すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 


 人の言っていることがすべて戯れ言 です。

 真に受ける必要はない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 これで言われてきた理不尽な言葉、自分への悪口、指摘もすべてローカルルールでしかない。

 他の人から見て立派な人でも、人間は容易に解離してしまうもの。

 


 すると、なんとなく思えるのは、

 「すべてが戯れ言なら、真実はないの??」

 という不安がよぎります。


 「そうです。真実はありません。」と答えると、価値相対主義になります。

 


 反対に、
 「真実はあります。他の人の言葉は戯れ言ですが、私の言葉は信じてください」と答えると、怪しげな宗教になってしまいます。

 


 では、どう考えればよいのか?

 

 この問題は、実は、デカルト以降、カント、ヘーゲルなどなど、錚々たる哲学者が取り組んできた問題でもあります。
 ヨーロッパでも、近世から近代にかけて「キリスト教の言っていることがもしかしたら戯れ言だったのでは??」という精神的な危機が訪れたからです。

 

 権威ある言葉もどうも戯れ言であった、という恐ろしい事態。

 ただ、人類の英知とは便利なもので、こうした難問にも答える知恵が見いだされてきました。

 

 


 宗教のようなこれが唯一の真実という答えはもちろんありませんが、
 実は、ちゃんと人間が安心して生きていく上での土台というのはあるのです。

 健康に生きている人がよって立つことのできる“普遍的な何か”というものが。

 

 

 まず、個々の人間の言葉には真実はありません。すべて戯れ言といって間違いがない。

   
 ただ、社会全体には、なにやら”真実”とでも呼びたくなるような普遍性のあるアイデアや感覚というものがどうやらある。

 


 例えば、世界の人々を魅了するような歌や、文学、絵画などは、そうした、普遍的な”何か”をアーティストが、あたかもシャーマンのように降ろしてきて表現したものです。

 わたしたちの身体的な感覚としても腑に落ちて、しっくりきて感動し、魅了される。

 

 
 そうした普遍的な“何か”のことを、プラトンは「イデア」と呼び、ヘーゲルは「歴史」「世界精神」、ルソーは「一般意志」などと呼んでします。
 (このブログの中では、それらを「常識」「社会通念」あるいは「パブリック(グローバルな)ルール」と表現してきました。)

 


 それらを目に見える形で表現することを「代表」といいます。

 
 “普遍的な何か”というのは、直接に表現することはなかなか難しい。

 
 作家や画家、作曲家といった人たちも、苦悶しながら、それを降ろそう(代表しよう)としています。

 

 民主主義では、世論調査や選挙を通じて一般意志を「代表」させようとしていますが、なかなかうまくいかず、「自分たちの気持ちがわかってもらえていない」と不満を持つ人も多い。

 

 科学などの専門的な知見もある意味、普遍的な“何か”を「代表」させる方法です。

 

 最近では、統計、AIを使って、“普遍的な何か”を表現しようという試みもあります。
 
 ※ルネサンス(近世)以降の西洋の取り組みというのは、半ばローカルルール化した宗教から離れ、“普遍的な何か”を自ら作り上げようとしてきた歴史とも言えるのです。

 

 個々の人間の言葉は戯れ言だ、というのは、AIやビッグデータで言えば、個別のデータには意味がない、ということと同じ意味です。

 

 アンケート調査でも、ひとりひとりの意見は意味がありません。逆に真に受けると惑わされたりします。

 

 ただ、それらを集計して、単なる合計ではなくその背後にある母集団、法則といったものを見出した際に、“普遍的な何か”に近づくことができます。

 


  
 個別データも意味がないように、個々の人間には嫉妬や支配欲、不全感と言った能動的なバイアスがかかります。つまり、意図的に相手をコントロールするために自分の言葉を使おうとするのです。

 それらが強く現れている状態を「ローカルルール人格」と呼びます。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 特に、私的環境では頻繁に現れます。真に受けるなんて危険極まりない。

 

 


 一方、公的な環境では、マシになります。

 なぜなら、公的環境では、上記で書いたような「代表」という機能が働くからです。
 
 人間は公的環境で、公的な役割・責任を背負うと、普遍的な何かを「代表」するという力が働きます。   

 例えば、仕事に没入しているとき「私」というものは背後に下がり、
 その職務で果たすべき機能を自分が表現している、という実感をわたしたちは感じます。
 
 さらに仕事に習熟し、没入していると、なにやら仕事の精神が自分に宿ったような、全体とつながって世界の一部になったような不思議な感覚になることがあります。

 こうした感覚が「代表」という状態です。

 


