非愛着的世界観

 

 トラウマを負った人の特徴として、「非愛着的世界観」をもつ、ということがあります。

 

「非愛着的」というのは、簡単に言えば、

 ・自分の周りにはひどい人ばかり

 ・人を信用できない

 ・人に対して敵対的 人を侮る感じ

 ・人は自分をバカにしたり、攻撃してくるものだ

 ・人は狡猾で、自分を支配してくる

 ・人は自分を騙す

 ・人が怖い

 ・世の中は安心安全ではない
 
 といったもので、社会恐怖や対人恐怖が特徴的な世界観です。

 

 これらは、不適切な養育環境やハラスメントの結果として心が歪んでしまった、というふうに考えられてきましたが(もちろんそれもありますが)、最近見えてきたのは、こうした「非愛着的世界観」は親であったりハラスメントを行う人間の価値観を内面化した結果生じているのではないか?(世界観そのものが他者のものではないか)ということです。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 トラウマの結果として人が怖くなってしまったのだと思っていたけども、実は、よくよく分析してみると親自身が人を怖がっていたり、人を信用していなかったりして、そのことが言動の端々に現れていた。
 自分に対して厳しく接してきたのも、実は子どもの自分を怖がっていたり、不信感があったというケースも珍しくありません。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 それは親(ハラスメントを仕掛けてくる人)が抱える不全感からくるものですが、不全感を「おかしいです」とは自分では認めることは難しいですから、「これが常識だ」「正しい考えだ」とおかしな理屈でコーティングすることになります。それがローカルルールというものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ただ暴力や暴言を浴びせられるだけでは人間はそれほどダメージを負いません(暴力は痛いですけれども)。「くそっ」と反発するだけです。
 

 ハラスメントがやっかいなのは、「自分に非がある」と考え、相手の価値観を内面化させられることです。これがもっとも深いダメージをもたらします。
 内面化した価値観を相対化し、自分の無罪を勝ち取るために、長い長い旅に出かけなければならなくなるのです。

 

 

 内面化した価値観は、その前提となる世界観も含まれます。
 
 相手のおかしなローカルルールを成り立たせるために、その背景となっている「非愛着的世界観」も受け取ってしまうことになります。真面目な子どもは、おかしな親の価値観も一生懸命内面化しようとしてきたというわけです。

 

 
 たとえば職場でも、上司や同僚が狡猾な気がして、自分を利用しようとしてくるように感じる、とか。

 プライベートで出会う人の言動が自分を馬鹿にしているように感じる、とか。

 自分自身もなぜか人に対してイライラしてしまう。 
 その背景には、人を信用していない。世の中には理不尽な人がいて、その人に対する強い侮りや反発心、恐れがあることを感じる、といったこと。  

 

 

 たとえば、自分の状況を説明する仮説も真に受けて、過剰に人を恐れる材料としてしまうこともあります。

 「支配者」という概念などもそうで、自分が相手から否応なくネガティブな意識を流し込まれ、気持ちを覗かれ、コントロールされるかも?という不安をいだいたりしています。
 概念とは、あくまで人間が作り出した仮説であって真実ではありません。解決のための道具がとらわれを生むのでは本末転倒です。

 

 共通するのは、人というのは何やら不気味で恐ろしい存在であると感じているということです。

 

 

 「非愛着的世界観」に影響されていることに気がつけないと、本来であれば切らなくていもいい人間関係まで切らされてしまったり、治療者との関係も断たれてしまったりするなど、本来であれば自分を助けてくれるはずのリソースからも遠ざけられてしまいます。
(参考)→「ローカルルール人格はドロップさせようとすることもある。」「目の前の人への陰性感情(否定的な感情)もローカルルールによるものだった!?

