最近、いくつかのケースに共通して気がついたことですが、
社会を“外”、自分の家族や実家を“内”としたときに、
守る必要のない“内(ローカルルール)”を一生懸命守らされている人が多いということ。
“内”とは、特に家族から強制され、内面化されたローカルルールのこと。
これを一生懸命に守っている。
本人は、家族のことをちゃんと否定しているつもりでいる。
客観的に見ているつもりでいる。
でも、実際はそうではない。
さながら、家族や親の守護者・救済者、カウンセラーとして、家族の否定的な感情を癒やし、家族の期待に応え、家族の秘密を守らされている。
家族の秘密は、とんでもない極秘事項のように思わされて、大事に大事に守らされている。
(参考)→「理不尽さを「秘密」とすることは、トラウマ、生きづらさを生む」
“内”を守れなくなると、世界が崩壊する、といったくらいに感じている場合もあります。
一方、(家の)外に対しては、不信感があったり、疑わされて、一体が得られずに苦しんでいる。
そのため、カウンセリングを受けているし、治療者を信頼していないわけではないけど、本当の問題(内を守らされている、ということ)は俎上に乗っていない、なんていうこともあります。
なんてたって、“極秘事項”ですから。
実際に、その極秘事項というのは、他人が見たら、すごくもなんともない。
本当につまらないことだったりする。
(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。」
家族が安全基地だと思っていますが、実際はそうではありません。
家庭は、機能が正常に発揮されていないと安全基地にはなりません。
トラウマを負った人にとって、(機能不全の)家庭とは、緊張や呪縛をもたらす場所です。
(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている」
“内”を守らされていることで、一番良くないことは、自他の区別がつかなくなること。
自我というのは、自分の中に秘密ができ、家族を一旦否定し、社会に参画していくことで形成されていく。
自分を“内”として自我が確立していれば、社会に参画して自分も保ちつつ、他者と付き合うことができる。
(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる」
以前も書きましたが、本来の人間というのは、パブリックな場面においてはじめて可能になります。
自分とは、社会に参画して普遍的な何かを代表して、はじめて成立するもの。
一方、
家族を“内” そして、社会が“外”だとすると、
両者にまたがる自分の中に“内側”は存在しなくなってしまう。
さながら、家族のローカルルール自体が自分となって、自分がないために苦しみ。
さらに、社会に出ては、自他の区別がないために他者のローカルルールへの防壁がなく苦しむ。
ひどい場合は、パニック障害といった身体症状に現れることもある。
トラウマを負った人というのは、多くの場合、「自分がない人」です。
自分がないというのはつまり、自他の区別がなく、ローカルルールを代表させられている、ということです。
ローカルルールを代表させられているので、自分があるようで自分がない。
自分の中に“内”がなく、そのために、社会のストレスを浴びて、仕事ができなくなったり、対人関係に苦しんだりする。
いったん、家族から与えられた“内”(ローカルルール)を捨てる必要がある。
その上で、自分の中に“内”を作って、社会に参画していく。そうして、パブリックな存在となっていく。
人とうまく付き合うというのは、決して心の壁を取り払うことではない。
反対に、自分の内と外を明確にしていくことです。
(参考)→「自他の区別がつかない。」
ニセモノの“内”を懸命に守らされていないか、“外”を敵とされていないかどうか?確認し、自分の中に本当に自分の“内”を作っていくことで、生きづらさを解消していくことができます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
“外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。” への1件の返信
コメントは受け付けていません。