不登校を知る、私たちの生きづらさを考える~環境・身体・自己・実存の視点から

不登校について、近年、いろいろな知見が書籍などで出版されるようになっています。

おすすめの書籍の紹介とあわせて、そのポイントをメモしてみました。

その内容は、お子さんをお持ちの方もそうですが、大人の悩みや問題の理解にもとても役に立ちます。
実は、大人の事例の本を読むよりも子どもの事例のほうがより本質がわかることが多いです。

よろしければご覧ください。

  

まず、

不登校を捉えるためには、起こっている事象をフラットに捉える必要があります。

私たちが、起きている事象を不思議なもの、わけのわからないものと感じるときは、その前提を間違って捉えて、複雑化してしまっていることがよくあります。

例えば、間違った前提とは、
・子どもは大人とは違う心理を持っている
・さらに、(学校は行くのが当たり前なのに行かない、ということは)不登校になる子どもはよほど特殊な心理や事情を抱えている

といったようなことです。

多くの場合、簡単なことを捉え違いしているときほど、「深層心理」といったわけのわからないものに、原因を求めがちです。

反対に、

・子どもも大人とその心理は基本的に変わらない(成熟の有無はあります)
・学校は行くのが当たり前ではない(と考えてみる)
・不登校は、特殊な事由ではなく、(私たち大人も経験するような)不安などの積み重ねで生じる
・プラス、子ども、思春期に起きる問題が加わる
・「心の問題」ととらえすぎない

と置いてみると、かなりその様子は見えてきます。

 

最初に、

「・学校は行くのが当たり前」という観点を外して見ると、見通しは軽くなります。

例えば、大人の私も、長時間拘束される一日の研修などは、憂鬱になります。早く終わらないかな、とおもいます。

さらに、会場が混んでいて長テーブルに3人がけみたいなのは勘弁してほしい、と思います。

そんな感覚からすると、子どもの頃、あんな40人近くも生徒がいるギューギューの教室で、朝から5,6時間も授業を週5日など、よく受けていたものだ、と思います。
今だったら無理ですね。

 

そして、勉強が得意ならいいですが、そうではない子にとっては嫌な場所でしょう。
さらにここに体育、給食、そして友達付き合いなどが入ってきます。なかなかのハードルです。

例えば、私たちも、自分が関心のない趣味や習い事を無理やり受けろと言われたらどうでしょうか?

行くのが嫌になりますし、自分から参加している習い事でも、そこで参加者や講師から嫌なことを言われたり、変な参加者が現れたり、ということがあると、その習い事をやめようかな、と思ったりします。

昔から、ゴルフなどではマナーにやたらとうるさい人や、教えたがりな人がいて辟易する、といったことはよく言われてきました。
なので、最近は、テニスやフットサルなどのスポーツでも、過剰なコーチングやかかわりを禁止しているような場所もあります。

 

 

会社でも、嫌な上司や得意先などがいたら、億劫になりますし、実際にうつなどで会社を休んでしまうこともいまや珍しくありません。
(学校の先生自体が、何千人も休職しているくらいですから大変なものです)

子どもにとっては、
同級生から何かを言われたり、
学校の先生との相性であったり、
勉強や運動での得手不得手であったり、
学校に行くたくなくなるファクターはたくさんあるということです。

 

かつての時代、昭和、平成であれば、ここに「学校は行くものだ」という社会的なリアリティがあり、それを、多くの人が築いてきました。

紹介する書籍の中でも
例えば
「おばあちゃんからランドセル送られてくる」と言ったことから何から、そうしたものが社会的なリアリティを支えていたとされます。

このリアリティは功罪あります。
罪の部分は、本当に学校が合わない子どもや、個々の気質の多様性を抑圧してきた点、学校側や大人側の問題点を見ないようにしてきたこと、実存的な課題に向き合うことを妨げ、場合によっては、実存的課題に向き合っている子供を異常ととらえたり、といったようなことが起きてきました。

 

功の部分は、
「なんとなく行きたくない」といった層にとっては、登校の刺激、規範となってきました。

ですから、昭和の頃は、不登校はまれな問題であったとされます。

 

しかし、
気質の凸凹や個々の状況を尊重するという考え方の広まりや、選択肢の多様化もあり、「学校は行くものだ」というリアリティは、徐々に崩れてきました。

さらにリアリティの加速をさらに強めたのがコロナ禍です。

少し不調があれば休むということが日常のこととなり、もはや、休むことへのハードルは大きく下がってしまいました。

その結果、以前であればともかくも学校に行っていた「なんとなく行きたくない」といった層もなんとなく行かなくなるといったことが増え、理由を尋ねても、なんとなくとしか返ってこず、教師も保護者も、何が原因かもわからない状況が珍しいことではなくなりました。

