愛着的世界観とは何か

 

 これまでの記事でも触れてきました愛着的世界観とは、どういったものでしょうか。

 愛着的とは、自分を取り巻く環境については、「安心安全である」ということを土台としています。
 
 その上で人間については、「弱く、不完全である」という価値観をもっています。

 自分は弱く、不完全であるが、ある人々は強く、完全だ、ということではありません。

 「人間」というのは、貴族であろうが、ノーベル賞受賞者であろうが、大企業のトップであろうが、金メダリストであろうが、高僧であろうが関係なく、すべての人間ということです。

 

 このブログでも触れてきましたように、まさに「落語の世界観」ということです。

 すべての人が、だらしなく、いい加減で、弱い、ということです。
 人間の理性には限界があって、すべての人は感情や欲、見栄といったもので動いている、と考えます。

 もちろん、ときに崇高さや、ヒロイックな行動を人間は取るわけですが、それもあくまで感情や欲を消化(昇華)した先にあるものと考えます。
 粋(いき)といった概念はそうしたものに近いかもしれません。頭ではなく、身体から発せられたような感覚です。

 

 この人間の弱さ、不完全さ、とは、前回の記事でも触れましたようにDoing(行動)レベルのことです。

 存在レベル(Being)は、等身大で、環境の安心安全(愛着)によって守られている領域です。
 

 そのため、愛着的世界観の中では、「自分は罪深い」とか「根本的におかしい」といったわけのわからない自信のなさ、や罪悪感といった感覚は基本的にありません。

 意思やエネルギーは有限であり、欲が満たされれば飽きる、やりすぎれば疲れる、人に対しては、人は皆それぞれ違う、合わないなら仕方がない、合わないことは自分の存在とは関係しない、といった感覚。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 行動レベル(Doing)と存在レベル(Being)とは分離しています。

 

 「善悪、正邪、無限」ではなく、「差異、弱さ、有限」といったさっぱりした感覚。

 理不尽さに出会っても、それは、人の邪悪さからではなく、人の弱さ、違いからのものだと捉えます。

 勉強や仕事においても、物理的な世界への信頼があり、着実に取組めば答えはあるだろうし、なんとかなるという感覚があります。
 もちろん、交渉や競争など相手があることについては、平均的な勝率+αを普通とします。 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす」「物理的な現実への信頼

 

   
 人間というのは弱く、不完全である、という人間観が「すべて」の人に及ぶため、人からの言葉や攻撃というものが、自分の存在レベル(Being)に及ぶことがありません。そのような筋合いや権限は誰にもないからです。
 

 

 つまり、行動レベル(Doing)で、人間は弱く不完全なもの、とする人間観によって、存在レベル(Being)の安全も保たれるのです。
   
 
 具体的には、「安心安全」を土台として、等身大の人間観、世界観を育んでいく、そして、社会の中で位置と役割を獲得していくことで、通常は確立されていきます。

 

 その中では、「愛着」や「仕事」の役割は大きく、成長の段階で踏み外すとなかなか大変なことになります。
 自分だけでなせるものではなく、家族や社会の役割、サポートの必要性はとても大きなものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて
 

 
 以前ご紹介した、社会学者のマックス・ウェーバーの予定説をもとにしたテーゼは、こうした愛着的世界観のプロテスタント版と言えるもので、存在レベル(Being)を神様が予定している、とすることで、ニセの責任を免責し、存在レベル(Being)の安全を担保する。
 そのことでDoing(行動)レベルでは、しがらみなく力を発揮できる、というものであると考えられます。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 
 
 ローカルルールとは、反対に、人間を強く、完全なものである、とする世界観です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 ローカルルールを作り出した胴元の人が、ルールの創造者としてあたかも完全であるかのように振る舞い、Doing(行動)レベルで不完全であることをBeing(存在)レベルの不完全さの証拠であるとして、目の前の人を裁いて支配する、というものです。
 ローカルルールの胴元は感情的で理不尽であり、呪縛をかけられた側は、過度に客観的、理性的になります。感情への嫌悪、恐れがあります。

