「人の意見を聞く」とはどういうことか?

 

 トラウマを負っている人に共通する意識として、「自分の言葉で話すと、自分はおかしなことを話してしまう」「自由に行動するとおかしなことをしていまう」という恐れ、自信のなさです。

 これがベッタリと心に張り付いていて、行動が制限されている。

(参考)→「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 
 自分が信頼できないから、外側にある基準に従うしか無い。

 

 
 自分の問題の原因が他者からのローカルルールの支配にある、とわかったとしても「ローカルルールがなくなったとして、じゃあ、自分で判断できるか?といえばできない」
「だって自分の判断で行動するとやらかしてしまうから」「自分がやりたいことをやる姿が想像できない」となってしまう。

 そして、また馴染みのあるローカルルールの世界へと引き戻されてしまう、という悪循環になっています。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 そこに、「言葉偏重」など様々な要因が重なって、なかなか脱出できなくなってしまいます。

(参考)→「「言葉」偏重

 本当は自分で判断して良いはずなのですが、そのことを心底わかるようになるにはなかなか時間がかかります。

 
 こうしたトラウマティックな世界は脇においておいても、私たちは外からの情報も吸収しながら生きています。
そうでなければ生きていくことはできません。

 ただ、外から情報を得る、人の意見を聞くとはどういうことなのか?についてはあらためて考えてみる必要がありそうです。

 

 

 

 筆者は休日にテニスのスクールに通っているのですが、例えばコーチから、「スロトークのときは腕はこうしてください。ボレーの構えはこうしてください」と言われます。

 テニスは“再現性のスポーツ”、“繰り返しのスポーツ”と言われて、正しい構えとか、身体の使い方というのがあります。

 だいたい、私たちが素朴に感じる身体の使い方とは反対の方向に身体を使います。コートにボールを落としたいのであれば、スイングは下から上にする。ボレーではラケットは振らないとか・・

 

 

 初心者の頃から同じアドバイスを何回も聞いていますが、身体が納得してそのとおりにするためには何年もかかります。頭でわかっているのですが、どうしても自分が慣れた打ち方、動かし方を選んでしまう。

 でも、ある時期が来ると、身体が納得したように動き方が変わる(これが上達のタイミング)。

段が上がるようになるわけですが、段が上がるそこでもまた同じようにアドバイスを耳にしてもそのとおりにはせず、身体が納得するまで時間がかかる、というようになります。

 別に聞いていないわけでも、頑固なわけでもありません。
 後から頭で思えば「もっと早くに言うことを聞いていれば・・」とおもうのですが、なかなかそのとおりにはならない。

 テニスのスクールのコーチとスクール生徒の関係というのは利害関係がなく、支配=被支配みたいなややこしいこともありません。 
とても程よく距離が取れている関係で、アドバイスを受け入れることに何のマイナスもないはずです。

 

 

 落ち着いて周りを見てみると、スクールに参加している人達を見ると、身体の使い方は本当に人それぞれです。お年を召した方や、若くても腰や膝が悪いという方もいらっしゃいます。

 だから、皆が同じようには動けない。

 身体は大きなシステムなので、腕の振りを変えるにも、下半身も含めて全体の調整が必要になる。
 そのシステム調整にけっこうな時間がかかるのだと思います。

 ですから、耳からのアドバイス脇においておいて、実際に身体を動かす中で身体で吸収して、コーチの動きを見て、自分でもいろいろ失敗しながら体験して、身体全体のバランスを整えて、変化する準備ができてから具体的な変化として現れる。
 
 
 人間というのは、耳から聞いたアドバイスで動いているのではなく、身体で吸収して、経験して、内側から必然性が湧いてきたときに初めて変化する、行動する生き物である、ということではないかと思います。

 
 私たちは、(特にトラウマを負っていると)「人の話を聞かなければ、自分は暴走してしまう」とか、「自分は独善的でおかしなことをしてしまうのでは?」と考えてしまいがちです。
(親が自分の言うことを聞かせるために、「あなたはわがまま」とか、「人の話を聞かない」と決めつけて、刷り込んだりすることも影響しています)

 

