同じ環境でも問題が出ているのは自分だけだから自分に問題がある? おかしな環境は優等生を必要とする。

 

 トラウマによって自分を失っている人が自分を取り戻すためには、過去現在の環境の影響で苦しんでいることを自覚する必要がありますが、それを妨げるのが、同じ環境でうまくいっている人(優等生)の存在です。

 よくあるのが、家庭の中での兄弟(姉妹)の存在です。

 本当にひどい環境で育ったのに、症状が出ているのは自分だけ、弟や妹(姉、兄)などは元気にしている、あるいは、親に可愛がられている、というようなケースはとても多いです。

 すると、同じような状況でうまくいっている人がいるのだから、やはり自分はおかしいんだ、と思っている当事者は珍しくありません。

 

 
 もちろん、これらの結論(推定)は、ローカルルールに影響された思考によるもので、自分がおかしいという理由には全くなりません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

「でも、同じ環境で大丈夫な人がいるなら、自分に問題があるのでは?」とどうしても感じてしまうかもしれません。

 そんなことはありません。

 まず、兄弟で待遇に差があったり、長子の存在が風よけになり第二子以降のストレスが緩和されることはよくあります。
 別の例では、いじめの横行する学校やクラスでも比較的被害の少ない生徒がいることや、ブラック会社でも比較的ストレスが少ないという社員はいます。

 「同じ環境だから~」というのは、実は、かなり無理な結論だと言えます。同じ環境ではないのです。

 

 

 さらに、です。
 実は、待遇差は、ブラックな環境、ローカルルールの世界を成り立たせるために意図的に作られているということがあるのです。
 もっと言えば、ローカルルールが支配する環境が成立するためには、その中でうまくいっている人が必要なのです。 

 

 

 例えば、最近でも新興宗教に関連して、元首相の暗殺事件が生じるなどしましたが、その際に会見に登場した代表や幹部の方たちは、その組織の中で「エリート(優等生)」とされる人です。

 かつてのオウム真理教でも、幹部、エリートが存在しました。

 その組織の中で活躍している人たちもいたわけですが、では、その組織は問題なく、被害を受けた人が問題なのでしょうか?
 活躍している人たちはそんな環境でも克己して成果を上げれる優れた人なのでしょうか?

 もちろんそんな事はありません。

 なぜ、そんなおかしな組織でも活躍する人、高待遇な人達がいるのか?といえば、組織というのは、正統性を維持するためにはそれを証する要素、たとえば優等生が必要なのです。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 もし、すべての構成員全員がうまくいっておらず、不幸であるならば、その組織の存続に関わるからです。

 構成員を従わせるためにも「ほら、~~さんはうまくいっていますよ(あなたも疑問を持たず、従いましょう。苦しいのはあなたの問題です)」という見本が必要になるからです。
 

 

 かなり以前の記事にも書きましたが、
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 実際に、かつての中国の文化大革命などの時期には、「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」といって、共産主義社会の成功例をされていた地域がありました。もちろん、捏造です。

 あるいは、世界恐慌の頃は、ソ連は成功しているとされていました。
実際は、映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』に描かれているように、ウクライナなどから穀物を収奪し、繁栄を演出していただけだったのです。
(ホロモドールと呼ばれ、ウクライナの人口の2割!が餓死したとされます)

 しかし、当時のソ連は、世界恐慌に陥る資本主義と尻目に成長する成功事例とされていて、イギリスのバーナード・ショーなど、ソ連の宣伝を信じてしまう欧米や日本の知識人は大勢いたのです。

 

 
 トラウマにおいては、過剰な客観性、自己責任意識や罪悪感から自分にも問題がある、と捉えがちです。
(「親のせいにばかりしていいのだろうか?」といった感覚。喧嘩両成敗といった誤った認識など)

(参考)→「過剰な客観性」「「喧嘩両成敗」というローカルルール」「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 「確かに環境にも問題があったが、自分にもやりようがあった」などというのは、公平に状況を見れていると本人は考えていますが、そうではありません。
トラウマに影響されて歪んで状況を見ているということです。

 トラウマをケアする、トラウマから抜け出して自分を取り戻すためには、こうした知恵(常識、教養)もあらためて身につけていくことも必要なのです。

 

 

 

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”自己の形成”という難しい問題

 

 前回、前々回と書きましたように、自分(自己)というものが正しく形成されているかどうか?というのは、なかなか難しい問題です。

参考)→「誤った適応

 

 発達性トラウマにより自己を喪失し、社会でうまくいかなくて困っている、というならシンプルですが、世の中で活躍している人、しっかりしている人が本当に自分を持っているか?といえば、そうではないということがあるわけです。

 

 前者については、これまでもこのブログで書かせていただいてきたように、トラウマによるストレス障害とハラスメントによって自己を喪失してきた、ということですが、後者は一体何なのでしょうか? 