 

 なにより、「非愛着的世界観」が自己成就するかのように、そのとおりの事態を招いてしまいます。
 (例えば、関係念慮のように何気ない仕草を疑ってみたり、不信感を持った態度で接して必要のない反発を招いたり、といった事態)

 

 

 これらのことも、自分の考えでそのように見ている、というよりは、他者の「非愛着的世界観」を内面化した結果として起こっていると捉えると、これまでなかなか拭えなかった対人恐怖や社会恐怖についても解決の糸口が見えてきます。

 

 しつこくつきまとっていた他者への恐れも、実は自分のものではなかった、ということがわかると、細かく自分の症状を解消する、というよりは、世界観そのものを古いカーペットのようにベリッと剥がして巻き取ってしまえばいいという感覚が立ち上がってきます。
  

 
 自分の見ている世界観や人間観そのものが、実はあれだけ反感、軽蔑していた親のものと同じではないか?受け継いでいるのではないか?と分析してみると、悩みを解決するためのとても大きな発見があります。

 

 

 

自己開示できない!

 

 自己開示というのは、トラウマを負っていると結構難しいものです。 
 筆者も昔、「あなたは、全然自分のことを話しませんね」「他人のことばかり話していますね」といわれて、驚いたことがあります。

 自分としては、話しているつもりだったから。

 でも、おそらく、他者についての話題や時事ネタを話しているだけで、自分のことはなにも話していなかったのでしょう。

 もっと言えば、「私は~」(Iメッセージ)とは全く言っていなかったのかもしれません。

 

 それは、自分のことを話すと突っ込まれて嫌な思いをするから、という不安であったり、あるいは、うっかり自分のことを表明すると悪者にされるという恐怖であったり、また、親などのローカルルールを内面化しているために、ただ、「自分の言葉を奪われていた」ためであったりしたのだと思います。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 本当は自己開示したほうが「自他の区別」はついて、他者から干渉されない安全が手に入るのに、怖がって、ローカルルールを真に受け続けているために、いつまでたっても安全が手に入らない。

(参考)→「「理屈」をつけるとローカルルールに支配される~「認知」と「思考」も分けて、さらに自他の区別をつけるトレーニング

 

 勇気を出して「自己開示」しても、よくみると、「私は~」になっておらず、いつのまにかローカルルールの理屈を表明しているだけになり、「あなたはきつい」といわれて、傷ついて落ち込んで、「二度と自己開示するもんか」となってしまう。

 自由の手がかりであるはずのものを勘違いして、手放してしまう。

 まるで、アニメや映画で呪いをかけられた主人公のようです。

 

 前回もお伝えしましたが、ほんとうの意味での自己開示と、他者の理屈に影響された言葉とは、似ているようでいて全く異なります。

 ほんとうの意味での自己開示は、「私は~」で始まり、自分の考え、感情から始まっていて自他の区別がついています。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 

 

 一方で、他者の「理屈」に影響された言葉は、「私は~」では始まらず、単に「You’r NOT OK」の表明でしかありません。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」「「You are Not OK」 の発作」 

 

 そのため、自己開示ではなく、単に「毒を吐く」ようにしかならない。

 自他の区別がついていないと、自分の感情を発散させているようでいて、結局他者の理屈≒不全感を代わりに吐き出しているようにしかなりません。

 「理屈」がついていますから、その「理屈」によって他者からの干渉を呼び込んでしまうことになります。

 

 

 私たちは思っている以上に、他者の価値観(理屈≒ローカルルール)を直訳して影響を受けています。そして、「私は~」という、自分の言葉を奪われています。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 
 カウンセリングにおいても、極端に言うと、自分の言葉でなければ、たとえばいくらそれをカウンセラーに聞いてもらってもおそらくなんにもなりません。なぜなら、それは「自分の言葉」ではないのですから。

 

 自分はあたかもウイルスに感染したパソコンみたいに踏み台にさせられて、ただ他者の理屈を吐き出さされているだけになってしまっていたりする。

 しかも、まちがって共感されでもしたら、呪いから逃れられにくくなってしまいます。

(参考)→「共感してはいけない?!」 

 なかなか難しいですが、そこに気づいて、呪縛から逃れる必要があります。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