こうした状況はとくに「令和型不登校」と呼ばれています。

 

原因がよくつかめないケースについて、その要因はケースにもよりますし、一概に論じるのは、難しいわけですが、冒頭に述べましたように、「学校は行くべきだ(ということは休むということはよほどの要因があるはずだ)」という前提を外してみれば、よくつかめなさの要因の一つはわかるかもしれません。

 

私たちも、日常の行動や買い物など、なんとなく気が乗らないためにやめることはあります。
義務や外的な制約がないものについては特にそうです。
本来人間とは「原因があって行動する」というモデルではないことは心理学や社会学でも指摘されていることです。言葉ではもっともな理由を言いますが、それは後づけであり、本当の理由ではありません。
それと学校に行かない、こととが同じでは?と考えてみれば、原因がよくつかめないということの謎がわかるのかもしれません。

 

桑島隆二氏は
ここに、絶対評価で子どもの成績に差をつけない、挫折や苦労を避けさせるような近年の教育の悪影響を指摘します。
本来は、勉強にもスポーツでも得手不得手があり、そこで自分の状態に直面し、徐々に自己を確立し、それぞれの人生で主人公となっていくはずのプロセスが妨げられ、特に高学年、中学以降に現実に直面して、一気に不登校に陥ってしまう、ということを大きな問題としています。

 

 

さらに、
諸富祥彦氏などは、そこに、「身体の変容」を見ます。

大人でも長い休日のあと会社に行く際に身体の重さを感じますが、特に成長段階の子ども場合、長く(1週間でも)休んでしまうと、本人が動きたくても動けなくなります。土のうを背負ったかのように、重い体を引きずって、というような状態になってしまい、自身でも何が何やらわからない体の変化に戸惑い、さらに言語化できずに周囲も困惑する、ということになると指摘をしています。

 

 

不登校は上記の状態を理解したうえで、子どもが感じる不安については把握し、理解が必要になります。

不登校自体は決して病気でも異常でもないということが大原則です。

 

また、安易に「心の問題」として捉えないことです。
心の問題と捉えると実際が見えなくなってしまいます。
心の問題というのは、要は、寄り添っているように見えて「特殊視」するような態度になってしまったり、言語化がまだ難しい状況や時期に、無理やり内面を掘り下げるようなおかしなことになりかねません。

そして、「身体の変容」が起こる前の初動での対応を目指し、仮に休んでも体を動かす、といったようなことが重要とされます。

 

また、
思春期以降の学年では思春期特有の問題が生じます。
思春期は、親や大人の影響から徐々に離れて自己を形成していく時期です。
進路の選択といった人生の岐路にも直面するようになります。
勉強も難しくなっていきますし、人間関係も複雑になっていきます。

 

それだけではなくからだも変化します。ホルモンといった内的なバランスも大きく変わります。
思春期以前の子どもの時期の自分の世界が崩れ、そのことに戸惑うといったケースも珍しくありません。

子どもによっては、自分にとって世界とはなにか?生きるとは何か? といった意味、実存的な不安、といったものにさいなまれるケースもあります。

こうしたプロセスが妨げられずに、自己を確立していくことが「人間の成長」であり、それは、決して、私たちが漠然と感じるようなお行儀のよいプロセスことが“正常(ノーマル)”ではないのでしょう。
子どものころにぎゃんぎゃん泣いたり、わがままを言って辟易したりもそうですが、思春期の頃の不安定さ、わけのわからなさも、世界が崩壊するような恐怖もそれこそが人間の成長なのだと思います。それを多くの文学などもテーマとしてきました。
(宮崎駿の「君たちはどう生きるか?」も一見するとわけのわからない世界です)

こうしたことも不登校の大きな要因の一つとなります。

 

思春期などでは、実存的な不安については、理解したうえで、それを本人がある種、現実と内面とは分けて割り切って学校に通う、というようなことを大人が支援することも必要だとします。
内面の問題は内面の問題として、現実は現実として、ということです。
(ケースにもよるのでしょう)

さらに、制度としては、指摘のあるような絶対評価を見直し、あらためて相対評価の中で、挫折や苦労ということを適度に妨げないこと、中学以降であれば、学びたい内容を選ぶような学校自体のあり方も必要では?とも指摘されます。