 「うまくいっているなら、それでいいじゃないか?」とも感じますが、本当にそうか?

 あるいは、

 「本当にうまくいっていないならどこから問題化しているはずだから、やはり何十年もうまく行っているということは問題ないのでは?」

という疑問も湧いてきます。

 

 しかし、それ(何十年もうまく言っているように見えること)については、明確に、それはあり得る、よくある、と言えます。

 そうした奇妙な状態が可能なのは、1つには学校や会社、あるいは家族という仕組みの後押しがあるからです。

 学校や会社、家族というのは、そこに過剰適応してしまえば、自分を失ったままでも成果が上がり(むしろ自己を喪失しているがゆえにすごく良いパフォーマンスを発揮し)、何十年も継続する、ということは十分にありえます。

 しかも、私たちが感じるように、家庭生活、会社員生活はあっという間に月日が流れていきます。

 その中でゲームをクリアするかのごとく、上昇し続ける(家庭であれば家事や子育てが行われていく)ということは珍しいことではありません。
 

 

 そんな過剰な適応を可能にする仕組みが(昔からもありましたが)特に現代には顕著です。

 そして、自分に生じるはずの問題を、自分の属するシステムの一番弱い人が肩代わりしているというケースもあります。
 それは、パートナー(妻、夫)であったり、子どもであったり、部下やお客さんであったり。心身の不調、ひきこもり、不登校、パフォーマンス低下、しわ寄せ、といった形で。  
 外での活躍を、パートナーや子どもたちの犠牲で成り立たせている、ということもよくあります。

 

 また、もう一つには、ニセの成功でも自己形成をそこに依拠してしまっては、もう引き返せない、他に移る先がない、というその当事者が暗に抱える不安といった事情もあります。

 こうした悲しいエリート、優等生を描いたドラマや映画はたくさん存在します。

 そして、「現実は小説よりも奇なり」。ドラマや映画以上の信じられないような話が現実には存在しているものなのです。

 

 

 こうした事を考えたときに、
  
 実は、うまくいかない(フィードバックされる環境に身を置く)、ということはとても大切なことです。

 それが本来の自分へと戻るサインとなります。

 昔は大成するためには、「運・鈍・根」が必要、と言ったそうですが、何でも器用に、スピーディーに、というのは誠に変なものです。

 色んな環境に適応できるという(「あの人は、どこに言っても活躍できそう」)、というのは一番良くないことで、そんなありえない芸当を可能にするのは、「自分を失う」ということ以外にはありえません。
 以前の記事で取り上げたどんな課題でも100点を取れる東大生たちは、まさにそうなのかもしれません。
参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 

 同じく、
 仕事が厳しいことで有名な会社でエリートになるような人。
 次から次へと仕事が与えられてもクリアし、昇格していくような人。
 会社の文化にもどっぷりと染まれて、課題解決にフォーカスして結果を出せる人。

 これら「デキる人」は、実は自分がないのかもしれません。

 本当の自己とは、適応と同時に、自分に合わないものには不適応を示したり、タイムラグも生じるものです。
 (そんな、苦も無くなんにでも適応できるなんて変でしょう?)

 動物でも植物でも適応できる条件は限られますように、“自己”があれば、合う合わないは必ず存在するはずです。

 

 
 人間(生物)は、どうしようもなさ、情けなさ、弱さがあって、グダグダ、グズグズして、そのことをある程度受け入れてもらえた上に、教育などで人格を修養(涵養)し、社会における位置と役割を得ることでいったん完成していく、あわせて、背後にはグズグズの自分ももっていて、社会的人格との間を行ったり来たりして固着しない、という型なのでしょう。

 真に自己を持つためには、不適応、反抗が必要です。
参考)→「不良の論理

 
 トラウマの中核は自己の喪失、と『発達性トラウマ』で書かせていただきましたが、もしかしたら、トラウマによって生じる自己の喪失は、自分というものを原的に持ち合わせているからこそ、生きづらさとして生じているのかもしれません。

