なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 家族に対して責任意識や罪悪感を抱えていて苦しんでいる方は少なくありません。

 そして、クライアントさんとお話していて、しばしば尋ねられるのが、「別に家族は、自分に対して直接的に罪悪感を植え付けるようなことは行ってきたことはない。なのに、なぜ自分は罪悪感を感じているんだろうか?(つまり、自分で勝手に感じていることだから自分の責任では?)」といったことや、「親はむしろ、悪気はなくて、ただ、苦しんでいるだけで、それを見て自分はなんとかしないといけないと思っただけ(人として当然の感覚では?)」というようなことです。

 

それに対して、私は「いえいえそんな事はありません。陰に陽に、子どもに負担がかかるような構造があったはずです。罪悪感を感じるような環境があったということです」とお伝えしています。

 

ただ、そう、お伝えしても、すぐにピンとは来ないものです。

 

 こうした問題に対して徐々に日が当たるようになってきました。その一つは、2018年頃から登場した「ヤングケアラー」という概念です。

 

 その中でも、私も最近手に取りましたが、下記の本は、ヤングケアラーをテーマにしていますが、まさに発達性トラウマ、ハラスメントについて書かれた本といっても良い内容で、なぜかわからないけど(別に家族は自分に植え付けるようなことは事は言わなかったけど)、家族に対する強い責任意識、罪悪感を抱えて苦しんでいる方にとっても、とても参考になる良書です。
 
 なぜ、家族に対して責任意識や、罪悪感を抱えるようになるのかについて当事者の証言とともに言語化されていて、ぐっと迫ってくるものがあります。

 

 その中でも特に第一章で登場する、脳死の兄に対して、家族が機能不全に陥って「兄は生きている」という幻想に囚われた家族のもとで苦しんできたヤングケアラー(30代の女性)の語りは非常に参考になります。終章とあわせてご覧いただくとよいかと思います。

 あと、うまく支援に繋がって”解決”していった事例も多く書かれていますので、それも参考になります。

 

 ヤングとは若い人だけのことではなくて、成人以後でも、看病、介護が必要な家族や、働けていない親族が気になって罪悪感を抱えていたり、そのために自分も働けなくなっていたりするケースもあります。そうした場合にも、過剰な罪悪感や責任意識から過度に家族のケアにかかりきりになって、自分の人生が失われてしまっているケースは珍しくありません、。

 

 ケアには、「世話」だけではなく、「心配」というような意味もありますが、心配させられるという延長で、「罪悪感」や、いつ終わるともしれない他人の人生や困難をケアし続けなければならないということで、「支配」「呪縛」も含まれます。

 

 私が担当させていただいているクライアントさんの中には、ご紹介した本の1章の事例のように、死別や、親の機能不全のケアを行ってきて罪悪感を抱えているというそのもの、といういらっしゃいますが、それにとどまらず、トラウマを負った人というのは、実は、他者の不全感の「ケア」をずっと押し付けられているとも言えます。

 

 さらにいえば、親や兄弟が、学歴もあって、キャリアもあって社会的にも評価されているけども、そのための「無理」や「ストレス」のケアを、家族の中で一番、気が回る、本質が見える子ども(クライアントさん)が引き受けさせられてしまい、そのために「おかしなやつ」扱いされ、のけものにされる、場合によっては引きこもりや働けなくなる、心の病を抱える、ということも生じるのです。

 これも、一見すると家族はケアが必要な人には見えず、ただ、クライアントさんが働けずにだめな人のように見えたり、病気を抱えたり、本人もそう思い自信を失っていますが、実は、隠れされたヤングケアラー(成人も含む)と言えます。

 

 

 「自分は、実はヤングケアラーだったんだ??」「現在もケアラーではないか?」という視点で、自分の状況を捉え直してみるとトラウマを乗り越える手がかりにもなります。社会の構造から元々脆弱な家庭に負荷がかかり、機能不全になり、トラウマが連鎖し、というようなことも見えてきます。

 

 よろしければご覧ください。

 

村上靖彦「「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立」朝日新聞出版

 

 

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親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

 

 前回の記事の最後に触れましたが、病気や事故、死別といった不幸というのは最重度のストレスと言えます。

 そうしたストレスへの対処というのは、常識、文化、さらに霊性的なものへの距離感など、まさに、親や家族の「成熟さ」が問われる事象です。

 
 親だけではなく、親族や地域社会などの成熟さも問われます。

 非常に閉鎖的、封建的な地域、コミュニティだと、家族を支える力が弱く、むしろ「世間体」という檻となって覆いかかってくることもあります。

 

 親戚に中心となるような人がいれば話は早いのですが、そうした存在がが不在なことは少なくありません。一番年長の親族が、本来はドシッと構えて、親族を取りまとめないといけないのにそれができず、自分の不安から残された家族を責めるなどの幼い対応に終止してしまう、なんていうこともよくあります。

