親や家族が機能しているか否かの基準3~感情の受容と交わり

 
 

 親は、会社で言えば、ベテランマネージャーのように、暗黙のルールについてもポイントを把握している必要があるのです。

 機能する家族では、メンバーが「弱くあること」が許されます。
 そうして、弱さが都度、適切な形で消化される。

 

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

 

 これは、“弱い”メンバーに対してそうではなく、“一見強そうに見える”メンバーに対してもそうです。

 結局、世の中でうまくいっている人、強い人でも、そうあることができるのは、多くの場合、誰かがその人の”弱さ”のケアをしているからです。

 弱さを他人にケアさせることで成功や強くあることが成り立っている。

 
 夫が、妻に弱さをケアさせていたり、
 親が子どもにケアをさせていたり、
 部活であれば、上級生が下級生にケアさせていたり。
 会社であれば、上司が部下にストレスをケアさせていたり、

 例えば、会社で、仕事ができるとされる人が結構イライラしやすく、部下がいろいろと気を回すことで、その人が仕事がうまくいくことが成り立っていたりします。
 でも、当人たちはそのような構造には気がついておらず、イライラしやすいが仕事のできる上司と、怒られるその部下たち、というような感じになっている。

 クライアントさんの問診を伺っていても、幼い頃、父親が暴れていた。あるいは、母親が気分屋ですぐにイライラして振り回されていた、というような話はよく伺います。
 

 これらは歪に成り立っている機能であって、本来的なものではありません。
 

 

 本来は、それぞれのメンバーが弱くあることが許される、そしてそれぞれに受け止める風土があります。
 愚痴を言えたり、弱音を吐けることも大切です。
 そこでは、世の中の実際(人はみんなそれぞれ弱い)も正しく理解されている。
 ローカルルールによるマウンティングもない。

 本当に意味で愚痴を言えて、受け止められて発散できれば、それらは解消されていきます。
 前を向くことができます。

 反対に、悪い形の場合は、ローカルルールによって拘束された価値観から変に強くあろうとして、あるいは、発散できなくて抑えてしまうようになり、結局、回り回ってその弱さは負担のかかる形で別の人(子どもやパートナーなど)がケアすることが必要になります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 その押し付けられてケアの負荷は明らかにはされずに、ケアラーの側の不調とか、やる気が出ないとか、罪悪感というような形になり、以前の記事でも書きましたように、一見すると強者は何も問題がなく、弱者だけが問題があるからそうなっているという見え方になり、当人も何が問題かがわからなくなってしまうのです。

 

 機能不全の状態では、そうした「感情の受容と交わり」がなされずに、ただ、一面的な対応しかされずに、本人の弱さだけが非難されたり、ということが行われます。

 言っても無駄、となり、代替となる居場所を求めるしかなくなってしまうのです。

 機能している家族では、そうしたことが生じにくいものです。
 弱くあることが許され、ネガティブな感情も受容されます。
 ムツゴロウさんが動物とじゃれ合うような感じで、「よ~しよ~し」とするような交わり感があります。

 
 家族が機能しているか、自分の育った家族が機能していたか否か?という基準として、こうした、「感情の受容と交わり」があるか(あったか)どうかがあります。

 

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 

 

 

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家族は社会の最小(基本)単位足り得ない

 

 最近記事にしましたヤングケアラーの問題や、貧困、介護、といったことをみてもそうですが、はっきりしているのは、「家族」というのは社会の最小単位足り得ない、ということです。

(参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 

 特に日本では、まだサザエさんみたいな家を利用とするような「家族幻想」というようなものが根強くありますが、実は、“家族”ほど脆弱なものはありません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 ちょっとしたことで、機能不全に陥ってしまう、ちょっとしたことで構成員を巻き込んで、人生を呪縛してしまう。場合によっては、一生のうちのほとんどを家族に奪われてしまう、などということが生じてしまいます。

 介護といった問題ではそれがとくに顕著です。

 

