生活にかかわる基本的な事柄について、奥行きのある知識や判断の軸を持つ

前回までの記事では、ソーシャルワークについて書かせていただきました。

ソーシャルワークは、私たちの生きづらさを解くためだけではなく、良い文化を作っていくという観点からも重要なものです。

 

今回も、前回までの記事の内容に関連して、基本的な知識を得ることの重要性について書いてみたいと思います。

 

私が会社員をしていた頃、お昼の時間になると、ある女性が声をかけてくることがありました。

その方とは、いわゆる「職域」と呼ばれる生命保険の外交員の方です。

パンフレットを見せながら、「ちょっと、ちょっと」という感じで、保険への加入を勧められるのです。

私は当時も、そして今もそうですが、金融について特に詳しいわけではありません。

ただ、なんとなく、「余計なサービスもついていて、少し割高なのではないか」という漠然とした印象を持っていました。

そのため、適当なことを言いながらお断りをする、ということをしていました。

 

一方で、不思議だったことがあります。

仕事では、部下の作った資料や提案の内容を厳しくチェックする上司や、ロジカルシンキングなどを説いている同僚たちが、そうした保険には案外簡単に入っていたのです。

仕事ではあれほど細かく内容を確認するのに、なぜ保険については簡単に任せてしまうのだろう?

当時の私は、少し驚いたことを覚えています。

 

 

ただ、当時はまだ、昭和の延長にある平成の時代でした。

自分で主体的に金融商品を比較して選ぶというよりも、大きな会社や専門家に任せて、流れの中でサービスに入ることが普通だったのかもしれません。

家を買うことなども、似たようなところがあったかもしれません。それで大きく損はしない。

すべてのことにエネルギーを割くことなど誰もできませんから、上司や同僚たちも、深く考えずに契約していたというよりは、そうした時代の流れの中にいたのでしょう(私のほうが賢明であった、などということはありません)。

かつてであれば、金融でも、医療でも、専門家や大きな組織が示す標準的なものに任せていれば、それほど問題はなかったのかもしれません。医療でもセカンドオピニオンなどや、自分でいろいろ調べてきて、みたいなことはまだ当たり前ではなかったように思います。

 

しかし、今はどうも、そうではなくなってきています。自分たちでもいろいろと調べないといけない時代になっています。

 

例えば、最近ではAIが、さまざまな情報やアドバイスを簡単に提供してくれるようになりました。とても便利なものです。

しかし、こちらにまったく知識がなければ、AIも必ずしも適切な答えを出してくれるわけではありません。

AIにも間違いはありますし、比較的、権威のある標準的な情報を優先的に示す傾向もあります。

そこからさらに踏み込んで、

「これは本当に自分に合っているのか?」

「自分にとって必要なものなのか?」

ということを確かめるためには、こちらにもある程度の知識が必要になります。

知識がなければ、質問を重ねたり、突っ込んだりすることもできません。

完全に任せていれば大丈夫、ということではありません。

 

 

最近は、本を読まなくなった時代とも言われます。

しかし、少なくとも自分の生活に関わることについては、必要が生じた際に、三冊から五冊くらいの本を読む必要がどうもあるようです。

 

以前、あるビジネス書で、

「関連する分野の本を十冊も読めば、社内では専門家になれる」

といったことが書かれていたのを覚えています。

確かに、そうなのかもしれません。

 

ただ、私たちは忙しいですし、時間もありません。

十冊読むというのは、さすがに大変です。

それでも、最低でも三冊から五冊くらいは読んでみる。

三冊から五冊くらいというのは、一冊だけでは、その著者の立場や考え方に偏っている可能性があるからです。もちろん、間違ったことが書かれていることもあります。

 

何冊か読むことで、少しずつ共通する部分や、立場によって異なる部分が見えてきます。

 

金融、医療、食事や栄養、行政の制度、相続、介護など、私たちの生活には、知らなければならないことがたくさんあります。

すべてに詳しくなる必要はありません。

しかし、自分に必要な出来事が生じた際には、その分野についてある程度の知識を得る。

これも、「文化づくり」、ソーシャルワークとして大切な視点なのではないかと思います。

 

反対に、基本的な知識を省略して、いきなりYouTubeの動画などから情報を得ようとすることには危うさがあります。

あるいは、かつての私のように、

「標準的なものは、なんとなく間違っているのだろう」

と漠然と感じて、そこから一足飛びに代替の知識へ向かう。

これもまた、危険なことです。

 