 そうしたときに発せられる言葉は、まだ信じることができます。


 専門家の言葉が信用に足ると思われているのは、専門知識や職業意識などが普遍性を代表してくれていると思うからです。 

 
 
 ただ、もちろん生身の人間ですから、ちょっと気を抜くとノイズも入りやすいです。
 公的な環境においてもそうです。
 専門家でも、専門領域の内輪の理屈を優先したり、過度に専門的すぎて普遍性から離れてしまうと「専門バカ」と呼ばれて、信頼されなくなります。
 
 だから、公的環境の言葉も真に受けすぎずに、できる範囲で都度吟味はします。

 


 でも私的領域に比べれば、かなりマシです。

 

 

 気をつけておかなければいけないのは、公的環境とはハコ物が揃っていれば成り立つものではないということ。学校、会社や職場という環境は実は、公私が曖昧です。
 なぜなら、組織に機能不全がない学校や会社はなく、機能不全な環境では、私的領域(ローカルルール)が生まれ、モラハラ、パワハラが横行し始めたりもするからです。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」

 

 

 以上は、理屈を整理したものですが、私達が現実に生きていく上においては、難しく考えなくても大丈夫です。

 世の中の「常識」や「社会通念」というのは、思っている以上に、信じるに足る“普遍的な何か”であります。
 特に、社会がバランスが取れて、多元性が保たれていれば、かなりの程度、普遍性を代表してくれています。

(参考)「常識、社会通念とつながる


 
 
 このように、わたしたちは、「常識」という名の“普遍的な何か”を拠り所にして生活をしています。


 常識を拠り所にできるためにはいくつかの条件があります。


 それは、
 ・健全な愛着が土台としてあること。
 ・そして反抗期を経て、自他の区別がついていること。
 ・社会の中で位置と役割(いわゆる仕事)を得て、社会の中で自己を解消していること。 
 ・さらに、睡眠、食事、運動が適切に満たされ、心身が安定していること。


 そうして、「常識」を拠り所にして違和感なく生きることができます。
 


 本来の親の養育や、社会の教育、というのも、“普遍的な何か”を、身近な大人が代表して伝える営みです。そうして、常識を伝えていくものです。決して、親の個人的な信念を伝えるためにあるのではない。
 健全な教育を受けていき、さらに、反抗期で一旦それを総否定することで、自我が形成されて、自分で再編成した「常識」を支えに社会に出ていく。
 さらに、職業など公的な役割を得ることで、“普遍的な何か”を代表する。
 それにより、ほんとうの意味で自己一致という状態に至ることができるのです。

(このような人格陶冶をヘーゲルは「教養(ビルドゥング)」と呼びました)

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」

 

 


 別に特別なことではなく、愛着に問題がない健康な人であれば、自然とできていることです。


  
 反対に、上記の条件に欠けがあると、生きづらさを感じたり、「ローカルルール」に巻き込まれたりしてしまうのです。

 つまり、私達が悩みや生きづらさを抱えていたりするのはこうしたことが背景にあるのです。トラウマとは”普遍的な何か”から切り離されている機能不全状態のこととも言えます。

 


 人の言葉はすべて戯れ言であって、真実はそこにはありません。
 (人の言葉はビックデータのための個別データとしてならかろうじて活用できるかもしれませんが)

 


 
 人の言葉というのは、戯れ言として聞き流していると、ローカルルールに巻き込まれずにスルーすることができます

 そうしていると、“普遍的な何か”を身体で感じることができるようになる。

 別に“真実”などという大げさなものではなく、「常識」といわれるようなもの。
 

 

 

 身体感覚で感じる“普遍的な何か”を拠り所にしながら、
 人の言葉は戯れとして適当に楽しむ。フリをしながら付き合う。
 そうして初めて人との一体感、つながりが生まれてきて、「気が合う」「一緒にいて楽しい」と感じられるようになる。


