知覚の恒常性とカットオフ

 

 新型コロナウイルスへの対応が社会で問題となっています。
お仕事に、プライベートにと大変な制限を受けるようになりました。

 当初は、中国で発生したウイルスということで、外国のニュースという印象でした。

 武漢で広まったときも中国の中では大変だな、という印象だったのではないかと思います。

 そのうち、クルーズ船の問題が起きました。
 このときも、クルーズ船に乗り合わせた人たちは大変なことだな、という感覚でした。

 このときくらいまでは、私たちの日常からは遠い問題と感じていました。
 

 

 しかし、ある時点からは、「これは大変なことになるな」とフェーズが変わった感覚がありました。
(休校の要請のもっと前の段階です)

 

 政府の対応も同様で、あるところから急に対応を強めるようになりました。
 その結果、後手に回ったのではないか、と疑問を呈されるようになっています。

 おそらく、政府も当初はまだ楽観的だったのではないかと思いますが、あるところから、「これはまずい」と感じて慌てるようになったような印象があります。

 

 

 コロナウイルスに限りませんが、私たちの身の回りでは、仕事でもそうですが、ぼちぼち進捗していると思っていたら、急に事態の質が変わったような気がしてお尻に火がつく、ということはよくあります。
 
 プロジェクトの進捗について、決して油断しているわけではなく推移を見守っているつもりだったのに、気づいたら後手に回っていた、なんてことも。

 

 どうしてこういう事になってしまうのでしょうか?

 実はこれは、人間の知覚のバイアスによるものです。
 

 例えば、視覚の実験で、遠くから人が歩いて近づいてくる。
 物理的には同じペースで近づいてきていますから、徐々に大きくなるように見えるはずですが、実際は、しばらく同じサイズに見えていて、あるところから急に大きく見えるようになることが知られています。

 

 これは、「知覚の恒常性」と呼ばれる現象です。

 

 物事に対しても同様で、最初はしばらく変化がないように見えて、あるところから急に質が変わることが感じられる。

 同じ → 同じ → 同じ → 変わった!? という感じ

 
 統計の世界では、質が変わるポイントのことを「カットオフ」といいます。

 

 知覚の恒常性とは、もともとは私たち安定をもたらしてくれるものでもありますが、ここに執着が加わると、「変化が怖い」「変化が来ない」という恐れにもなります。

 執着とはローカルルールと言い換えてもいいですが、私的な情動から、現実を歪めます。

 

 健康な世界では、物事は常に有限(諸行無常)です。同じように見えて常に移り変わっています。
 反対に、ローカルルールやトラウマは、「無限」という感覚を作り出します。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 悩みが変わらないような気がしたり、物事が動いていないように、あるいは、時間がとてもゆっくり進んでいるかのように感じさせたりする。

 絶望や不安、焦燥を生み出して私たちを支配する。

 

 

 以前、福岡で道路が陥没したことがありました。
 
 大きな穴が空き、水道からの水が溜まった映像が流れていました。

 そこにミキサー車などが土砂やコンクリートを流し込んで、穴を埋める様子が映し出されていました。

 ただ、最初の頃は、いつまで経っても穴が埋まる様子がありません。
 「こんな大きな穴が本当に満たされる日が来るのか」と途方に暮れるほど。

 しかし、実際は、ある時点から穴は埋まり始め(カットオフ)、
 道路として舗装され、復旧されました。

 

 

 変化とは素朴には「知覚の恒常性」が働き、

  同じ → 同じ → 同じ → 急に変わった!!

