私たちは幼い頃を思い返すと、数々傷ついてきた経験を抱えています。
仲良くしてほしいし、そうすればいいと幼心に感じているのに、両親が喧嘩をやめない。
訴えてみても、耳を傾けてくれない。
なんで??
ただ、仲良くすればいいじゃない?
お互いに話を聞けばいいじゃない?
こうすればいいじゃない?
でも、直感的な正論が全然通用しない。
その絶望感、孤独感。
友達に対してもそうです。
自分の素直な気持ちや在り方で接したら、ある時、急に意地悪される。
突然嫌なことを言われる。
なんで??
どうして??
自分はこんないい子なのに、仲良くしてくれればいいじゃない?
ただ受け入れてくれればいいじゃない?
なんで、人はこんなふうにおかしなことになるの?
でも、自分の気づきや訴えは全然周りに通じない。
大人に相談してみても、ちゃんと対応してくれない。
喧嘩両成敗になる。
そのうち、「自分にも悪いところがある」というお題目を信じるようになってしまう。
大人になってからもでもそうです。
自分は普通にしているだけなのに、理不尽な目に遭う。
信じられないような失礼なことを言われたり、意地悪をされたり、などということは日常のそこここにあります。
しかも、それらは明確に言語化できないようなとても微妙な状況で行われるので、声を上げることさえできない。
声を上げる不利益や手間を考えれば、と飲み込んでします。
気の強い人なら言い返せるのに、即座に反論できない自分が悪いのだと思ってしまう。
理不尽は自分で何とかすることが当たり前だ、とされて、“社会”のおかしさは個人化されてしまう。
幼いころ、自分はただありのままにいるだけのものなのに、親から「この子はダメだ」「この子はおかしい」といった間違った指摘を受けて、それをずっと心に抱えたまま、真に受けたまま、ボタンを掛け違えたまま、その答えを探そうとして、その後の人生を生きている人もとても多いです。
いじめを受けても親たちが「仕方がない」として適切に対処してくれないことで不登校に陥っているのに、個人のメンタルの問題にさせられている、というようなケースもよくあります。
例えば、最近、海外で日本人の子供が襲われても現地の政府は「偶発的な事故」といいっていますが、仮にそうだとしても、「全力で対処します」と言ってくれなければ、安心して住むことはできません。だから問題になっています。
同様に、親や先生が「学校ができることも限られるし、仕方がない」なんて言っていては、子どもが安心して登校できるはずもありません。「いじめには断固対応します」「全力で守ります」ということが本来です。
しかし、大人の都合で安心安全が守られていないから学校にいけないのに、自分が弱いせいにさせられているし、自分でもそう思い込まされてしまっている。
これも、大人(“社会”)の機能不全を子どもが背負っているようなケースです。
あるいは、親の理不尽、家族の問題を自分が引き受けて、そのために生きづらい人生を生きている人もいます。ヤングケアラーなどはまさにそうですし、ヤングケアラーと名付けられなくても、トラウマを負った人の多くはそうです。
参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点」
確かに、多くの人は、心の悩みについては、環境に問題がある。環境が大きな要因になる、ということには同意します。しかし、「それはそうなんだけど、結局、環境は変えられないんだから、個人が何とかしなきゃね」といったおかしな留保がついてしまい、そのことで、結局個人の中に問題が流れ込んでいってしまう。
あるいは、「“社会”全体がおかしいなんてことはない」といった思い込みも強く存在します。
ここでいう“社会”とは、日本社会とかアメリカ社会といった大きな社会や社会問題の社会ではなく、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えてルールを騙る状態や機能不全を“社会”と呼んでいます(いわゆる社会の問題や不正義や加害者を糾弾しようとか!そういう論とは異なります)。
それらが全部、おかしいなんてことはないだろう?という思い込みです。
もちろん、そんなことはありません。いじめは学校や職場でも横行していますし、いじめに感染するとあっという間にみんなの頭がおかしくなることは観察されている事象です。
学校、会社や親族には「しっかりしていそうな人」「客観的な判断ができそうな人」「立派な学校や会社にお勤めの人」もいたりします。そして、そうしたひとが“バランスの取れた意見”を言ったりしますが、それらが正しいか?といえばそんなことはありません。
そうした人がみんなを惑わすので一番厄介なのです。
立派そうに見える人がまともである、というわけでは全くありません。
そうした人は、自分を失った結果見かけの立派さを手にしているケースもとても多いですし、立場主義から発言することが上手であることはよくあります。
以前書いた記事で取り上げられたなんでも100点が取れるエリートたちはまさにそうです。
「あんな立派な人が、しっかりした人が言うんだからやはり自分が悪いんだ」
「さすがに自分を取り巻く周りが全部おかしいことはないでしょう?」
という風になってしまうと、自分が飲み込んでしまった“社会”の問題は出ていかなくなってしまい、生きづらさを抱え続けることになってしまいます。
文化人類学者のベイトソンは、結局、他者の理不尽(ダブルバインド)を引き受けてしまうことが統合失調症の原因だと、喝破しましたが、結局はまわりまわってみれば正しい認識だったとされています。
そのとおりで、“社会”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。
だから、そろそろ、私たちは気づいてもいいのではないか?声を上げてもいいのではないか?
“社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを。
※本記事のタイトルの”It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)
とは、昔、クリントン大統領が選挙戦で使ったスローガン(経済こそが問題なんだよ、愚か者! It’s the economy, stupid”)をもじったものです。当時の問題の核心をついて、有権者の共感を得て当選をしたそうです。
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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