 「善悪、正邪、無限」の一元的な世界です。

 
 呪縛をかけられた側は、存在レベル(Being)の不完全さという呪縛を、Doing(行動)レベルでの完全さで挽回しようとして、どこまでいっても果たすことができずに、さらに呪縛の縄が強く絞まる、という悪循環に陥ります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間が強く、完全なものである、という世界観では、主権は他者に奪われてしまうのです。

 愛着的世界観には、「こうあるべき」という思想はありません。
 健康に発達する中で感取される現実からくるものだからです。
 

 生物学者が、植物、動物を見るように、人間のそのままを見ている、というものです。

 

 前回の記事でも例としてあげましたように、カラスを見て、その存在(Being)が呪われている、だなんて、誰も思いません。
 そのため、カラスの存在(Being)にはなにも問題はありません。
 しかし、カラスは完全な生き物であるわけではもちろんなく、習性や行動(Doing)は、弱く不完全なものです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 
 人間も同様で、その存在(Being)が呪われているものなど、一人もいません。しかし、行動(Doing)は不完全で、弱いものだ、ということになります。

 弱く不完全なものだという観点からは、誰も他者の存在を云々する権限はなく、たしかな自他の区別があります。
 もちろん、その発する言葉も不完全なものですから、戯言として流すことができます。

 

 

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存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間とは、弱く、間違いをおかすものでもあります。
 人間はいい加減で、だらしがなく、まとまらない存在。
 よく「落語の登場人物のよう」といわれますが、こうした人間観、世界観は、「愛着的世界観」です。 健康な人にとっての見え方です。

(参考)→「非愛着的世界観

 では、弱く不完全であるということは、その存在がだめだということを表しているのでしょうか?

 そんな事はありません。

 その存在自体はなんの罪もなく、誰もが尊重されるに足ります。

 

 

 「もともと呪われている」「もともとがだめだ」というような考えというのは偽りで、滑稽なことです。

 

 例えば、カラスを見て、「カラスは呪われた生き物だ」なんて考えている人がいたとしたら、いつの時代の価値観なんだ!?と思われるでしょう。

 

 私たち現代人は、科学的な価値観を持ち合わせていますから、「カラスだってひとつの生き物だ」「いろいろな特徴や習性はあるが、それと存在の正邪は関係ない」と考えるでしょう。

 

 つまり、行動(Doing)と、存在(Being)とを分けて捉えていて、
 存在(Being)になにか根本的な問題がある、という考えはとりません。

 ゴミをつついたり、鳴き声がうるさくて迷惑をかけていたとしても、カラスは単なる生き物。存在(Being)自体にはなにも問題はありません。

 

 
 もちろん、存在(Being)にはなにも問題がない、からといって、カラスが完璧な生き物だ(生き物でなければならない)というわけではありません。

 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして、両立します。
 

 

 人間も同様です。

 冒頭に書きましたように、人間の行動(Doing)は、弱く、不完全です。間違いをすることもあります。
 しかし、それをもって、存在(Being)が「呪われている」「邪悪だ」ということを意味しません。

 人間においても、 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして両立するのです。

 
 愛着的世界観、健康な人間観では、存在(Being)は、行動(Doing)とは、全く別のものとして捉えられています。
 
 
 だから、安心して失敗できる。安心して自己開示できる。人を特別恐れることもありません。
  
 

 

 しかし、虐待とか、ハラスメントというものは、存在(Being)と行動(Doing)という別次元のものを無理やりつなげようとします。つながっているように見せる、刷り込む、そして行動(Doing)の不完全さによって存在(Being)の不完全を証明する、というトリックを行います。

 

 例えば、行動(Doing)の不完全さ、未熟さを取り上げて、存在(Being)がダメだと叱責する。
 子どもが失敗したことを取り上げて、「あなたは生まれてこなければよかった」といったことをいう。
 部下が失敗したことを取り上げて、「お前なんか、社会人として失格だ。クズだ」と暴言を浴びせる、といったようなこと。 

