ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 最近、用事があってたまたま書店で立ち読みしていたときにセラピーに関する本を手にとって、パラパラと見ていました。
 その本の中に、悩みの解決方法として「私を消す」みたいなことが書かれていました。

 今までだったらなんとも思わなかったと思うのですが、そのときは、あれ? となんとなく違和感を感じたのでした。

 これまでこのブログでもお伝えしてきましたように、社会的な動物としての人間は、自分としてログインすることで、その人らしく行きていくことが可能になっていくものですが、それなのに、なぜ「私を消す」必要があるのでしょう。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 むしろ、「私を出す」とか「私を示す」という方向にだとわかるのですが、なぜ逆方向に導こうとするのでしょうか。

 あらためて考えると、なぜか、セラピーは私たちをログインの方向ではなく、ログアウトしよう、ログアウトさせようとしがちだな、ということに考えが向きました。

 

 もしかしたら、これは、セラピーの創始者や治療者自身の生育歴からくる回避傾向や理想主義のゆえに、セラピーや解決策自体も回避的になっているのかも?ということがふと頭に浮かんだのです。

 

 

 以前も触れましたが、カウンセリングの創始者ロジャーズ自身も、ある哲学者との対談の中で、哲学者から痛いツッコミをされたことがあります。
 
非常に乱暴に訳せば、

 哲学者「ロジャーズさん、あなたは人間はただ本人の中で気づきを得ていくことでその人らしくなる、というふうにおっしゃっていますが、俗にまみれることもなく人として成熟することなどあると思っているのですか? 人は社会の中で生きる存在なのですよ?」と。
 
 それに対してロジャーズは有効に反論することができなかった、とされます。

(参考)→「私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

 ロジャーズ自身も、社会からログアウトして、ピュアに気づきを得ることで人は良くなっていくと捉えていた。

 当時の理想主義的なヒューマンポテンシャルムーブメントなどと相まって人気を博したわけです。

 

 
 確かに、支配されて苦しんでいる、ローカルルールに縛られて困っているという状況に対しては、一旦そこから「ログアウト」することで、支配から逃れる、ということは有効です。

 苦しい状況から脱する、避難する効果はあるかもしれません。

 
 冒頭に上げた「私を消す」というようなことも、試してみたら無事ログアウトできて「かなり効果がありました!」というふうになるかもしれません。

 

 

 ただ、問題はそこから。

 
 たとえば、最近、新型コロナで指摘されているのは、あまりに長期間にわたり感染症対策ということばかりをしすぎることで、かえって免疫を弱めないか?ということです。

 大人もそうですが、特に子どもは免疫トレーニングをするために、適度に菌やウイルスに罹って風邪をひいたりする必要があります。

 それなのに、アルコール消毒やマスクなどで過度に守られることでそのトレーニングができなくなってしまう。

 実際に対策が行き過ぎて、幼稚園などでは土遊びも禁じられてしまったり、というケースもあるようです。
 

 もともとうがいもうがい薬を使うと、喉にある自分を守る良い菌までもがやられてしまうので、普通の水道水のほうが良い、ということを聞いたことがあります。

 抗生物質なども使うとたしかに劇的な効果を示すことがありますが、良い菌までもが死滅して、下痢をしたり、耐性菌でかえって良くなかったりということは知られています。だから、使う場面は選ばないといけない。

 私たちは、重篤化するようなウイルスは避けながらも、生活の中のバイキンなどにまみれて生きていく必要があるようです。

(参考)→「俗にまみれる

 

 

 
 セラピーも、創始者たちがトラウマを抱えてきたためか、どこか回避傾向、ログアウト志向があるのかもしれません。
 だから、解決策自体もログアウト志向になりがち。それが効果を発揮してよくなるケースもありますが、そのあとに反動で行き詰まる恐れもある。

 たとえば、意識をどこか悪いものとし、無意識を良いものとして単純化して捉えてしまうのも、もしかしたら、ログアウト志向かもしれません。ユングなんかもそんなところがあるかもしれないですね。

 

 ログアウト志向の人というのは魅力的です。
 その人が夢を語ってくれて、魔法の杖をくれて、「どこか理想的なところに連れて行ってくれそう」に感じるから。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 しかし、実際は、「我」とか「自己」というなにやら泥臭く感じるものはものすごく大事です。

 

