生活にかかわる基本的な事柄について、奥行きのある知識や判断の軸を持つ

前回までの記事では、ソーシャルワークについて書かせていただきました。

ソーシャルワークは、私たちの生きづらさを解くためだけではなく、良い文化を作っていくという観点からも重要なものです。

 

今回も、前回までの記事の内容に関連して、基本的な知識を得ることの重要性について書いてみたいと思います。

 

私が会社員をしていた頃、お昼の時間になると、ある女性が声をかけてくることがありました。

その方とは、いわゆる「職域」と呼ばれる生命保険の外交員の方です。

パンフレットを見せながら、「ちょっと、ちょっと」という感じで、保険への加入を勧められるのです。

私は当時も、そして今もそうですが、金融について特に詳しいわけではありません。

ただ、なんとなく、「余計なサービスもついていて、少し割高なのではないか」という漠然とした印象を持っていました。

そのため、適当なことを言いながらお断りをする、ということをしていました。

 

一方で、不思議だったことがあります。

仕事では、部下の作った資料や提案の内容を厳しくチェックする上司や、ロジカルシンキングなどを説いている同僚たちが、そうした保険には案外簡単に入っていたのです。

仕事ではあれほど細かく内容を確認するのに、なぜ保険については簡単に任せてしまうのだろう?

当時の私は、少し驚いたことを覚えています。

 

 

ただ、当時はまだ、昭和の延長にある平成の時代でした。

自分で主体的に金融商品を比較して選ぶというよりも、大きな会社や専門家に任せて、流れの中でサービスに入ることが普通だったのかもしれません。

家を買うことなども、似たようなところがあったかもしれません。それで大きく損はしない。

すべてのことにエネルギーを割くことなど誰もできませんから、上司や同僚たちも、深く考えずに契約していたというよりは、そうした時代の流れの中にいたのでしょう(私のほうが賢明であった、などということはありません)。

かつてであれば、金融でも、医療でも、専門家や大きな組織が示す標準的なものに任せていれば、それほど問題はなかったのかもしれません。医療でもセカンドオピニオンなどや、自分でいろいろ調べてきて、みたいなことはまだ当たり前ではなかったように思います。

 

しかし、今はどうも、そうではなくなってきています。自分たちでもいろいろと調べないといけない時代になっています。

 

例えば、最近ではAIが、さまざまな情報やアドバイスを簡単に提供してくれるようになりました。とても便利なものです。

しかし、こちらにまったく知識がなければ、AIも必ずしも適切な答えを出してくれるわけではありません。

AIにも間違いはありますし、比較的、権威のある標準的な情報を優先的に示す傾向もあります。

そこからさらに踏み込んで、

「これは本当に自分に合っているのか?」

「自分にとって必要なものなのか?」

ということを確かめるためには、こちらにもある程度の知識が必要になります。

知識がなければ、質問を重ねたり、突っ込んだりすることもできません。

完全に任せていれば大丈夫、ということではありません。

 

 

最近は、本を読まなくなった時代とも言われます。

しかし、少なくとも自分の生活に関わることについては、必要が生じた際に、三冊から五冊くらいの本を読む必要がどうもあるようです。

 

以前、あるビジネス書で、

「関連する分野の本を十冊も読めば、社内では専門家になれる」

といったことが書かれていたのを覚えています。

確かに、そうなのかもしれません。

 

ただ、私たちは忙しいですし、時間もありません。

十冊読むというのは、さすがに大変です。

それでも、最低でも三冊から五冊くらいは読んでみる。

三冊から五冊くらいというのは、一冊だけでは、その著者の立場や考え方に偏っている可能性があるからです。もちろん、間違ったことが書かれていることもあります。

 

何冊か読むことで、少しずつ共通する部分や、立場によって異なる部分が見えてきます。

 

金融、医療、食事や栄養、行政の制度、相続、介護など、私たちの生活には、知らなければならないことがたくさんあります。

すべてに詳しくなる必要はありません。

しかし、自分に必要な出来事が生じた際には、その分野についてある程度の知識を得る。

これも、「文化づくり」、ソーシャルワークとして大切な視点なのではないかと思います。

 