 

 健康な状態では別れていたはずの存在(Being)と行動(Doing)が繋げられて、しかも、存在(Being)が不完全だと思わせて呪縛にかけます。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 ここからがさらに厄介なのですが、ハラスメントを仕掛けられた人(被虐待者)は、その状態から抜け出そうと努力をします。

 努力というのは、行動(Doing)によって行われます。

 しかし、存在(Being)と行動(Doing)はもともと別次元のものであるために、いくら行動(Doing)を頑張ったとしても、存在(Being)のキズは癒やされることはありません。なぜなら、種類が違うから。

 

 存在(Being)のキズは、そもそも、呪縛によって仕掛けられたものなので、行動(Doing)よって挽回されるものではなく、あくまで、呪縛自体を覆しにかかる必要があるのです。

 

 しかし、そのことがわからないまま、行動(Doing)によって挽回しようとして、へとへとになってしまいます。

 特に、存在(Being)の完全性を取り戻すために、行動(Doing)レベルでも完璧さを求めて、絶対正しい、絶対に間違いのない、という領域を目指そうとして、挫折を繰り返すことになります。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 さらに、人間の本性は、行動(Doing)レベルは、弱く不完全なもの、ですから、どこまでいっても不完全なままです。うまくいったとしても、ゴールポストを動かされてしまえば、成功も失敗と判定される。

 「やっぱり、自分は存在自体が不完全なんだ、だって行動(Doing)レベルの証拠があるもの」となって、さらなる呪縛へと落ち込んでしまうのです。

 

 トラウマの裏には、存在(Being)と行動(Doing)との間違った接続、同一化が存在しています。

 

 

 

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「どうせ言っても無駄だ」と言葉が重くなると、まわりまわって人の言葉がスルーできなくなる。

 
 言葉偏重 ということには、いくつもの事が影響すると考えられます。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 それは、ローカルルールというものが、現実ではなく私的な感情を覆い隠すために「言葉」でつくられているということ。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 なんら現実に足場がなく、言葉やイメージによって自分の価値が左右される理不尽な経験を通じて、言葉を信じるようになってしまう。

 例えば、「~~ちゃんは、意地の悪い子ね」なんていうのも、単なる言葉でしかありません。

 自分の物理的な実態は何ら問題がないし、揺るがないはずですが、
 言葉に振り回される経験をすると、現実や事実よりも「言葉」ということが重んじられ始め、言葉やイメージの世界(空想界)に巻き込まれるようになります。

 さながら、陰謀渦巻く伏魔殿のように。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 そして、それを後押しするのが、前回も取り上げましたように、「自分はおかしい」という根源への疑いです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源
 
 それは、虐待やハラスメント、愛着によってもたらされます。
 
 生じた根源への疑い(ニセの責任)を免責するために、解消するために、言葉を求めようとするのです。

 人の言葉にその解決の鍵があると思ってしまう。

 イメージの世界に巻き込まれている、ということも相まって、さながら他人の言葉が事実であるように、救いであるように感じてしまう。

 しかし、救いにはならず、さらにガツンとやられて、苦しむようになってしまいます。
 

 

 こうしたことに加えて、「言葉偏重」を促進する要素としてもう一つあるのは、「言っても無駄」と言った感覚や、「言って誤解される恐れ」というものがあります。

 自分が誤解されたり、理不尽が生じたりした際に、「どうせ言っても無駄だ」「言ってもなんにもならない」と思い、口を閉ざしてしまう。

 あるいは、自分が発言したことでその内容を無視されたり、「~~さんてキツい」とか「~~さんて言い訳が多い」などと、自分が意図したこととは全く異なる受け止め方をされた経験が重なる。
 

 