 と感じられるもの 

 もちろん、物理的な現実は、

  変わった → 変わった → 変わった → 変わった(ここで質が変わったとみなせる)

 ということで常に変わっているのですが、普通にしていると変化を感じることが難しい。

 

 そのため、人間は、経験や教養によって知覚の恒常性を越えてそれを感じるように努める。アスリートや、職人や、受験生とか勉学に励む人は、すぐに上達しなくてもコツコツと目の前のことに取り組む。

 
 仕事でも成果を上げる人は、物事は変化していないように見えて常に変わっていることを知るので、長い時間でも次を待てる。
 
 変化していないように見えることに目を奪われる人が、焦って変な行動をしている間に、徐々に変化していることを知っている人はカットオフを待ちながら、コツコツと準備を積み上げていく。

(参考)→「「待つ」ことができない~世の中のありのままが感じられなくなる

 

 

 悩みからの回復も同様に、徐々に変わって、カットオフ値で質が変わったように感じる。それまでは知覚の恒常性が働きますから、変化は常に知覚しにくい。

 さらに、ローカルルールが「無限」「焦燥」というバイアスをかけてきますから、真に受けると、ドロップさせられたりすることがある。
 治療者も、巻き込まれると「変化がない」ということに罪悪感を感じさせられたり、焦らされて、結果ローカルルールが延命してしまったりします。

 

  同じ(焦燥、不安) → 同じ(焦燥、不安) → 絶望 → 変化を待てずドロップ

 

 というように、

 

 ただ、実際は、変化は背後で常におき続けている。
そして、変化とは、無限から有限に、焦燥からゆっくり動く世界へと移行することでもあります。
 

 本来、安心安全とは変化しないことではなくて、変化(有限)の中で恒常性が維持されること(ゆっくり動く世界)。
 例えて言えば、遠洋を進む船のようにずっと景色が変わらないけど動いていて、船は安定が保たれている状態。

 トラウマ、ローカルルールとは、無限の中で恒常性(の感覚)が奪われて、焦燥の中で悶え苦しむこと。
 
 
 ローカルルールとは、事実の認知を歪める。なかでも時間の主権を奪います。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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自尊心の機能不全

 

 トラウマを負った人にとって一番特徴的なのは、自尊心が機能不全に陥っているということです。

 通常、健康な人であれば、自尊心が中心にあって山のようにそびえています。

 自尊心があるから尊大だ、とか、プライドが高い、ということではありません。いろいろな性格の人がいますが、他者から見て、なにやら侵し難さがあります。

 

 他人から、欠点をいじられることもあります。 
 でも、真に受けないし、それを戯れとして扱って、仲間意識を作ることができます。
 

 自尊心がセンサーになっているのに、いじりではなく、本当に馬鹿にしたり、マウントされたりしそうになると、「やめてください」と自然と言えたりします。

 

 会社であれば、「なんか、私にきついですね~」とか「ちょっとひどくないですか?」とやんわり牽制できたりする。
(TVのバラエティに出ているアナウンサーなどをイメージするとわかりやすいかもしれません)

 

 自尊心というのは、人間にとって公的環境を維持する灯台のようにそびえているイメージ。自尊心は、健全な発達の過程で社会の中での公的な役割を身につけて「公的人格」として成り立っている。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 例えば営業マンが、接待でおちゃらけたりしているが、あくまで公的な役割として行っていて、目の奥では自尊心が保たれて、自分の存在まで卑下したりしているわけではない、という感覚。
 でも、「私的な自分」というものは公的(職業的)人格の後ろに下がっているので、顧客に対しては失礼がない。

 これが健康なあり方なのではないかと思います。

 

 

 対して、トラウマを負った人は、自尊心が機能不全に陥っています。

 以前の記事でも指摘しましたが、例えば、過剰な客観性であったり、足場もないのに自分を疑う、というのはなぜその様になってしまうか、といえば、中心に自尊心の山がなく、ポッカリと真空があるだけで、自尊心のセンサーが働かないから。

(参考)「過剰な客観性」

 自尊心がないまま、自分が馬鹿にされても受け入れるというのは、ニセの寛容さです。

 

 

 通常であれば、自尊心を中心にして世界を構成するものなのですが、それがないまま、ただ、「事実」と思われるものを全て受け入れていってしまうからです。

 実際の世の中では、ローカルルールもたくさんあるし、環境からのマイナスの影響もあって、「事実」というのは作られます。
(生物学的に差異がないのにも関わらず、マイノリティが、経済的、社会的に低い地位から抜け出せないのと同様)