 人の話を真剣に耳と傾けていたときには「疎外感」「生きづらさ」を感じていたのに、
 ‘戯れ言”としていい加減に聞き流し始めると、楽しく感じられるようになる。

 
 マジメに人の中に‘真実”を追い求めていたときは、「絶望」を感じたり、自己啓発のグルの言葉でかりそめの癒やしを得ても満たされなかったのに、人の言葉はすべて戯れ言であり、世の中に真実はないとわかると、「代表」が機能し始め、普遍的な何かを感じることができるようになる。
(参考)→「「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。


 
 戯れ言とは、「戯れ(遊び)の言葉」ということ。
 戯れ言とわからなければ、人の言葉は楽しく感じることができないのです。

 

 このような感覚が、みなさんが悩みが解消した先にある、普通の世界なのかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 昔、会社で顧客のもとに打ち合わせに行ったときに、「人の話をよく聞くことが大事だ」と思っていた筆者は、一言一句漏らさないように話に耳を傾けていました。

 


 打ち合わせが終わって、帰りしなに、上司や先輩に、「先方がおっしゃっていたことは、~~ということですよね?」とたずねると、「いや、~~ということだよ」と自分が聞いたこととは違うことを言われたり、極端に言うと反対のことを言われたりしたことがしばしばありました。


 企業の打ち合わせでは、今後の方向性についてはっきりとは言わないこともあります。

 


 「前向きなのかな?」と思っていたら、「あれは断りの文句だ」とか、反対に「ネガティブかな?」と思っていたら、「あれは脈がある」といったように、言葉で表現されていることとは違うことも多い。

 上司たちはなぜかそれが読み取れていました。

 


 反対に、一言一句漏らさないように聞こうとしていた筆者の方はそれが読み取れずに、何が違うのか?と首をかしげることがありました。

 一生懸命聞こうとすればするほど、聞けなくなって、頭がボーッとしてきたり、眠くなってきたりする。それでとても悩んだことがあります。

 


 もちろん、経験の差、ということはあります。
文字の間を埋めたり、解釈の精度が違う、というようなことはある。

 

 ただ、実はそれだけではありません。
トラウマを解消して後に思うのは、「聞く」ということがトラウマを負っている人と健康な人とでは根本的に異なっているということ。

 

 


 それは、上司たちは、「聞き流して」聞いていたということです。


 聞き流して聞くことで、相手の真意や全体像が浮かび上がってきて、妥当な解釈を得ている。


 反対に、一言一句真に受けて聞くと、それができなくなる。


表面的な言葉に惑わされてしまう。

 (アニメも一枚一枚の画像にとらわれる人がいたら見れなくなります。見流すから動いて見える。)

 

 


 また、人間というのは、話をしている本人が話の真意を一番理解している、わけではありません。


 岡目八目で見れる、他者のほうが真意をつかめることは実は多い。

 


 当事者というのは、様々なことに悩んでいたり、迷っていたり、整理できていなかったりする。

 
 さらに、プライベートな環境では人間は容易に解離しておかしくなる。
悩みにとらわれているときもおかしくなっている状態。本来の自分ではなくなっている。


 そうしたときに話す言葉は、ローカルルールに呪縛されていて、その人の言葉ではない。


 だから、真に受けてもらっては困る。

 


 「それは本当の自分の言葉じゃないんだ!違うんだ!」と本来の自分は心のなかで思っていたりする。 

 

 まずは、表面の言葉はスルーして、適当に流してもらわなければ、真意はやりとりできない。

 

 


 特に、トラウマを負っている人は、養育環境で負った「人の話をよく聞け」というローカルルールの呪縛にかかっています。

ローカルルールとは、常識の殻をかぶった私的な情動、ニセルールのことです。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 表ではルールであることを語りながら、結局は、自分を大事にしてほしい、相手を支配したい、といったことからなされます。

 ローカルルールを刷り込むためには、自分の言葉には価値があると思わせなければならない。耳を傾けさせなければならない。
 

 

 そのために、自分の言動を神化する。

 


 「自分の言葉を大事に受け取れ」というメッセージを刷り込ませて、内面化させます。

 


 すると、刷り込まれた側のわたしたちは、いつの間にか、言葉を真に受けることが当たり前になってくる。そうしておいて、ローカルルールが入りやすいようにさせられている。

 