 すると、もう二度と誤解されまい、と言葉が重くなってしまう。
人といるときも口数が少なくなったり、他の人がワイワイとおしゃべりに興じているときも参加できない。

 重くなるとどうなるかといえば、結果として言葉の価値が高くなってしまう。
 喉が詰まるような感覚が生じ、発言したくても発言できなくなる。

 とっさに言うべきときに言えなくなってしまう。

 (ペラペラしゃべているときは、人格がスイッチして、躁的になってしまっているだけだったりします。 本来の自分として気軽にしゃべることができていない。)
 

 トラウマケアをしていて、のどに反応が出るケースが多いのは、こうした事も影響していると考えられます。

 親から、「~~は、減らず口ね」「生意気ね」なんていわれて、親に反抗しないように、仕向けされてきた、ということもあるかもしれません。
 映画「千と千尋の神隠し」で、魔女に主人公が口にチャックをされるシーンがありましたが、まさにあのような感じ。
  

 言葉を奪われている。
 独裁国家のように、まさに言論を奪われる。
 

 自分の主権を奪われたような状態。主権がなくなると、言葉は重~くなる。

 

 本人は、それを、自分は言葉を大切にしているからだ、なんて思っているケースもありますが、それは本当の信念ではありません。
 言葉を大切にしているのではなく、ローカルルール(他人の嫌な言葉)を守らされているだけ、主権を奪われているだけです。

 

 

 昔、筆者が、大きな会社に勤めていたときに、社内風土改革の取り組みがありました。その際にアンケートに答える機会があり、同僚が「大切なのはおかしいことに対して声を上げることだ」と書いているのを見て(聞いて)、「そんなこと意味あるかなあ?」なんて懐疑的に思っていたことがありますが、まさにそれは、この「言葉の重い状態」に染まっていたから。

 

 政治的な動きしかしない上層部とか、パワハラとかを目の当たりにしていたので、「言っても変わるわけない」という気持ちになっていたことで、言葉が重くなっていた。でも、それが回り回って、言葉の価値を高くして、自分が苦しむことになっていたのです。

 

 自分は絶望して言葉を放棄して(奪われて)、そうではない人は気ままに言葉を使って好き放題に言っていたりする。言葉が重くなると並行して、言葉の価値が重くなり、その言葉にやられて自分が悩み苦しむ、というおかしな構図。

 絶望するというのは、単になにかの価値観を放棄して“無”価値になるのではなく、ローカルルールの世界観に染まること、入会するということ。言葉が重くなるというのも、同様に、ローカルルールの世界に入会しているということ。

 そして、入会に際して、自分の主権はローカルルールの主に預けることになります。“言葉の重さ”の背景にはこうした事がある。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 言葉を重く捉えたり、大切にしてはいけません。言葉の価値がどんどん重くなって、他人の言葉にやられてしまいます。

 
 言葉とは軽く、戯れに使うものです。
 大切なのは現実。言葉の価値はとことん低くあるべきものです。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 価値があるのは、言葉を扱う人の側にあるのです。言葉には価値がなく単なる道具であり、無価値なものです。

 
 できるかぎり、戯れに、さっと発せられるものであって、そのためには、言葉の自由、主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

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「言葉」への執着の根源

 なぜ、なんの筋合いもない親とか友人の言葉を真に受けてしまうのでしょうか?なぜ、「言葉」偏重になってしまうのか?

(参考)→「「言葉」偏重

 

 全く資格も実績もないのにも関わらず。

 ズガーンと言葉が入ってきてしまう。
 
 ボクサーが脳やわき腹にパンチを食らったように、クラクラして、その日一日その影響でなにもできなくなるくらいに。

 

 

 よく考えてみると、これが営業とか販売でこんな事が起きたら、こんな楽なことはありません。
 営業マンや販売員の言葉が即、胸に突き刺さるのであれば、売る側はとても楽でしょう。
 

 でも、実際は、買う側も良い意味で疑いの目で見て真偽の吟味していますから、かんたんには買ってくれません。

 健康な状態とはこうしたもののはず。
 タイミングが合って、ニーズも満たされて、納得も得られれば、契約成立、というのが本来のやり方です。

 

