暗黙のしくみを知るためには、物事や情報を基礎、応用と分けて考える

 

 スポーツなどでは、プロが行っていることを初心者がそのままやると正しい方法身につかない、ということがあります。

 特にプロがやっていることは、見た目には「基礎」とは逆に見えたりします。

 プロは基礎がもちろんしっかりあるわけですが、試合などで行っているのは、基礎に基づく応用だったりします。 

 応用として展開されることは、ときに基礎と真反対に見えます。

 

 

 これが私たちが、生きづらさを克服する際にも当てはまります。

 例えば、人との関わりを回復させるためには、心を開く のではなく、しっかりと閉じなければいけません。 
 

 他人との区別をしっかりと付けて、境界線を明確にする必要がある。

 社交的な人ほど、実は心が閉じています。

 統合失調症の方は、境界線が薄く、それゆえに幻聴などに悩むと言われますが、ある患者さんが、「この病院の中で誰が一番心が閉じていますか?」と聞かれた際に、いちばん人当たりのいい看護婦さんの名前を挙げた、というエピソードを目にしたことがあります。

 

 

 家と同じで、外出するためにはしっかりと鍵がかけられていなければならない。

 しかし、一見するとこれが逆に見えてしまいます。

 社交的になるためには、心を開かなければならない、
 社交的な人は心が開いている、と。

 
 全く逆です。

 しっかりと閉じる習慣ができているから、社交的にすることができる。

 
 社交とは、心を閉じるという基礎ができていてはじめてできる応用であるということです。

 

 

 トラウマを負うと、こうした物事の段階がわからなくなってしまいます。
 すべて一元的で、「どちらが正しいか」と考えてします。

(参考)→「トラウマを負うと一元的価値観になる

 

 ほとんどの場合、基礎、応用と分けて考えれば、両立するものだったりする。

 しかし、基礎というのは暗黙のしくみとしてあり、言語化しにくいため言葉にされることがありません。
 よほど注意深く観察されなければ言葉にできません。

 いっぽうで、応用は言葉にしやすい。見たままに言葉にすればいいわけですから。

  
 本屋に並ぶようなポップ心理学や自己啓発の本の多くは、「応用」が書かれています。

 ですから、いきなり、「応用」から入ってしまい、その気になっているうちはうまくいきますが、「基礎」がないために続かなくなって、それどころか、むしろ調子を崩す、ということが起きてしまうのです。

 
 物事は、基礎と応用とを分けてみれば、世の中の暗黙のしくみがわかるようになります。
 

 

 

 ↓「基礎」を書いてみました。

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自分の言葉を取り戻す

 

 私たちは普段、言葉を話しています。

 しかし、この言葉はどこから来ているか?といえば、自分の外部からです。

 人間は、社会的な動物、クラウド的な存在です。
 外部から得た言葉を、自分の言葉と考えて話をしています。

 
 自分たちは、個人で独立して、自分の頭で考えて生きている、と考えていますが、そうではありません。

 

 すべての要素は外から得ている。

 そのため、近年の心理学では、「自由意志」はないことは当たり前の前提になっています。
 
 では、人間は主体のない操り人形か、といえば、そうではないと考えます。

「自由意志」はないけど、自由意志があるという勘違いの感覚はある。
 そのことを、心理学では「自由意志信念」ともいいます。

 自分の勘違いも含めて、自分が自分の主体となっているか?がとても重要です。それが自我というものではないか、と考えられます。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 

 

 国における「主権」という概念に近い。 

 私たちの国も、自給自足というのはありえず、互いに交易や国際関係に強く影響され、そこから自由ではありません。
 主権についても、自国内だけではなく、他国の賛同を受けて正当性が強化されます。

 独自の文化、というものも歴史をたどると、オリジナルは外にあったりする。
 英語やスペイン語、漢字という他国由来の言葉を利用しているケースも多い。
 
 人々も国外と行き来するので、国民という概念も突き詰めるとよくわからなくなってくる。
  

 