反対に、基本的な知識を省略して、いきなりYouTubeの動画などから情報を得ようとすることには危うさがあります。

あるいは、かつての私のように、

「標準的なものは、なんとなく間違っているのだろう」

と漠然と感じて、そこから一足飛びに代替の知識へ向かう。

これもまた、危険なことです。

 

本であれば、少なくとも編集者や出版社など、複数の人の目が入っていると言われます。

もちろん、本にもおかしなものはありますし、間違いもあります。

それでも、一定の過程を経て世に出ているという点では、まだ頼りになる部分があります。

まずはそうしたものから、基本的な知識を得ていくことが大切なのだと思います。

 

生活に関する基本的な知識を得る、なんていう道徳的にも聞こえることを書いているのはなぜかと申しますと、生きづらさというのは、心の中の問題だけではないからです。基本的に生きづらさとは環境からやってくる。

 

基本的な知識を得ないまま、誰かに任せてしまう。その結果、よく見れば損をしていたり、本来なら選ばなくてもよかった選択肢を選んでしまったりする。あるいは、うまく他人の文化を借りれないまま、自力で選ぶことでも、結果損をすることがあります。

 

実際には、そうしたことが少なくありません。

ご相談をお伺いしていても、仕事や金融、健康などについてされていることを聞いて、

「あれ? それは大丈夫なのかな?どうなのかな?」と思うこともしばしばあります。

 

生きづらさを解く、というのは決して医療やカウンセリングだけが主ではありません。それは、いくつもある手段の一つです。

 

スポーツも勝負はする前の準備が大きい、とか、戦争も兵站(補給とか準備)が大事だ、と言われますように、そもそも状況ができる限り不利にならないように、不利な選択が積みあがっていかないように、できるかぎり、奥行きのある知識や判断の軸を持ちたい。

社会や環境からもたらされる生きづらさの影響を、必要以上に受けないためには、基本的な教養や知識もあわせて身につけていく必要があるようです。

そして、そのためには、本や新聞などから知識を得るという、ある意味では古典的な方法が、今もとても大切(たぶん、結局コスパがいい)なのだと思います。

 

以前、ご紹介しました大阪の高校で行われている「反貧困学習」がそうであるように、基本的な知識や教養を得ることもまた、私たちが自分を守り・取り戻し、より良い文化を作るためのソーシャルワークと言えるのではないか、と思います。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

Xでは役に立つつぶやきを毎日ご覧になれます

Instagramではお悩み解決についてわかりやすく解説

Youtubeではトラウマなどの解説動画を配信

みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

他人の文化を借りる

 前回は、ソーシャルワークとは何か、そして、それが生きづらさやトラウマから抜け出すためにとても重要である、ということについてお話ししました。

 トラウマというものは、簡単に言えば、親をはじめとする身近な人たちの「おかしな文化」に絡め取られてしまった状態です。

 

 今回は、もう一歩踏み込んで、なぜソーシャルワークがそのような力を持つのか、その効用はどこから生まれるのかについて考えてみたいと思います。

 もちろん例外はありますが、多くの場合、発達性トラウマの背景には、そうした文化の影響があります。

 しかし、その文化から抜け出すことは容易ではありません。

 一見すると、それは正しく見えるからです。

 さらに、親への愛着や、「家族は大切にしなければならない」といった表面的な規範にも縛られています。そのため、おかしさを感じながらも、そこから離れることができません。

 文化や規範というものは厄介です。

 表面的には、本来健全な文化とよく似ています。

 どちらも「正しいこと」を言っているように見える。

 しかし、その中身や質はまったく異なります。

 だからこそ、間違った文化の中にいても、「これでいいのだ」と思ってしまい、その場に居続けてしまうのです。

 カウンセリングでは、その絡まった糸を少しずつほどいていきます。

 しかし、それだけでは時間がかかるケースも少なくありません。

 そこで重要になるのが、ソーシャルワークです。

 ソーシャルワークで取り組むことは、とてもベーシックなことです。

 お金のこと。 住まいのこと。健康のこと。 食事のこと。

 そうした生活の基盤を、一つひとつ常識的な形で整えていく。

 一見すると地味な取り組みに見えます。

 