 しかし、そんなことはありません。
 身体は日常でも、様々な経験を通して、膨大な情報を吸収しています。そして、さらに私たちはそれぞれ社会を「代表」しています。  
(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能」 

 ですから、必要な変化というのは実は内側から自然と湧き出てくるようになっている(内的必然)。そして、それはおかしなことでも、やらかしてしまうことにもなりません。

 もちろん、「頭が固い」ということが頭が身体の気づきを邪魔するということはあるのですが、身体感覚に意識を向けて信頼することをしていれば、内側からくる変化の衝動は誰でも捉えることができます。

 

 

 

 「でも、内側から湧くことを待たずに、人のアドバイスを聞いてすぐに変化すればいいじゃない?」と思うかもしれませんが、
2つの面で、どうしてもそれはできません。

 

 一つは、上にも書きましたが、私たち人間は巨大なシステムとして心身がなりたっているということ。

 近年、人間そっくりのロボットを制作しようとしていますが、最新の科学で作られたロボットでさえもごく限られた行動を表面的に再現することしかできていません。複雑な人間をロボットとして作り出すことはまだまだ先の話です。それだけ人間は複雑だということです。

 メガバンクがシステム障害を起こしたことが新聞で報道されていますが、巨大なシステムになるとちょっとした変更でも不具合を誘発することがあります。
 (そのシステムを更新するだけで4000億円をかけて20年近い時間がかかっています。)

 もし、自分が乗る宇宙ロケットの仕様を打ち上げ直前に変更します、といわれたら「大丈夫?」と心配になると思います。何気ない変更でも思わぬ事故に繋がる恐れがあるからです。

 

 それは人間でも同様で、何かのアドバイスを聞いてすぐに変更するということはできないのです。あまりにも巨大なシステム過ぎるからです。

だから、変更するまでにはなかなか時間がかかる。

 

 「でも、職場では注意されたらすぐに行動を変えられる人がいるよ」と思うかもしれません。実はその人は、ダイレクトにアドバイスを聞くことができるのではなく、“(変化への消化吸収が終わっていて)準備が整った人”だということです。スポーツも同様です。
 
 だから、全く異なった次元への変化を求められるとすぐに対応することはできません。それなりに時間がかかります。
 プロのレベルになると、スポーツ選手等が下手にフォームを変えると何年も不調に陥ってしまうことも珍しくありません。

 

 

 人のアドバイスを聞いてすぐに変化することができないもう一つの理由は、人の意見というのはあまりにも信頼性が低い、ということです。信頼性が低すぎて聞きたくてもそのまま聞くことがどうしてもできない、ということです。
(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬」

 

 
 そのまま聞くにはあまりにも危なすぎるのです。

 
 人間はすぐに解離する、支配欲もある。
 仮に人格が安定しているときでさえ、たった一人の意見だけではそのまま真に受けることができない。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 さらにそのアドバイスは本当に自分というシステム全体のバランスを考慮に入れたものなの?というと怪しい。

 
 だから、人の意見はまずはスルーするのが基本なのです。
 言い換えれば、人の意見は聞いてはいけない。そのまま聞くと毒気に当てられるか、全体のバランスを崩してしまうのです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 では、人の意見をスルーしたら独善的な人間になって、「やらかしてしまう」のかといえばそうではありません。

 上でも見ましたように、身体がそのアドバイスも含めて様々なことを吸収して、免疫でチェックして、濾過して、整えて、内側から湧き上がらせてくれています。

 

 本当の意味での「人の意見を聞く」というのは、耳から聞くのではありません。人の意見は無視して、そこらへんに散らかしておく必要がある。無視して散らかしておくと、それを身体が吸収して整理して必要なものだけ自分の言葉としてくれる。
 さらに、「代表」という機能も働いてくれています。
 

 それこそが本当の「人の意見を聞く」ということです。

 
 だから、「(人の意見を聞かなければ)自分は独善的でおかしなことをしてしまうのでは?」と恐れる必要は全くないのです。

 

 

 

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哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 今まで、Doing とBeingを分けること、Doing は不完全でみんなおかしいけど、Being は完全で大丈夫なんだよ、ということをお伝えさせていただいてきました。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 実は、そのことを論理的に証明した哲学者がいました。それが、イマニュエル・カントです。