 それでも、国という単位があって、そこに主権がある、というのは重要で、 フィクションであったとしても、それが国の形を明確にしてくれます。

 人間も同様で、主権を持って、自分というものをしっかり確立していることはとても大切です。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 やっかいなのは実質的には属国や植民地になっていても、国(個人)として成立して見えるということ。

 私たち人間は、他人のIDでログインしていても、スマホとして仮に機能するようになっているため、自分が他人中心で生きていてもわからないのです。

 そして、極端に言えば、他人のIDでログインしたまま一生を終えることもできるのです。

 特に社会的には一定の成功を得ている場合は、自分のIDでログインし直す必要性も感じずに(暗に恐怖は感じたまま)、そのまま終わってしまう。

 これは、クラウド的であるがゆえの奇妙な悲劇です。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 

 私たちの多くは、自分の言葉を他人に奪われています。

 その他人の多くは、親などの家族です。

 親の言葉を直訳しているだけで、自分の言葉になっていない。

 誰しもが外から言葉を学び、今この時点でも外から情報や要素を得ているわけですが、主権を持って自分のIDでログインしていれば、それらは必ず自分語に“翻訳”されます。

 直訳した言葉を使うことは、自分の言葉が失われるということです。 

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 今回、上梓されました本では、「自分の文脈」という表現を使っていますが、直訳した言葉を使うことは他人の文脈に支配されて生きる、ということです。

 では、いかにして「自分の文脈」、自分の言葉を取り戻せばいいのか?

 本の中では、そんなことにチャレンジしています。

 

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人間はなぜ急におかしくなってしまうのか?

 

 人の言葉が怖い、人の言葉に振り回される、という際に、その理由の一つとして、他人が急におかしなことを言い出す、自分に失礼なことを言ってくる、ということがあるかと思います。

 さながら、不意に犬に噛みつかれるみたいな怖さがある。そして犬恐怖症になって、現在に至る、といったような感じで。

 

 では、人はなぜ急におかしくなってしまうのでしょうか? 

 

 このブログでも触れていますが、それを解く鍵の一つが「公的領域-私的領域」という区分けです。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 人間というのは、もともとのその内面は、溶鉱炉のような、マグマのような、不全感の不純物も含んだ雑多な原材料の塊です。

 そうしたものが、愛着、健康といった基盤の上に、他者とのやり取りを経て「社会化」されていくことで“人間”となる。

「社会化」というのは、私的領域を資源として公的領域を内面化することで成型されていくということです。

(参考)→「「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 人間は“社会的動物”“ポリス的動物”と呼ばれるように、社会化(公的領域を内面化)されなければ安定して成立できない。

 

 

 統合失調症や、境界性パーソナリティ障害などは、そうした社会化する機能が十分得られないことで起きているのではないか?と最近の臨床心理、精神医学などでは指摘されています。

 

 社会化するための要素はどこから来るか?といえば、それは自分の外側からやってきます。
 人間というは、クラウド的な存在として、周囲の人を媒介として、自分を社会化するための要素を少しずつもらうようになっている。

 
 特に「他人の言葉」が重要な媒介物となります。

 

 しかし、その他人の言葉も社会化されたパブリックなものになっていなければ、私たちにとって毒になってしまいます。
 
 夫婦喧嘩、汚言、悪口などはその最たるもので、家族であれば、父母、妻夫といった機能を果たすことができないまま、個人の私的な感情をそのまま垂れ流すようなこともパブリックなものになっていない言葉の代表例です。
 
 そうしたものを浴びると、子どもは十分に自分をパブリックなものへと昇華しきれずに、不全感を抱えることになります。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 

 反対に、家族が機能していて、そこから多様なパブリックな言葉を受けると、安定した人格へと成長していきます。

 実は、機能している家庭とは私的な空間ではなく、とても公的な存在なのです(親しき仲にも礼儀あり)。
(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 