 

反対に、なんでも自分に合う場所でなければ適応できないということは現実には難しいため相性の合わなさは適当にやり過ごし、自分にとって相性のあるものに集中する相性のマネジメントも大切である、という専門家もいます。

 

ここまで、ざっとメモですが、

お子さんをお持ちで、なんとなくお子さんの「学校行きたくない」に困っているケースはもちろんですが、ご自身が生きづらさ、自己の喪失でお悩みの方も、ぜひお読みいただくとよろしいかと思います。

 

諸富祥彦「学校に行けない「からだ」」図書文化社
桑島隆二「脇役になれない子どもたちー不登校の正体ー」アメージング出版
神村栄一「令和型不登校 対応クイックマニュアル」ぎょうせい
千葉孝司「令和型不登校対応マップ」明治図書出版

 

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“自分の正しさ”ではない正しさは毒である。

  

 生きづらさ、悩みがなかなか良くならずに続く場合の要因としてあげられるのが、“正しさ”を守っている、ということがあります。

 
 本人の中では、葛藤があって、おかしいと気づいているのですが、過去に他者から引き受けさせられた規範、常識というものを守らされている。

 人間は、社会的な存在(ゾーオンポリティコン)と言われるように、社会的な規範とされるものを守ろうとします。私たちは「ルール」や「正しさ」にとても弱い。

 
 さらに、クライアントさんの多くは誠実で理知的ですから、より強く「ルール」や「正しさ」を守ろうとする。

 

 

 特に家庭の中で頭の良い子が、気が回る子が、能力の高い子が、家族の問題、親の言葉を背負い続けている、ということはよくあります。

 

 もちろん、学校、職場、パートナーとの関係である場合もあります。

 それらは、理不尽でしかないのですが、言葉の表面上は全く正しく見えるので、それに従い続けてしまっている。

 家族はおかしい人間でしかないのですが、社会が「親、家族は大切にしなければならない」「人には優しくしなければ」というからそれに従い続けている。

 あるいは、理不尽な人たちを反面教師にしている。

 頭ではわかっているが、“正しさ”から離れることができない。

 カウンセリングにサポートを求めた目的も「“正しさ”に従いながら、自分の苦しみを取り除きたい。悩みをなくしたい」というものであったりします。

 しかし、これは矛盾でしかありません。なぜなら、その方の生きづらさは、“正しさ”に従い続けていることで生じているからです。

 この“正しさ”に拘束され続けるというのは、簡単な問題ではありません。
理屈でわかっていても長く長く、しつこくしつこく続くのです。

 

 

 
 特に、“正しさ”への従属が、自分のアイデンティティとなっている場合は特にです。
(アイデンティティとは、例えば、親から愛される、とか、人から認められる、といったようなことです。)
 

 自分が属した共同体における評価軸があって、そのなかで散々な目に遭ってきた場合は、その評価軸はそのままに、「認められたい」「見返したい」となっている場合があります。

 例えば、

・家族、親族での価値観。その中で「お前はよい子だな」と言われたい。
・学歴。学歴に関連して、「立派だ」と言われたい。
・キャリア。「できる人だ」「すごい」と言われたい。
 (アカデミアの世界でのコンプレックスみたいなことに陥っている場合もあります。大学に就職したい、教授になりたいなど)
・パートナーとの関係。パートナーとの関係で、認められたい。
などなど

 こうしたことはすべて幻想ですが、これらに従い続ける。

 

 

 今の自分、これまでの自分はダメな自分だったが、自分は何とか改善して、成長して、認められたい、というような感覚です。

カウンセリング、トラウマケアがそのための手段として位置づけられている場合があります。

そうした際には、なかなかよくなりません。

 

 なぜなら、評価軸、価値観自体が、ローカルルール、他人の呪縛でしかないからです。

その中で、自分を変えようと努力するなんてことは意味のないことです。

 「でも、あんな社会から評価される一流企業自体がおかしな会社だなんて、信じられない」

 「あの強豪の部活の文化自体がおかしいだなんて、飲み込めない」

 「あの親族は、有名大学を出て立派に評価されてもいるし、その親族が間違っているなんて」

と思うかもしれません。

 さらに、
 「たしかに、そうした組織や親族の一部はおかしな人もいて、そうかもしれないけど、私は家族でも学校でも、会社でもいじめられた。だから、私がおかしい、私に問題があることは揺るがない」

 というのも間違いです。

 

