俗な規範は疑い、相対化する(しっかりと距離を取る)

 

 現代の社会は、基本的に自助+基本は家族単位の公助+アクセスには手間とスキルがかかる共助を型に設計されています。
 

 高度成長期から残る家族世帯を単位とする社会制度の残滓+福祉社会になるにはリソースが完全ではないけども、うまく使えばそこそこには生きていけるという社会体制というかんじでしょうか。

 そのために、ある程度、心身に生きるためのスキルと免疫を身に着けていないと、社会の矛盾や、他者の困りごとや不全感を真に受けて自分のものとしてしまうと、それが生きづらさとなって襲ってきてしまいます。
 

 「全ては自分の責任と思え」なんていうのは、環境と支援が整った上でのルールであって、すべての場面で適応されるわけではありません。

 しっかりと、「そんなの私の責任・仕事と違うし!」「自分は自分で、他人は他人」とはねのけないといけないことだらけです。

 しかし、そうした状況がわからないままに、俗な規範を真に受けてしまうと、混迷に陥ってしまいます。

 

 規範(ルール、ノーム)というのは、薬のようなもので、適応される場面や問題は実はかなり限られています。

 さらに、それが健康に機能するためには、色々な状況や体質の方にも合うようになんども治験をして、副作用の影響がないように、洗練させていく必要があります。

 私たち個人の社会性にとっては、それが「成熟」というものです。

 

 

 しかし、世間の俗な規範や、個人のピュアな思いが、素材のままのこってしまうと、私たちの精神を呪縛してしまうのです。

 昔は、古典や修身と言ったことをつうじて、成熟を促す経路があったのかもしれませんが(昔もそれほどではなかったかもしれませんが)、
近代人、現代人にとって、成熟はかなり意図しておこなっていく必要があります。

 その成熟のための、いちばん大事なものは、「俗な規範の相対化」です。

そして、世間ではなく、社会に参加していく。本来の意味での社会の常識(知恵)に接続していく。

 その上で、社会的な人格として、自己を陶冶していく必要があります。

 

 

 もっとベタに言えば、成熟した大人になる、社会に揉まれる、騙されない知恵を身につける、といったことになるでしょうか?

 俗な自己啓発本や、ポップ心理学なんかは信用しない。

 芸能人など他人の成功談は、当然、盛られている。
 彼らはイメージで商売をしているのですから、そういうもの。

 楽しそうに旅行している写真というのは、楽しそうにキレイに撮っているだけ。
 なんで、旅行に行かなきゃ人生が充実していると感じられないの、この人たちは? と思ってみる。
(タレントの今田耕司が、有名人やのインスタグラムについて「ほとんど切り取ったニセモンの生活やもんな、あれな。8割そうやと思うで。8割あんなの切り取ったウソ生活やろ」「インスタだけ、撮影だけのためやもん。〝楽しんでる風〟を発信するための旅行とか、そういう職業になってるもんね」と言っていました)

 

 マスコミで話題の会社や人は、往々にして家計(会計)が火の車になっている。これもそういうもの。

 有名人と行かないまでも、それを模倣している人や、身の回りで“うまくいっている人”も同様です。

 
 あるいは、会社との関係についてもそうです。 
 会社というのは、献身するものではなく、契約関係であることも基本。
 フリーライダーという言葉がありましたが、これまでは会社も従業員にフリーライドしていました。
 だから、「仕事に自他の区別をつけずに働く」ことを推奨するような有名な経営者が書いた本なんて真に受けない。
 松下幸之助の本でさえ、“経営者の都合”で書かれているだけです。
 
 

 

 こうしたことは、斜に構えたことのように見えたり、冷めたように見えたりしますが、決してそんな事はありません。

決して大っぴらに言わないだけで、健康に生きる多くの人が、心のベースで持っている構え(生活者視点の保守主義/リベラリズム)です。

 こうした覚めた(冷めた)姿勢を土台に、表面を社会への基本的信頼で暖かくコーティングしている。そういうものです。

 今述べたようなプロセスを経るのが「愛着(アタッチメント)」あるいは、青年期に触れる「機能した大人たちの文化」というのものです。
トラウマを負うというのは、それらが自然に得られないがために、このブログでも言語化していますような、暗黙のルールを手動で再インストールしていく必要があるのです。

(参考)→「裏ルールを身に着ける方法はあるのか?

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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“詐欺師”に相談してしまう ~実は、相談には環境の支援や構造が必要~

 

 ローカルルールにかかってしまうと、ハラスメントを仕掛けてきている人、支配してきている人に相談しようとする、関わろうとするという悪循環に陥ることがあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ハラスメントを仕掛けてきている相手ですから、嫌なことを言われるに決まっているのですが、何故かその人に相談してしまう。
「私は大丈夫かどうか?」「これはどうしたらいいの?」と尋ねてしまう。

 親や家族などが典型ですが、特に問題が起きると、そのハラスメントの加害者に相談する。

 
 傍から見ていると「なぜ、問題の原因になっている人に、自分を苦しめている人に声をかけるの??」と思ってしまいます。

 

 詐欺に引っかかった被害者の方が、詐欺だとわかったあとに、加害者である営業マン(詐欺師)を呼んで、「これはどうしたらいいですか?」と相談するようなことが起こりますが、まさに同様の事象です。
 相談するなら消費者センターとか、弁護士とか、警察であるはずですが、なぜかそこには相談しようとしない。
 

 なぜか外の人を警戒し、家(内)を守ろうとしてしまう。
外の専門家に相談したらいいのに、身内に相談してしまう。

 あるいは、外の専門家に相談するのも先延ばしにして、自分の頭の中でもやもやと考えて時間を浪費する。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 どうしてこのような事象が生じるのでしょうか?