 しかし、こうしたことを破るような間違った販売方法というのもあります。
 それが押し売りとか、脅迫めいた売り込みであったり、あとは、閉じ込めて集団心理を悪用して買わせるといった方法。
 
 まさに、機能不全の家族というのは押し売りのような空間と言えるかもしれません。

 

 さらに、マインド・コントロールを使った方法というのもあります。

筆者も、大昔に「マインド・コントロール」という本を読んだことがあります。いわゆる自己啓発セミナーの内実が書かれたものです。

 マインド・コントロールとはどのように行われるか、といえば、参加者にグループを作らせて、そこで、メンバーの欠点や悪い印象を互いに言い合いをさせます。すると、徐々に自我の土台が揺らいできます。
 
 自分が何者なのか? 自信と思っていたものが崩れてくるのです。

 

 そうしたあとに、「感謝」だとか、「利他の心」だとか、冷静に見れば陳腐なお題目を提示すると、不安になった参加者はそれにすがるようになります。
 健康な状態であればチェックして弾かれるはずの言葉が、ガーンと脳に入ってきます。

 最後に、自分の家族や知人が登場して拍手して、感動のフィナーレといったものです。

 
 こうしたものは人間の心理を悪用した詐欺的な手口ですが。

 
 かつての中国の洗脳もこうしたものに似ていますが、もっと緩やかで、その分強力なものだとされます。

(参考)→「「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 共通するのは、常識とのつながりを絶ち、「自分はおかしい」と思わせることです。

 「自分はおかしい」と思わせることで、それを覆すための手段をなんとか得ようとします。
 そうしなければ、この世に存在することができないような根源的な不安を感じてしまいます。

 

 覆すための手段が、新しい価値観の実践です。
 新しい価値観を実践することで免責、免罪される、というなかで、ローカルルールを受け入れていくのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 親や友達の言葉を真に受けたりこだわるのも、同様であると考えられます。

 原罪のように、「自分がおかしい」ということが根源にはあり、それを免罪するための方法として、身近な人の「言葉」があるように感じる。だから、わかっていてもスルーすることができない。

 受け入れたくないけど、執着しちゃうのは、それをしないと「この世にいることができない(存在してはいけない)」と感じているから。

 

 

 もう一つの側面は、愛着の問題。
 愛着というのは、特定の人(多くの場合は母親)との絆ですが、
 幼い頃のスキンシップなどで育まれるとされます。

 親の様々な都合で、そうしたものが得られない、あるいは過干渉すぎる、といった場合に、「不安定型愛着」「愛着障害」といった状態になります。
 
 愛着という安全基地がなく安心安全を感じることができないのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 この「安心安全」とは、身体的、物理的なものですが、精神的には「自分はおかしい」あるいは「この世に存在することができない」などと感じられる。
 (「安心安全」がないだけなら、警備会社に頼むか、保険に入るか、ボディガードを雇えばいいですが、それではおさまらない。)
 

 「自分はおかしい」とか、「この世にいることができない(存在してはいけない)」といったことは、もちろんニセの責任によるものです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

  
 愛着という身体的な問題からも生まれるし、虐待、ハラスメントなどの社会的な要素からもやってくる。
 

 このニセの責任の呪縛からなんとか逃れようと、免責されようとして、人の言葉に執着をしてしまう。自分にまつわる、全く根拠のないおかしなことでも真に受けて、信じてしまう。

 人の言葉に救いの鍵、答があるように、免罪符のように感じられて、そこにヒントを求めてしまう。

 でも、実際にそれは幻想ですから、言葉からハラスメントをさらに受けるような格好になってしまい、苦しみ続けてしまうことになります。

 

 

 

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「言葉」偏重

 

 SNSが普及した現代では、ニュースや投稿に様々なコメントが寄せられます。
それぞれのコメントなど真に受ける人はいませんが、量や勢いで圧倒されて「炎上」ということが起きることはあります。

 

 かつてのインターネットがない時代では、世の中に自分の意見を言える人というのは、それぞれの分野でそれなりの実績があり、発信する資格があると認められていた人達に限られていました。