なぜか自分だけが「きつい」とか「おかしい」と言われてしまう。

 

 人見知りであるとか、人といると億劫だ、人とうまく話すことができない、といったお悩みを持つ方は多いです。

 コミュニケーションの問題だ、とか、対人緊張が原因だとかいろいろなことは考えられますが、

 その背景には実は、そもそも自分の考えや感情を素直に表明することができない、ということがあります。

 

 もちろん原因としては、親の悪口や、変な指摘をされてきたためにローカルルールの影響もあります。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 自分の意見を表明すると親が変な指摘をしてきたり、価値観を押し付けられてきたから。

 あるいは、テレビを見ていて、親がいつもテレビに出ている人に文句を言っていて、「こういう行いはダメなんだ」とその影響を受けてきた。

 自分の意見はうかつに言わないようにしようと決めてきた、ということはよくあります。 

 

 自分の価値観だと思っていたことは、実は、親のローカルルール(不全感)でしかないのに、それに気が付かずに、ずっと忠実に守っているのです。
 そのために、自由に意見を表明することが今でもできなくなっていたりする。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 さらに、トラウマを負った人の悩みとしてよくあるのが、自分の意見を言うと、「変だ」とか、「おかしい」といわれてしまったり、「きつい」といわれてしまい、こわくなって自分の意見が言えない、自己開示できないということがあります。

 他の人は好き勝手に話をしているのにその人はなにも言われなくて、“自分だけ”が「きつい」「おかしい」と言われてしまう、というのです。

 

 

 その原因の一つはなにかといえば、“自分の”感情、意見を言っていないから。 

 親などから影響を受けた「理屈(不全感≒ローカルルール)」がくっついていて、それを表明している。

 本人は、自分の意見や考えを言っているように見えますが、自分のものではない「理屈(不全感)」がついているために他者にとっては侵害を受けているように感じられて、「きつい」と言われてしまう。

 ローカルルールは、「You’r NOT OK」でなりたっていますから、内容としてももっともに見えて他者にきついもの(「You’r NOT OK」)です。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 

 一方、反抗期などを経て一旦他者の意見を否定して、自分の感情からスタートして、自分の意見を言えるようになると、自分の意見や考えを言っていても、あくまで「私は~感じる」「単に私のものでしかありません(あなたには関係ないよ)」というメッセージとなります。

 言葉だけを見たら、きつく見えるようなことでも、他者は「きつい」とは言わず、反対に共感してくれたり、面白がってくれたりする。

 

 具体的に言えば、「芸能人の~~っていう人は嫌い」という同じ言葉でも、他者(親など)の価値観から発せられた言葉は、越境する理屈(同意しないお前は変だ、とか、自分の不全感にまきこまれろ)が暗についているため、それを聞いた人は、「きつい」といって眉をひそめたりする。
 (よく見たらわかりますが、「芸能人の~~っていう人は嫌い」という言葉は、ほとんどの場合「Iメッセージ(私の言葉)」になっていません。)

 

 

 そうではなく、自分の感情から発せられたなら、「あくまで自分の好き嫌いでしかありません」というわきまえがあるため、越境することがなく、それを聞いた人も、安心してうけとめることができる(受け止めても侵害されない)。そして、「私は好きだけど、私は~~が嫌い」といって会話を楽しむことができるのです。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 
 こうして、自分の感情からやりとりすると、自他の区別の中で安全に他者と意見を交換したり戯れたりすることができるようになるのです。

 なぜか、「きつい」とか「おかしい」と言われてしまうなら、他者の価値観(ローカルルール)を直訳していないか、影響を受けていないか、をチェックする必要があるかもしれません。

 

 

 

自分の考え、そして、感情が悪いものだとされてきた

 