 カントは「実践理性批判」「純粋理性批判」「判断力批判」などを記した哲学者です。

誰でも、名前は聞いたことがあるかと思います。

 

 

 哲学って何か?といえば、宗教に代わって神の存在証明を試みたり、人間は真理を知ることができるか(人間の認知の仕組みとは)? といったことを考える学問のことです。

 その中でもカントは、人間のDoingって完全なのか?ということを検討した人です。

 理性批判とはそいう意味です(理性≒Doing、批判≒吟味、検討する)。

 

 

 結論から言えば、「Doingは不完全でした」ということがわかりました。
 私たちの実感からすれば当たり前ですが、そこを論理的に証明してみせたわけです。 

 

 

 ただ、Doing がダメなら、人間は真理も何もわからず、グダグダなのか?となってしまいます。

 しかし、カントはDoing とBeing を分けて、Doingには限界があるけど、Being には限界はないよ、といったのです。

 

 

 近代に向かっていく上で、この証明はとても重要でした。
この裏付けがあることが、近代の社会を作る上での土台となったのです。

 Doingの不完全さと、Beingの限界のなさがあることで、Doingに集中できて、どんどんトライアンドエラーができる。
 
 失敗しても、それはBeingには影響しない。Doing と Being とが切り離された。まさに近代的なアグレッシブさを支えています。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 トラウマを負っていると、カントの言っていることの全く逆になります。

 自分のBeing は限界があるように感じて、一方で、Doingの完璧を求めてファインプレーを目指してガムシャラになって、自分を責めたり、他人にも憤る。
  
 そして、Doing とBeing は癒着して、不完全なDoingをみて、「ああ、自分はなんておかしな存在なんだ」と絶望してしまう。他者の中に幻想を見て支配されてしまいます。

(参考)→「Doingは誰しも、もれなく、おかしい

 

 

 カントは、さらに、限界のないBeingがDoingへと反映するためにどうすればいいか?ということも考えてくれています。

 それが、カントの有名な言葉で「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」というものです。

 定言命法と呼ばれるものです。

 簡単に言えば、「ローカルルールではなく、普遍的でパブリックなルールに沿って行動しろ」ということです。※

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 もっと意訳すると、パブリックなルールに沿うと人間は機能する。限界のないBeing が Doing にも現れるようになる(代表される)、というわけです。

 

 以前も書かせていただきましたが、人間はプライベートな空間では容易におかしくなります。反対にパブリックな空間では機能する存在です。
 人間とは社会的な動物で、社会を何かをそれぞれに代表する時、はじめて人として十全に生きていることを実感できるのです。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

※注:「ローカルルール」がなぜ「“ローカル”ルール」というのか? 

 「ブラックルール」でも、「ハラスメントルール」でもよさそうですが、特に「ローカル」とついているのは、「普遍的なルール」の反対ということです。ブラックルールとしていると、ローカルルールであっても一見まともなもの、良さそうなものは「良いルール」とされてしまいます。その場面で、ある人の都合ででっち上げたローカルなルールらしきものは、普遍的なもの(普遍的立法の原理)を代表しておらず、それ自体が他者に悪い影響がある、ということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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コロナ禍に見る「自分の感覚」とトラマティックな感覚

 

 悩みから抜け出すためには、自分の感覚を感じる、ということはとても大切です。

フォーカシングとか、マインドフルネスなどそのための心理療法があるくらいです。 

 

 たとえば、「他人の言葉」というものがあります。

 他人の言葉で「あなたはこんな人ね」といわれても、「自分の感覚」を感じることができれば、それに対して、「自分の感覚」が違和感を伝えてきますから、「いや、違うと思う」と言えます。

 でも、多くの場合それができないのは、「自分の感覚を感じる」ことができていないためです。

 もっと言えば、自分の感覚を疑わされてしまっている。感じることを曖昧で下等なものだとしてしまっている。

 
 
 私たちの土台として大切とされる、「愛着(アタッチメント)」というものは、まさにこの自分の感覚を形成するための核となるもので、親と子供との間で、感覚を確認、承認するやり取りを身体レベルで行うものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 「自分の感覚」が信頼できなければ、身体ではなく、思考という不安定な道具で対処しなくてはならず、他人からの影響に左右されてしまいます。

