物理的な現実がもたらす「防御壁」

 
 スポーツをするときに、自分がこう動きたい、とおもってもなかなか体が言うことを聞いてくれないことは多いものです。

 コーチから「こうしたほうがいい」といわれても、そのとおりにできない。

 自分では従来のほうが心地よいのですが、結果は出ないので、やはり変えたほうがいいことは明らか。でもうまくできない。

 もちろん、完全に意識と自分の身体が連動したら、プロになれるわけですけど、そんなことは難しいです。プロでも思ったように動かすためには相当なトレーニングが必要です。

 

 皆さんもスポーツやエクササイズをしててもどかしい思いをしたことがあるのではないでしょうか?

 
 わかっているんだけど、うまくできない。

 身体としての自分というものは、なかなかもどかしい存在です。

 

 

 このように「現実」というものは、なかなか変わりません。一朝一夕には変化しない。

 同じような日常が繰り返されます。

 先日の記事にもかきましたが、
 「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」
 というように、こちらの気も知らず、変化してくれない。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 

 私たちも、生き辛さの中にあえいでいる自分を変えようと、気持ちを新たにして、何かに取り組みますが、躁的な気持ちが一段落したら、何も変わっていないことに気づく。
 そして絶望的な気持ちになる。

 「ああ、また変わらなかった」と。 
 
 そして、自分は永遠に変わらないのか、といった気持ちになっていく。

 トラウマを負うというのは、こうした気持ちの中でもがくこととも同義です。

 いつまで経っても、「自分は世に出ることができない」という感覚。 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 かつては筆者もこのような感覚にとらわれていました。
 休みのときも何かをしなければと焦るけども、何をしていいかわからない。何をしても変わらない、と。

 

 あるゴールデンウィークのときに、連休前半にイベントに参加したのですが、そのときに同席していた同じ世代の男性が、「ああ、これで、とりあえずは充実したと感じられる」といったのがとても印象に残っています。
 連休前半にそれらしいイベントに参加していれば、連休を終わったときに有意義ではなかったと後悔しなくてすむ、というわけです。

 充実感を感じるために充実できたと感じることを探して安心するなんて本末転倒な話だけど自分もそういう感覚があるな、と感じたことを記憶してます。

 

 しかし、ローカルルールが解けてくると、日常をのんびり過ごせるようになってきました。
 さらに、現実の「変わらなさ」を感じるとき、「これは都合がいいな」と筆者は感じるように変わってきました。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 「時間がかかる」「容易に変わらない」というのは私たちにとってとてもよいことだ、というように。

 なぜかというと、その変わらなさ、時間がかかる、ということが、私たちにとって「防御壁」になってくれるからです。

 

 なぜ、修行した職人が作ったものに価値あるか?といえば、修行や技能の習得に時間がかかるからです。簡単にできれば、価値などありません。

 学歴とか、難しい資格になぜ価値があるか?といえば、容易には取れない、取るのに時間がかかるからです。

 

 すごく手間の掛かる仕事もそうで、手間がかかるというのは、他人にとっても面倒で容易には参入(真似)することはできません。

 「手間がかかりそう」ということが自分を守ってくれる。

 

 社会的な技能とか資格とかだけではなくても、単に年月を重ねて人間としてここに存在しているということ自体も実は守ってくれています。その人の持つ経験、時間というのは他者が介入できないものだからです。私たち人間は別々のトラックを走っていて、そのトラックの間にも「防御壁」は存在しています。 

 

 一日で変わるものは、一日で覆されます。

 一日でできるものは、他者にも一日で追いつかれてしまいます。

 世の中では、簡単にできるものの価値は低く、いわゆる差別化になりません。
 (経済の世界だと「参入障壁」といいますが)
 

 

 

 「物理的な現実」というのは、その容易には変わらない、時間がかかる、という性質で私たちを守ってくれています。

 前回の記事で、「5年、10年もすれば景色がガラッと変わっているものです」と書きましたが、生きづらさを抱えていると、「5年も10年も待てないよ」と感じるものです。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 こんなに生きづらいのですからすぐにでも変わってくれないと困る。