 愛着が不安定であれば、ハラスメントが連鎖することはよくありますし、仮に安着が安定していても、偶然にハラスメントが重なることは珍しいことではありません。
 世の中は、ハラスメントだらけですから。

 歴史を紐解けば、国全体がおかしくなるなんて、普通にあります。

 ニュースを見れば、会社全体がおかしいなんて普通にあります。

 親族なんておかしなことだらけです。

 おかしくても、パフォーマンス(良い成績、よい評価、よい地位)を発揮したりもする。でも、それはおかしくないことの証明にはなりません。

 最近は、ゾンビ企業なんて言葉があったり、 おかしな企業が上場まで行くことがあるように、20~30年くらいなら、おかしなままでも、むしろおかしいほうがパフォーマンスが発揮できるものです。

 だから、結果が出ているから正しい、なんてこともない。

 

 
 こうした、経験や体験が偽装(偽装とは、自分に原因があるとされること)されてしまうことによって、“正しさ”は全く動かせない世の中の真理のように感じられてしまうのです。

 


 

 
 ここまでお話ししましたように、“正しさ”やそれに基づく基準というのは、私たちを苦しめるローカルルールを構成します。


 
 もちろん、それらは全く無視してよい幻想でしかありません。

しかし、幻想とわかってもなお、どうしてもそのことが頭に引っかかってしまう。

 
 この頭に引っかかってしまうという原因として、よくあることが、
「でも、やっぱり、他人に悪用されているとしても“正しさ”は正しいんでしょ?」という感覚です。

 ローカルルールの表面をコーティングしている“正しさ”が理屈上は正しいものが並んでいる。

 例えば、「人としてこうでなければならない」とか「家族は守らなければ」とか、あるいは、「自分で稼がなければならない」「頑張って努力しなければならない」など、“正しさ”とされるものは無限にあります。

 
 こうしたことがひっかかってしまって、否定できない。
なぜなら、“正しい”から。

 
 この“正しさ”を覆すことができない。

 もちろん
「家族にも悪い人がいるのはわかる」
「人には、いろいろな在り方があるのもわかる。その通り」
「頑張るだけが能ではない」「休むことも必要だ」

 といったように、“正しさ”を相対化するような考えは頭で浮かびます。これを応用したのが認知行動療法です。

 しかし、、でも、もとの“正しさ”は正しいという感覚は保持されたまま、どこか、すっきりしない。

 こうした際に、それから抜けるために、大切なことは何か?というと、
 
 “正しさ”とは実は毒である、もっと言えば、“自分の”正しさになっていないものはすべて毒だ という常識を知ることです。

 

 

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ハラスメント理解から見えてくる、私たちの可能性――不全感の連鎖を止めるということ

・「人文知」を活用(リバイバル)する必要性

 ここまで見てきたように、ハラスメントとは、単なる迷惑行為といったことにとどまらない、人間の本質にかかわるテーマであることがお分かりになるかと思います。

 もともと、ハラスメントとは、人間関係における呪縛や侵害に関する概念であり、人類学者グレゴリー・ベイトソンの「ダブルバインド」理論(“Toward a Theory of Schizophrenia,”論文)を源流とします。
 日本でも実際に東京大学の東洋文化研究所の安富歩教授や大阪大学の深尾葉子教授が「魂の脱植民地化」プロジェクトを立ち上げて研究されるなど、実は、「ハラスメント」は、人間という存在を解き明かす可能性を持つ「人文知のテーマ」と捉えられてきた歴史があります。

 モラル・ハラスメント自体は、フランスの精神科医イルゴイエンヌが提起したものですが、その背景には単なる迷惑行為や個人に対する侵害への問題提起を越えた深いの領域が控えているのです。

・知見の分断

 しかし、これらの知見は分断にさらされてきました。残念ながら、行政や労務におけるガイドラインを参照しても参考文献にこうした研究は全く登場しません。また、当事者を支援する専門家たちの書籍でも、こうした研究に触れられることは、ほとんどありません。
 メカニズムなど問題の本質に迫るような知見に関心がもたれずに、ただ外形的なガイドラインか、当事者の事例をまとめたようなものが通例になってしまっています。

 こうした知見の分断の背景には、心理臨床や精神医学におけるガイドライン依存や心理を問う機運の衰退など、簡単に言えば、事象の本質、メカニズムを深く掘り下げて定義する文化が失われていることがあるのかもしれません。