 自分の考え、感情を感じることは「自他の区別」をつけるためには必須のものになります。

 
 人間とは「クラウド的な存在」。環境の影響を受けながら成長し、考えや感情で行動していますが、どれが自分のものでどれがそうではないかがわからなければ自他の区別のつけようがないからです。

(参考)→「人間、クラウド的な存在」「私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。

 

 

 成長する中で内面化した他者の価値観(理屈≒ローカルルール≒不全感)をそのままにしていると、自分の頭で考えているようでいて、実際は他者の考えを直訳しているだけになってしまいます。

 しかもそれは、不全感によるものであるために、「You’r NOT OK」や「Im OK」を得るために、他者を巻きこまざるを得ず、越境を引き起こすのです。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 自他の区別をつけるためには、越境を引き起こす要因を取り除き、自分の中で自足する必要があります。

 他者から影響を受けて直訳してしまっている不全感を区別して、自分から切り離していく。

 そのためには、自分の考え、特に感情を感じることはとても大切です。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 ただ、どうしても、自分の考えや感情を感じることにブレーキが掛かることがあります。

 その場合は、実は、過去の養育環境などで、「感情とは悪いものだ」と思わされたり、「自分はアテにならない(だから、自分の考えで考えたら間違えてしまう≒他者の考えに従わなければ)」とされてきたという場合がよくあります。 

 

 たとえば親などが不安定で、急に感情的になったりするような環境であったために、「自分はあんな感情的な人間にはなりたくない」と反面教師にしていたり、あるいは、自分の素直な感情を出したらそれを否定されてきたり。過干渉な養育者から考えを強制されてきていたり。

 

 

 マインドコントロールの手口に似ていますが、とにかく「あなたの感覚、考えはおかしい」となれば、自分の考えを刷り込みやすくなりますから、相手の足腰を折ることは、過干渉やローカルルールを押し付けるための前提となるのです。

 

 単に支配を強制するために「あなたの感覚、考えはおかしい」といっているにもかかわらず、真面目にそれを真に受けてしまうと、内面化した他者の価値観(理屈≒ローカルルール≒不全感)は、自分のものだと思いこんでしまい、取りづらくなります。

 

 「感情とは悪いものだ」「自分の考えはおかしい、当てにならない」という感覚の背景には、他者からのどういった影響があるのかも探ってみると、自由になるきっかけを得られたりします。

 子どもの感情を親がおそれていただけだった、とか、親が単に自分の不全感を発散させたいために行っていた、反面教師にしていただけだ、ということがわかれば、「感情は悪いものだ」ということを持ち続ける根拠はなくなります。

 

 自分の考え、感情を制約なく感じることができるようになれば、「自他の区別」を取り戻すことができるようになります。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 
 
 「理屈」を一度否定して、自分の感情を感じることの大切さをお伝えしてきました。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 自分の感情、考えから発したことについては、「ただ自分がそう思う」「そう感じている」ということですから、基本的に他人を侵害しないし、他人からも侵害されることはない。

 自分の感情、たとえば、「私はそれは嫌い」「私はそれが好きだ」「それが怖い」といったことは、その人が感じていることで、他人が「そんなふうに思うんじゃない!」とか、「それはおかしい!」とは言えないものです。そんな謂れはない。
 
 
 「ふーん、そうおもうんだね」というふうに本来しかならない。

(おかしいというのは、因縁をつけないとできません。)

 

 一方、「理屈」がついた場合は違います。

 「それは、~~だからおかしい」とか、「それは、~~するべきだから、なくさないといけない」といったことについては、「理屈」を通じて他人を侵害し、その「理屈」に反論されたりして、侵害されるおそれがあります。

 なぜなら、「理屈」によって、人間一般のことに話題が持ち上げられているから。「自分は人間一般(という架空の概念)から見て正しい存在だ。反対にあなたはおかしい」という争いになってしまうのです。

 