 その結果、わたしたちは、日常の戯れ言でも、全てが真実であるかのようにとらえて、一喜一憂し、傷ついて、振り回されたりする。

 


 プライベートで人との交流が楽しくなくなってくる。

 人との関わりが重く、おっくうになってくる。

 

 次第に、人見知りのようになってきて、関わるのがとても面倒に感じられるようになってきます。

 


 
  
 以前、居酒屋のトイレに「親父の小言」とかいう紙が貼ってありました。

昔の頑固親父の格言みたいなものです。

 その中で、「子どもの言うことは8,9聞くな」というのが確かありました。

 


 子どもの言っていることなんてほとんどが意味がないのだから聞き流せ、わがままに耳を傾けるな、といった意味なのだと思います。

 

 これは、子供だけではなく、実は大人でも同じです。


 「人の言っていることは8,9聞くな(というかすべて意味がない)」ということ。

 


 
 トラウマを負っている人から見ると、驚くような感じですが、実はこれが健康な人の、対人関係観だったりするのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルール人格はドロップさせようとすることもある。

 

 ローカルルール人格というのは、内面化されたローカルルールのことです。

 理不尽な親の価値観であったり、その言葉であったりを真に受けたり、それに対抗しようとした結果、内面化されてしまうのです。

 人間というのはモジュール(人格)の集合体ですので、ローカルルールは人格のように悪さをしてくる。

 否定的な考えを沸き立たせたり、はっきり言葉で聞こえてくるようにしたり、ということがおきます。

 

 ローカルルールの目的は、ローカルルールの延命ですから、本当にその方が良くなると困ります。そのために、様々な邪魔をします。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 大変面倒なことですが、病院の治療やカウンセリングそのものもやめさせようとする(ドロップさせる)ことがあります。

 速く治したいというふうに焦らせたり、
 もう治らないのではないか、と悲観にさせたり、
 治療者への不信をわたき立たせることもありますし、
 なぜかわけのわからない理由で治療そのものを辞めるように否定的な観念が湧いたり、幻聴が聞こえたり、といったことがおきます。

 辞めるのではなく、他の病院、治療者のところに行け、というふうに促されたりすることもあります。

 

 

 もちろん、治療が合わない、といった合理的な理由で病院を変える、治療そのものを辞めることはあります。

 先日、お笑い芸人の名倉潤さんがうつ病で休養されていましたが、途中治療が合わないので奥さんなどの判断で病院を変えてうまく行ったそうです。これはもちろん合理的な判断です。

 

 一方、症状が重いケースを中心に多くの場合はローカルルールの影響で非合理な理由で替えてしまって、治療の機会を失っているということも大変多い。

 

 

 ローカルルールによって引き起こされたものか、そうではないかを判断するのはなかなか難しいのですが、ただ、直感的に違和感を感じていたります。
 
 なんとなくおかしい、というようなこと。

 

 実は、治療も確かに進んでいて、まだ症状が残っているのに途中で辞めるという場合は、ほぼすべてのケースでローカルルール人格の影響があります。
  

 

 ただ、治療者の側のためらい(引き止めることはなかなかしづらい。)もうまく利用されて、ドロップしてしまうことが多いです。

 希死念慮など、重い症状を抱えている場合は、辞めないように誓約書を書いたり、といったことはありますが、そうではない場合、治療者の側もそれを妨げる、引き止めるということは通常しません。

 

 ローカルルールについてもっともっと解明、理解が進めば、治療者も自信をもって「それはローカルルールの影響だよ」といえますが、現状だと、ためらいが出たり、巻き込まれる恐れもあるので、なかなか難しい。

  

 ローカルルールの影響があることが確信を持ってわからないまま関わると、かえってローカルルールに巻き込まれる、ということもありますから、現状は引き止めずに、治療者は淡々と見送ることのほうが良いのかもしれません。

 クライアントさんの中の本来の人格がなんとか頑張ってくれることを期待するしかない。

 

 もし、後日なんらかの機会があれば、クライアントさんの身に何が起きていたかを説明する、というのが一番良いのかもしれません。

 

 

 短期的には、こうしたことの結果、少なからず悩みの解決が停滞したり先延ばしされたりしますので、ローカルルールにとってみれば、ローカルルールの延命工作が成功することになります。

 

 