 人間社会は、そのままで客観的なのではなく、怪しい事実も含めて玉石混交です。

 それを自尊心のセンサーが史料批判して選り分けるのが本来の姿。

 
 そしておかしなものには近づかない。

 自尊心そのものが足場となっていますから、自分それ自体を疑うことはしない。

(参考)足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 他者が実際にどの程度なのかも等身大に見えています。
 そのため、自分にとってネガティブな情報が入ったとしても、過度に引っ張られることはありません。
 
 

  
 自尊心とは、Being(存在)とも言いかえられますが、トラウマを負った人は、Being(存在)の機能不全を、Doing(行動)やHaving(成果)で埋めようと頑張っています。

 そのため、自分は自尊心が低い、という自覚がなかったりすることもしばしばです。

 ポッカリと心に真空が空いたまま、外側だけ頑張っているようなイメージ。
 内面は、その真空が外にばれないように一生懸命に防衛している。

 

 

 自尊心が低いことで、「本来の自分」も機能せずに、「ローカルルール人格」を中心に動くことにもなります。ローカルルール人格とは、他者のローカルルールを内面化したもので、ものすごいエネルギーで動きますが、不思議世界のルールに従っていて、自信がなく、歪んだ認知で世の中を見ては他者を疑い、自分を低くする存在です。

 

 ここまで「自尊心がない」と書かず、「自尊心の機能不全」と書いてきましたが、それは、自尊心がないわけではなく、自尊心が機能しないような様々な呪縛にかかっているということを示すためです。

 

 呪縛とは、例えば、暴言や汚言を浴びてきたり、ローカルルールを真に受けてきたり。夫婦喧嘩や、親の過干渉や、機能不全な親の関わり方、外部ではいじめといったことが自尊心の機能不全の原因です。
 (相手を支配するためには、相手の自尊心をへし折る、というのは常套手段で、映画「フルメタル・ジャケット」や「ラスト・エンペラー」でも巧妙に自尊心を折る様が描かれています)

(参考)→「「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 「自分は根本的に変だ」とか、「頭がおかしい」とか、「人とうまく付き合えない」とか、そういったローカルルールが内面化されている。

 それらはすべて事実ではなく偽物なのですが、確証バイアスによって作られた事実を集めて強固になっている。

 あたかも「秘密」のように思わされて、その秘密を守るために、バレないように内面ではものすごいエネルギーを費やしている。

(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 上では、「事実」と思われるものをすべて受け入れる、と書きましたが、トラウマを負っていると、物理的現実、特に物理的な自分というものへの信頼が失わされ、ローカルルールが作り出すイメージの世界(評価、評判)があたかも自分そのもののように思われてしまいます。

(参考)→「物理的な現実への信頼

 

 その結果、「~~さんって、~~な人ね」と言われたら、あくまでそれはその人の印象や意見(イメージ)であり、ほとんどがローカルルールなのですが、真に受けてしまい、そのローカルルールが作り出す自己イメージに呪縛されてしまうのです。

 その結果、自尊心は一層、機能不全に陥ってしまいます。
 
 

 自尊心の機能不全には、植え付けられた恐怖もあります。これもローカルルールの一種と言ってよいですが、よくあるのは、他人が怖かったり、社会が怖かったり、ということ。

 

 こうしたローカルルールが折り重なるようにして存在しているので、なにか成果(学歴とかキャリアとか収入)があったとしても自尊心の機能回復には全く役には立たないのです。

 
  
 自尊心の機能を回復するためには、折り重なったローカルルールを解いていく必要がある。
 
 
 
 例えば、汚言のトラウマを取っていったり、「自分は変だ」というような、ニセの“秘密”を壊していく。

 ローカルルールとは、結局は偽物ですから、それらがなくなっていくことで、自尊心の山が徐々にせり上がってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 
 最近、新型コロナウイルスが問題となっていますが、外国の物や人が国に入るときには検疫があったり、審査があったりします。

何のチェックもなく外国に入れるということはありません。

 信用できる国同士だとチェックを軽くしたり、ということはあるようですがチェックするのが原則。

 

 