 子育てにおいても、ちょっとしたことで機能不全に陥ってしまい、そのしわ寄せは子どもに及んできます。

本来は、もっともっと社会が担う必要がありますが、日本社会の設計上、両親がいて子どもがいて、という世帯単位の設計になっています。

 個人も決して強くはありませんが、実は、家族単位よりも個人単位の方がまだしなやかに動けたりするものです。

 これは、個人主義が良いからそうするのではありません。物事が機能するかしないか?という観点で捉える機能主義からその方がベターだからです。

 ですから、本来は、機能主義の観点から、個人を最小単位の基礎として、小規模な単位でのコミュニティがいくつも形成されて、機能としての“家族”が得られるようなものが良いのだろうと思います。
 (保守とされる政治家などを中心に、従来型の家族の形を壊してしまうとコミュニティが崩壊するというような考えや、制度変更の遅さから、なかなか進みませんが)

 家族は“結果”や“現象”であって、それを支える要件や守るべきアプローチポイントは、個人や社会の側にあるというとわかりやすいかもしれません。

 

 まず、私たち自身として、「家族は社会の最小単位足り得ない」ということを頭に置き、家族幻想や、親子幻想といったものからは自由になる必要があります。

 最小(基本)単位ではない、ということを知るだけでも、「ああ、じゃあ、別にこれを固守しなくても世間から指弾されるいわれはない」と思えますし、
「そうか、是々非々で、機能として満たされればお付き合いすればいい」とわかります。

 前回お伝えした『親不孝介護』でも、介護という機能は「他者」「専門家」に任せるという発想ですし、(そうは明示しては書いていませんが)「個人」を基本単位として「社会」が介護を担うということが機能としても妥当であることがわかります。

(参考)→「「介護」にまつわる呪縛によって自分の人生を失わないために」 

 

 

 

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「介護」にまつわる呪縛によって自分の人生を失わないために

 

 例えば、現代であれば、親の介護といった問題で沸き起こる、「親孝行」や「家族愛」といったものです。

 
 クライアントさんでも、親の介護に関連して、呪縛にかかるケースもよく見られます。

 介護では、通常でも、安全基地(愛着の対象)であるはずの親が老いていく姿に認知がついていけず、また、「自分が頑張ればなんとかなる」という自己の規範から親に怒りが湧いてしまって、親にイライラ、暴言、暴力を振るってしまうこともよくあることとされます。

 

 まさに、下記の本では、「親孝行の罠」として、そうしたことへの対処が書かれています。

 プロの介護士は、自分の親の介護はできない、ということを一番最初に習うそうです。つまり、介護とは親自身の人生、日常の営みであり、子どもや家族が親孝行や家族愛といった規範から行うものではない、ということです。

 「家族は、自分の家族の介護はできない」

 これは、決して裏技でも、トリッキーな割り切りでもなく、介護の世界では“常識”“本質”とされることです。
 
 
 しかし、「基本は家族が面倒を」というような俗な規範は世の中位を徘徊していますので、それにとらわれると「罪悪感」や「親への怒り」に心が呪縛されて、やられてしまいます。

 先日の記事でも取り上げましたヤングケアラーとなってしましまう。

(参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 介護は社会の力を借りて行うものであり、自分の人生を捧げて行うものではありません。
 子どもや家族は自分の人生や仕事を普通に過ごしながら、社会制度やプロの力を借りて行うことはできます。

 まさに、専門家は「家族だけで行おうとしないでください」「介護のために仕事をやめたりしないでください」と啓蒙しています。
  

 俗な規範にまつわる領域では、不全感(トラウマ)が触発されて正常な判断ができなくなります。
 専門家に相談できず、あるいはしても見たいものしか見れず、「内を守り、外を疑う」というようなことになりがちです。

 (参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 「他の家ではそうでも、うちだけは事情が違って、自分で面倒を見るしかないんです」と思っている場合ほど、ぜひ、お読みいただくとよいかと思います。

 

山中 浩之, 川内 潤「親不孝介護 距離を取るからうまくいく」日経BP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川内 潤 「わたしたちの親不孝介護 「親孝行の呪い」から自由になろう」日経BP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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俗な規範は疑い、相対化する(しっかりと距離を取る)

 