 色々と要因はありますが、一つには、尋ねる相手が自分の存在を承認してくれると期待しているためです。
 あるいは、自分が関与を続けないといけないと思っているためです。なにか自分の不安から逃れるためです。

 

 もう一つは、ニセの公的領域(≒私的領域)に絡め取られていて、本当の公的領域にアクセスすることができていないためです。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 まさに依存関係にあるということです。これは頭では切り替えることができない。体験や経験を偽装されているので、身体レベルでニセの公的領域が現実であると思わされています。
 

 

 最後には、コミュニティや社会自体の力も十分ではないということもあります。
 これは、日本の近代社会、現代社会の特徴でもありますが、コミュニティの力が弱く、行政の目も粗いために、私たちの側にそれを利用する能力やリテラシーがないと、社会の中で自分を位置づけること、社会の資源の利用が難しい、ということがあります。
 いろいろな問題はありながらも、うまくアクセスができれば何とか生きていけるだけの資源が社会にはあります。しかし、そこにたどり着けないままこぼれ落ちることも多い。
 上の例でしたら、行政や警察などに相談したってどうせ良い対応が返ってこない、カウンセラーに相談しても理解してもらえない、頼りない、という経験をしてしまっている。

 

 実は、「相談」や「探索」という行為自体が飛び込み営業、新規開拓にも似て、とてもエネルギーがいることです。
 こちらに自尊心が一定以上ないとくじけてしまうことでもあります。
 ですから、自尊心のエネルギー残量が一定以上に低下したり、相談や情報収集のスキルが十分ではないと、よい資源にアクセスできる前にくじけてしまう。

 本来の社会、コミュニティはそうした人でも包摂するように設計されなければならないのですが、現時点の日本社会はそうはなっていません。能動的にアクセス、探索が必要な段階の社会です
 (もっと言えば、”家族”という社会の最小単位足りえないものを基礎として設計してしまったおかしな社会。だから、まずは「家族」に相談してしまうのです)。

(参考)→「自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 本来、生きづらさとは社会からもらされるものですが、トラウマを負うと、社会の仕組みの不十分な点を内面化してしまい、抱えてしまうようになります。

 その結果、特に「家族」という脆弱なものに頼らざるを得なくなり、家族の機能不全や依存関係の影響にからめとられて行ってしまうのです。

 その結果、ハラスメントの加害者、あるいは、機能不全の家族に”相談する”なんていう滑稽な現象が生じるのです。
 
 詐欺師に相談することをもって、本人のせいだ、というのも実はかなり酷なことなのです。本当は構造の問題です。

 
 トラウマの特徴の一つはハラスメント(心理的な支配)、なのですが、トラウマを負わされていると、このような構造が生じます。

 

 

 

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なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 家族に対して責任意識や罪悪感を抱えていて苦しんでいる方は少なくありません。

 そして、クライアントさんとお話していて、しばしば尋ねられるのが、「別に家族は、自分に対して直接的に罪悪感を植え付けるようなことは行ってきたことはない。なのに、なぜ自分は罪悪感を感じているんだろうか?(つまり、自分で勝手に感じていることだから自分の責任では?)」といったことや、「親はむしろ、悪気はなくて、ただ、苦しんでいるだけで、それを見て自分はなんとかしないといけないと思っただけ(人として当然の感覚では?)」というようなことです。

 

それに対して、私は「いえいえそんな事はありません。陰に陽に、子どもに負担がかかるような構造があったはずです。罪悪感を感じるような環境があったということです」とお伝えしています。

 

ただ、そう、お伝えしても、すぐにピンとは来ないものです。

 

 こうした問題に対して徐々に日が当たるようになってきました。その一つは、2018年頃から登場した「ヤングケアラー」という概念です。

 

 その中でも、私も最近手に取りましたが、下記の本は、ヤングケアラーをテーマにしていますが、まさに発達性トラウマ、ハラスメントについて書かれた本といっても良い内容で、なぜかわからないけど(別に家族は自分に植え付けるようなことは事は言わなかったけど)、家族に対する強い責任意識、罪悪感を抱えて苦しんでいる方にとっても、とても参考になる良書です。
 
 なぜ、家族に対して責任意識や、罪悪感を抱えるようになるのかについて当事者の証言とともに言語化されていて、ぐっと迫ってくるものがあります。

 

 その中でも特に第一章で登場する、脳死の兄に対して、家族が機能不全に陥って「兄は生きている」という幻想に囚われた家族のもとで苦しんできたヤングケアラー(30代の女性)の語りは非常に参考になります。終章とあわせてご覧いただくとよいかと思います。