 治療そのものを妨げるようなローカルルールが見られるケースというのは、重い愛着障害や、トラウマがあるケースが多いです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

    →「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分の存在をそのものをだめにするような観念や、将来への悲観、不信が内面化するくらいひどく理不尽な目に過去にあわれてきていた、ということです。

 

 虐待や愛着障害の興味深いところは、単にひどい目にあいました、ということでは終わらずに、必ず、そこで展開されたローカルルールを内面化してしまっているということ。
 そして、いまも親などへの恨みや怒りと同時に、そのローカルルールに健気に従い続けているということ。

 

 境界性パーソナリティ状態が典型ですが、愛着が傷ついているために、自己破壊的な行動をとってしまう。
ケースによっては、依存症といったことにつながったり、自殺企図ということをおこしたり、これも、ある意味(生きることからの)ドロップということになります。

 

 本人の意志ではなく、ローカルルール人格がニセの衝動を仕掛けてきていて、それに巻き込まれているということ。ローカルルール人格のうるささ、不快さから逃れるために問題行動を起こしてしまったりする。

 

 ドロップというのは、ローカルルールに従い続けているということを表す顕著な事象であるということなのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

「言葉には心を越えない~♪」というのは昔大ヒットした歌の歌詞です。

言葉には意味がないのよ、というのは昔から人間が感じていたことです。

 一方、言葉が最初にあった、というように言葉の価値の大きさもわたしたちは知っている。

 

カウンセリングでも、「傾聴」ということが重んじられるわけです。

では、本当の傾聴ってなんだろう?と考えたくなります。

 

 傾聴とは、鵜呑み、真に受けではありません。

 人間が解離しやすく、内的な人格が分かれているという性質を持つ以上、すべて真に受けることはありえません。発せられた言葉を吟味し、選別し、本来の人格の声を見つけること。それも治療者の役割と言えます。

 

 ハラスメントやローカルルールといったものを見るにつけて、強く思うのが、「日常の人間の言葉は本当に意味がない」ということです。

 

 なぜかといえば、繰り返しになりますが人間は容易に解離してしまう存在であり、おかしくなってしまうからです。
 これは誰でもそうです。

 とくに私的環境では簡単に人格スイッチしてしまう。 

 そして、私的な情動(不全感)をもとに、相手を支配しようとしたり、攻撃しようとして、おかしな発言をする。

 

 人間は、公的な環境で、公的な役割を背負ってはじめて理性的でいられる。
 実際に、古代ギリシャでは、公的な役割がなければ完全な人間ではない、と考えられていました。

 
 それは、私的な環境では人間がいかにおかしくなってしまうのか、ということを経験的にわかっていたからかもしれません。

 日常生活で人間は、夜中に食べたくもないラーメンを無性に食べたくなるくらい、本心というのはわからない存在。本心って一体何?と不思議に思います。
 

 言葉はもっといい加減。

 

 日常で発せられる言葉、とくに責任を負わない消費者という立場には、ローカルルールが頻繁に介入してきます。そのため、無駄な買い物をしたり、クレーマーになってみたり、おかしなことだらけ。

 

 臨床の現場でも、言葉を吟味せずに治療者がすべて真に受けては、クライアントさんにとっても危険で本来の人格とローカルルールからきたものとを、よほど吟味しないといけない。

 

 悩みを抱える、とはなにかといえば、ローカルルールを内面化した状態、と定義できます。

 

 
 例えば、クライアントさんが
 「仕事でミスをする人がどうしても許せない」と言ったとしたら、

 それは、「ミスをしてはいけない(ミスをする人は存在してはいけない)」という内面化したローカルルールから来た言葉だとわかります。

 

 その「ミスをしてはいけない」はどこから来るか?といえば、

 養育環境で親などが、イライラする自分の不全感を発散させるために感情を子どものぶつけることを正当化しようとして、「お前がミスをするからだ!」「ミスをしてはいけない、というのは常識だ。だからお前を叱責しているのだ(自分の私的感情からイライラしているのではありませんよ)」ということから始まり、

 それを「期待に応えなければ」と思う真面目な子ども(クライアントさん)が真に受けて、内面化し、忠実に実行してきた。

 そして、親のローカルルールに感染した「ローカルルール人格」が子ども(クライアントさん)の中に形成されます。

 
 そうして長い年月を経て、発した言葉が「仕事でミスをする人がどうしても許せない」ということ。

 