 たとえば、「心に聞く」などは、「自己対話」です。

 自分からログアウトして離れた高次の意識に答えを聞いているのではありません。
 ローカルルールなどに邪魔されてわからなくなっている「我」「私」「自己」というものを取り出す、ログインする、というところに本来のポイントがあります。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 

 ローカルルールから逃れるために一時的にログアウト、ログオフすることは必要ですが、本来の自分のIDでログインする視点がないと、いつまでたっても、イマイチ感が出てスッキリせず、社会に中でうまく生きていくということができなくなる。
 

 たとえば、先日の記事のように、失礼なことを言われたらジローラモさんみたいに対応しようと考えるのはログイン志向で、その場では何もせず相手の射程範囲外で言葉を唱えてしらずしらずのうちに相手の態度を変えよう、キレイに済まそうというのはログアウト志向といえるかもしれません。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 
 精神科医の中井久夫の本に「世に棲む患者」というタイトルのエッセイがありますが、まさに私たちは診察室やカウンセリングルームの中でもなく世に棲んでいる。

 
 医師の経験談でよく出てくるエピソードとして、「最近来なくなった患者に久しぶりに再会したら、仕事をしていて、結婚をしていたりして驚いた」ということがあります。
 医師から見てもなかなか良くならず大丈夫かなかな?といったようなケースでも、気がつくと、思いがけなく社会の中でしなやかに生きていたりする。

 名人とされるような治療者はログイン志向で、ログインして生きることも含めて目配せがあるのかもしれません。

 

 もちろん、いきなり実生活でうまく行かないから、診察室やカウンセリングルームがトレーニングの場として求められています。そこでは、ログアウトしたあとにはログインできるようにトレーニングしてもらう。

 従来のセラピーにおいて、ある程度良くなるけれども、なぜか人の中ではうまくやり取りができない、社会の中で生きていくことがいま一歩できない、というようなイマイチ感の由来はもしかしたら、そのログアウト志向にあるのかもしれません。

 そして、ログインするっていうことはこれからのセラピーにはとても大切なポイントかも、ということをふと書店で本を手にとったときに感じたのでした。
  

 

 

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もっとセルフィッシュ(我)であって良い。

 

 少し前に本を読んでいると、昔、漫画家の水木しげるの事務所で働いていたことがある人が、水木しげるについてのエピソードを語っているのを目にしました。

 その方いわく、水木しげるは妖怪などは全く信じていなかったそうです。

 漫画家になってからも、散歩で墓地などにいくと、途中で墓石に立ち小便をして帰ってくるような感じだったそうです。

 バチが当たるとかそんな事は全く考えていなかったということですね。

 
 極端な例かもしれませんが、でも、俗の世界で生きる人間としては、そのくらいの感覚はまっとうではないかな、と思います。

 

 それに引き換え、神社に入るときは鳥居を迂回したり、参拝の仕方を妙に気にしたり、いつからこんな事を気にするようになったのだ、と筆者もふと自分を振り返ってみました。

 トラウマを負っていると、自分の努力が空回りした結果、スピリチュアルなルートで迂回しようとするようになる、ということはこれまでに触れたことがあります。

 あまりにもうまくいかなくなると、そんなものにも頼りたくなる、という感覚です。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 聖の領域というのは、本来は社会の周縁にあるものです。
 だから、日常では必要がない。

 そこに頼ってみても、うまく機能しない。
 頼ると裏切られたりする。

 聖の領域は、祭りのときだけか、命の危機とか、にっちもさっちもいかない、というときや最晩年に関わるようなもの。
 (水木しげるというと、太平洋戦争では南方に送られて、そこでマラリアに罹ってジャングルをさまよった挙げ句、ぬり壁みたいなものに出会ったエピソードを自伝で見たことがありますが、そんな経験をしても、スピリチュアルな方向には行かなかったということですね。)

 

 日常では、自分というものでログインして生きていくのですから、水木しげるほど極端ではないけども、妖怪や神様なんているものか、自分こそ主人公だ、というくらいのある意味どこか罰当たりなセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)な感覚でちょうどよくて、そのくらいでないと、うまく自分というものは立ち上がらない。

 もちろん、そのセルフィッシュさは、発達の過程で成熟していきます。
 特に、「しごと」をすることで、社会の中での「位置と役割」を得ることで、丸くなって、公的人格(にんげん)となっていきます。
(参考)本当の自分は、「公的人格」の中にある」 