 これも機能不全と言えます。

 

 親が不慮の不幸に対して、機能せず、呆然としてしまったり、不安に陥ったり、代わりに新興宗教などに救いを求めたりする中で、親族の中で一番責任感のある聡明な若年者が、大人の代わりに家族、親族のストレスを一身に受けるような役割を背負うことがあります(アダルトチルドレン、ヤングケアラー)。 

 役割を背負った若年者、子どもがその頑張りを認められればまだしも、よくあるのは、その至らなさを責められたり、その子どもの責任だとされたり、さらに理不尽な理由で、都合よく大人の代替の役割を負わされてしまうことがあります。
 
 

 子どもも賢いように見えて、まだ子どもですから、子どもなりの視点で不幸な事象を捉えますので、ファンタジーや、因果を自分に結びつけて、無用な罪悪感を背負うことがあります。

 非日常的な大きなストレスへの対処をするのは、本来は社会の役割です。
 ここでいう社会とは、現在や過去も含めた文化の集積、(社会や文化的な意味での)宗教や、行政など様々なものを含みます。

 そうした支援がうまくいかないまま、特定のメンバー、子どもなどが背負うというとどうなるか?といえば、表層的な道徳をもとに過度な責任意識、罪悪感に還元された対応となってしまいます。

 そして、他のメンバーの分まで責任や役割を背負うような歪な様になるのです。

 元々無理に背負った役割ですから、至らない部分、できない部分が身体に負担として現れたり、うつやパニックという形で現れたりします。

 役割を背負わせている周囲から理不尽にに責められることもあります。 

 

 反対に、無気力や、白紙のような精神状態となって、不登校や多重浪人、職が定まらない、引きこもりという形で現れることもあります。

 
 こうしたことからみると、生きづらさや悩みというのは個人のものではないことがよくわかります。

 社会や共同体がなんとかしないといけないことが機能不全に陥ることで、個人のものとなってしまうのです。

 そうしたことを「個人化」といいます。

 生きづらい感覚の大本は、結局は社会や家族が負うべきストレスを自分が背負わされていることにあるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 親の機能不全という際に、愛着障害では、幼い頃の対応が注目されます。

もちろん、幼い頃の養育者の対応が安定しているかはとても重要です。
 

 ただ、親の機能が問われる場面、機能不全がより強く影響するのは小学校高学年以降に、人間関係や、関わる物事が複雑になってからです。

 
 機能不全というと、なにが機能不全なのか?どういった状態がそうなのか?というのが曖昧で見えづらいことがあります。

野球などスポーツの監督であれば、その点はわかりやすい。勝っているかどうか、若手が育っているかどうか、チーム内の雰囲気はどうか、など。
 しかし、家はそれがよくわからずに、自分が機能不全な家庭に育ってきたこと(トラウマを負ってきた)が見えづらいです。

 色々なケースを見ていると、基準の一端が見えてきます。今回はそれをご紹介したいと思います。

 機能不全が現れるものとして、まずは、「失敗(ハプニング)」というものをどう捉えるのか?ということがあります。

 機能不全な親の場合は、これを単なる失敗と捉え、子どもを責めたり、冷たく接したり、世間に対して恥ずかしいと捉えたり、他の子どもと比較したり、といったことがおきます。

 しかし、人生においては、失敗も当然ありますし、長い目で見たら、それが本来進むべき道を示す、向かう機会になることもあります。

 スポーツで怪我をして挫折したことで、別の習い事に取り掛かることができた、なんていうことはあります。

 受験でも、第一志望ではない学校に進学したことで、恩師、親友に出会えた、なんていうことはあります。
 特に、ギリギリ入学するということは、成績では下位からのスタートで、そこで挫折するなんていうことも実際にはあります。

 もちろん、勝負どころというのはあって、そこでは頑張る必要もありますが、社会では勝ち続ければ良いというものではありません。 

 うまく行かなければ方向転換する必要もある。

 自分が活きる場所があって、活きない場所もあります。
 
 
 よく科学などでは実験について、「実験に、失敗も成功もない」と言われますが、 “失敗”というのは、単に人間がそう意味づけしているだけで、自然から見たら単なるフィードバックでしかありません。
 ただ、試行したことに対して反応が戻ってきただけ。

 ですから、何かの取り組みを行って、“失敗”と感じるような経験があっても、それは、別の方向に行くべき、別の形で取り組む必要がある、というフィードバックということです。
 