 そうなると、それはその方の本来の発言ではありません。ローカルルールに言わされている、ということです。
 ”ローカルルールの現れ”として捉える必要があります。

 
 そして、治療者が「それ、ローカルルールのようですね」と区分けしたり、本来の自分ではない、とあえて否定したりする必要がある。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 治療者が、まさか「傾聴が大事」なんて真に受けてしまっていたら、クライアントさんは良くならない。
 クライアントさんの本音は、「今私が話している言葉は本来の私ではなく、ローカルルールに言わされているんです~。誰か気づいて、助けて~」と思っているのですから。

 
  
 別の場面で、
 「治療者の言葉や態度が気に入らない」と言ったとしたら、それも内面化したローカルルールから来ている。
 まさか真に受けて、治療者が「態度を改めよう」なんていうことは全く必要ない。勘違いして、もし態度を改めたら、クライアントさんは余計にローカルルールに呪縛されてしまう。
 

 それも、「ローカルルールから来ているようですね」といって、区分けしてあげないといけない。

 

 ローカルルール人格というのはまさに、ウイルスによって、パソコンが乗っ取られているような状態です。社会学者の内藤朝雄氏の本でもいじめに加担した生徒の声が載っていますが、「何かそれ、うつっちゃうんです」という状態。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 だから、乗っ取られた状態を真に受けて「そうなんですね~」なんて傾聴で応じていてはいけない。

 しっかりと観察して、区別して、指摘して、ローカルルール人格というものの影響を明らかにしていかないといけない。
 それによって、クライアントさんも本来の自分に戻ることができるようになる。
 

 

 

 繰り返しになりますが、日常で発せられる言葉というのは本当に意味がない。
 

 冒頭に書きましたように、言葉の価値は本来大きいのですが、「言葉が尊い」という場合のそれは本来は「神の言葉」という意味。人間はそれを承るだけの存在だし、完全には理解できない。
 その言葉の価値を悪用しているのがローカルルールです。ニセの神様のようになって、言葉を弄んでいる。

 人間の言葉はすべて戯言です。

 

 公的な環境になると人間の言葉がかろうじて意味を持ってくるのは、それは公的な役割を通して「一般意志」をいくらか”代表”できるようになるから。
 一般意志とはルソーの概念ですが、社会の普遍的意志のことです。
 (普遍的意志は、近代以前は、シャーマンや聖職者が、神がかって降ろしたりしていました。占いなどもそうですが、なんとかして神の言葉を読み取ろうとしていたのです。)
 

 作家や歌手の言葉が感動を呼ぶのは、普遍的意志を降ろしてくるから。
 でも、それができるのは瞬きのような一瞬で、いつもではない。だから、しばしば薬物に手を出すようなアーティストも出てくる。

 

 一方、日常では「悪貨は良貨を駆逐する」というように、価値のない悪貨だらけの世界であることを知らなければならない。
 東大の安冨歩教授は「世の中はハラスメントでできている」といっています。ハラスメントの言葉だらけ。本当に価値のある言葉が埋もれている状態。

 

 目の前の貨幣(言葉)が本物か偽物かを吟味することをせずに、すべてを受け取らなければならない、という間違ったルールに従わされている。 

 

 

 「傾聴が大事」と思いこまさせられている人たちが、まさにハラスメントの犠牲者になっている。親やいじめっ子や、上司の盲言を真面目に受け止めさせられて、カウンセラー役をさせられてしまっている。
 

 

 反対に、健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしていたりします。

 元ソニーの社員が書いた本はまさにその様になっています。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

 やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、というのです。

 

 
 カウンセリングでも、本来大切なのは傾聴ではなく観察。

 治療者であれば、クライアントさんの様子を、よーく観察する。
 言葉は真に受けない。あくまで観察のための材料。基本的にはやり過ごして、聞き流さないといけない。

 良い料理人が目利きをするみたいに、素材を選り分ける。
 良い研究者やジャーナリストみたいに、証拠を吟味して、取捨選択をする。

 

 言葉が1000あれば、そのうち本来の言葉はかろうじて3つあるかないか、かもしれません。
 日常であれば、ほぼ0といってもいいくらい、言葉には意味がない。言葉は本来神のものですから。