 それはそうなのですが、すぐに変えようと「言葉」や「イメージ」世界に留まってしまうと、結局はローカルルールからローカルルールへというように積み上げることができなくなる。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 言葉で変わった気になっても、頭の中で他人からの汚言や自責感によって、すぐにひっくり返される。
 イメージを変えようとして取り組んでみても、すぐにひっくり返されるの繰り返し。  

 物理的な現実のもつ「積み上げ」の力、「質的転換」の力を借りることができません。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 「物理的な現実」はある時点を超えるとぐっと大きく変化、飛躍をもたらしてくれます。

 しばらく淡々と続けることで、その力を借りることができる。

 

 
 変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→質的転換(カットオフ)→大きく変わっていた。

  ↑この変化への長さ、変わらなさが壁となって自分を守ってくれる。我慢できない人は途中で脱落していきます(そして、言葉を唱えたり、イメージトレーニングするだけになってくれる)。一方、続けた自分にはカットオフがやってきます。だから、容易に変わらない取り組みであればあるほど、「よしよし、都合がいいぞ」と密かに企むことを楽しむ。

 

 さらに、積み上げた物理的な現実は他者からの否定的な言葉やイメージからも守ってくれます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 

 「変わらない、変わらない」と感じる状況は、私たちにとってはとても良いことです。

 その容易に変わらなさ加減が自分を守ってくれます。

 

 「物理的な現実」は、大きな変化と大きな防御と、その両方を提供してくれる。とっても頼りがいのあるものです。
 

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

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物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 昔読んだ本の中で、「プロは繰り返しの毎日」という言葉が出てきて印象に残っています。

 繰り返し準備を続けて、パフォーマンスを維持したり、今までできないようなことができるようになったり、ということだったと思います。

 ただ、トラウマを負った人にとっては、「繰り返し」には耐えれないだろうな、と思います。

 それはふたつの意味で。
 一つは、ガムシャラに努力をしてへとへとになってしまうということと、もう一つは積み上がる感覚がないために、そもそも繰り返しの先が描けないということ。

 「これ以上どうやって努力しろっていうの?」という感覚。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 
 その背景には安心安全の欠如があります。

 世の中が理屈でできていて、1+1=2 になる、2×2=4 になるという安心感が薄い。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。

 

 だから、ガムシャラに努力する、非常事態モードでつらい日常をこなして、誰かに評価されて、そして結果が得られるといった感じ。

 本当は、物理的な結果にフォーカスしなければいけないのに、ついつい他者の目にフォーカスが向かってしまう。
 結果も出しきれず、他人の評価に左右される。
 

 結局、疲弊し「繰り返し」を続けることができなくなったり、積み上がらない、という感覚につながるのです。

 

 

 あまりに結果が出なく辛いために、「言葉が現実になる」といったものに興味を持ち始めたりするのですが、それも、人の言葉やイメージに左右されてきた背景があるから。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 人の言葉やイメージに振り回され、さらに積み上がらないという経験をしているために、「言葉」や「イメージ」を変えることばかりに目が行ってしまうのです。

 

 言葉やイメージというのは、一瞬にしてひっくり返ってしまいます。
 積み上がることはありません。

 そうして、絶望していってしまうのです。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 

 しかし、「物理的な現実」は違います。確実な積み上げがあります。
 

 今私たちの生活が蛇口をひねれば水が出て、スイッチを押せば電気が来る。
 手元にはスマートホンがあって、すぐに何でも調べられたり、映画も見れる。他人とコミュニケーションが取れる。有名人にメッセージを送ることもできる。

 かつてであれば信じられないような生活が誰でもできるのも、それは「物理的な現実」の積み上げがあるからです。
 
 近代以前は、宗教などが力を持った時代ですが、こんな積み上げはありません。古代とそれほど変わらない時代が、何千年も続いていました。

 

