎖

 「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→ 

  ↓ 巻き込み≒支配

 「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→ 

  ↓ 巻き込み≒支配
「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる → 「●3.公的規範」に繋がれない。

 

 

 

 「自我」が弱い人が、形だけの「常識」を肥大化させたようなケースもよくあります。これをニセ成熟といいます。  

 外では礼儀正しいのに、自分が全然ない、という状態です。
 結局、中間集団への感情に強く影響されてしまいます。

(図解)ニセ成熟 

「●1.自我」-「◎2.中間集団」-「◎形だけの常識」-「●3.公的規範」

 

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 

 自己啓発やある種のセラピーによって、「1.自我」を抑えましょう、無意識に委ねましょうというのも機能不全を引き起こします。
 基盤となる「1.自我」を叩いてしまうのですから当然の流れです。

 この場合は、中間集団のポジションにセラピーの論理が来てしまっていて真の解決を阻む、という構図になってしまいます。
     
(図解)自己啓発やセラピーがログアウトを志向してしまう

「●1.自我」-「◎2.中間集団(自己啓発やセラピー)」-「◎-セラピーの論理」-「●3.公的規範」

 

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 

 

 「2.中間集団」の役割とは、本来「3.公的規範」の代理店です。家族もそう、会社、学校もそうです。
 

 機能している家族、会社は、個人(自我)を尊重した上で、「3.公的規範」を代表し、個人を社会につなげる役割を持っています。

 家族であれば「愛着」を、
 学校は「教育、教養」を、
 会社は「職能、技能」を、提供することを通じて、社会の中での位置と役割を個人に与えています。
 

 
 生きづらさから抜け出そうという場合、こうした構造を知ることはとても大事です。そのうえで、欠けているものを補い、足を引っ張っているものを取り除いていく。
 
 

 特に、いかに「1.自我」を強化していくか?ということが大切で、そのための基礎は「睡眠、食事、運動」であり、「2.中間集団」の影響から抜け出し、「3.公的規範」とつながることがとても大事。
 

 そのための橋渡しが、「愛着」「教育、教養」「職能、技能」です。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 

 愛着については、以前もお伝えしましたが、特に成人が一人の人から全てを得ることは出来ませんので、街で出会う人達から、0.01程度をコツコツ集めていく。ちょっとした挨拶、目配せ、気配りで十分。
 そうしたものをじわじわ浴びる。

 深い付き合いは必要ありません。負担になってしまいます。

(参考)→「0.01以下!~眼の前の人やものからはほんのちょっとしか得られない

  
 
 橋渡しとしてあげた項目ですが、実は、濃淡はあれ、それぞれを有していたりしますから、「私は~」という言葉を意識して、それらに自分の名前をつける、ということをしていくことです。

 これまでは、完全でなければ自分のものではない、としていたのを、厚かましいくらいに自分のものだと捉えていく。

 難しい状況にある方も多いですが、やはり、社会の中で位置と役割を得られるように様々な支援を受ける。

 

機能している状態:「◎1.自我」-「△2.中間集団」-「○3.公的規範」

 

を意識して、環境を整えていくことがとても大切です。

 

 

 

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