 

 

 

 今はまだ新型コロナウイルスで大変な時期ですが、例えば新型コロナウイルスを材料として、「自分の感覚」とはなにか?について考えてみたいと思います。

 

 新型コロナウイルスのリスクをどう評価するか? どこまで恐れるのか? というのは、まず科学的な知見があり、そして次に個人の感覚があります。

 個人の感覚には個人差があります。個人差は単に感覚の差、というだけではなく、年齢や既往症の有無などでの実際的なリスク差もあります。

 TVやインターネットからの情報などを私たちは浴びるように受けています。
  

 そうした情報と「自分の感覚」とをあわせて、「まあ、こんなものかな」とそれぞれリスクを判断しています。

 

 病気を持っている、あるいは高齢なために家でじっとしている、という方もいらっしゃるかと思いますが、筆者の周りでしたら、街でもマスクをしながら普通に買い物したり、食事をしている方が多いように感じます。

 政府からは外出は控えるように、といわれていますが、出張や旅行に行く方もいらっしゃいます(その是非はともかく)。

 
 日本で「まあ、こんなものかな」と感じさせているものこそ、山中教授などが言うファクターX なのかもしれません。

不謹慎と批判されましたが、首相や大臣までもが「会食しても、まあ大丈夫だろう」とおもうのも、肌感覚だと言えます(その是非は、さらにともかく)。

 

 

 それに対して、「気の緩みだ」という意見もあります。

 ただ、カウンセラーからすると、各人が「肌感覚(自分の感覚)」で適切に判断しているのだろう、と感じます。
 

  ※適切というのは100%正しいという意味ではなく、生きる上で「それなりに正しい(妥当だ)」という意味です。

 

 こうした肌感覚でのリスク判断や感覚を「常識」と呼ぶのだと思います。

 「常識」とは、科学的な知見そのものではありません。「理想」でもありません。専門的な知識も参考にしますが、生活での感覚など実際的なもので掛け算して出された生きる上でムリのない総合判断です。
 ですから、多くの場合は極端にならず、中庸なものに落ち着きます。

 医療関係者からすれば、「そんな常識では困る。もっと対策を」ということかもしれませんが、多くの人は自分の身体、肌感覚でリスクを判断して、マスクや手洗いなど対策をしながら、それぞれに適度に経済活動、消費活動をしながら、日常を過ごしている、というのが実際のところではないかと思います。
 実際に、今年はインフルエンザは例年の何万分の1レベルの発生状況だそうで、「常識」「肌感覚」で動いていても、かなりの効果が伺えます。

 残念ながら、「肌感覚」以上のことは人間は長くは続けることはできなさそうです。

 ※筆者も、春頃には、知人に「スーパーで買ってきたものも除菌したほうがいいみたいよ」みたいなことを伝えたら、「確かに頭では理屈はわかるが、今でも対策しているのに、もうこれ以上の対策は疲れて、難しいよ・・・」と言われて、そうだよなぁ・・と感じたことがあります。

 やりすぎると疲れる、無理は続かない、というのも「常識」「肌感覚」の特徴です。
 (やりすぎる、疲れないというのは、依存症の特徴です。)

 

 

 

 新型コロナウイルスに限らず、私たちの人生はリスクだらけですが、ほとんどのことはこのように「まあこんなものかな」「最悪のことが起きても仕方がない」と、ある意味鷹揚に構えているものです。

 医学的に見て完全に健康な生活をしているわけでもありません。タバコ・お酒はもちろん、甘いものもたくさん食べるし、ある程度身体を犠牲にしても自分が求める何かを獲得しに行くこともある。

 車の運転も事故の可能性を考えればとんでもないリスクですが、毎日仕事や日常生活で使っています。

 
 地球の反対側に飢えている子供がいても、私たちは直接救に行くことはせずに、罪悪感もなく楽しんで生活しています。
 自分の仕事、経済活動をそれぞれしながら、余力のあるときに関心を向けたり、専門家に対策を託したりしながら、自分として社会の中でわずかながらも貢献している、という実感を持っています。
 (「いつも、飢えている子供のことが頭から離れません」となっていると、お医者さんからも、「うつか不安障害かもしれませんね」と言われてしまうでしょう。)
 