 グッドルーサーになること、誤配(偶然が貴重な機会となる)が人生を決めていくということを子どもに伝えることはとても大切なことです。

 こうした「人生」「世の中」というものの本当のところ、勘所がわかっていないと、特に社会での複雑な問題に対処する際に親としての役割(機能)を果たすことはできません。

 よくあるのが、親自身が、コンプレックスや世間体に過度に囚われていて、世の中の実際がわからなくなっているケース
 自分の人生の代替に子どもを利用しようとしているケース。
 自分の不全感をはけ口として、子どもを責めるようなケース。子どもに嫉妬するようなケース。

 また、家庭内の環境がストレスフルなために、子どもが意欲を喪失したり、ミスが増えているのに、その環境の責任を、子どものせいだとして、近視眼的に捉えているようなケース。
 

こうしたことは、まさにトラウマの原因(ハラスメント)となります。

 「失敗(ハプニング)」の中には、病気や事故、死別といった不幸もあります。

 親が機能不全に陥ることで、大人が対処すべき親族の死別のストレスを子どもが一身に背負うなんて言うこともあります。
 

 
 失敗の捉え方や、その対処の仕方には、特に親の機能不全さがよく現れます。

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい

 

 生きづらさを抱えていると、自分の状態をわかって欲しい、理解、共感してほしいと望みます。

 

その際に、いろいろな事項がありますが、

 結局のところ、
 生きづらさを抱える人にとって、本当に言いたいことはなにか、といえば、「自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい!」ということではないか、と思います。

このことを言いたいし、わかってほしいけども、前回の記事でも書きましたような神話、虚構がそれを封じてしまう。

(参考)→「神話と虚構

 

 

「おかしいって思いたいけど、周りの人たちは自分よりも安定していて、社会でも活躍しているし・・」
「自分はこんな症状が出ていて、実際に働くこともままならないし・・」
「客観的に見たら、自分がおかしいし・・」

というように、

あるいは、人に自分の違和感を伝えたら、暗にあなたがおかしい、という反応が返ってくることもあります。それによっても封じられてしまいます。
 

でも、これらは虚構によって、ある条件下で、そのように見えているだけで、(他人は立派で、自分はおかしい)実際はそうではない。

例えば、家族療法などでも指摘されるように、家族の病理が一番弱いメンバーに病気として現れる、ということがあります。
 

あるメンバーがおかしいということがあることで、他の人が立派でいることができたりする。

では、病気のメンバーがおかしいか、といえば、もちろんそうではありません。

 

たとえば、アメリカ史の常識ですが、アメリカの民主主義は、黒人や先住民の差別することで白人がまとまることができ、成り立っていることは知られています。
そうしたなかで黒人は意欲も奪われ、低層にいることを強いられています。しかし、表面的には「やる気なんて、個人のせいだ。チャンスは平等なんだから自分が努力していない言い訳だ」として、マイノリティの人々はさらに追い込まれてしまうし、当人もそのように感じてしまう。

 

そうした状態で、生きづらさが抱えている人たちが言いたいことは、「自分の取り巻く世界はおかしい!」「わかってくれ!」ですが、そういう意欲も封じられるし、もともと意欲の高い人ほど、「自分のせいだ」と思いやすいので、言おうとしても、自分を監視する別の自分がいて、「そんなこというけどさ~」と言ってダメ出しが入る。

だんだん、本来「言いたいこと」が、当人もわからなくなってしまいます。そうして、「自分はここがダメなんです」「ここがおかしいんです」という話になる。

治療者や、支援者が「いや、家族がおかしいと思いますよ」といっても、「う~ん、ピンとこないんです」ということになります。

そうして、本当に言いたいこと(自分の取り巻く世界はおかしい!)が奥底に押しやられてしまい、解決が遠のいていってしまうのです。

近年話題のオープンダイアローグなどは、関係者の対話が劇的な改善をもたらす、ということですが、じつは、こうした「自分の取り巻く世界はおかしい!」という理解が進むからではないか?

あるいは、対話を通じて、取り巻く人たちが「まともになる」からではないか?修正されているのは、周囲の人たち(世界)ではないか?と感じます。

 

 

「発達性トラウマ」でも取り上げた、自殺が少ない地域では「病は市に出せ」が合言葉ですが、病気は、取り巻く世界のおかしさからやってきているから、それを世界に返す、ということではないか?

トラウマとはわかりやすく言えば、環境、他者の闇(ストレス)を抱えてしまうこと、と言えます。
個人の視点で見ればストレス障害+ハラスメントであり、社会の視点で言えば、社会、環境問題ということになります。

 

親が問題なら親が問題だと言って何が悪いのか?

環境が悪いなら環境が悪いと行って何が悪いのか?

原因を原因というのは、とっても科学的な態度ではありませんか。

逡巡している間に自分のせいにされていることになぜおかしさを感じないのか?

 

 

もしかしたら、「自分の取り巻く世界はおかしい!」と言えて、生きづらさを社会に押し返すことが、改善のためのキーファクターと言えるかもしれません。

 

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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