 

 筆者も街を歩いていたら、「あれ?ここ更地になっているな」「ああ、マンションでも建つんだな」と思っていて、しばらくして気づくと高層マンションができていたりします。

 もちろん、現場の作業は、穴をほって、資材を運んで、という地道なものの繰り返しですが、人生が終わるまでできないか?といえばそんなことはありません。あっという間に完成してしまいます。

 

 

 昔、仕事で大きなプロジェクトに関わっていましたが、日常では、何十人、何百人という人がそのプロジェクトに関わっていて、日々はミーティングとかの繰り返しです。途中トラブルもあったりして、常に順調ではありません。

「これは永遠に続くんじゃないか」とさえ思えるのですが、でも、気づいたらローンチ(サービス開始)になっている。

 

 東京の渋谷でも再開発で工事をしていましたが、やっている最中は「いつまでやっているの?」「永遠に終わらないんじゃないの」なんて思うんですが、気づくと、でかいビルが立っていて、きれいになっている。

 

 歴史をさかのぼって、種子島に鉄砲が伝わってきた当時、日本の職人は、ネジということがよくわからずにどうやって真似をしていいかがわからなかったそうです。そのネジの仕組を知るのために、1年後に南蛮人が来るまで待って、教えてもらったそうです。
 「ネジの仕組みを知るのに1年?だったら、100年経っても真似は難しい」と思いたくもなりますが、わずか20,30年後には、合戦で最大8千艇の銃が用いられるようになります。

 

 ライト兄弟が初飛行をしたのが1903年ですが、たとえば真珠湾攻撃は1941年で、わずか30年程度でパイロットを何百人、何千人も育成し、空母も作り、作戦を立て、大編隊で遠くハワイの軍艦を沈めるまでになります。

 

 

 お隣の国中国も、昔、たくさんの自転車で通勤ラッシュというイメージでした。筆者が子どもの頃やっていた「ストリートファイター2」というTVゲームの中国社会の背景は、おじさんは人民服を来て、鶏が鳴いて、自転車が通り過ぎる、みたいなものだったように思います。

 でも、今は、高層ビルがボンボンと建ち、日本企業も圧倒するようにもなり、米国に脅威を与えるまでになりました。

 わずかな期間に、です。筆者の意識の上では、子供の頃というのはついこの間!のことです。

 

 

 以前も記事で書きましたが、実は物理的な現実というのは、「質的転換(カットオフ)」というものがあるのです。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 物理的な現実は、一つ一つの積み重ねでできていくのですが、ある時点に来ると質が変わる。飛躍が起きる。

 

 物理的な現実は1+1+1 積み上がっていくのと同時に、すでに積み上げたもの同士が掛け算のようにもなっている。

 そのために、最初は「永遠に終わらないんじゃないの」というように感じるような繰り返しなのですが、あるとき気づいたら、質が変わっている。
 そのプロセスは魔法でもなんでもなく一つ一つは物理的な現実の積み上げでしかないのですが、ある時点で飛躍する。

 

 上記の真珠湾攻撃の20年後には宇宙に到達していますから。
 これも、物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換」の力です。

 「言葉」や「イメージ」では絶対に宇宙にはいけません。

 

 人間の認知にはバイアスがかかっているために、目の前のものはずっと続くように錯覚する。「知覚の恒常性」と呼ばれるものです。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 だから、「質的転換」が起きつつあってもそれを捉えることができない。 

 さらに、人間の認識能力の容量の限界もあります。
 人間の認知能力は、物理的な現実のおそらく数千分の一化、数万分の1くらいしか認知できていません。
 あまりにも大量の情報は意識で捉えることができないので、脳がカットしているのです。

 

 実は、「機会」や「サポート」というものも、私たちの周りにはたくさん転がっている。奇跡、運命とも思えるような出会いや偶然があるのもそのためです。

 でも、通常の認知能力では、さらに悲観的になってフィルタが歪んでいるうちは、それを捉えることができない。

 