 しかし、実はここに非常に大きな意味があります。

 それは、「他人の文化を借りる」ことができるということです。

 つまり、自分の中に染みついてしまったローカルルールではなく、健全な文化や常識の上に、自分の足場を置き直すことができるのです。

 学問の世界には「巨人の肩の上に立つ」という言葉があります。

 ゼロから自分一人で正しい文化や常識を作り上げようとすることは、ほとんど不可能です。

 膨大な時間も労力も必要になります。

 しかも、自分の中にはこれまで刷り込まれたローカルルールがありますから、それが絶えず邪魔をしてきます。

 

 しかし、健全な文化を持つ人たちの中で生活を整えていくと、その文化を借りることができます。

 そうすることで、おかしな文化を少しずつ健全な文化へと置き換えていくことができるのです。

 ソーシャルワークの取り組みを続けていくと、ローカルルールは少しずつフィルタリングされていきます。

 ある意味では、浄化されていくと言ってもよいでしょう。

 そして、その影響は、単に知識を教えてもらうことだけではありません。

 もちろん、お金の管理や仕事の探し方など、具体的な知識も大切です。

 しかし、それ以上に重要なのは、その場にある非言語的な文化です。

 落ち着いた雰囲気。

 安心できる関係。

 健全な愛着が自然と感じられる空気。

 そうしたものは、言葉以上に大きな影響を与えます。

 

 考えてみれば、東洋でも西洋でも、古典と呼ばれるものの多くは、生き方や暮らし方についての教訓集や箴言集です。中国古典もそうですし、イスラム圏やユダヤの伝統にも同じようなものがあります。

 それらは単に教義を覚えるためのものではありません。

 それぞれの人生の中で、正しさを自分のものにしていく、ソーシャルワークの営みだったと言えるでしょう。

 

 一方で、避けなければならないことがあります。

 それは、ソーシャルワークを正しさの正典のようなものとして捉えてしまうことです。

あるいは、誰かが人生を変えてくれる。劇的なファインプレーによって救われる。そのような期待を持ってしまうことも避ける必要があります。

 それはソーシャルワークではありません。単なる信仰であり、幻想です。

 場合によっては、不安につけ込むビジネスにすぎないこともあります。

 だからこそ、大切なのは、健全な文化、常識の中に身を置き、「巨人の肩の上に立つ」ことです。

 それこそが、ソーシャルワークの本質であり、生きづらさやトラウマから抜け出すための、大切な土台になるのではないかと思います。

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

Xでは役に立つつぶやきを毎日ご覧になれます

Instagramではお悩み解決についてわかりやすく解説

Youtubeではトラウマなどの解説動画を配信

みきいちたろう著『プロカウンセラーが教える 他人の言葉をスルーする技術』(フォレスト出版)

良い文化を作る「ソーシャルワーク」という視点

 

 前回の記事では、「文化づくり」の大切さ、と文化づくりの8割は、いわゆる ソーシャルワーク といわれるものです、と書かせていただきました。

 

 ソーシャルワークというと、なにか福祉の専門職の話のように聞こえます。

 「ソーシャルワーカーさんに相談する」
 「ソーシャルワーカーさんに間に入ってもらう」

 病院や福祉の場面などで、そうした言葉を耳にしたことがある方もいらっしゃるかもしれません。

 実際、一般的には、ソーシャルワークとは、貧困、介護、病気など、社会的な相談や調整が必要な人に対して行われる支援、ということになるかと思います。

 しかし、ここで取り上げたいのは、もう少し広い意味でのソーシャルワークです。

 つまり、私たちが社会の中で生きていくうえで必要になる、さまざまな調整やアクションのことです。

 お金のこと。
 健康のこと。
 食事のこと。
 住まいのこと。
 仕事のこと。

 何か困ったことが起きたときに、どこに相談するのか。
 どう社会とつながるのか。
 どう具体的に動くのか。

 そうしたことは、一見すると心理の問題ではないように見えます。

 しかし、実は、生きづらさやトラウマから抜け出していくうえで、とても大きな意味を持っています。

 