 生きづらさを感じられる、というのは、そこから立ち上げることができる根がある、という証、希望でもあります。

 

 

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誤った適応

 

 前回の記事でも書きましたが、世の中でうまくいっていそうな人でさえも、実は万全ではありません。

参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 万全どころか、うまくいっているがために、そこから出られなくなってしまうことがあります。

 世間体、ローカルルール、人からの評価、学歴、キャリア、立場、役職、年収、家、服、装飾品、パートナー、キャラ など。

 誤った適応をもたらす罠はたくさんあります。

 特に「会社」という仕組みはある意味良くできていますから、誤った適応を促進します。学校スキームの残像が加わるとなおのことです。

参考)→「「学校スキーム」を捨てる

 

 そして、基本的に人間はうまくいくものは良いと学習して継続してしまいます。
  

 会社や家族といった共同体での立場や役職などはその最たるものです。

 

 

 カウンセリング、トラウマケアでは稀に「症状が動かない」という場合が出てきます。その稀なケースというのは、例えば、会社や親族の中で立場があって人あたりも”紳士的”なドラマに出てくるようなビジネスマンといった方など。

 

 立場があって、人当たりも巧みな人というのは人格が固まっていて症状が動かない、というのはカウンセリングの“あるある”です。

 それによって、困った症状が出ているのですが、本人としては、うまく言っている“立場の人格”や、“スマートな人当たりのよさ”を捨てる気、変えるつもりはさらさらなく、当然、症状は動きません。

 これはまさに“誤った適応”といえるでしょう。
 

 ハンナ・アーレントが取り上げたナチスの高官アドルフ・アイヒマンなども、ある意味そんな人格かもしれません。「ヒトラーの虐殺会議」という映画にアイヒマン役が登場しますが、アイヒマンは如才なくユダヤ人の処分計画を淡々と説明します。それでいて、冷酷な人間かといえばそうではなく、休憩時間には、秘書にコーヒーを持ってくる気遣いもある。

 しかし、アーレントが指摘したように、ナチの体制に誤った適応をしていますから、もし、アイヒマンをカウンセリングしたら、おそらく同じく症状は動かないことでしょう。

 

 最近話題のヤングケアラーや、アダルトチルドレンも、おかしな状況について誤った適応を強いられています。 

 本来は家族が担うべき役割を背負わされる。

 そうした結果、当事者が証言するように、自分がなくなり、世界が壊れる。

 しかし、ヤングケアラーやアダルトチルドレンの多くは決して誤った適応のなかで万全ではありません。その中で苦しんでいます。

参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 

 ヤングケアラーやアダルトチルドレンたちが、「症状が動かない」というケースと異なるのは、生きづらいと感じる感性がある、ゆらぎがあることです。どこかでおかしい、うまくいかないという経験があることです。
 

 ゆらぎがある人はメキメキと良くなります。

 生きづらさとは、自分が失われた結果であると同時に、ちゃんと自分が奥底に存在しているからこそ感じるものです。

 自分が失われても生きづらさも感じずに、あるいは生きづらさは感じているものの人当たりの良さやパフォーマンスを発揮してしまっていてそれを手放すきっけかのない人は、より深刻な不幸です。

 カウンセリングが何をしているのか?目標は何か?ということを一言で言えば、「誤った適応」を解除すること、本来の資質に基づく成熟へとリセットすること、と言えるかもしれません。
 

 

 

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みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 トラウマや愛着障害について記事や情報をお伝えすると、その生きづらさや悩みを表現する際に、どうしても健康な人という、物差しを設定して、それとくらべて「トラウマを負った人は~」「愛着不安を抱えた人は~」という書き方になってしまいます。

 それを間違って捉えると、トラウマを負った人はハンデを負ってて、今働けている人、仕事で活躍できている人、主婦(主夫)でも幸せに暮らせている人は問題なくて、それが出てきていない人はおかしい、損をしている、というような見方になります。

 しかし、実はそうではありません。

 世の中で活躍できている人が万全、健全というではないのです。

 順調故に間違った適応をしてしまい、そのまま定年くらいまでは行ってしまう、ということは珍しくありません。

 

 東大の安冨歩教授が書かれた本に『幻影からの脱出 原発危機と東大話法を越えて』というものがありますが、その中で、熱心に授業を受ける学生たちと、テストだけ要領よくこなす学生たちがいるといいます。