 ただ、「質的転換」が起きること、「機会」がたくさん転がっているということを“経験的に”わかっている人たちもいて、その人達は、冒頭のように「プロは繰り返しの毎日」などとして、繰り返しの果ての「質的転換」をつかもうとする。

 もちろん、努力だけではなく、ただ、のんびりと日常を過ごすことも「積み上げ」になります。

 

 世の中に、紙に書いていたら偶然チャンスが巡ってきて、というような話も、
 もしかしたら、物理的な現実を歪めるフィルタ、ローカルルールが是正されてそれまで認知できていない「機会」というものに気づいた、あるいは、上記のような積み上げてきた果の「質的転換」が起きた、ということかもしれません。
 

 

 心理主義やポップ心理学、俗な自己啓発の影響なのか、こうしたことを「言葉」「イメージ」の成果だ、と捉えられてきましたが、どうやらそんな話ではない。
 「言葉」「イメージ」の成果だと捉えて、願望を紙に書いていても「物理的な現実」の力に乗ることはできず、「言葉」「イメージ」の世界に閉じ込められてしまう。

 

 そうした状態の人にとっての「現実」とは、実はローカルルールによって作られた現実なので、現実は敵対的で恐ろしいものに感じるのです。

 でも、実は助けてくれるはずの「言葉」「イメージ」も別のローカルルール世界であることも多いものです。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」 

 

 「言葉」「イメージ」には積み上げもなければ質的転換もない、他人から容易に翻弄されてしまうものなのです。

 本当は、「物理的な現実」こそが圧倒的に私たちを守ってくれているし、力を与えてくれるもの。
 「わらしべ長者」という寓話でも、言葉やイメージではなく、「物理的なモノ」同士を交換していくわけですから。

 技能や知識の習得も同様に「物理的な現実」の一つです。

 

 トラウマを負っていると、積み上げている感覚は麻痺します。
 ただ、それでも経験してきたものという「物理的な現実」は確実に存在します。

 ECサイトに久しぶりに、ログインしてみたら「あれ?結構、ポイントが貯まっていた」ということがありますが、まさにあんな感じです。

 

 「私にはなにもない」とおもっていても、生きてきたものは確実に残っています。
 みにくいアヒルの子のように、本来の自分から大幅にディスカウントされているだけです。

 それを信頼すること。そして、自分のIDでログインするように取り組んでいくことです。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 繰り返しに見える平凡な日常を通じて、「物理的な現実」の流れに乗ることができる。

 私たち個人においても、5年、10年もすれば景色はガラッと変わっているものです。

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

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あなたは素直じゃない 怒りっぽい、という言葉でやられてしまう~本来私たちはもっと閉じなければいけない

 

 人間の「人格」とは、家に例えたら、塀であったり、壁であったり、ドアであったり、窓であったりします。
 自分を守ってくれるために存在する。 その上で他社と交流する場(応接室であったり、玄関先であったり)を提供するものです。

 私たちは、成長する中で、その「家」を作り上げていく。

 しかもその家は、社会的な役割をまとって、「公的な建築物」としても機能するようにしていくことで、最後は完成します。

 
 荷物も収納があるから収まるべきところに収まるように、家が完成することで私たちの精神も収まっていきます。

 私たちは、本来、社会の中で他者と関わりながら、自分を開くのではなくて、まずしっかりと閉じる。
 塀を作る。壁を作り、ドアには鍵がかけられるようにする。

 それがなければ、生きていくことはできません。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 

 しかし、トラウマを負っていると、その反対のことをしてしまっている。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分の家の塀をなくそうとする。壁をなくそうとする、ドアには鍵をかけないでおこうとする。