・人文知が求められる時代

 実は、今、大企業(マイクロソフト、グーグル、ソニー、サイバーエージェントなど)において、哲学や人類学を専攻していた人材を積極的に採用して、その知見を活用しようという流れが話題になっています。

AI時代を迎えて、大規模情報がコモディティ化し、AIが瞬時に情報を整理してしまえる中で、人間にできるより深い抽象的な思考、とくに「人文知」の活用が求められています。

 ここまで見てきたように、ハラスメントという事象を理解し、実際にそれによる適切な対処を知るためにも、あらためて「人文知」は威力を発揮することがわかります。

・不全感の連鎖を止めるために~ハラスメント理解からみえてくる私たちの可能性

 ハラスメントのメカニズムを知ることは、単に職場を改善するだけではありません。私たちが「自分らしくあること(実存)」を取り戻すプロセスそのものです。

 何よりも必要なのは、「不全感」について私たちが賢くなること。 従来のように被害者個人に対処の負担を押し付けるのではなく、社会全体が、不全感を隠した「ローカルルール」に気づき、「NO」と言うこと。 そして、相手の「存在(Being)」を尊重し、「行為(Doing)」に限定した言葉(Iメッセージ)でやり取りすることを当たり前としていくこと。

 「不全感」という目に見えない”悪”の存在を社会が自覚したとき、私たちはハラスメントの呪縛から逃れ、本当の意味での多様性や信頼を築くことができるはずです。

ハラスメントの理解から、私たちの新しい可能性が始まります。

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どこからどこまでがハラスメントか?――現場で使える判断の基準

 「どこまでが指導で、どこからがハラスメントか?」 この問いに、現在の法律やガイドラインは明確な答えを出せていません。その結果、現場では「ホワイトハラスメント」や「指導の放棄」という新たな混乱が起きています。

 本稿では、前回のメカニズム編(「「ハラスメント」とは、本当は何か?」)を受け、日常の現場で使える「どこからどこまでがハラスメントか?の真の基準」を提示してみたいとおもいます。

 ハラスメントのメカニズムを知ったうえで、実際に日常の現場でどこからがハラスメントで、どこからがそうではないのかを見ていきたいと思います。

1.ハラスメントの基準を知るための前提

 まず、「ハラスメントとは加害者が自分の不全感をかりそめに癒すために表面的な規範を道具に、私たちの社会性、善性を悪用する行為」という理解が基本です。

 そうした関わりをされると、された側も何とも言えない嫌な感覚がわいてきます。「不全感」という概念はあまりなじみがないかもしれませんがとても重要です。

・「不全感」の存在を知る

 人間の言動の背景には実は不全感が含まれていることがあり、それが人間関係や組織(家庭、学校、地域、職場など)をおかしくしているのだ、ということについて私たちは正しく認識する必要があります。これらを知っているだけでもハラスメントの基準についてかなりのことがわかります。

 そして、不全感をかりそめに癒すために他者の社会性、善性を悪用することがない関わりであれば、まずはそれはハラスメントではない、ということです。

2.行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分ける

 そのうえで基準をより明確にするために、行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分けてとらえてください。

 行為レベルの迷惑行為・ストレス事象のみの場合は厳密にはハラスメントには当たりません。

・口は悪いが不全感による侵害行為はないケース


 例えば「口は悪いのになんだか憎めない、嫌な感じがしない」というのはこうしたケースです。あるいは、熱意をもって叱咤するといった上司の姿などもある意味同様です。(※ただし、実務や現場における総論としては、できれば避けるべき行為として取り扱われます)。

・単なる迷惑行為であるケース

 最近、職場で人が立てる音が気になって困るということで「音ハラ」ということが言われるそうです。これも音を立てる人が不全感から意図して発しているのでないのであればハラスメントではなく、単なるストレス事案、迷惑行為となります。

 このように何でもハラスメントになるということを防ぎ、基準をもって切り分けていくことができます。

3.存在レベルに立ち入っているか否か?不全感の解消が意図されていないか?

