マックス・ウェーバーという政治学、社会学者の著作に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というものがあります。
(参考)→「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
とても有名な著作ですが、そのなかでウェーバーは、資本主義の精神の土台となったものの一つは、プロテスタントの「予定説」ではないか、という仮説を提示しています。
キリスト教は一神教で、全知全能の神が世の全てを作ったとしています。それを予定説といいます。
そのため特にプロテスタントに、「自由意志」という概念は基本的にありません。なぜなら、今私達が考えていること、感じていることも神がすべて決定し、予定しているものだから。
人間が自分で自由に決めて考えているわけではありません。
「予定説」とは、この世の中のことや私たちの人生、審判の日に救われるかどうかも全てをあらかじめ決められているということです。
すべてが決まっているのでしたら、無責任になってしまい、「頑張っても意味ないや」と堕落してしまいそうですが、人間とは不思議なもので、そうはならないとウェーバーは考えます。
反対に、全てが決まっているからこそ、自分が神から救われる側の人間であることを証明しようとして勤勉に努力する、というのです。
そうした勤勉さが資本主義の精神の土台となった、とするのです。
この説は、発表された当初から批判もあり今でもありますが、その意義を認める学者も多くいます。
社会科学では古典であり、基礎とされるテーゼです。心理学でも、実験で妥当性を検証した研究を筆者も見たことがあります。
アメリカ人などが代表的ですが、自由主義や自助の精神も、その現象とは反対に、自由意志などなく最初から全てが神様に決められているということからスタートしている、というわけです。
まず、すべての責任を神が背負ってくれるから(人間に責任がないからこそ)、人間は主体性を持った近代人として生きていけるという逆説。
このことは私たちの悩みを解決し、主体性を持って自分らしく生きるためにもとても大切な視点だと考えます。
たとえば、私たちは悩みにあるとき、それが自分の責任であると考えて解決に努めます。
しかし、トラウマを負った人の特徴として、この世界の中で自分で頑張るしかないという考えが強く、努力しますが、うまく行かずに社会に適応できなくなる、ということが起きている。
自分が自由に決めれるとして頑張れば頑張るほど、うまくいかなくなるのです。
依存症の方も、その特徴として罪悪感の強さが挙げられますが、頑張れば頑張るほど、足が沼にめり込むように依存に陥っていく。さらに、そのことを社会的に責められて、という悪循環に陥ってしまう。
(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと」
なぜか、といえば、いったんニセの責任をすべて引き取ってくれるメカニズムがないままでは人間は主体的に生きていくことなどできないからです。
そのメカニズムは、一般的には、神という宗教的なものではなく、「愛着」や「ストレス応答系」が予定説の代わりを引き受けてくれると考えられます。
愛着が安定している人は社会にうまく適応することができるとされますが、なぜかといえば、「愛着」が安全基地として、責任などをすべてを引き取ってくれるから。「ストレス応答系」も同様で、身体の恒常性を維持しストレスを除いてくれるものです。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
「愛着」のメカニズムで大切なことの一つは「免責(無責任になれること)」の提供だと考えられます。
ニセの責任を一旦「愛着」や恒常性維持機能が全て引き受けてくれるからこそ、主体的な“自分”というものをスタートさせることができる。
社会に生きていく中で、他人が因縁をつけてきてニセの責任を背負わせようとしても、「愛着」が作動して「それ、私の責任じゃありません」とフィルタしてくれる。
反対に、不安定な愛着しかなく、「全ては自己に原因がある」という考えがあると「免責」が機能せず、親のローカルルールからきたニセの責任を背負わされて、過責任に苦しむことになる。
解けないニセの責任をずっと果たそうと余計な努力を続けさせられることになってしまうのです。
(参考)→「ニセの責任~トラウマとは、過責任(責任過多)な状態にあるということ」
自己啓発などでは、よく「全ては自分の責任」といった考えで展開されます。
自己啓発のほとんどは、アメリカのキリスト教などを起源としていたりするとされますが、じつは、「全ては自分の責任」という話には、そもそも前段階があった。
それは、「すべては神様が決めている(予定説)≒責任は自分にはない(無責任)」ということを受け入れているということです。
いったん、すべての責任を引き取るフィルタを通るからこそ、安全な環境で守られた中で、「全ては自分の責任」といって、主体的であることができる。
安全が確保された競技場で思いっきりスポーツをするような感覚。
反対に、すべての責任を引き取るフィルタが無きままだと、さながら、凸凹の危険な環境で戦っているような状況。
愛着を持っている人は、安全な芝生の上で思いっきり飛んだりはねたり、転んだりできているのに、愛着のフィルタがない人は、ニセの責任の引き受けさせられて大怪我をして、人も世の中も大嫌いになってしまうのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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