本であれば、少なくとも編集者や出版社など、複数の人の目が入っていると言われます。

もちろん、本にもおかしなものはありますし、間違いもあります。

それでも、一定の過程を経て世に出ているという点では、まだ頼りになる部分があります。

まずはそうしたものから、基本的な知識を得ていくことが大切なのだと思います。

 

生活に関する基本的な知識を得る、なんていう道徳的にも聞こえることを書いているのはなぜかと申しますと、生きづらさというのは、心の中の問題だけではないからです。基本的に生きづらさとは環境からやってくる。

 

基本的な知識を得ないまま、誰かに任せてしまう。その結果、よく見れば損をしていたり、本来なら選ばなくてもよかった選択肢を選んでしまったりする。あるいは、うまく他人の文化を借りれないまま、自力で選ぶことでも、結果損をすることがあります。

 

実際には、そうしたことが少なくありません。

ご相談をお伺いしていても、仕事や金融、健康などについてされていることを聞いて、

「あれ? それは大丈夫なのかな?どうなのかな?」と思うこともしばしばあります。

 

生きづらさを解く、というのは決して医療やカウンセリングだけが主ではありません。それは、いくつもある手段の一つです。

 

スポーツも勝負はする前の準備が大きい、とか、戦争も兵站(補給とか準備)が大事だ、と言われますように、そもそも状況ができる限り不利にならないように、不利な選択が積みあがっていかないように、できるかぎり、奥行きのある知識や判断の軸を持ちたい。

社会や環境からもたらされる生きづらさの影響を、必要以上に受けないためには、基本的な教養や知識もあわせて身につけていく必要があるようです。

そして、そのためには、本や新聞などから知識を得るという、ある意味では古典的な方法が、今もとても大切(たぶん、結局コスパがいい)なのだと思います。

 

以前、ご紹介しました大阪の高校で行われている「反貧困学習」がそうであるように、基本的な知識や教養を得ることもまた、私たちが自分を守り・取り戻し、より良い文化を作るためのソーシャルワークと言えるのではないか、と思います。

 

 

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みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

「みにくいアヒルの子」という状態

 

“社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを前回の記事にも書かせていただきました。

参考)→「“It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)」
 

 そして、その際の社会とは、ダイレクトに「社会の制度が~」「現在の社会が~」といった意味での「社会」とは異なり、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えて規範を騙る状態や機能不全をまずは“社会”と呼んでいます。

 結局、生きづらさの原因をたどると、“社会(環境)”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。
クライアントの状況を見ていて、現時点でわかる究極因はそこにあります。

 クライアントの頭や心がおかしいのではありません。

 

 

 そして、“社会”の問題を「自分のせいだ」「自分がおかしいのだ」と思わせる偽装がいくつかあり、その罠にかかり、“社会”の理不尽を自分のものとしてしまい、どうしても、そうではないと思えない、自分は大丈夫と思えない状態こそが「生きづらさ」であるということです。

 白鳥が、アヒルとして劣っていると責められて「みにくいアヒルの子」と思わせられている状態です。

 ここからサッと逃れる方法を探そうとしているのが私の臨床での取り組みになります。

 

 

 機能不全な社会における日常の経験や体験というのは、究極のマインドコントロール装置、といってもいいくらいに作用します。
 
 
 長期にわたり、何度も何度も「あなたはおかしい」とつきつけられる経験を重ねることで自分は「みにくいアヒルの子」で、それはどうしても否定できない、と”作られた事実”を重ねられていってしまうのです。

 そして厄介なのは、身近な親族が絡んでいるケース。

親だけおかしいなら「親がおかしくて自分はそうではない」とわかりやすくて良いのですが、親族が絡むとそうは見えなくなる。

 親戚というのは一見、「立派で」「物わかりがよく」見えますから、その親族から「自分がおかしい」とされたり、反対に加害者である親を評価されたりするとわけがわからなくなる。

 あるいは、学校でのいじめの経験、職場でのハラスメント経験が重なるようなケースも厄介です。

 学校でも、一見、「イケていて」「人気があって」「運動もできて」「勉強もできて」「ものがわかってて」「バランス感覚があって」などという同級生がいますから、その友だちたちから「おかしい」「ダメだ」とされることの衝撃は簡単なものではありません。

 会社も同様です。

「家のみならず、学校でも、職場でも自分がおかしいとされるなら、もうこれは確定された事実なのだ」となってしまうのです。

 そうするとみにくいアヒルの子の状態から逃れられなくなります。
 

 