 ただし、安定した人でも栄養、睡眠など健康の基盤が揺らいだり、社会的な役割が失われそうになると不安定になります。
 言葉遣いが荒くなったり、おかしなことをいい出したり、ということは簡単に起きてしまいます。 

 

 特に、不全感が全くない人という方が少ないので、公的領域の枠組みがゆらぎ、不全感が刺激されると、暴言を吐いたり、ということは誰にでも起きます。

 ここに、強いトラウマや、愛着不安を抱えていれば、そのリスクはもっと増大します。

 

 車内といったようなプライベートな空間で運転という競争的な刺激が加わって、「あおり運転」というようなことをしてしまったり、家の中というプライベートな空間で、パートナーに暴力を奮うなんて言うことも起きてしまう。

 そこまで行かなくても、急に態度や言葉がおかしくなって、それを目の前の人にぶつけてしまうようなことが起きる。

 こうしたことが、なぜ急に人間の態度がおかしくなってしまうのか?ということについての一つの仮説と考えられるのです。

 

 今回の本では、そうしたメカニズムについても言語化して提示することにも取り組んでいます。

 

 

 

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親(家族)の価値観の影響は思いのほか大きく、本人には感知しづらい

 

 臨床心理の領域では、昔から、親(家族)の影響ということは解釈では外せないポイントとされてきました。

 誰でも誰かから生まれてきて養育を受けて育つわけですから当然ともいえます。しかも、その期間はとても長い。
 他の関係で、特定の人とこれほど長く、ということはなかなかありません。

 精神的にも、身体的にも発達するプロセスでの関係ですから重要さはわかります。

 

 なんでも親(家族)の影響、と捉える、ということについては、筆者は「わかるけど、ちょっと胡散臭いな」と眉に唾をつけて捉えていた時期もありましたが、回り回って見れば、「やはり親の影響はでかいな」「それも、想像以上にでかい」というのが現時点での感触です。

 それは、人間がネットワーク側の存在であるということがあります。
 自分というものが、それだけで成立しておらず、外からの影響を内面に“沈殿”させて存在している、ということ。 
 人間は他者を通じて、自分を形成していく存在であるということです。
 

 そのために、成長する過程で一番身近な養育者の影響を受けることは多大で、養育者の世界観そのものまで丸呑みするかのように内面化していくのです。

 養育者の世界観が愛着的で、「常識」を代表したものであれば悪影響は少ないです。さらに、そこに2度の反抗期を通じて相対化されて、「自分」というものが離陸していく。

 これが健全な発達と考えられます。

 

 一方、養育者の世界観が、非愛着的で、それを理屈で偽装した「ローカルルール」である場合は大変な問題をはらみます。
  
 子どももその世界観で世界を体感していくわけで、無用な恐れ、無用な不安、さらにはそれを超えるための過度な努力、理想、警戒を持つようになってしまいます。

 人ともうまく打ち解けられず、生きづらさを抱えてしまう。

 

 

 そうした苦しさをうむ親の価値観の影響ですが、本人にとっては世界観そのものなので、なかなか感知することが難しい。

 見えたと思ったら、薄れ・・
 自覚できたと思ったら、また薄れ・・・ と、わかったようでわからない。

 霧の中の出口みたいに、見えても薄れとなっていきます。

 セッション中に話をしていても、親の影響の話をしていたと思っていたら、あっという間に別の話題にスライドしていったりします。 
 あと、怒りといった感情も親ではなく別のものに向いていったりします。

 

 それは、親の価値観によって動いてきたことが、その人の人生のメリットにもなってきた(なっている)、という点もあるでしょうし、共依存的に癒着している、という点もあるでしょうし、「ローカルルール」というのは、表面のルールはもっともに見えるために、疑いづらい、という点もあります。

 

 「自分には影響はない」と思っている人でも、必ず(思いのほか)ありますから、親の価値観の影響、という観点を常に持っておくと生きづらさの解決の糸口となります。

 

 

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