 そのために、他者の影響を受けても跳ね返すことができない。言葉をそのまま鵜呑みにして、傷つくようになってしまう。

 それどころか、自分の家の敷地と他人の家の境界線すら曖昧になってしまいます。

 こうしたことの背景には、親などからのローカルルールの暗示があります。

 よくあるのが
 「あなたは素直じゃない」といったような言葉。

 人間というのは上記で見たように、「外に向かって閉じている」ことが普通です。 ドアには鍵がかかっているものです。

 明るい外交的な人ほど、意外にこだわりが強く頑固だったりします。

 それはそういうものです。
 

 しかし、「素直じゃない」という言葉を真に受けて、もともと曖昧だった自分の人格の輪郭をさらに弱めてしまう。
 閉じなければいけないのに、反対に開いてしまう方向へと舵を切ってしまう。

 「もっと素直に、もっと素直に」というふうに。

 そうするとどうなるかといえば、他人に容易に支配されてしまう。
 言葉への免疫がなくなってしまうのです。

 「あなたは素直じゃない」というのは、「私の言うことを聞け!」という、相手の支配欲求から来る言葉なのです。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 

 

 
 「あなたは怒りっぽい」という言葉も同様です。

 怒り、というのは私たちを守るためには必須の感情です。
 

 怒りがあることで、ローカルルール人格へと解離している相手の目を醒まさせたり、自分の自尊心を明確に示すことができます。

 健全な怒りというのは、私たちにはなくてはならないものです。

 しかし、そのなくてはならないものが「あなたは怒りっぽい(怒ってはならない)」という言葉を真に受けると、機能しなくなる。

 

 そうすると、ニセ成熟のような状態のまま、いい人なんだけど、なんか割と食ったようなイライラを抱えたまま、でも、自信がなく、罪悪感をもちながら生きていくようになります。

(参考)→「親からの暗示で、感情、怒りを封じられる。

 

 さらにややこしいことが、自分の生きづらさを解決しようとして、悩み解決の本、自己啓発の本とか、セミナーを受けると、「ワンネス」だとか、「心を開く」「怒らない訓練」といったように、「もっと開け」あるいは「反応するな」といったようなことが書かれてあったりします。

 

 これも中には役立つものもありますが、実はそうしたことを主唱する人自身の不全感であったり、支配欲からくる発言であることも多いものです。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 人格を完成するためには、「外に対してしっかりと閉じる」あるいは「怒りなどの感情を表現していくこと」が必要なのに、反対に「どんどん開く」あるいは「感情を抑制する」ようにさせられて、自分の家(人格)が完成せず、それによって他者が怖くなってしまうのです。

 

 ニセ成熟のような状態で、反対の方に反対の方に日々努力して苦しんでいる方はとてもたくさんいらっしゃいます。

(参考)→「ニセ成熟は「感情」が苦手

 

 反対のことを実行していると、一瞬は心地よくなっても、結局は生きづらさが増してしまうのです。

 

 

 

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「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 筆者は、趣味でテニスをしているのですが、先日、同じスクールの人に「(新型コロナの)ワクチンって打ちますか?」って尋ねられました。

 世間話ですから、真剣に答えるものでもないので「いや~どうですかね~。すぐには打たないんじゃないですか。」「自分が打たなくても、たくさん打つようになったら集団免疫ができますし・・・」
なんて、他愛もなく、適当に話をしたりしていました。

 

 ワクチンを打つ、打たないというのは、ニュースでも話題になっています。
もしかしたら、副反応が出たらどうしよう?といったことを考えるわけです。

 もちろん、何千、何万人もの人に治験して安全性をチェックしているわけですが、それでも、「大丈夫か?」となったり、「それだけの効果はあるのか?」とさまざまに検討がなされています。

みなさんも「新型コロナのワクチンができたら、自分なら打つかな?」なんて考えたことはあるのではないでしょうか。

 

 

 ちょっとかんたんな思考実験ですが、

 

 例えば、「新しいワクチンがあります。10人の人が効いたという“意見”を持っています。あなたは打ちますか?」と言ったらどうでしょうか。

 

 ほぼ100%の人が「絶対に打たないよ」というと思います。

「だってあまりにも人数が少ないし、しかも、人の“意見”でしょう?それだけでは信用できないよ」と。

 意見ではなく、なにか疫学的チェックが入っても、治験のサンプル数が10人ではほぼ打たないでしょう。

 100人ならどうか? 「打ってもいい」という勇気のある人が一人二人は出るかもしれませんが、多くの人は打たないでしょう。筆者も打ちません。

 

なぜでしょうか?