 出版社やマスコミ、各種団体等がそのフィルタになっていたわけです。

 人間の言葉とは常に戯言でしかありませんが、かろうじて意味があると認めてもらうためには実績、資格が必要だったということです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 近所のおじさん、おばさんが世間話で、政治や哲学を立派に語っていても真に受ける人はいません。

 「そうなんですね~」と言いながらスルーしています。 
  

 居酒屋で偉そうに武勇伝や説教をしている酔っぱらいの話を聞いて、真に受ける人もいません。
 

 スポーツなどで、あまり上手ではないのに「教えたがり」の人がいますが、それもそのまま真に受ける人はいません。

 

 それぞれに共通しているのは、「(それを言う)資格がない」ということです。

 人間の言葉とは、何を言うか、ではなく、「誰が言うか(資格、筋合いがあるか)」です。
 

 上記の近所のおじさんが「安倍首相はね~」というのは、内容は正しいかもしれません。でも、正しくても真に受けたりはしないものです。

 

 それは、健康な状況では人間は、「言葉」ではなく、「態度」や「資格」「筋合い」に目を向けるからです。もっといえば、物理的な現実を見ている。

 言葉ではなく、その「実態」を見ている。

 

 言葉は立派でも、そこに劣等感や嫉妬などを感じ取れば、それは、「劣等感」「嫉妬」なんだと捉えます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 近所のおじさんが「あなたはね~」と言っても、真に受けたりはしない。

 「安倍首相」が「あなた」になっただけで、近所のおじさんがそれをいう「資格」「筋合い」がないからです。

 この「資格」「筋合い」の範囲というのは、思っている以上に狭いものです。

 基本的に、なにか契約とか権限がなければ言うことはできません。

 
 どんな立派な人でも、通りすがりの人を捕まえて説教をたれたりすることはできない。「なんの筋合いでそんな事を言ってきているんだ?」でおしまいです。

 

 電車の中などで、マナーの悪い人に注意する、ということでも、よほどわきまえてないと、トラブルになってしまうのは、「筋合い」が明確になりにくいからです。
   

 街中で人に関わる、というのは、「僭越ながら」という弁え(わきまえ)がないと成り立たないと言えそうです。

 

 

 では、家族同士はどうか?といえば、実はこれも基本的には同じです。

 家族といえども別の人間。

 夫婦などがわかりやすいですが、意見が通るためには「やることをやっていないと」いけなかったりします。 

 「やること」とは、夫としての機能(役割)、妻としての機能(役割)。
 しかもそれは時代とともに微妙に変化もしていきます。
 
 家のことを何もしないで、夫(妻)が妻(夫)に対して偉そうなことを言っても、話が通るわけがありません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 あと、例えば、キッチンなど妻の領域については、基本的には夫の意見は通らない。そこは権限(なわばり)外だからです。
 (家のこともしっかりやっていれば、聞いてもらえる一時的な資格は得られるかもしれませんが・・・)
(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 機能不全家庭に育ってトラウマを負ってしまった人は、その「資格」や「筋合い」がわからず、家のことはしないまま、妻や夫に実の母や父の役割を求めて怒り出したりして、混乱を起こしたりすることはよくあります。
 
 さらに、何が問題かわからず、「相手は頑固だ」とさらにイライラしてしまう。でも、それは相手が頑固なのではなくて、町中の人に説教するのとおなじく、資格、筋合いがないから耳をかさないのです。

 

 

 親子でも同様です。

 基本的には別の人間同士であって、さらに子どもは今は未熟でも将来は一人前の社会人として独立することが予定されていますから、過度に価値観を押し付けたりする筋合いは、実の親にもありません。 

 かつては生みの親というものの価値は低く、「~~親」という社会的な役割はたくさんありました。
 子どもは共同体で育てるもの、という考えもあるように、「血が繋がっている」というだけでは、ほとんど正統性はありません。  

(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 親は、自分の価値観を伝えるのではなく、社会の常識を自分が翻訳(代表)して伝える役割である、と言えます。