 

 ローカルルール人格とはニセの神様になった状態のことです。
 (いじめを行っている人たちや、あおり運転の人たちも、まさに神のような全能感を持って他人を裁いている様が最近であれば動画で記録されています。)

 日常の言葉とは、その方の生育歴からくる雑多な感覚を目の前のものに投影してただ吐き出しているだけ。何も”代表”していない。

 
 悩みを抱えている人にとっても、こうしたこと知るのはとても大事。

 

 自分自身がローカルルールの影響から逃れるためにも、ですが、日常でハラスメントにあわないためにも、です。
 人が発する言葉にはすべて意味がないと知れば、「~~さんって嫌なところがあるよね」みたいな気になる意味深な言葉も、全く意味がないとスルーできるようになります。

 

 日常の言葉は戯れ言としてすべて聞き流す。言葉は何も表していない。
 (聞き流してはじめて本当のコミュニケーションが取れるようになります。)

 

 

 今までは理想化して、恐れていた人が、大したことがない存在であること、「解離しやすいおサルさん」でしかなく、話す言葉も意味深なだけの意味のない言葉であることがわかってきます。人に対する怖さがなくなってきます。

  
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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ローカルルール人格って本当にいるの?

 「ローカルルール人格って本当にいるの?」と疑問に思う人もいるかもしれません。

  ローカルルール人格というのは、心理学や社会学などでも明らかになっている事象をまとめて表現した臨床上の概念です。もちろん、実際に存在しますし、誰でも目で見て確認したことがあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 たとえば、「モラルハラスメントの加害者(いじめっ子、ハラッサー)」というものについて。モラハラは本当にあるのか?ということを考えてみます。

 仮に整理するために、

a)概念 + b)物理的な存在 + c)現象

 の3点セットがそろってはじめて、確実にわかる、ということであるとするならば、

a)概念    (モラルハラスメントという仮説で規定)
b)物理的な存在(加害者として物理的に存在していることを確認できる)
c)現象    (ハラスメント行為が目で見て確認できる)

 ということで、明らかに確認できます。

 いじめっ子という存在も、「いじめ」という概念があってはじめて明確になりますが、物理的に存在し、明らかにその行為をしていることを確認できます。

 ローカルルール人格はどうか?といえば、これもはっきり目で見て b)存在 と c)現象 を確認し、実際に接することができます。

 みなさんも自分の目でローカルルール人格を見たことがあります。

 一番わかりやすいのは、最近ドライブレコーダーやスマホの普及で撮られるようになった「あおり運転」の映像。

 あれがまさに「ローカルルール人格」
録画で証拠として撮られていますね。

a)概念    (ローカルルール人格という仮説で規定)
b)物理的な存在(映像で撮られている)
c)現象    (映像で撮られている)

 ということで疑う余地もない、ということですね。

 普段は人の良いおじさん、お姉さんが、車に乗ったら人が変わる、なんていうことはわたしたちも昔から知っていました。あれがローカルルール人格。

 職場の意地悪な人。DVするパートナーなんかもそうです。
物理的に確かに存在します。

 意地悪な行為も目で見て明らかに確認することができます。

(最近は、モラハラ、いじめの現場も音声、動画で残るようになりました。国会議員がローカルルール人格にスイッチして、秘書に「ハゲ~~!」といった記録のもそうですね。)

 心理学の概念や事象は目で確認しづらいものも多いですが、「ローカルルール人格」は多くの人がその目でその存在を知っています。

 (ただ、当事者、本人は自分がローカルルール人格にスイッチしていることがわからないことが多いです。あおり運転の加害者もしかりです。)

 筆者ももちろんローカルルール人格と直接接して話をしたことがあります。
あるときは、ローカルルール人格が暴れてカウンセリングルームの机を蹴られたこともあって、その証拠が今でもヘコミとなって残っています。

 ローカルルール人格とは、ローカルルールを内面化した内的要素のことです。
ローカルルールが伝染する、というのは社会学者などによって指摘されていることで、歴史的にも様々な事件で見られる現象です。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 最近起きた教師間のいじめなども、まさに異常な現象がおきるのは、ローカルルールというものが存在するからです。
保護者からは評判が良かったらしい先生がおかしくなってしまう、というのもこうしたことからです。