 

 セルフィッシュな私的な人間(我)のままでは人としては完成していないのですが、素材としては必要ということです。

(参考)→「「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 

 トラウマを負っていると、良い人間という“側(がわ)”“殻”だけをもってきて生きていますが、その中を埋めるセルフィッシュな素材(我)がないために、うまくログインができないまま生きているのです。
 (それどころか、他人の我(ローカルルール)を自分に詰め込んで、膨張して生きていたりします。)

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 俗の世界で生きているのであれば、仮にスピリチュアルなものを利用する際も、戯れとしてかあるいは功利主義的に利用するものです。

 

 

 事実、日本史などを見てもそうで、邪馬台国からヤマト王権や律令国家、王朝国家、武家政権などなど、スピリチュアルなものは、功利主義的に選別されてきました。
  
 力のない呪術や宗教はどんどんと力を失って、捨てられていったのです。

 ある時期の(室町時代頃?)そうした転換点を描いた作品が宮崎駿の「もののけ姫」だと言われています。
 力のない古い神様は人間に殺されていったのです。

 

 

 実際の社会で役に立たなければ廃れていく。人間が主体でシビアに選別がなされてきていく。
 現代でも、それが進んでいて、傍からは盛んに見えるイスラム圏でさえ宗教の力はいまも低下していっているそうです。
 
 
 俗に生きる人間としてはそれで良くて、自分を主体にして、「役に立つの?どうなの?」という感覚が必要です。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 例えば、手首にパワーストーンをつけたりしてもよいですが、それに負けて、恐れを持ってつけているのではなく、役に立つと自分で選んだからつけているんだ、という主体的な感覚が大切。役に立たなければあっさり捨てる。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 水木しげるみたいに、墓に立ち小便すると聞くと、トラウマを負った人間からすると、「バチが当たるかも?」とか、「嫌なものを引き寄せたらどうしよう?」とか、「そんなところで立ち小便をする人間にだけはなりたくない」とか思ったりしてしまいます。

 

 しかし、私たちは、目に見えないものの力を恐れすぎています。
俗の中にもそこはかとなく聖を感じるといった健全なあり方ではなく、ただただそれに負けている。振り回されている。

 そのことが、まわりまわって、人の言葉に振り回されて、真に受けて、人にやられるということになるのです。
 以前の記事ではないですが、失礼なことをされたら「殴ろうか?」でよい。

 「殴ろうか?」というのと、立ち小便することには根底でどこか通じるものがあります。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 目に見えないものを感じたり、キレイに生きようとしたりというのは、人生のずーっと先の話で、本来私たちは、もっともっとセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)で良いのです。

 

 

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0.01以下!~眼の前の人やものからはほんのちょっとしか得られない。

 

  昔、ドラゴンボールで、「元気玉」という技がありました。

 世界のみんなからほんのちょっとずつ元気を分けてもらって、大きなボールを作って、それで敵を倒す、というもの。

 それぞれからはほんのちょっとずつ元気をもらうだけなのであげた側もあげたことにも気が付かない。

 少しずつの力ですが、まとまると最強の敵も倒すようなものになる必殺技です。

 ただ、それぞれからは気づかないくらいちょっとずつ、というところがミソです。

 

 

 実は私たちのBeing(存在)もそのような構造でできています。

 目の前にある人や物事(仕事とか趣味)からは、ほんのちょっとしかBeingを満たすものは得られない。

 100が満タンだとしたら、最大でも0.01くらいしか得られない。

 それは、親であろうと、家族であろうと、恋人であろうと、教師であろうと、治療者であろうと。  
 
 
 だから、日常では、目の前からは、気づかない程度の充足しか得られないまま過ごします。

(参考)→「一つのモノや人、コトからはすべては得られない。

 

 

 どうしてそれで満足できるかといえば、生育歴の中で基本的な充足が完了する状態になっているからです。
 それが「愛着」というもので、内燃のサイクルである程度満たせるようになっているから。
 
 だから、Being とDoing が分離できていて、Doingのやり取りに集中することができている。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 
 しかし、Beingを内燃的に充足できる体制にないとどうなるかといえば、目の前の人や物から10、20、場合によっては100の充足を得ようとしてこだわってしまう。