 私たち個人も同様に、相手をそのまま信じることはなく、チェックをしています。

健康に発達していれば、言葉を鵜呑みにすることもありません。

 そのまま受け入れるなんて言うのはとても危険なので、必ずチェックが入るのです。
 
 親から受けたしつけや教育についても、わざわざ反抗期というプロセスで一旦否定して、検疫して、翻訳し直して、自分のルールというものにするのです。

 

 

 人間は素直な方がいい、というふうに言われますが、その「素直さ」というのも要注意です。主語をチェックしないといけません。

 素直な方がいいというのは、「(支配する側にとって)」という言葉が隠れていることがしばしばだからです。

 

 「自由貿易とは、強者にとっての保護貿易」という有名な言葉がありますが、国と国との関係でも、「ノーチェックでやりとりしましょう」というのは、強い国にとっては都合が良いのですが、弱い国にとっては実は相手に知らず識らずの間に支配されているということがあります。

 EUでも、結局はドイツのような強い国が得をしている(EU≒ドイツ帝国)のでは?ともいわれています。

 

 

 個人同士の素直さというのも同様に、それは強者にとって都合の良い、ということだったりします。

 もっと言えば、家庭の中での親であったり、配偶者であったり、会社では上司、経営者であったり。過干渉やモラルハラスメントというのは、相手を否定することでノーチェック状態を強制することです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 反抗期を経て健全に発達した大人であれば、相手の言葉をそのまま受け取ることはありません。

 例えば、会社で会社の上司に言われたことでも、そのまま受け取るなんてしません。

 でも、あからさまに従わないなんてこともしません。

 基本は、「面従腹背(表面的には従っているが、本心はそうではない)」です。

 

 もちろん、業務として決められたことや、しなければならないことはしますが、「心から臣従」なんてしない。

 (個人同士の人間関係で言えば、裏表があるとか、心のなかでいつも相手を悪く思ったりとかそういうことではありません。)

 

 「でも、結構上司と部下が仲が良くて、尊敬されているいい環境の職場もあるよ」と思われるかもしれませんが、それは、それが当たり前なのではなく、環境が整った結果であるということ。

 上司や会社が尊敬されるに値する正統性と役割を果たしている結果、部下がそれに敬意を払い、いい関係になっているということ。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 例えば戦国時代のお侍さんでも、主人の言うことを何でも言うことを聞くなんてことはありませんでした。 主人がそれ相応の力を示して尊敬されなければ、言うことは聞いてくれなかった。

 武田信玄などもそうだったようで、部下から尊敬されることに腐心していた。
 
 

 戦前の軍隊でも、山本五十六(連合艦隊司令長官)の有名な言葉に、

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
 

というものがあります。

 

 戦前の軍隊という絶対服従のイメージのある職場でも、上官が言ったから部下が何でも聞いてくれる、なんてなかったのです。

 これだけ、丁寧に関わって初めて人は動く。

 人というのは、やはり基本的には「面従腹背」なのです。

 

 ただ、面従腹背なのですが、そのほうが結果として、「素直だ」と捉えてもらえたりする。
 「面従(表面的には従っている)」しているためです。

 人間は心からやり取りをしているわけではなくプロトコル(外交儀礼)でやりとしているので、プロトコルに従っていれば良く評価される。
 

 普段、挨拶しているだけで、罪を犯した人でさえも、「あの人はいつも挨拶してくれて、いい人そうだったけどね~ 残念ね~」とご近所の人から言われるものです。

 

 それに対してトラウマを負った人はどうか?
 「面(反)腹()」という感じで、人の言葉をそのまま受け取りすぎる。心からやり取りしようとしてしまう。

 他者が大きく見えているので、へりくだりすぎてしまったりして、ちょっと言われた言葉を大きく捉えてしまったりする。

 会社の会議でも指摘があると、黙ってしまったり、深刻に受け止めすぎてしまったり。

 
 人に振り回されることに疲れているし、傷ついてもきたので、本当は距離を取りたい、人の言葉に動じない強い自分になりたいと思っています。心からやり取りしたいと思っていたりもする。
 結果、それが表情に現れて「面(反)」となり、上司から「なんだ、気に入らないのか」となって、「あいつは素直じゃない」と悪い評価されてしまう。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 本当はめちゃくちゃ素直で柔軟なのですが、それが仇となるのです。