 安富教授の経済学の講義や課題図書などは決して簡単なものではなく、一夜漬けでなんとかできるようなものではないそうです。

 当然、熱心に授業を受けた学生が高得点、満点を取りそうですが、実際はそうではなく、テストだけ要領よくこなす学生たちが、要点を捉えた完璧な答案を書いてくるというのです。

 反対に、授業を受けた学生たちは、色々と考えてしまうからか、7~8割の点で止まってしまいがちです。

 

 安富教授も「なんでもかんでも100点を取ってくる東大生という人々は、想像を絶する人種です」と述べています。
 

 まさに、官僚や企業エリートになったら、「できる社員(官僚)」として称賛されるパフォーマンスを発揮できるでしょう。

 反対に自分で色々考えるせいか、7~8割の点しか取れない学生たちはどうでしょうか?

 上司の指示に対しても、色々考えるあまり、さっと動けなかったり、自分の意見を入れるためにビジネスで称揚されるフレームワークやロジカル・シンキングのセオリーからも外れ、「自分の意見と事実は分けなさい」と、上司から作った資料に駄目だしされそうです。

 

 

 かく言う私も、あきらかに後者で、いろいろと自分で空想や妄想を考えて盛り込んで怒られるようなタイプです。
 そうこうしている間に如才ない同期や先輩は、簡潔な資料をまとめて合格点を取っている、というような場面は実際にありましたし、大学(院)でも発表で勢い込んで大恥をかいた経験があります。
 

 仕事においても、ほんとうに脇目もふらずに目標達成に向けて邁進できる人を横目に、目標の意味とか、自分にしっくり来るかこないか、といった余計なことを感じるようなタイプでもありました。
 
 
 大企業の一部などにはいますが、目標達成に完璧なまでにフォーカスして全くぶれないような人は、私などからすると宇宙人のように見えます。
 

 そういう人は、会社でも出世しますし、評価されます。

じゃあ、その人達は本当に万全なのでしょうか?
  

 

 話は戻り、安富教授は、何でもかんでも100点を取ってくる東大生について、「なぜそういうことが可能か、理解に苦しみました」と言います。そして「色々と考えた結果、それは、自分というものがないからではないか と思い至りました」と述べています。

 どういうことかというと、例えば「わかる」というのは、自分の身体で反応すること、自身も学習に伴い変化することで、当然そこには、身体にとって違和感のあるものは違和感として反応することは多々あります。

 すべてを受け入れるなどはありえない。他者同士なのですから、なんらかの違和や差分が生じて当然です。だから、いつも100点を取るほうがよほどおかしい。

 さらに言えば、「暗黙知」が働く見えない次元を通じた学びというものによって人間は了解していきます。それが豊かさに繋がります。

 一方、なんでもかんでも100点を取る人というのは、ただ情報を箱に出し入れして処理しているだけで、そこには自分の身体を通じたやりとりも、自身の変化もありません。暗黙知も働かず、表層的な情報処理にとどまります。
  
 
 そうした芸当は、自分を失ったままのほうがむしろ効率的(コスパ、タイパよく)できるものです。

自分の“意見”もはっきり言うこともできるでしょう。

 「あの人は自分の意見をはっきり言うことができる」と評価されるかもしれません。

 そのうえで「立場」「役職」に身をおくことで、さらに自分は脇において置くことが合理的となります。

 

 ここまで極端ではなくても、現代の会社などの組織はよくできていますから、
立場・役職をまとえば、自分を脇においたままに、定年くらいまではそのまま行くことはできます。

 
 会社では周りを理不尽さの犠牲にするような、そうした人ほど出世したりもします。そうした人が果たして幸せか?はわかりません。

 

 あるいは、専業主婦(主夫)でも、自分を脇においたままに、子供が成長するくらいまでは行くことができます。

 しかし、その後はそうはいかなくなります。

 自分を置き去りにしてきた問題が押し寄せてきて、不調となって現れたり、一人前の人間として人生の問題に対処できない、といったことが生じてくるのです。

 万全に見えること、万全に見せることが、自分というものをもっと深刻に失わせてしまうのです。

 トラウマを負った人のほうがよほど自分という問題に向き合うことができている。周回遅れに見えて、実は先頭に立っているということがあるのです。

 

 

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