 人間は誰もが、人格が分かれている、というのは解離の研究や、性格の研究、脳科学の研究などでは当たり前に指摘されていることです。

(参考)→「解離性障害とは何か?本当の原因と治療のために大切な8つのこと)」

 わたしたちが使っているPCやスマホも、アプリやプログラムが複数動作していますが、わたしたちはまさにあのような感じです。

 人間の脳とは、社会的脳といって、複数のモジュール(ネットワーク)から成り立っているといわれています。

 アメリカの心理学者マイケル・S・ガザニガなどが提唱している仮説です。人間は一枚岩ではなくて、複数のネットワークがいつも並行して動いているような存在です。

 性格検査というものも科学的には根拠がないとされます。関係や場面によって現れる性格が異なるからです。
(社会心理学者が書いた「あなたはなぜ変われないのか 性格は「モード」で変わる」(ちくま文庫)に詳しいです。)

 複数のモジュールが常に動作しているのが人間というものの姿です。

 作家の平野啓一郎さんは、「私とは何か――「個人」から「分人」へ 」(講談社現代新書)という本を書いています。
私とは、一つの個人ではなく、分人の集まりであるということです。

 人間というのは、社会の規範を意識・無意識的に内面化して社会に適応していきます。”内面化”というのは頭で理解して、というレベルではなく、まさに「そのものになるように」「染まるように」適応していく。

 社会の規範というものが、本物の社会であればよいのですが、人間はしばしば、ローカルルールというニセの規範を生み出すことがある。
これも、人間が社会的な動物であることに由来します。

 社会的であることを悪用して、自分の不全感をごまかして、ローカルルールを生み出してしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 だから、いじめのような卑劣な現象が生じたり、ストレスがかかると常識的な人が急におかしくなって失礼なことを言い始めたりもする。

 ローカルルールも、頭で知識として格納されるのではなく、まさに染まるようにわたしたちに影響します。内面化されたものは、人格単位で適応し、内外に影響します。それが「ローカルルール人格」というものです。

 ローカルルール人格という存在を意識してみると、自分が被ってきた理不尽な事象がスッキリ解釈できたり、自分自身についても、それまで動かなかった悩みも改善が期待できたりする。

 例えば、多重人格の研究では、人格が変わると、体質も変わってしまうことが明らかになっています。
F・パトナム他「多重人格障害-その精神生理学的研究」(春秋社)

 人格が変わると、実際に薬の効きも変わったりする。薬には薬耐性など、体質的に効かない人がいる。

 だとすると、遺伝子コードが効かない、セラピーが効かない、という場合、人格がスイッチして体質を変えているとしたら・・?

 これまでいろいろのなことをしてみても良くならない、という方は、カリスマカウンセラーが「こんな新しい手法を考えました」と新しい方法を持ってきても、人格がスイッチして邪魔しているのなら、「何をしても効かないんです」ということになりかねない。

 上にも書きましたが、性格検査も、社会心理学では意味がないとされている。
性格もモードによって変わるためです。人格を一つとしていては、その人を捉えられないのです。

 そうであれば、セラピーも人格を一つ、としていては意味がなくなってしまうのかもしれない。まさにセラピーで扱うはずの心理や人格が場面場面で変わってしまうのですから。

 そうではなく、私たちは分人であること、「人格(のスイッチ)」ということそのものに注目してみたら、どうだろうか。

 もしかしたら、「効かない」ということの首根っこも押さえることができるのではないか? もっと、効くようにできるのではないか?

 ローカルルール人格に注目すると、そんな面白いこと(変なこと?)も考えられる。

 このように人格(ローカルルール人格)というものに着目してみると、たいへん便利ですし、皆さんの身の回りのさまざまな事象を捉えたり、難しい悩みを解決することに役立ちます。

 人間は単に”解離しやすいサル”であり、ローカルルールの中にいるからすごく巨大に見えていただけだ、そして、自分も弱く感じられていただけだ、ということがわかってきます。これまでは得体のしれない感じがしていた事象や人が怖くなくなってくる、なんだこんなものか、と感じられてきます。

 わたしたち人間は、現実や社会を適切に捉えることができれば、悩みを自然と修正する力がある、ということなのでしょう。「ローカルルール(人格)」という発見はそのためのとても便利な道具です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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