 あと、うまく支援に繋がって”解決”していった事例も多く書かれていますので、それも参考になります。

 

 ヤングとは若い人だけのことではなくて、成人以後でも、看病、介護が必要な家族や、働けていない親族が気になって罪悪感を抱えていたり、そのために自分も働けなくなっていたりするケースもあります。そうした場合にも、過剰な罪悪感や責任意識から過度に家族のケアにかかりきりになって、自分の人生が失われてしまっているケースは珍しくありません、。

 

 ケアには、「世話」だけではなく、「心配」というような意味もありますが、心配させられるという延長で、「罪悪感」や、いつ終わるともしれない他人の人生や困難をケアし続けなければならないということで、「支配」「呪縛」も含まれます。

 

 私が担当させていただいているクライアントさんの中には、ご紹介した本の1章の事例のように、死別や、親の機能不全のケアを行ってきて罪悪感を抱えているというそのもの、といういらっしゃいますが、それにとどまらず、トラウマを負った人というのは、実は、他者の不全感の「ケア」をずっと押し付けられているとも言えます。

 

 さらにいえば、親や兄弟が、学歴もあって、キャリアもあって社会的にも評価されているけども、そのための「無理」や「ストレス」のケアを、家族の中で一番、気が回る、本質が見える子ども(クライアントさん)が引き受けさせられてしまい、そのために「おかしなやつ」扱いされ、のけものにされる、場合によっては引きこもりや働けなくなる、心の病を抱える、ということも生じるのです。

 これも、一見すると家族はケアが必要な人には見えず、ただ、クライアントさんが働けずにだめな人のように見えたり、病気を抱えたり、本人もそう思い自信を失っていますが、実は、隠れされたヤングケアラー(成人も含む)と言えます。

 

 

 「自分は、実はヤングケアラーだったんだ??」「現在もケアラーではないか?」という視点で、自分の状況を捉え直してみるとトラウマを乗り越える手がかりにもなります。社会の構造から元々脆弱な家庭に負荷がかかり、機能不全になり、トラウマが連鎖し、というようなことも見えてきます。

 

 よろしければご覧ください。

 

村上靖彦「「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立」朝日新聞出版

 

 

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親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

 

 前回の記事の最後に触れましたが、病気や事故、死別といった不幸というのは最重度のストレスと言えます。

 そうしたストレスへの対処というのは、常識、文化、さらに霊性的なものへの距離感など、まさに、親や家族の「成熟さ」が問われる事象です。

 
 親だけではなく、親族や地域社会などの成熟さも問われます。

 非常に閉鎖的、封建的な地域、コミュニティだと、家族を支える力が弱く、むしろ「世間体」という檻となって覆いかかってくることもあります。

 

 親戚に中心となるような人がいれば話は早いのですが、そうした存在がが不在なことは少なくありません。一番年長の親族が、本来はドシッと構えて、親族を取りまとめないといけないのにそれができず、自分の不安から残された家族を責めるなどの幼い対応に終止してしまう、なんていうこともよくあります。

 これも機能不全と言えます。

 

 親が不慮の不幸に対して、機能せず、呆然としてしまったり、不安に陥ったり、代わりに新興宗教などに救いを求めたりする中で、親族の中で一番責任感のある聡明な若年者が、大人の代わりに家族、親族のストレスを一身に受けるような役割を背負うことがあります(アダルトチルドレン、ヤングケアラー)。 

 役割を背負った若年者、子どもがその頑張りを認められればまだしも、よくあるのは、その至らなさを責められたり、その子どもの責任だとされたり、さらに理不尽な理由で、都合よく大人の代替の役割を負わされてしまうことがあります。
 
 

 子どもも賢いように見えて、まだ子どもですから、子どもなりの視点で不幸な事象を捉えますので、ファンタジーや、因果を自分に結びつけて、無用な罪悪感を背負うことがあります。

 非日常的な大きなストレスへの対処をするのは、本来は社会の役割です。
 ここでいう社会とは、現在や過去も含めた文化の集積、(社会や文化的な意味での)宗教や、行政など様々なものを含みます。

 そうした支援がうまくいかないまま、特定のメンバー、子どもなどが背負うというとどうなるか?といえば、表層的な道徳をもとに過度な責任意識、罪悪感に還元された対応となってしまいます。

 そして、他のメンバーの分まで責任や役割を背負うような歪な様になるのです。

 元々無理に背負った役割ですから、至らない部分、できない部分が身体に負担として現れたり、うつやパニックという形で現れたりします。

 役割を背負わせている周囲から理不尽にに責められることもあります。 

 

 反対に、無気力や、白紙のような精神状態となって、不登校や多重浪人、職が定まらない、引きこもりという形で現れることもあります。

 
 こうしたことからみると、生きづらさや悩みというのは個人のものではないことがよくわかります。

 社会や共同体がなんとかしないといけないことが機能不全に陥ることで、個人のものとなってしまうのです。

 そうしたことを「個人化」といいます。

 生きづらい感覚の大本は、結局は社会や家族が負うべきストレスを自分が背負わされていることにあるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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