 現代の社会は、基本的に自助+基本は家族単位の公助+アクセスには手間とスキルがかかる共助を型に設計されています。
 

 高度成長期から残る家族世帯を単位とする社会制度の残滓+福祉社会になるにはリソースが完全ではないけども、うまく使えばそこそこには生きていけるという社会体制というかんじでしょうか。

 そのために、ある程度、心身に生きるためのスキルと免疫を身に着けていないと、社会の矛盾や、他者の困りごとや不全感を真に受けて自分のものとしてしまうと、それが生きづらさとなって襲ってきてしまいます。
 

 「全ては自分の責任と思え」なんていうのは、環境と支援が整った上でのルールであって、すべての場面で適応されるわけではありません。

 しっかりと、「そんなの私の責任・仕事と違うし!」「自分は自分で、他人は他人」とはねのけないといけないことだらけです。

 しかし、そうした状況がわからないままに、俗な規範を真に受けてしまうと、混迷に陥ってしまいます。

 

 規範(ルール、ノーム)というのは、薬のようなもので、適応される場面や問題は実はかなり限られています。

 さらに、それが健康に機能するためには、色々な状況や体質の方にも合うようになんども治験をして、副作用の影響がないように、洗練させていく必要があります。

 私たち個人の社会性にとっては、それが「成熟」というものです。

 

 

 しかし、世間の俗な規範や、個人のピュアな思いが、素材のままのこってしまうと、私たちの精神を呪縛してしまうのです。

 昔は、古典や修身と言ったことをつうじて、成熟を促す経路があったのかもしれませんが(昔もそれほどではなかったかもしれませんが)、
近代人、現代人にとって、成熟はかなり意図しておこなっていく必要があります。

 その成熟のための、いちばん大事なものは、「俗な規範の相対化」です。

そして、世間ではなく、社会に参加していく。本来の意味での社会の常識(知恵)に接続していく。

 その上で、社会的な人格として、自己を陶冶していく必要があります。

 

 

 もっとベタに言えば、成熟した大人になる、社会に揉まれる、騙されない知恵を身につける、といったことになるでしょうか?

 俗な自己啓発本や、ポップ心理学なんかは信用しない。

 芸能人など他人の成功談は、当然、盛られている。
 彼らはイメージで商売をしているのですから、そういうもの。

 楽しそうに旅行している写真というのは、楽しそうにキレイに撮っているだけ。
 なんで、旅行に行かなきゃ人生が充実していると感じられないの、この人たちは? と思ってみる。
(タレントの今田耕司が、有名人やのインスタグラムについて「ほとんど切り取ったニセモンの生活やもんな、あれな。8割そうやと思うで。8割あんなの切り取ったウソ生活やろ」「インスタだけ、撮影だけのためやもん。〝楽しんでる風〟を発信するための旅行とか、そういう職業になってるもんね」と言っていました)

 

 マスコミで話題の会社や人は、往々にして家計(会計)が火の車になっている。これもそういうもの。

 有名人と行かないまでも、それを模倣している人や、身の回りで“うまくいっている人”も同様です。

 
 あるいは、会社との関係についてもそうです。 
 会社というのは、献身するものではなく、契約関係であることも基本。
 フリーライダーという言葉がありましたが、これまでは会社も従業員にフリーライドしていました。
 だから、「仕事に自他の区別をつけずに働く」ことを推奨するような有名な経営者が書いた本なんて真に受けない。
 松下幸之助の本でさえ、“経営者の都合”で書かれているだけです。
 
 

 

 こうしたことは、斜に構えたことのように見えたり、冷めたように見えたりしますが、決してそんな事はありません。

決して大っぴらに言わないだけで、健康に生きる多くの人が、心のベースで持っている構え(生活者視点の保守主義/リベラリズム)です。

 こうした覚めた(冷めた)姿勢を土台に、表面を社会への基本的信頼で暖かくコーティングしている。そういうものです。

 今述べたようなプロセスを経るのが「愛着(アタッチメント)」あるいは、青年期に触れる「機能した大人たちの文化」というのものです。
トラウマを負うというのは、それらが自然に得られないがために、このブログでも言語化していますような、暗黙のルールを手動で再インストールしていく必要があるのです。

(参考)→「裏ルールを身に着ける方法はあるのか?

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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