 自分の感情から発しているだけであれば、「人はそれぞれ違う」という前提があり、各人が独立した領域を保った状態で互いに越境し合うことがありません。

 ※国と国とが互いに異なる文化があり、どっちがいいとは言えないのと似ています。どちらが優れているというためには一般化する理屈が必要で、たとえば昔であれば「中華思想(華夷の別)」であったり、近代以降であれば「啓蒙思想」「人種主義」であったり。

 

 

 感情から発しているように見えても、言語化されていないだけで、暗に「理屈」がついている場合もあります。たとえば、相手を攻撃するために、「私はそれが嫌い」という場合。言葉には出していませんが、「私はそれが嫌い」ということのあとに、(あなたはおかしい)という言葉がついていたりする。

 この場合も、相手を侵害し、さらに相手から反撃される余地があります。なぜなら一般化してこき下ろそうとする「理屈」がついているから。

 

 

 相手を侵害する、あるいは、相手から侵害される ことを分けるポイントはなにかといえば、それは、“自分の”ということであるかどうか、ということがあります。
 
 相手を侵害する感情、あるいは理屈とは、ほぼ他者の感情や理屈をそのままにしている、ということがあります。

 それはなにかといえば、生きてきた中で受けた他者からの理屈や感情(≒ローカルルール)です。親や兄弟や友人など。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 しかもその理屈、感情は不全感によるものであるために、「You’r NOT OK」や「I’m OK」を得るために、比較するなどして他者を巻きこまざるを得ず、越境を引き起こします。

 それが、他者への支配、干渉といったかたちであらわれるのです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」「「You are Not OK」 の発作」 

 

 

 

 セラピーを受けたり、「理屈」を切り離し、自分の感情を感じるトレーニングなどをしていると、「自分のものと思っていた価値観は、実は親のものだったんだ?!」ということをしばしば経験します。

 “他者の”価値観、理屈、あるいは感情は、自他の別を越境し、他者を侵害していく。越境しているために反対に他者からの干渉、支配も呼び込みやすくなります。

 

 反対に、 “自分の”価値観、感情、は、他者を侵害する根拠(因縁)がそもそもありません。

 なぜなら、それらが成立するために「Im OK」と自己で完結しているためです。外に求める必要がないのです。

 

 

 アサーションのトレーニングでは、「Iメッセージ」で伝えましょう、というものがあります。「私は~ 」といった形で始める伝え方です。

 「Iメッセージ」だと、伝えにくいことも伝えられたり、相手の同意や共感を得やすくなったりするとされます。   

 

 自他の区別が保たれて、越境しないからです。
さながら、アイデンティティや基本的な物資が自足している国同士のように。

 それぞれ、「私は私」「あなたはあなた」といったかたちで、自他の別が保たれていることは、安心安全を生みます。

 安全が保たれた中でのコミュニケーションですから、安心して意見を交わすことができるのです。 

 
 多くの場合、相手が反対したり、同意しないのは、意見の内容についてではなく、自分の安全が脅かされるからです。同意すれば侵害される、と感じている。

 

 

 自分の中にある、直訳された他人の理屈や感情 を一旦すべて否定する。必要なものは自分で翻訳し直す。
 
 そして、常に、自分の「感情」からスタートする。自分の考えというときも、「好き嫌い」からスタートする。「理屈」からスタートしない。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 理屈で考えるとされる職業でも、実は「好き嫌い」からスタートしていたりします。

 将棋や囲碁の棋士も、最初に「直感」が降りてきて、後で検証するそうです。
 
 ビジネスの現場でも、コンサルタントや経営者なども、「ピンとくる」かどうかで判断していたりする。「理屈」はそれを検証するための道具でしかなかったりする。

 「理屈」からスタートすると多くの人を巻き込めなかったり、「理屈」に溺れたりするものです。

 自分の感情から発すれば、自然と「自他の区別」がついてきて、他者との関わりも侵害されない安全なものになってきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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