 本来は、0.01しかもらえないことがわからずに、「なんで0.01なんだ!? 対応が悪い!大事にされていない!」といって、怒ってしまう。

 自分が否定されたように、負けたように感じてしまうのを防ぐために食い下がってしまう。

 相手を非難して巻き込んで、なんとか10、20を得ようとする。

 しかし、実際にはそんなにたくさんのものは得られない。

(参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 さらに、困ったことに、Beingの受容の閾値が高い状態に設定されているので、せっかくもらった0.01以下のものをうまく吸収することができない。

そうして、余計に飢餓感を感じてしまうのです。

「愛着障害とは愛着が得られないことではなく、受け取れないこと」といわれますが、まさにそのような状態になってしまいます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 健康な状態では、Being とDoing が分離している、ということをお伝えしたことがありますが、上に見ましたように、それは世界の構造的にもそのようになっている、ということです。

 日常では、ほんのちょっとのBeingしかえられないのですから、一体であると捉えていると世の中の実際と適合しなくなる。
 日常のDoingに集中することができなくなります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」 

 

 
 最大でも0.01しか得られないと知っておくと、世の中や、普段関わる人に落胆がなくなります。まあ、こんなもんだな、と思える。すると、閾値が下がって、愛着に対する感覚が適正なものになってきます。
  

 また、こちらから人と接する場合の感覚も変わってきます。

 今までは、Beingを20、30も与えないと見捨てられると思っていて、0.01しか与えられない自分を責めたり、こだわっていたのが、誰でも0.01程度しか与えられないんだ、とわかれば、もっと軽く接することができるようになる。
 自他の区別がついて、ドライに接することができるようになります。

(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 反対に、なにか失敗したとしても、それは最大でも0.01分のBeingを失うことでしかない。

 だから、気にせずにまたチャレンジしていけばいい、となっていく。 

 
 つまり、日常では、Being というのは意識に昇ってくることはないということです。日常は、ほぼDoingの世界であるということ。

 

 Being はなにかじんわりと感じるもので、強く感じられるものではそもそもありません。

 愛着障害の回復というのはこうした世の中のしくみがわかることでもあり、心身のBeing受容体が適切な閾値に戻ることでもあります。

 

 

 

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 

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自尊心とはどういうものか?

 

 先日テレビのバラエティ番組を見ていました。

 その番組では、ドッキリで、マネージャーがある芸人のケンカネタのマネをして、ケンカのフリをして、仲裁に入った仕掛けられた芸能人に失礼なことを言って反応を見る、という内容のものでした。

 いくつかのタレントにそれを試して放送していましたが、その中の一人にイタリア人タレントのパンツェッタ・ジローラモさんがいました。

 

 ジローラモさんが、仕掛け人のマネージャー2人がケンカをしているところに止めに入ったところ、仕掛け人のマネージャーが「うるせえなぁ! お前、日本でのイタリア人のイメージめちゃくちゃ下げてるぞ」と暴言を吐きます。
 すると、ジローラモさんが、「殴ろうか?」と一歩前に踏み出して詰め寄ったのです。

 視聴者も、大丈夫か?とドキッとする場面ですよね。

 

 筆者はそれを見てて、「なるほど。自尊心っていうのはこういうものだよね」と思いました。

 

 

 もし、トラウマを負った人ならどう反応したでしょうか?

 「いや、もしかしたらそういうところがあるかも?」とか、
 「自分でもうすうす思っていたことがバレた」とか、

 

 あと、
 「こういう時でも、優しい人、理性的な人でいなければならない」

 などと考えて、
 絶句(フリーズ)して、反応できないかもしれません。
 言葉が出てこなかったりする。
 
 というか、言葉の内容を真に受けて、反省したりしてしまうのです。

 さらに、以前の記事でも見たような「加害強迫」みたいなものもあり、怒って相手を傷つけることを恐れたりすることもあります。

(参考)→「加害恐怖(強迫)

 

 しかし、ジローラモさんは、「殴ろうか?(なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ?)」と詰め寄ったのです。

 これは“正しい(ふさわしい)”反応です。

 

 

 「自尊心」っていうと、自己啓発や心理の本などを読めば、スマートに、理性的に返す方法が書かれていますが、おそらく、そんなことでは自尊心は身につかない。

 相手の言い分にも耳を傾けて、それに対して、理性的に応対して、なんていうことは生き物の姿としておかしい。

 