 この感覚は健康で健全な感覚です。

 トラウマを克服した先にあるのはこうした感覚です。

 

 

 一方、トラウマを負うと、そうはなりません。

 「肌感覚なんていっていて、リスクを見落とすかも?!」とか、「昔から自分は独りよがりに考えて失敗して怒られてきたから、自分の感覚、肌感覚なんて信用できない」という気持ちが湧いたりする。
 

 誰かから「お前はおかしい」とツッコまれる不安にも苛まれている。
ヒステリックな大人から怒られるようなイメージがある。罪悪感も感じている。

 例えば、「医療体制が逼迫しているのに、のんびりしているとはどういうことだ!!」と怒られるような恐れ、不安を感じてしまう。

 ※「火垂るの墓」というジブリの映画で、主人公の兄妹がピアノを弾いていると、身を寄せた先の親戚のおばさんに、「よしなさい!」と怒られる場面がありますが、まさにあんな感じですね。
  おばさんはローカルルールで意地悪しているのですが、「戦況が逼迫している中、皆、お国のために働いているのに、あなた達は!」ともっともなことを言っています。

 

 それがさらに強くなると、「私ってわかってなかったのかしら?自分はおかしいのかしら?!」と自分の感覚を疑いだして、頭で考えるようになってしまう。
あるいは、「もっと、人の気持ちを考えなきゃ」と人の心の中を想像して覗き込もうとしてしまう。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 頭で考えると、過去の不全感が疼いて、自分の感覚を我慢しているフラストレーションがたまり、マスクしていない人や、飲食店でのんきな若者を見ると怒りが湧いてきたりしてしまう。
 インターネットで自粛していない飲食店の名前を書き込んだり、、、みたいなことをしてしまう(これはローカルルール人格へのスイッチです)。
  

背景には、非愛着的世界観も潜んでいます。世の中はひどい人ばかりで、自分は脅かされている、という不安感です。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 

 トラウマというのは、近代に入り惨事や戦争で注目されるようになったものですが、新型コロナウイルスが起こしている情勢というのは、まさにトラウマティックといって良いと思います。

 そうした状況であるからこそ、反対に本来の自分の感覚とはなにか?がわかりやすい。

 

 戦時中に、不謹慎とされても、パーマやおしゃれを楽しもうとしていた人がいたそうですが、「おしゃれをしたい」という感覚は自分の感覚といえそうです。
反対に、「戦時中だから、押し殺して我慢をするべきだ」というのは、どちらかというとトラウマティックな感覚です。

 

 昔、「白洲次郎」というNHKのドラマがありましたが、その中で、白洲次郎が召集令状が来たのを拒否して、裏から手を回して徴兵を逃れます。
 それに対して「多くの国民が高潔な魂を胸に戦地に赴いている。恥ずかしいと思いませんか?」と非難されますが、白洲は「それは自分の役割ではありません」といい、自分の信念を貫きます。
 後日、そのことを、刑務所から出てきた吉田茂に報告した際に、白洲次郎は徴兵を逃れた自分の判断への後悔、迷いを見せます。
 そのときに、吉田茂に「自分の決断に自信を持てよ!」と励まされて、「はい!」と気を取り直す、というシーンがあります。
 法的にも、道義的にも当時、徴兵から逃れるというのは良くないとされたことですが、その結果、生き残り、戦後のGHQとの交渉などで白洲次郎は大活躍をすることになります。
 

 

 こうした例も、自分の感覚を感じる、と言えるかもしれません。

 
 

 

 こういうと、「無限定に自分の欲望のままになるのでは?」「なんでもかんでも思い通りではいけないのでは?」という気持ちが湧いてくる。実はこれもトラウマティックな感覚なのですが、でも大丈夫。

 人間は「社会的な動物」ですから、だまっていても社会の常識を代表して生きる存在です。ですから、社会の常識から逸脱しようにも離れることはできない。スマホのような存在。自分の感覚に従えないと、社会を代表できない。