 当たり前のことですが、信頼性がないから。安全性が確保されていないから。
その人数では、効く、安全ということが事実であるとは到底いえないと考えるからです。

 

 効果がある、という事実もしくは信頼性がある程度確定するまでには、相当なチェックが必要とされることは言うまでもありません。

 

 人文科学、社会科学でも同様です。
 本当に事実とされるには、査読とか、様々にチェックされてはじめて「妥当」「確からしい」とされます。
 「私、見たんです」「そう思うんです」「10人の人がそう言っています」というだけでは、認められることはありません。
(参考)→「「事実」とは何か?その2」 

 

 

 

では、話題を変えまして、

 3人の人が
 「あなたが変だ。あなたは間違っている。あなたは嫌いだ」と言っていました。信用しますか? と尋ねられたらどうでしょうか?

 

おそらく、ガ~ンと頭を殴られてような感じがして、
「3人もの人が言っているんだったら、本当に違いない・・・」と思ったりしませんか。

 これが10人だったらほぼ確定。もう死刑宣告のような気がしてしまいます。

 

たとえ1人でも、

「他人が言っているんだったら、そうかも?」と思ったりしてしまいます。

 

 

 ワクチンだと、10人でも、100人でも「人の意見なんて信用できない」となりますが、自分に関する否定的な事柄になると、サンプル数が1であっても、信用してしまいます。

 

なぜなのでしょうか?

 

 これが、負の暗示の力、ローカルルールのもつ力によるものです。
ワクチンとか、他のことに置き換えたらもっともだ、ということでも、自分に関する事柄になると、重力が歪むがごとく、ぐにゃ~っと事実の基準も歪んでしまうのです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源

 

 自尊心が高い人だと、ここで、ショックを受けながらも、「いいかげんにしろ!」と怒ったり、振り返ってみて「う~ん、なんか肚落ちしない。なんかおかしい」となって、スルーすることができます。 自らの力で“治験”することができます。

 

 その際には、内面化した自分の仲間などを思い浮かべてその人達に頭の中でチェックを通してみるわけです。
 こうした治験、解毒のプロセスが「愛着」と呼ばれるものです。まさに心の中の免疫メカニズムです(アイヒマン実験で同様のことが指摘されています)。

 

 でも、愛着が不安定だと、あるいはトラウマを負っていると、このプロセスが機能しません。そのために、そのままその毒にやられてしまって自分を疑い、否定し、自尊心が低下していってしまうのです。 

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 他人の言葉をチェックなしに受け入れるなんてありえません。それは「素直」ではまったくない。「無防備(免疫不全)」といいます。「素直さ」とは、免疫システムをくぐり抜けて解毒された“後の”ものを消化吸収する機構のスムーズさのことです。ノーチェックで外から入ってきたものを受け入れることではない。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 世の中で、素直と言われたり、物分りが良い、と言われる人というのは、しっかりと免疫メカニズムが備わっている。ガードがしっかりある、ということです。だから、解毒して、必要なものは受け止めることができているだけです。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 

 「頑固な人」というのがいます。少々乱暴ではありますが、あれはあれで実は健全です。国境に未確認な飛行機が近づいたら発砲する、みたいなもので、それが普通。他人の話をチェックなしに受け入れるほうが、実ははるかに病的なのです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 

 でも、トラウマを負っている人は、ノーチェックで人の話を飲み込んでしまう。 

 何万人の治験をくぐり抜けたワクチンでも警戒するのに、人の話はそのまま信用して飲み込んでしまうことの異常さは繰り返すまでもありません。

 