 

 ノーチェックで相手の言葉を通してしまうことで、公的環境ではなく、私的環境になってしまって、相手の理不尽さ(ローカルルール)を招いてしまう、ということもあります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 TVや本で取り上げられている活躍しているプロフェッショナルを見ると真に受けて、実際の責任以上に仕事を引き受けてしまう。

 活躍している人は、それを支える環境があったり、負の側面もあるのですが、そのことは見えない。
 (もちろん、TVで取り上げられる人の中には自己愛性パーソナリティ傾向のあるワーカホリックな人もたくさんいますが)
 
 表面だけ真似して、すごく気を利かせたり、何でも自分の責任だと捉えたり。
 

 とても頑張っているのに、
 「~~さんは、最初はいいんだけど、結局は駄目だね」と悪く評価されてしまう。
 

 頑張ってその結果ですから、もうどうしていいかわからなくなる。
 自信をなくして、人や仕事が怖くなったりしてしまいます。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

    →「あなたの人間関係の悩みの原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 ちょっとしたことから始まりますが、「面従腹背」と「面(反)腹()」というように、トラウマを負った人と、健康な人とでは、見えている世界が180度違っていたりするのです。

(参考)→「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 仕事や対人関係の基本は、「面従腹背」。そして、自分の体の範囲より大きな責任は負わない。 

 しっかり「面従」はする。

 

 「面従」というのは、挨拶であったり、ポイント、ポイントでの愛想であったり、「OK,BOSS(かしこまりました)」といったり、などプロトコルに従うということです。
  

 そうしていれば、自他の区別もちゃんと保てますし、人からの評価を得ることもできます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「いい人」には意識してなるものではなく、環境の集積である。

 
 昔日本は戦争に負けましたが、補給を確保することを怠ったからだと言われました。

 軍隊もいくら強くても、補給が続かなければ闘うことができない。

 よく考えれば当たり前のことなのですが、目先のことに目が行くとプロでもそのことがわからなくなってしまう。

 ナポレオンも補給がうまく行かなくなり破れてしまいました。

 当時は、現地調達で食料などを確保していたそうですが、フランスは侵略者であると考えられるようになり協力が得られなくなったり、
敵が先に食料を奪うなどして調達できなくなってしまいました。

 

 

 企業活動も同様に、インスタグラムやLINEとそっくりにまねて作れば誰でもすぐに追いつけるかと言えばといえばそうではなく、それをささえる「しくみ」がないとだめだと言われます。

 

 ラグビーやサッカーなどの球技もそうですが、得点シーンだけを見ると、得点をとった人の手柄に見えますが、何手も前から始まっていて(多くはボールを奪うところなどから)、パスを繋いで繋いで、囮になる人もいたりして、結果点が取れる。

 

 反対にミスも同様で、ゴールキーパーやディフェンダーは点を取られる場面にいるので一見すると犯人にされることがありますが、実はそれ以前に周りのサポートがなかったり、そもそもフォーメーションがうまく言っていなかったりして、その結果ミスが生じる。

 さらに、普段の練習環境がどうか、チームとしてのサポートがどうか、経営はどうか、など、実は多くの要因が関係している。

 最近なくなった野村克也さんなども、「強くなるためには(選手、監督以前に)フロントが大切」といったようなことを言っていました。

 

 

 このブログでも繰り返し述べていますが、人間は環境の生き物です。

 環境で殆ど決まっているといってもいい。

 

 「いい人」である、ということもそうです。

 いい人とは、その人の性格、気質のことではありません。
 
 実はその人を取り巻く環境の集積物です。 

 
 例えば、ストレスフルなコミュニケーションがあった際に、巧みに応答することができれば、「神対応だ」ということになります。

神対応のうらには、その人を支える環境、仕組みがある。

 家族のサポートであったり、友人の言葉であったり。いわゆる“愛着”というものであったり。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 もっと言えば、身体のコンディション。睡眠不足、栄養不足、運動不足では良い対応はできません。