 

 しかしながら、「家も、学校も、職場もおかしい(It’s the society,the community)」ということが実際に存在するのです。 

 ハラスメントの罠は日常のそこここに存在します。

そのような状況の中に家で親に「みにくいアヒルの子」とされたトラウマを抱えた子どもが行けば、学校でもいじめられる、職場でも否定される、ということは普通に起こります。

 そのことをもって、「自分はやはり確定された事実としておかしいのだ」と思う必要はないのです。

 立派に見える親族も同様で、親もおかしいなら、親族も同様の文化を背負っていて、立派に見えているけど実態は変な人たちである場合も多いのです。

 学校もそう、会社もそうです。自分に対してハラスメントをしてくるようなおかしな環境でも「優等生」が存在します。
 社会問題となったカルト宗教でも、その教団に適応し、実績を上げて出世し、立派に見える人たちが記者会見で登場している様を見ればよく分かります。
 ナチのアイヒマンやハイドリヒのようにおかしな集団の中でも仕事がバリバリできて出世する人がいるのです。
 しかし、適応できた彼らがまともか?といえば、そうではありません。
 適応できないことのほうがまともさの証なのです。

 
 白鳥であるあなたは、白鳥ゆえにいじめられて、苦しみますが、それはあなたのおかしさを示すものではありません。環境がおかしいのです。

 みにくいアヒルの子とされた白鳥が自分を取り戻す道は、よいアヒルの子を目指すことではありません。
 ちゃんと不適応を起こして、自分はある日ではない、と気づき、白鳥へと戻ることです。
 

 ベストセラー『窓際のトットちゃん』は、みにくいアヒルの子にされかけたトットちゃんが、移った学校でのびのび育っていく様子が描かれているわけですが、“社会”は人間というものをちゃんと理解できておらず、さらにいえば、“社会”は子どもの気質(個性)、激しさを恐れるものなのです。

 会社でも、ちょっと率直な物言いをしたらすぐに「問題社員」扱いとなります。

 社会(ローカルコミュニティ)自体がおそれや不全感を隠し持ちながら立派なふりをしていて、その立派なふりを見破られて「王様は裸だ!」とされることを“社会”は極度に恐れる、ということなのかもしれません。

 

 

 

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“It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)

 私たちは幼い頃を思い返すと、数々傷ついてきた経験を抱えています。

 仲良くしてほしいし、そうすればいいと幼心に感じているのに、両親が喧嘩をやめない。

 訴えてみても、耳を傾けてくれない。

 なんで??

 ただ、仲良くすればいいじゃない?
 
 お互いに話を聞けばいいじゃない?

 こうすればいいじゃない?

 でも、直感的な正論が全然通用しない。

 その絶望感、孤独感。

 

 友達に対してもそうです。

 自分の素直な気持ちや在り方で接したら、ある時、急に意地悪される。

 突然嫌なことを言われる。

 なんで??
 
 どうして??

 
 自分はこんないい子なのに、仲良くしてくれればいいじゃない?

 ただ受け入れてくれればいいじゃない?

 なんで、人はこんなふうにおかしなことになるの?

 

 
 でも、自分の気づきや訴えは全然周りに通じない。

 大人に相談してみても、ちゃんと対応してくれない。
 喧嘩両成敗になる。

 そのうち、「自分にも悪いところがある」というお題目を信じるようになってしまう。

 

  
 大人になってからもでもそうです。

 自分は普通にしているだけなのに、理不尽な目に遭う。

 信じられないような失礼なことを言われたり、意地悪をされたり、などということは日常のそこここにあります。

 しかも、それらは明確に言語化できないようなとても微妙な状況で行われるので、声を上げることさえできない。

 声を上げる不利益や手間を考えれば、と飲み込んでします。
気の強い人なら言い返せるのに、即座に反論できない自分が悪いのだと思ってしまう。
 

 理不尽は自分で何とかすることが当たり前だ、とされて、“社会”のおかしさは個人化されてしまう。
 

 幼いころ、自分はただありのままにいるだけのものなのに、親から「この子はダメだ」「この子はおかしい」といった間違った指摘を受けて、それをずっと心に抱えたまま、真に受けたまま、ボタンを掛け違えたまま、その答えを探そうとして、その後の人生を生きている人もとても多いです。

 

 いじめを受けても親たちが「仕方がない」として適切に対処してくれないことで不登校に陥っているのに、個人のメンタルの問題にさせられている、というようなケースもよくあります。
 