 例えば、免疫システムなどはわかりやすいですが、外から入ってきたバイキンは、免疫細胞が戦って排除しにいきます。

 まずは、バイキンを受け取って・・・なんていうことはしない。
 そんなことをしていたらやられてしまうかもしれません。

 スマートに理性的に、となると発せられた戯言に巻き込まれやすくなりますし、自分には反撃する資格があるのか?といった余計なことを考えて、反応できなくなる。

 

 被害を受けた側が「自分に訴える資格があるのか?」なんて通常考えない。
 加害者の罪と、被害者の側の資格とは全く関係しない。 
 こちらがどんな人間であっても、相手がおかしなことをしたら「おかしいだろ!」というのが本来です。

 自尊心に根拠や資格など要らない。

 「自尊心」というのは本来はこうしたもののはずなのです。

 

 

 もちろん、実際の現場では、例えば会社であれば相手が上司、お客さんであることがありますから、「殴ろうか!」とは言えない場面のほうが多いものです。当然、やんわりとした言い方になります。
 しかし、内心では、「なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ?」という気持ちを持っていることが自然です。
 
 その内心が醸す雰囲気が、「この人は無碍にできないな?」とか、「侵し難いな」と相手に思わせ、それが相手のローカルルールを冷やして、まともに戻す作用があるのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 いわゆる理性的な対応というのは、2階以上の「応用技」。
 基本は、その土台に「殴ろうか?」といったような意識が必要です。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 それがあるから、応用技にも魂が入ってくる。

 

 冷静にスマートに返せる人、人格者と言われるような人も、それは表面のことで、土台には、「殴ろうか?(なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ?)」というものが必ずあります。

 だから世の中で人望のある人、まとめ役の人ほど、怒りっぽかったり、怖さも持っているものです。

 

 

 その上でなら、具体的な反応の仕方は無数にあります。
 「わ、ひどいこといいますね」といったような反応をしたり、表面的には「そうですよね~」と自虐的になりながら内心では全くそんなこと思ってない、とか。

 

 

 トラウマを負っているということは、こうしたアタリマエのことに対して、因縁をつけられている状態。
 ある意味マインドコントロールを受けている状態。
 「あなたなんかにそんな事を言う権利があるはずがない」とか、
 「良い子ならば反撃する権利があるが、根本的に悪い子だからそれはできない」といったもの。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 トラウマで苦しんでいる人は、ものすごい一生懸命、頭の中で複雑な連立方程式を解き明かすがごとく、戯言でしかない相手の言葉、理屈を何年もかけて考え続けていたりします。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 健康な人から見たら、「なんでそんな事考えないといけないの?」と言われてしまうような状態です。
 (「嫌だ!って言ってもう会わなければいのに」「もう縁を切ればいいんじゃない?」と)

  
 さらに、そうした因縁を土台にした上で、“反面教師”“解決策”“理想”みたいものでニセ成熟になっていたりする。

(参考)→「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 

 「自尊心を高める方法」みたいな心理の本、自己啓発の本というのは、そのニセ成熟の上に、さらにニセの成熟をかさねるようなものになってしまうために、真に自尊心を回復させることにならないのです。
 人工的なテクニックで1階部分を仮設にしておいて、ログインしないままになんとか相手をコントロールできないか?というものだからです。それをしているといつまでたってもログインできない。

(参考)→「ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 

 今回取り上げた、ジローラモさんの反応っていうのは、(もちろんバラエティ番組のちょっと極端な例ではありますが、)自尊心ってどんなものかを知る上ではわかりやすいものかと思います。
  
  
 自尊心とは、根拠のないものです。
 ただ、存在Beingとしてあること自体が、根拠になります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 だから、免疫システムのように、内心が理由もなくサッと反撃の体制になるのが正しい。
 

 ちなみに、番組では、ジローラモさんが、殴ることなく、マネージャーをフォローして、種明かしをされて事なきを得ていました。
 

 

 

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“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 以前にも書いたことがありますが、筆者も、両親が商売していた関係もあって夫婦喧嘩が多かったです。

 自営業だと職場と家庭との境界が曖昧ですから、職場の問題がそのまま持ち込まれて家庭内でも喧嘩になってしまいます。

 そうしたストレスを感じていたので、子どもの頃はよく怒った人の顔が出てくる悪夢を見ていました。

 当時のストレスはものすごかったんじゃないかな、とおもいます。

 

