自分の情けなさ、わけのわからなさ

 

 私たち人間というのは本来は非合理的なものです。
 
 というより、生き物ですから、社会的に見た合理非合理の以前に、生物としての衝動であったり、情動であったりそうしたものでできています。

 幼児などはまさに、そんな衝動や情動の塊のような存在です。

 大人から見たら、理由のわからない、ときに理不尽に思えるようなことで成り立っています。

 そうしたものが社会化されて整っていくことで「自分」になるの、というのはこれまでも書いてまいりました。

 しかし、適切に社会化されるためには、理由の分からなさや衝動、情動というものがしっかりと受容されなければなりません。

それが「愛着」というもので、安心安全である、という感覚を生みます。

 
 私たちは、一貫性ということを重んじます。

 それを利用したものが、例えば、営業や販売などで、「Yes、Yes」と言わせていって、だんだんと断りにくくさせていくようなテクニックがあります。

 理屈では買うしかないような理屈で固めていくわけですが、一方で私達の中には、わけのわからない感覚があって、「理由は説明できないけど、断ろう」という気持ちもあるわけです。

 悪い意味での社会的な体面、面子を優先して自分の衝動を殺してしまうと、断れなくなってしまう。

 体面上の、「一貫性」「合理性」「理由がわかる言動」ということを優先すると、相手の理屈や都合に拘束されてしまうわけです。

 

 理屈で動くのも人間ですが、それはあくまで一面であって、状況に応じて、わけがわからないもの、情けないもの、といったそれ以前の状態と行ったり来たりできる事が必要です。

 愛着がある、ということは、自分の情けなさ、わけのわからなさ、といったものが受容される感覚がある、ということです。

 わけのわからなさ、情なさが受容されないと、他者の都合や偽の責任、役割に拘束されてしまう。

 極端になると、その都合や、役割、立場に人生を拘束されてしまい、そうするしか仕方がないとして、息苦しいまま生き続ける、あるいは、立場からずれて情けなさを露呈した自分を消すために、命を絶ったりということも生じます。

 対人関係でも、こうした情けなさ、わけのわからなさ、ということが土台になります。

 内部では、情けなさと、わけのわからなさ、をエネルギーとしながら、社会的な規範によって、整えられたコミュニケーションをアウトプットしていく。

 ですから、とても柔軟ですし、自分中心でいることができます。

 
 遺伝子の世界でも、従来は、遺伝子こそ生物の情報決める本体で、それ以外のものは、不要なゴミのようなものとして扱われてきたとされます。
 しかし、不要とされた領域こそ重要な役割と果たしていることが最近わかってきています。

 同様に、私たち人間も、わけのわからなさ、情けなさ、どうしようもない情動の部分こそが大切で、そここそが、本来の自分を形成するリソースが含まれています。

 精神分析の世界では、そうした領域を「特異性」と読んだりします。
 自由連想で、思いついたわけのわからない連想は、その「特異性」に光を当てるために行われたりするわけです。
  

 悩みから抜けて、本来の自分に立ち返るという場合に、邪魔になるのは、他者の評価や意図、規範の圧力です。
 

 意識で想定される「立派な自分」「本来の自分」に立ち返ろうとすると、結局は、社会における俗な立派さ、本来さ、に影響されてしまいます。

 
 そうではなく、否定(排除)しさろうとしてきた、情けなさ、わけのわからなさ、ということにこそ、「本来の自分」のリソースがふんだんにあるのです。

 

 

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