 特に睡眠不足になると人間は余裕がなくなり、すぐにおかしくなる。
 (子どもはてきめんで、人が変わったようになってグズグズになりますが、大人でも同様です。)

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 「いい人」になれる、というのも、環境の集積物で、意識してなれるものではありません。

 環境の支援がないまま、意識して「いい人」になろうとすると、どうなるかといえば、過剰適応になり、生きづらさを抱え、ローカルルールに支配されてしまうことになります。
 
 補給が続かない軍隊、チームのアシストのない選手、会社のサポートがない社員のように疲労困憊して潰れてしまいます。

 

 もっと言えば、「いい人」になると意識している時点で、ローカルルールの影響が働いている可能性が高い。
(ローカルルールに巻き好もうとする人にとって、都合の“いい人”になっているだけだったりする)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 人間は、発達の過程で、エゴを等身大にし、反抗期を経て自他の区別をつけ、社会的な役割を得て、公的人格として、健全な形でエゴを表現できるようになります。

 こうしたプロセスも、「いい人」を支える仕組みです。

 

 この仕組みがないまま頑張っても、上に書いたように、ローカルルールの奴隷になるだけ。

 人を支配するために一番狡猾な手段は、支える環境を奪ってしまうこと。

 もともとトラウマとは、ストレスに拠るダメージももちろんですが、支えてくれる環境を奪われてしまうことです。
  
 家族であったり、仲間であったり、社会であったり。

 

 支えてくれる環境を奪われながらも、「頑張れ」「努力しろ」「ちゃんとしろ」というメッセージが飛んでくる(メリトクラシーといいます)。

 

 支えてくれる環境がないまま頑張った結果、補給が続かず敗北し、「はい、負け犬、決定!」「さあ、支配する側に従え」とされ、ローカルルールの呪縛が強まってしまいます。

 意識高い系と言って、努力する人が揶揄されるのもこうしたことを警戒してのことではないかと思います。仕事ができる人というのも環境の集積物なのに、意識を高く持とうとすると、逆に変なものに支配されしまう。
 

 

 大切なのは、環境を整えること。
 家族など他者はコントロールできませんから、自分の体内の環境をしっかり整える。

(参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる

 ガットフィーリングから来る感覚を大切にする。  

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」

 感じたことを表現する。

 自分の体の輪郭を越えた責任は負わない。

 他人の心の中は覗き込まない。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 
 体内の環境を整えながら、エゴから出発して、ローカルルールに反抗して否定して、自分を表現していくことで、プロセスが整ってくる。

 

 そうした先にほんとうの意味で「いい人」はあるかもしれませんが、意識していい人(できる人とか、頭のいい人、とかも含む)になろうとすることは要注意。
 ローカルルールにとって都合の“いい人”になるだけです。

  

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。

 

 ルービック・キューブという玩具があります。ある面にある色が移動して6面体を完成する。

 著者の子供の頃にはすでに流行ったあとで、はじめてみたときはどういうからくりになっているのか、と不思議でした。

 一つの色を動かすと別の面の色も動いてしまうので、子どもには難しかった思い出があります。
 

 

 世の中もルービック・キューブ以上に、多面体で多次元でできています。

 一面だけではありません。多次元のバランスで成り立っている。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 しかし、流行りのダイエットみたいに、ある一面を取り上げて「これが正しい」とやると、とても大きな変化が出るように見えることがあります。
 (全体主義とかファシズムなどです。個別に言えばハラスメント、ローカルルールもそうです)
 
 その効果は一時的で結局元に戻ってしまいます。

 

 ある一面のルールを取り上げて、これが正しい、として押し付けるのは、その背後には私的な情動が潜んでいて、ローカルルールと呼ばれる現象ですが、とても効果があって、正しいように見える。

 それは正しいから効果があるのではなく、極端だから一時的にバランスが崩れて変化あるように見えるだけ。

 