 なぜ、カウンセラーが「ソーシャルワーク」の話をするのか。

 それは、お悩みというものの多くが基本的に、社会からもたらされるからです。

 私が『発達性トラウマ』という書籍の中でも述べたように、私たちの悩みや生きづらさは、個人の頭の中だけで生じているものではありません。

 社会からもたらされる。

 ただし、ここでいう社会とは、日本社会とか世界といった大きな社会だけを指しているのではありません。

 私たちの身近なローカルなソサエティ。

 地元。
 地域。
 親族。
 友人。
 知人。

 そして、一番大きいのは家族です。

 そうした身近な“社会”の中で、私たちはさまざまな影響を受け、さまざまなものを背負わされているということです。

 

 例えば、仕事やお金のことについて、私たちは自分では合理的に対応しているように感じています。

 しかし、実際には、かなり偏った対応しかできていないことがあります。

 例えば、
 なぜか億劫でできない。
 なぜか不安でできない。
 なぜかやる気が起こらない。

 あるいは、そもそも知識がなくどう対応していいかわからない、ということもあります。

 結果として、
 「なぜ、こんなことができないのか」
 「自分がだらしないのではないか」
 「自分の性格の問題ではないか」

 と自分のせいであるかのように思ってしまう。

 しかし、そんなことはありません。

 そこには、私たちが背負ってきた文化があります。

 

 

 前回の記事でも書かせていただいたように、私たちが何か問題や課題に直面したときに、どう対応するのか、どう対応できるのかは、文化の影響を強く受けています。

 そして、その文化とは、多くの場合、自分の家族です。

 親がどう動いていたのか。
 何かあったときに、どう対応していたのか。
 誰かに相談していたのか。
 それとも、相談せずに抱え込んでいたのか。
 怒る、責める、我慢する、なかったことにする、という形だったのか。

 そうしたことの影響は、とても大きいのです。

 何かあったときに、どう相談していくのか。

 どう社会とつながっていくのか。

 もっといえば、「ソーシャルワーク」とは、社会とつながっていくということです。

 これをいかに適切に行っていけるか。

 実は、ここはカウンセリングやお悩み相談において、案外盲点になっているところです。

 

 

 カウンセリングというと、悩みは心理の問題であって、個人の頭の中にある心理を、心理療法やカウンセリングでケアすればよくなる、というふうに捉えられがちです。

 しかし、そうではありません。

 生きづらさやお悩みの大半は、実はこうしたソーシャルワークの領域で解決できることが実務的にも多いのです。

 さらに、心の中のトラウマや愛着不安をケアするという視点においても、社会とつながること、具体的に相談すること、実務の中で問題を解決していくことは、とても大きな意味を持ちます。

 心の問題だから、心だけを扱えばいい。

 そうではないのです。

  

 以前、ブログの中で、大阪の西成高校が取り組んでいる「反貧困学習」を取り上げたことがあります。

 西成高校のある地域には、生活保護を受けている家庭が多かったり、経済的にも、さまざまな面でも困難を抱えている家庭があったりします。

 そうした環境で育った生徒さんたちは、学校でのお勉強以前に、家庭での支援を十分に得られなかったり、社会で生きていくために必要な知識や経験を得る機会が少なかったりすることがあります。

 反貧困学習とは、そうした状況の中で、社会的な知識を身につけ、自分を守るための学習です。

 例えば、アルバイトをする。
 そのときに、ブラックなアルバイト先で、労働基準法などを知らないがために、本来なら守られるはずの権利を守れないことがあります。

 給料が払われない。
 不利な条件で働かされる。
 無理な働き方をさせられる。

 そうしたことが実際にある。

 すると、やる気をなくしてしまう。
 自尊心も損なわれる。
 また働きに行っても、悪い条件で働かされる。

 本来であれば、勉強して、大学や専門学校に進む、あるいは就職するにしても、よりよい条件に向かっていける可能性がある。

 しかし、家庭の環境や、社会で生きるための知識がないことによって、どんどん悪循環に陥っていく。

 反貧困学習とは、そうしたことを防いでいく取り組みなのです。

 

 近年の状況は、少し悪い意味でいうと「心理主義」です。

 何でもかんでも、個人の頭の中、心の中の問題にされがちです。

 「やる気がない」
 「自己肯定感が低い」
 「メンタルが弱い」
 「自分に問題がある」

 そういうふうに、問題が個人の内面に流し込まれてしまう。

 