 さらに、子どもの年齢(発達の段階)によって関わり方も変わってきますから、柔軟に対応していかなければなりません。 

 

 うまく関わればよい(質)のではなく、関わる時間(量)も必要です。
  
 そうしてようやく、子どもに何かしら、偉そうなことを言える権利は発生します。でも、聞くか聞かないかは子ども側の権限です。   

 子どもは、反抗期には精神的に直訳していた価値を殺して独立していきます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ここまで見たように、何かを言うためには、資格が必要で、それ以外の言葉は受け取ってもらえません。

 
 「友達からなにか言われて傷ついた」という場合も、相手には言う資格がありませんから、もちろん「意味のない音」としてスルーする。

 愛着的人間観は、「人は皆、だらしがなくて、いいかげんで、どうにもまとまらないもの(人は弱い)」というものです。

 誰も自分を棚に上げて、他人のことを言うことはできません。

 立派に見える人でも、そう見せているだけ。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 社長を継いだ二代目が社員から認めてもらえずに苦労した、という話はよくあります。社長という肩書があっても、その役職に足る力があると認めてもらえなければ、部下も言うことを聞かないのです。

 戦国武将などもそうであったようで、部下の武将から認められるように常に心を砕いていた。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 親もそうで、親として日々機能していなければ、子どもも言うことを聞かないのは当然のことです。

 「とにかく、お母さんの言うことを聞きなさい!」というのは、「資格がないけど、私の私的感情をのみ込んでくれないと、居ても立っても居られないのよ」といって恐怖で言うことを聞かせているだけです。

 

 人が他人に介入できる場面というのは、本当にごく限られたもので、よほどの実績と筋合いと、さらに相手の同意とがなければ成り立たないものです。

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 
 野球では“超”がつく実績があるイチロー選手ですが、実は、マリナーズでは孤立して、最後は逃れるように移籍していったことがありました。どうやら、ストイックな態度がチームメイトから反発を買ってしてしまったようです。

 

 サッカーの元日本代表で、かつてローマなどで活躍した中田英寿選手がいましたが、ドイツワールドカップの日本チームの中では、海外の経験からこうするべきと主張するものの軋轢を生み、孤立してしまったようです。

 

 あれだけの選手でも、チームメイトの同意、つまり、相手の領域を尊重するといったことがなければ、その話(意見)を真に受けてもらうことはできない、ということです。

 

 実績で劣る選手でも同じプロ同士、「イチロー選手のご意見であればなんでも承ります」とはならないものです。

 

 自他の区別が厳然として存在していて、
 そこで人に何かを云うためには、資格、実績が必要。
 さらに、すごい実績があったとしても、相手の領域を尊重することがなければ(関係性ができなければ)、耳を傾けてもらえなくて当然。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 つまり、人間は、そもそも人の意見などは聞く筋合いはない、というところからスタートしているということです。相手がいくら偉い人でも、自他の区別の境界は絶対です。境界を明け渡すことはありません。

(参考)→「他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。

 

 これは会社の中であっても同様です。社長でも実績がなければ部下は言うことを聞かないのですから。
 

 かろうじて耳を傾けるとしても、せいぜい話半分で受け入れる、ということが人間にとっては健康なスタイルだ、と言えそうです。

 

 イチロー選手や中田選手の言うことでさえチームメイトは耳を傾けなかったのに、なぜ、私たちは、はるかに実績の劣る親や友達の言葉(おかしな理屈)を真に受けなければならないのでしょうか?
 

 

 しかし、ローカルルールとは、恐怖や不安とかなり変な理屈とで、こうした手続きを壊して、全権を委任したかのように、「すべての言葉を真に受けろ」という形にしてしまいます。

 

 変な理屈とは、「親子だから」「上司と部下だから」「あなたはおかしいから」とか、冷静に見れば、なんの根拠にもならないような因縁のことです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そして、いつの間にか言葉をやたらと真に受け重んじるような「言葉」偏重の状態、さらには言葉=現実としてしまうのです。

 

 

 

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