 例えば、最近、海外で日本人の子供が襲われても現地の政府は「偶発的な事故」といいっていますが、仮にそうだとしても、「全力で対処します」と言ってくれなければ、安心して住むことはできません。だから問題になっています。
 同様に、親や先生が「学校ができることも限られるし、仕方がない」なんて言っていては、子どもが安心して登校できるはずもありません。「いじめには断固対応します」「全力で守ります」ということが本来です。
 
 しかし、大人の都合で安心安全が守られていないから学校にいけないのに、自分が弱いせいにさせられているし、自分でもそう思い込まされてしまっている。 

 これも、大人(“社会”)の機能不全を子どもが背負っているようなケースです。

 
 
 あるいは、親の理不尽、家族の問題を自分が引き受けて、そのために生きづらい人生を生きている人もいます。ヤングケアラーなどはまさにそうですし、ヤングケアラーと名付けられなくても、トラウマを負った人の多くはそうです。

参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点」

 

 確かに、多くの人は、心の悩みについては、環境に問題がある。環境が大きな要因になる、ということには同意します。しかし、「それはそうなんだけど、結局、環境は変えられないんだから、個人が何とかしなきゃね」といったおかしな留保がついてしまい、そのことで、結局個人の中に問題が流れ込んでいってしまう。

 

 

 あるいは、「“社会”全体がおかしいなんてことはない」といった思い込みも強く存在します。

 ここでいう“社会”とは、日本社会とかアメリカ社会といった大きな社会や社会問題の社会ではなく、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えてルールを騙る状態や機能不全を“社会”と呼んでいます(いわゆる社会の問題や不正義や加害者を糾弾しようとか!そういう論とは異なります)。
 

 

 それらが全部、おかしいなんてことはないだろう?という思い込みです。

 
 もちろん、そんなことはありません。いじめは学校や職場でも横行していますし、いじめに感染するとあっという間にみんなの頭がおかしくなることは観察されている事象です。
 

 学校、会社や親族には「しっかりしていそうな人」「客観的な判断ができそうな人」「立派な学校や会社にお勤めの人」もいたりします。そして、そうしたひとが“バランスの取れた意見”を言ったりしますが、それらが正しいか?といえばそんなことはありません。
 
 そうした人がみんなを惑わすので一番厄介なのです。

 立派そうに見える人がまともである、というわけでは全くありません。

 そうした人は、自分を失った結果見かけの立派さを手にしているケースもとても多いですし、立場主義から発言することが上手であることはよくあります。
 
 以前書いた記事で取り上げられたなんでも100点が取れるエリートたちはまさにそうです。
 

 「あんな立派な人が、しっかりした人が言うんだからやはり自分が悪いんだ」

 「さすがに自分を取り巻く周りが全部おかしいことはないでしょう?」

 という風になってしまうと、自分が飲み込んでしまった“社会”の問題は出ていかなくなってしまい、生きづらさを抱え続けることになってしまいます。

 

 文化人類学者のベイトソンは、結局、他者の理不尽(ダブルバインド)を引き受けてしまうことが統合失調症の原因だと、喝破しましたが、結局はまわりまわってみれば正しい認識だったとされています。

 

 そのとおりで、“社会”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。

 

 だから、そろそろ、私たちは気づいてもいいのではないか?声を上げてもいいのではないか?

 “社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを。

 

 ※本記事のタイトルの”It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)
 とは、昔、クリントン大統領が選挙戦で使ったスローガン(経済こそが問題なんだよ、愚か者! It’s the economy, stupid”)をもじったものです。当時の問題の核心をついて、有権者の共感を得て当選をしたそうです。

 

 

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“社会”は人間をなにもわかっていない

 

 前回、”社会”は、私たち人間のことを実はよくわかっていない、と子どもの例を中心に書きましたが、それは、大人である私たちの根源にあるものですし、さらに、大人になってからも、同様のことは生じます。

(参考)→「私たちは、子どもそして人間のそのままが全然わかっていない。」

 ※不全感によって機能不全に陥った状態の社会を本来のものと区別するためにここでは“社会”とします。

 

 例えば、私たちがもつ「できて当たり前」というバイアスはなかなか根強いものがあります。
 

 私たちは、よほど訓練されなければ何かをうまくすることはできません。
 実は経験するものは、仕事でも用事でも、子育てでも、冠婚葬祭などのライフイベントなどでも、はじめての事だらけです。しかし、なぜか私たちは「きちんとできて当たり前だ」という強烈な思い込み、「無知の無知」がはびこっている。そして、はじめての事なのに、過去に経験したことがある、と思いこんでしまう。