 

 昔の王様などは、不老長寿のために水銀を飲んだり、今の時代から見たら毒でしかないものを服用していたなんてエピソードがあります。それと似たようなことがトラウマ。

 

 自分に自信がない、自分はだめだ、自分はおかしいという場合は、これまで生きてきた中で「他人の言葉」という、治験もされていないニセの薬を信じて飲まされてきた毒素にやられていると言っても良いかもしれません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 

 

 

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哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 今まで、Doing とBeingを分けること、Doing は不完全でみんなおかしいけど、Being は完全で大丈夫なんだよ、ということをお伝えさせていただいてきました。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 実は、そのことを論理的に証明した哲学者がいました。それが、イマニュエル・カントです。

 カントは「実践理性批判」「純粋理性批判」「判断力批判」などを記した哲学者です。

誰でも、名前は聞いたことがあるかと思います。

 

 

 哲学って何か?といえば、宗教に代わって神の存在証明を試みたり、人間は真理を知ることができるか(人間の認知の仕組みとは)? といったことを考える学問のことです。

 その中でもカントは、人間のDoingって完全なのか?ということを検討した人です。

 理性批判とはそいう意味です(理性≒Doing、批判≒吟味、検討する)。

 

 

 結論から言えば、「Doingは不完全でした」ということがわかりました。
 私たちの実感からすれば当たり前ですが、そこを論理的に証明してみせたわけです。 

 

 

 ただ、Doing がダメなら、人間は真理も何もわからず、グダグダなのか?となってしまいます。

 しかし、カントはDoing とBeing を分けて、Doingには限界があるけど、Being には限界はないよ、といったのです。

 

 

 近代に向かっていく上で、この証明はとても重要でした。
この裏付けがあることが、近代の社会を作る上での土台となったのです。

 Doingの不完全さと、Beingの限界のなさがあることで、Doingに集中できて、どんどんトライアンドエラーができる。
 
 失敗しても、それはBeingには影響しない。Doing と Being とが切り離された。まさに近代的なアグレッシブさを支えています。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 トラウマを負っていると、カントの言っていることの全く逆になります。

 自分のBeing は限界があるように感じて、一方で、Doingの完璧を求めてファインプレーを目指してガムシャラになって、自分を責めたり、他人にも憤る。
  
 そして、Doing とBeing は癒着して、不完全なDoingをみて、「ああ、自分はなんておかしな存在なんだ」と絶望してしまう。他者の中に幻想を見て支配されてしまいます。

(参考)→「Doingは誰しも、もれなく、おかしい

 

 

 カントは、さらに、限界のないBeingがDoingへと反映するためにどうすればいいか?ということも考えてくれています。

 それが、カントの有名な言葉で「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」というものです。

 定言命法と呼ばれるものです。

 簡単に言えば、「ローカルルールではなく、普遍的でパブリックなルールに沿って行動しろ」ということです。※

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 もっと意訳すると、パブリックなルールに沿うと人間は機能する。限界のないBeing が Doing にも現れるようになる(代表される)、というわけです。

 

 以前も書かせていただきましたが、人間はプライベートな空間では容易におかしくなります。反対にパブリックな空間では機能する存在です。
 人間とは社会的な動物で、社会を何かをそれぞれに代表する時、はじめて人として十全に生きていることを実感できるのです。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

※注:「ローカルルール」がなぜ「“ローカル”ルール」というのか? 

 「ブラックルール」でも、「ハラスメントルール」でもよさそうですが、特に「ローカル」とついているのは、「普遍的なルール」の反対ということです。ブラックルールとしていると、ローカルルールであっても一見まともなもの、良さそうなものは「良いルール」とされてしまいます。その場面で、ある人の都合ででっち上げたローカルなルールらしきものは、普遍的なもの(普遍的立法の原理)を代表しておらず、それ自体が他者に悪い影響がある、ということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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