 

 さらに、社長である父と会長である祖父とが、税理士のおじさんを挟んで結論の出ない口論をしているのもよくありました。

 あと、親の兄弟が来ると、兄弟同士でごちゃごちゃとした話し合いになる。
  

 そういう事を見て「こういうふうにはなるまい」という“反面教師”にしたのだと思います。

 なので、本来おしゃべりで活発なはずが、成長するにつれて言葉が重くなっていきました。

 

 

 さらに、以前も書きましたように親戚のお兄さんから嫌われている、と伝えられたショックから、気楽にしゃべるということを封印してしまうようになりました。
 それは、子供の私がおしゃべりだから嫌われたのではないか?と父から聞かされたためです。

(参考)→「他者の視点は神の視点ではない。

 気楽にしゃべるということをしない、という意識的な“解決策”を持ってくることで、同じような目に合わないように、嫌われないようにしてきた。

 そうすると言葉がとても重くなる。
 
 相手の感情に感情で反論する、ということをしなくなる。

 本来だったら、サッと感情で対応して跳ね返すところを跳ね返せなくなる。
 
 運動神経で話すのではなく、頭で会話をするようになります。

 

 

 さらに、うまく人と付き合えなくなった自分を変えようとして、より良い自分を目指して、“理想”の人間像みたいなものを想定してそのように生きようとします。

 「寛容な人」
 「理性的な人」
 「物分りが良い人」「理解力がある人」
 「感情的にならない人」
 「優しい人」

 といったようなもの。

 

 

 すると、それらが連立方程式の一つの式となって重くのしかかるようになります。 
  
 シンプルに対応すればよい場面で、上に書いた式を考慮に入れることになります。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 すると、対応できなくなる。
 

 例えば、失礼な言葉をかけられたら、「失礼ですね!」とサッと言い返せえばいいのに、

 まず“理想”という基準を考慮に入れます(「ここで反応したら、“感情的な人”になってしまう」「“理性的な人”であるためには、クールに対応しないと」)。

 さらに、上に書いたような“反面教師”も頭をよぎります(「あんな、おかしな大人たちにはなりたくない」)。 

 さらにさらに、過去に負ったトラウマ体験から“解決策”がよぎります(「もう、直感的に発言するのはやめよう」)。
 
 
 これらすべてを整合する行動を取ろうとして、すまし顔で冷静を装うような反応になって、自然な人間の反応にはならず、結局、相手にやられっぱなしになるのです。

 さっと直感的に言い返してしまえば、状況は沈静化するのに、それができなくなるのです。 
 

 

 映画「シン・ゴジラ」で、国が滅ぶかもしれないような非常事態にも関わらず、総理や政治家たちが、憲法や法律との整合性などで判断が遅れたりするシーンがありましたが、どこか似ています。
 あれは政治の難しい意思決定ですが、トラウマを負った人は、そんな複雑な意思決定のプロセスを平和な日常でも行い続けています。

 

 こうした“反面教師”“解決策”“理想”といったことを上から定立させることの一番の問題は、主権がなくなってしまうということです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 
 結果、自分というものがなくなってしまう。
 なくなってしまうどころか、他人のローカルルール上で生きるようになってしまう。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 たとえば、“反面教師”によって、自分がなりたくなりとおもっていた親とは真逆な人間になっているかと思ったらそうではなく、結局親にとらわれている。
 さらには、追い込まれると親と同じ行動や考えをしてしまっていることに気づいたりする。

 
 親が持つみたいなネガティブな感情は自分にはないと思っていたら、ベターッと拭えない感情の存在に気づいて愕然としたりする。

 つまり、他人のIDでログインさせられているだけだったりするのです。

 (参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 この“反面教師”“解決策”“理想”はなかなかやっかいで、それがコンクリートの壁のように主権を取り戻すことを阻んだりします。

 スポーツなどにおける癖、それまでのフォームみたいなもので、それが次に進むことを邪魔してしまう。

 自分のエゴ(私)から出発して、他者の価値観は一旦否定して、自分のものに翻訳し直して、さらに社会での位置と役割を得て、公的人格に昇華されて初めて自分らしく生きていくことができます。

 
 人工的に“反面教師”“解決策”“理想”を持ってきてもうまくいくことは絶対にありません。
   

 

 

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