 しかし、西成高校の例でもわかるように、実は多くは社会的な問題です。

 経済の状況。
 家庭の状況。
 社会につながっていくための知識。
 社会につながっていくためのスキル。
 相談する経験。
 相談してよいという感覚。

 そうしたものがないために、相談できないままになってしまう。

 あるいは、相談したとしても、あまりよろしくないところに相談してしまい、さらに悪循環に陥ってしまう。

 生きづらさとは、そうしたところからも生じているのです。

 私たちも大人ですが、普段、どこに相談していくのか、ということはとても大事です。

 日本にも、思っている以上に、社会的な相談機能や制度は整ってきています。

 もちろん、十分ではない部分もあるでしょう。

 ただ、相談できる場所がある。
 使えるものがある。
 頼れる仕組みがある。

 それを知っているかどうか。
 それを使えるかどうか。

 それだけでも、状況は大きく変わってきます。

 今であれば、AIも含めて、いろいろなツールがあります。

 しかし、それをうまく使えない、ということもあります。

 それもまた、個人の能力の問題だけではありません。

 そうしたものを使う文化がない。
 相談する文化がない。
 社会につながる文化がない。

 そういうことなのです。

 

 トラウマとは、すなわち機能不全な文化を背負っている、背負わされているということです。

 ですから、トラウマから抜け出していくこと、生きづらさから抜け出していくことは、単に心の中を見つめることだけではありません。

 社会とつながり直すこと。
 相談すること。
 適切にアクションすること。
 自分を守るための知識や手段を持つこと。

 そうしたことも、トラウマから抜け出していくためには、とても大事な視点です。

 悩みは、個人の心の中だけにあるのではありません。

 “社会”とのつながりの中にあります。

 だからこそ、「ソーシャルワーク」という視点が必要なのです。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

Xでは役に立つつぶやきを毎日ご覧になれます

Instagramではお悩み解決についてわかりやすく解説

Youtubeではトラウマなどの解説動画を配信

みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

「文化づくり」という視点

 昔、私が夕方、マンションの階段を上っていたら、人がいないはずのスペースに人がいたことがありました。ドキッとして鼓動が早くなります。なんだ??と。

 どう考えても、人がいるはずもないところに人がいて何やらスマホを見ている。

 たぶん、泥棒か何かなんだ、と思い、どうしようか?と逡巡します。

 そこで、勇気を振り絞り、何やってんだ!と声をかけると、その人物は、すみません、とかなにかを言い、一目散に逃げていきました。

 

 

 そのあと、この事態をどうしようか?と考えていました。
警察に通報するべきか、別に何も起こらなかったからそのままでいいか?と。

 その時点で私は人生で110番通報をした経験は一度もありません。

 その後の手間などを想像したり、あと、昔に自転車を取られたときの面倒くさそうな交番のおまわりさんの対応を思い出すと、どうせ通報したって、、という気持ちもわいてきます。

 

 しかし、この時に浮かんできたのは「文化づくり」という観点です。

 ここで、私が通報しなければ、よほどでなければ通報しないという文化が自分にも、自分の家族にも生まれてしまいます。

 避難訓練というものがあるように、人間というのは行動したことがないこと、練習したことがないものはできないようにできています。

 初見では臨機応変に対応できる、というのは幻想で、人間は過去に練習したことしか基本はできません。

 これは知人から聞いたことですが、自分や家族が具合が悪くなった時も「救急車を呼ぶ」ということが案外できなかった、というのです。それはその方が救急車を呼ぶということを過去にしたことがなかったからです。医療関係者からは「そういう時は呼んだほうがいいよ」と言われたそうです。

 

 

 そんなこんなを考えた時に、私は、何もなかったとしても、ちゃんと対応されなかったとしても、一度通報したほうがいい、とおもい警察に電話しました。

 すると、3人の警察官が来て、いろいろと調べてくれました。いわゆる調書みたいなことはなかったのですが、管理人にも話をしてくれて、後日、マンションには監視カメラが付くようになりました。

 結果的にはセキュリティは上がりました。

 これは一つの事例です。

 このこと以外でも、私は「文化づくり」というのは日頃からも意識しています。
 

 