(参考)→「「代表」が機能するために必要なこと

 大事なことは、それが、主権を持った自分の身体を通して、翻訳されて、自分の内側から湧いてくるものか否か、です。反対に、上に挙げたような、「こうするべき」という頭ごなしに、罪悪感とともに湧いてくる感覚は、ニセの常識であり、言い換えればローカルルールのものです。

 これを区別することはとても大事です。
 区別できないことが、生きづらさや、悩みの根幹とも言えます。それは人格構造の機能不全から来ます。

 

 そうしたことから抜け出すために大切なことは、頭でではなく、自分の身体(肌感覚、ガットフィーリング)で判断するということです。
 「自分の感覚」とは、社会の何かを代表して身体に湧いてくるものです。
その際に罪悪感とか義務感といったことは「自分の感覚」を感じる邪魔になります。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 くれぐれも、「他人の目」とか、「こうするべき」という感覚からではありません。それは結局、自分の親とか他者に自分の主権を明け渡すことになってしまうのです。
(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 

 

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弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 経営学者として有名であったP.F.ドラッカーは、社会が成立するための一般理論、全体主義の研究において、非常に優れた書籍を残しています。
 人間が自由であるためにはなにが必要なのか、をわかりやすくまとめています。

 

 『産業人の未来』という本の中で、

 「人間を完全無欠なものとして認め、あるいは人間は完全無欠になるための方法を知りうると認めるならば、必然的に専制と全体主義がもたらされる」
 「人間を完全無欠のものとするならば、自由は完全に否定される。」

 反対に、

 「人間を基本的に不完全で、はかないものとするとき、初めて自由は、哲理上、自然かつ必然のものとなる。」と述べています。

 

 どういうことかというと、
 ある人間が完全無欠である、あるいは、自分たちが完全無欠な真理に到達できる、という考えの前では、疑ったり、自由に選択したり、ということが愚かな行為とみなされ否定される。

 反対に、完全無欠な真理とは存在するかもしれないが、それは人知の及ばないところにあって、私たちは、自ら懐疑し、選択する存在である。

 「多元的で多様な社会、人間」という連立方程式を解ける人間は存在しません。 
 だから、それぞれの多様さを認めて代表しながら、自らの役割の中で意思決定を行っていく。そうしたことが「自由」というものです。

 

 完全無欠、という考えの中には、多様さはありません。
 

 

 

 
 と、難しい理屈は置いておいて、実際に私たちが感じる生きづらさをみればこうした事はよくわかります。
 他者が自分よりも正しいように感じて、自分の考えや選択にいつも自信がない。
 「あなたの考えや行動は間違っている。これが真理だ」といわれるのではないかと、ビクビクしている。

 完全無欠へのあこがれがあって、しゃにむに努力したりもしますが、結局、完全無欠は得られない。 

 むしろ、自分の態度が力みすぎたり、傲慢になったりして、そのことを他人に指摘されて落ち込む。

 
 他者に完全無欠を見出そうとして、恐れを感じたり、反対に、依存的になったりする。

(参考)→「「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 

 そうして、気がつくのは、自分に「主権(自由)」がないということ。

 植民地の住人があくせく動き回っているみたいに、見かけの行動(Doing)の自由はあるかも知れません。でも、存在(Being)の自由はない。

 トラウマを負った私たちは、行動力は他人よりありますが、そこに自由(私)はないのです。
(参考)→「「私(自分)」がない!

 

 興味深いことは、哲学や社会学や政治学レベルの考察でも、弱さ、不完全さと自由とは密接につながっている、と考えられていることです。
 (自由とは、主権と言い換えてもよいでしょう。)

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 弱さ、不完全さを認めるとは、「こんなダメな私でもがんばって生きます」といった感傷的なことではありません。ローカルルールから自由になり、現実を見る、事実を捉えるということです。

 弱さ、不完全さを認めることで、「私」というものが立ち上がってくる。
(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 弱さ、不完全さを必死に隠して、自分が立派だと必死に証明しようとすることは、実は、ローカルルールの世界を肯定し、知らない間にそこに巻き込まれてしまうことになります。

 反対に、弱さ、不完全さを当然の前提とすることは、自他の区別をつけ他者の干渉を遠ざけ、自分の主権を取り戻すことになるのです。