 いじめで、「お前は~~だ」という決めつけも、一面的だから、その場では効果がある。
 たしかにそのとおり、だと思えてしまう。

 そのことを真に受けると、ローカルルールの呪縛にかかってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 特にトラウマを負っている人の特徴には「真面目さ」というものがあります。

(参考)→「過剰な「まじめさ」

 真面目さ、というのは、実はその方の気質による、というよりも「安心安全の欠如」からきます。
 安心安全を奪われると、目の前にあるルールを守らざるを得なくなる。

 発達障害の方などが融通がきかなかったり、真面目なのも、“そういう人だから”ではなく、身体の安心安全感が低いからです。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴
 

 

 トラウマの場合は、マルトリートメント(不適切な養育)によって安心安全を奪われ、そこに、同時に、親のローカルルールを強いられる。

 過干渉、過保護も同様です。本来の気質に反して親の意向(ローカルルール)を強いられることはトラウマを生む持続するストレスに当たります。

 
 さらに、自分の気分でルールを押し付けてくる親を見ていますから、
ルールを守らないことはそんな親みたいになる(親みたいになりたくない)、という反感を持つようにもなります。
  
 
 それがかえって、ルールを守らされることにも繋がります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 ローカルルールは単に知識としてではなく内面化していますから、内は守り、外は敵視されたりもします。 

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」 

 

 親への反感は潜在的に持ちながらも、ほんとうの意味での反抗ということには全くならず、なぜか内を守らされている。

 

 いろいろな自己啓発本を読んだりとか、すごいとされる人の言葉を真に受けては、それも半ば、破ったら悪いことが起こるのでは、というジンクスのような捉え方をしてしまう。

 

 何気ない他人の言葉でさえも、神からの託宣かのように、真に受けてしまう。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 いつしか、ルールは自分の中心にはなく、外側にあって、自分を支配するかのようになってしまっているのです。

「ローカルルールなのだから、破ってしまおう」とはできなくなってしまう。守らされてしまう。

 

 悪法でも法は法だ、とでも言わんばかりに、ローカルルールの呪縛というのはなかなかに強力です。

 罪悪感や真面目さなど、さまざまな要素を悪用してきます。

 特に「ルールを破る」ことへの抵抗感は、なかなかのものです。

 

 ローカルルールを打ち破るために、本来のルールとはなにか、について知っておくことは役にたちます。
 

 

 社会学者の宮台真司氏が書いた「子育て指南書 ウンコのおじさん」という本があります。
 子育て指南書 ウンコのおじさん

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルの通り、子育てについて書いた本です。 

 その中に、こんな言葉が出てきます。

法を守るよりも、むしろ法を破ったときの共通感覚によって、仲間とそうでないものとを分けるのが人類のもともとのあり方です。

 

昨今は、そんな共通感覚が消え、誰が仲間か不明になりました。だから、法を少しでも破った人をみんなで名指しして「炎上」し、擬似仲間を演出するのです。

 

大人になるとは昔から、社会に生きるのに必要な共通感覚を身につけることでした。」 
 

法を破っていいから「殺していい」にはならない。これはやりすぎです。」「どこまで法を破っていいか、つまり「許されるの法外はどこまでか」「どこまでが共通感覚のうちか」とも言いかえられます。これは経験から学ぶしかありません。

 

親が「殺していい」と言ったから殺すのなら、子どもはクズです。親ごときの言葉を真に受けているからです。

 

法に過剰適応した人は、自動機械みたいにコントロールされます。母の肯定に過剰適応した人が、自動機械みたいにコントロールされるのと同じです。

 

法への依存や母への依存をやめれば、言葉の自動機械であることをやめられます。そのことで「もっと人になれる」のです。

 「僕たちの本体は法の外にあります。」「仲間かどうかは、法外のシンクロでわかります」「仲間を守るために法を守り、法を破ります。」「本当の正義は、法外にあります。
 

 

 

 筆者も最近読んだのですが、ローカルルールの嘘や、それを破るためのヒントが隠れている、と膝を打ちました。

 上記の本によれば、法(ルール)とは、それを「守る」という片側だけではなく、「破る」という反対の片側と、両側で成り立っている、というのです。

 