 

 会社などの組織も、文化というものがありますが、その文化とは何か?といえば、結局は「過去にその会社とそのメンバーがとった行動の集積」ということです。

 過去にどんなことをしたかが文化になって、先例になって、参照されて、有形無形の文化となって現在に影響している。例えば、過去に問題があって、謝罪や返品といった対応をすれば、そういう誠実な文化にもなりますし、ごまかせばそういう文化にもなります。

 

 家庭もそうです。
 特に問題が生じた時、失敗が生じた時にどう対応したのか?がその家の文化になります。

 適切な行動ができないことはもちろんですが、家庭でよくあることとしては、学歴や財産、世間体といった見た目から逆算した表面的な行動ばかりしているということ。本来的な行動がなければ、曲がった文化、機能不全な文化になります。

 

 あるいは、特に親などの大人たちが自身の不安や引き継がれてきたトラウマ、不全感といったものを隠したまま間違った行動や対応をしているというようなこと。そうした対応からは、不安や不全化からの行動が「文化」となります。

 こうした曲がった文化が蓄積された家が「機能不全家族」というものです。

 

 機能不全な家庭だと、多くの場合、その家系で家長となるべき人(たち)が機能せずに、おかしな行動を繰り返していたりするものです。もちろん、それは、生育環境からの愛着不安、トラウマによって生じます(近年は、祖父母の世代の戦争のトラウマが及ぼす影響が注目されていたりもします。)

 それらがおかしなものとして認識されていればいいですが、なにやら理屈でごまかされたり、親族などによって追認されていたり、することで、ローカルルール化してしまいます。

 社会的存在、文化的な存在である私たち人間にとって、その影響はすさまじいものがあります。

 トラウマというのは私たちが背負ったそうした機能不全な文化のことである、といっても過言ではありません。

 

 

 カウンセリングなどではよく「認知(信念)」を変えるといったようなことが言われますが、そんなことでは生きづらさの解消には追いつきません。
 私の経験では、身体へのアプローチについても影響は限定的です。なぜなら人間はロゴス、ポリスの生き物だからです。

 

 そして、必要なのは“個人の”「認知」ではなく、「文化」を変える、という視点です。

 認知を変えるとしても、身体や行動を変えるとしても、それは「文化を変える」という視点がなければ効果はなくなってしまいます。
(身体の動かし方でさえ、かつての日本の文化と西洋の文化は違うと言われます)

 

 日々自分の行動で、自分の人生の「文化」を作っているという視点が重要です。

 パートナー同士であれば家庭の中、さらに、お子さんをお持ちであれば、親の役割は「文化」づくりである、と考えるとわかりやすいです。
 (いわゆる、”背中”で見せる、ということです)

 いかに、社会を“代表”して、理屈がちゃんと通った行動をとれているか、機能した行動を適時、適時に行っていけるか、がとても問われます。
 (こうしたことを、東洋哲学では「中庸」と呼ばれます)
  

 文化づくりにおいては、こうするべき、といった意識からであったり、不安からアクションしてもそれは全く機能しません。なぜならそれは多くはトラウマ由来のものだからです。
 メンバーから、無意識に「それ、あなたの不安ですよね」と感じ取られて、「従う道理なんてない」とされてしまうのです。

 

 そして、もし、無理やり従わせることができても、結局は、不安が文化になってしまいます。

 会社でも、経営者や上司がただ不安から部下を詰めたり、ワーワー理屈を言っている、という景色はよくあります。そうした会社の文化はどこやら強迫的になっていきます。

 

 不安もよくありませんが、立派であろうとすることや、完璧であろうとしたり、過度に正しくあろうとすることも、文化づくりとは対極にあるものです。それらも結局不安でしかありません。
 
 文化 とは、もっと実質的、機能的、愛着的、そして社会的なものだからです。

 文化づくりの8割は、いわゆる ソーシャルワーク といわれるものです。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

Xでは役に立つつぶやきを毎日ご覧になれます

Instagramではお悩み解決についてわかりやすく解説

Youtubeではトラウマなどの解説動画を配信

みきいちたろう著『プロカウンセラーが教える 他人の言葉をスルーする技術』(フォレスト出版)