・行為レベルのやり取りはハラスメントではない

 次に、社会におけるかかわりの原則は、他者の存在レベルの事柄には立ち入る(相手の人間性を云々するようなこと)権利は誰にもない、ということ。できることは行為レベルでのやり取りであるということです。特に仕事などでは、行為レベルでの改善や要求をやり取りできなければ仕事にならないため、それらについての関わりは基本ハラスメントではないことがわかります。

・疑われる行為は検証を行う

 行為レベルのやり取りの際に、暗に存在レベルへの侵害がないかどうか?については現場でも検証をすることです。
 例えば、不機嫌になりながら指示をするといった行為は、暗に「お前が自分を不機嫌にしている」というメッセージが込められている場合(かりそめに自分の不全感を癒そうとする行為)があり、ハラスメントになりえることがわかります。

・コミュニケーションは行為レベルに限定された「Iメッセージ」で行う

 もちろん人間ですから、仕事で迷惑をかけられて腹が立つことはあります。その際は必ず、「Iメッセージ(私は困ります。こう改善してください)」つまり、自分を主語にした1人称で、相手の存在を尊重したうえで、行為レベルに限定して発せられる必要があります。

・基準の共有と吟味~社員の多元性、多様性が尊重されているか?

 こうした基準の共有、吟味とコミュニケーションの配慮、必要に応じてトレーニングがされれば、会社で若手社員に恐る恐る接するといったような「ホワイトハラスメント」なるおかしな現象は生じなくなります。

・飲み会はハラスメントか?を吟味する

 例えば、飲み会についても、存在レベルでの侵害(来て当然だ、来ないやつはダメな奴、など)がないか?などは吟味し、必要性への了解と、相手の事情を配慮したうえで開催することが原則です。飲み会そのものや、誘うこと自体はストレスがあったとしても行為レベルのもので、基本的にはハラスメントではないと捉えます。

 仕事において、さらに突っ込んだやり取りが必要な場合、規範や責任についてやり取りが必要な際は、それが真に妥当なものか?不全感を隠した関わりではないか?といった吟味が必要になります。

・本来、職場とはどうあるべきなのか?

 「ブラック」「宗教的」といったような批判を受けるような職場は、経営者の不全感がそのまま企業理念や社員規範となっている場合があり、本来は、経営者個人の不全感は脱臭・昇華した理念にする必要があります。
 具体的には、パブリックルール(社会の良識)のフィルタを通し、社員の多元性、多様性を尊重したものである必要があります。マインドセットや意欲といったことが求められる場合でも、社員の人格Beingを云々するのではなく、あくまで行為レベルのものとして扱われるべきものです。

 さらにいえば、相互の尊重や信頼が十分に醸成されている職場では、「自分の不全感から他者の社会性、善性を悪用する」という危険性がなくなるため、トークストレート(率直な会話)ができるようになります。実際に実現している会社は存在します。そうした会社では、相手の立場などに臆せず、言うべきことを言う、しかし、イシューと人格は切り分けられている、ということが当たり前になっています。

 ここまで見たように、ハラスメントのメカニズムという視点があれば、これまでにない様々な応用やアイデアが涌いてきます。

ハラスメントの抑止と対処~メカニズムを理解、応用した環境づくり

 ハラスメントのメカニズムという視点を持つことによる応用やアイデアとは、たとえば職場においては、どのような職場づくりをすればハラスメントの防止に有効なのか?ハラスメントのメカニズムを理解した上での職場づくりはどうすればいいのか?すでに世の中で知られ、実施されている取り組みについてもその意味や効果が別の角度で見えてきます。

・ダイバーシティ、パーパスなど経営施策の本当の意味

 例えばダイバーシティ、パーパスといったことも、それらが経験的に有効というのは経営の観点からわかっていることですが、実は心理学やハラスメントに関する知見から捉えると、それらが、ハラスメントを抑止するために必要な多元性、多様性を醸成する効果があることがわかります(パーパスの策定などは、経営理念や文化に含まれる創業者や経営者個人の不全感を昇華させて、真にパブリックな会社にする効用もあります)。

 こうしたことは既存の経営書などにも書かれていない視点です。

 

・「ハラスメント」とは、私たちのあり方、他者とのかかわり方など根源的な問いを含む問題

ここまで見てきたように、ハラスメントか否かを判断するためには、行為(Doing)の問題なのか、存在(Being)への侵害が生じているのか、そして、その背景に「不全感の解消」という意図が含まれていないかを見極める視点が重要になります。

こうした整理があれば、「何でもハラスメントになる」という混乱や、「何も言えなくなる」という萎縮を避けることができます。

しかし同時に、ここまでの議論は、単なる職場ルールや対処法の話にとどまらないことにも気づかれるのではないでしょうか。

ハラスメントという現象は、人間がどのように他者と関わり、正しさや規範をどのように使ってしまう存在なのか、という、より根源的な問いを含んでいます。

次回は最後の回となりますが、ハラスメントを理解することで見えてくる私たちの可能性と、人文知を活用する意味について触れてみたいと思います。