 たしかにそのとおりで、私達は日常では、そうした破ることも含んだ裁量の中で生きています。

 特に、「ここまでは破っていい」というまさに安心安全を背景にした共通感覚で、そこにこそ社会とのつながりが生まれていってよい。

 

 反対に、「ルールは絶対に破るな」というのは、まさにローカルルールの命じるところで、そうしたことは嘘であることがわかります。

 

 なぜなら、社会とは多元的であり、多様であって、一元的に「こうするべき」とは決めることができないからです。

 

 刑法や民法などは、日常の外苑を囲うもので、健全な社会であれば、個々人の思想信条や生き方には口をだすことはしませんし、できません。

 そこにルールを張ろうとするのはかなりおかしいのです。

 私たちが苦しむローカルルールは刑法や民法といったものではなく、
 身近な人達によって都合よく架けられた、私達の生き方を縛るルールです。

 嘘だというさらなる証拠として、そこには安心安全もないし、温かな共通感覚がありません。
 

 

 ローカルルールとは、片側だけの、映画のセットのようなものです。
  
 本物であれば、それを「破ってもいい」ということとセットで両側でなりたっているもの。

 あるルールを守るというのは、多元的、多面的な社会の中で、ある一面に閉じ込められることを意味します。
 多様さを感じることができない。

 ローカルルールに呪縛されている人にとっての社会とは、一面的で自分を拘束する恐ろしい存在として感じられます。

 本来、社会はローカルルールの呪縛から解き放つためのフィールドでもあります。
 
 しかし、そこにアクセスできない。
  
   
 そのためにローカルルールに留めさせられてしまいます。
 (いわゆるひきこもりという現象などもこうした背景があると考えられます。)

 

 

 筆者も、昔働いていた職場でモラハラを行う人達を見ましたが、共通する手口が、「ここまでは破って大丈夫」ということで成り立っていた共通感覚を壊すということ。
 
 それまでは裁量で良しとされてきたことを、「これはルールだぞ」ということで衝立をたてるようにして、相手を追い込む。

 突然のことで驚いた被害者は、確かにルールを破っているので反論できずにマウンティングされてしまう。
(「あなたはルールを守れない人だ」とでも言われて、ウッとなったらもう抜けれなくなります。「さあ、私の指導に従いなさい」となります)

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 家庭でも同様で、本当は破ることも含めてしつけは存在する。

 子どもは賢いですから、守破離というように、しつけを守らせたあとは、破って離れてしていいわけですが、ローカルルールによって縛る親は、「絶対破るな」として片側だけのものにしてしまう。

 しつけも、本来は「破ってもいい」という反対サイドも含めて両側で成り立っているはずなのです。

 

 職場でも、活力のある職場は、破ってもいいということを含めて文化、風土は成り立っているはずで、そこに自発性、自律性も存在しているのです。

 「宗教のような職場だ(家庭であれば)機能不全家族だ」と言われるかそうではないかの差は、そこで展開されるルールが片側だけか、両側も含めてのものか、にあるのかもしれません。

 

 

 本来のルールというのものは、全て一度破るためにある。
 ルールは破らないと自分のもの、そして共同体のものにはならない、ということです。

 個人の発達のプロセスでもそれが二度あります。反抗期です。

 反抗期を経た人が、法を破って反抗すると愚連隊になるわけではありません。大人になる。
 むしろ、反抗期を経ないと大人として発達しきれないように、ルールはまず破る必要がある。

 破ることで両側から支えられる、多元性を獲得できる。
 

 

 
 ローカルルールをどうしても守らせられて、
 「ルールだから破るとなにか良くないことが起こるかも」と思ったら、とりあえず全て破ってみる。

 
 「~~しなければならない」と頭に浮かんだら、中指立てて、「NO」といってみる。

 もし、偽物(ローカルルール)だったら、壊れるし、
 本物だったら、共通感覚が生まれて、腑に落ちる感覚が芽生えますから、安心しておいて良い。

 (いずれにしても頭の中にあるルールは基本すべて偽物ですけれどもね。)