 

 会社の事務仕事をしているから、大人なんだから、手続きで訪れた役所で初めて見る書類を正確に書けて当たり前と思いこんでしまう。でも、本当は別のもの、“はじめての事”です。だから、ミスをしたり、書き損じたりすることは当然生じます。 

 頭では自分は何でもできるように、何でもできたように感じていますが、
 それはバイアスでしか無く、たまたま自分が訓練された形式を応用できたか?資質に沿っていただけで、本来はかなりの訓練と意図のすり合わせを何度もしないとうまくすることなどできません。

 プロのスポーツでも、あれだけ運動能力の高い天才たちでも、長年のあいだ、“毎日(毎日ですよ?!)”練習してようやく、気の利くプレーが当たり前にできたりする。

 あんな狭いグラウンドやコートで複雑でもないはずのルールに子どものころから接していてもなお、です。

 

 

 消防、警察、軍隊もそうで、繰り返し訓練してようやくオペレーションを果たすことができる。

 しかし、訓練してもなお、うまく行かないことは多い。
 例えば、軍隊において海から上陸する上陸作戦というのはかなりの困難なことらしく、ノルマンディー上陸作戦などは偶然うまくいったようなもので、実際は失敗してもおかしくない状況だったようです。それだけ難しいことだらけのものを、訓練と犠牲の上になんとか“成功”したように見えているだけ。
 

 しかし、例えば職場などでは、OJT(つまり、無研修、無訓練)という名の下、ろくな訓練も、マニュアルもないままに、未経験の人に仕事を振っては、ミスをする人を指して「そんなこともできないのか!」とこき下ろしたり、しています。

 

 文化の違いも相当なもので、同業であったとしても会社が違えばやり方も全く異なることがあります。ですから、同業他社に転職してギャップに戸惑った、何ていう話はよく聞くことです。

 同じ「営業」「利益」ということばであっても、その理解は100人いれば100人とも違います。
 よほど時間と費用をかけて訓練し、文化をすり合わせなければ、意図通りに相手が動くことなどありえないのです。

 しかし、そんな当たり前のことを私たちはわかっていません。
 トレーニングをしなくても当たり前にできるものだと感じてしまう、自分は当たり前にできたように感じてしまう。

 

 

 家の家事や育児などもそうです。できることが当たり前のように感じてしまう。自分の考える当たり前が正しいと思ってしまう。

 そうして「当たり前でしょう?」「なんでこんな事もできないの!」家族を責めたりする。

 葬儀など、ほぼはじめて遭遇することの段取りを巡って、「段取りが悪い」「作法がなっていない」と叱責してくる親族がいたりすることもかつてはよく耳にした、”あるある”です。
 (冠婚葬祭にそんなに関心があるあなたは葬儀屋か?!といいたくなりますが)

 でも、一生のうちに数えるほどしか経験せず、しかも、何年もブランクのあるものが初見で完璧にできないといけないと思い込んでいる。
 

 何度も訓練してようやくできるものが、できて当たり前に見えるというバイアス。

 さらに、不全感を抱えた人が、自分が正義、正しいと思うことで表面をコーティングして、他人にYou are NOT OK とぶつけて I’m OK にしたくなることもバイアスです(ローカルルール)。これがハラスメントを生みます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」

 

 こうして、私たちの周辺にあるローカルなコミュニティが不全感を抱えてルールを騙る状態を“社会”と呼ぶとしたら、“社会”というのはこんな事だらけです。

 “社会”は人間をなにもわかっていないのです。

 

 もっといえば、不全感を解消するために、不全感から見た幻想で人間をとらえているということです。

 通常でも、私たちはわからさなさ(もっといえば、多様性への感度の少なさ)がたくさん抱えています。

 しかし、自他の区別があり、愛着が安定していて、他者を他者として捉えることができる余裕があると、それらは目立ちません。わきまえが働き、“無知の知”を知る状態になります。 
  

 一方でそのわからなさが極端に出るのが、繰り返しになりますが、不全感を抱えたときです。不全感+バイアスの組み合わせで他者にハラスメントを仕掛けるという形になります。

 こうしたことをを、一番弱い人が引き受けた果に起きることが生きづらさ、であり、幼少期にそうしたストレスを受けて生じることは、発達性トラウマの大きな原因の1つとなります。 

 

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みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)