自責や反省はフィードバックではない

 前回、フィードバックについて触れました。

参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない

 そして、ポイントは、フィードバックループが作動する状態に身を置くことができるかどうか?です。 そして、フィードバックループを妨げるものは何か?を見定め、それを除くことでした。そして、本来、変化しない人はいないということも。

 

 このフィードバックという観点を持つ際に大切なことがあります。
それは、自責や反省はフィードバックではない、ということです。

 フィードバックというと、ついつい反省すること、自分を責めること、とおもってしまいますが、実はそれはフィードバックではなく、むしろ反対に、フィードバックがかからなくなる行為である、といえます。

 どういうことか?

 

 自責や反省とは、多くの場合、他者のローカルルールを飲み込まされて、その基準から自分を罰する、責める、ということでしかありません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 他者が私たちにローカルルールを飲み込ませることとは、他者が自分がフィードバックがかからない固定されたポジションに居たいために、自分の責任を他人に負わせる行為です。多くの場合は家族や、友人、パートナー(あと、学校の教師や職場の上司・同僚などから)からもたらされます。

 「お前はおかしい」
 「お前はダメな子どもだ」
 「お前は足を引っ張っている、迷惑だ」
 
 と、これらはすべて嘘です。

 こうした言説を受けて、社会的な存在である私たちは、自信の誠実さ、関係を希求する気持ちを悪用されて拘束されてしまう。
 これを「ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用)」といいます。

 これらローカルルールのニセの規範を飲み込まされた結果、その規範から自分を罰し続けることになるのです。

 前回の記事でも触れましたように、これはフィードバックが作動しない機能不全な状態、狭義でいえば共依存などが代表的ですし、広義でいえば、実は自責や反省もそれを負わせる人との間で距離の離れた依存関係にあると言えるのです。
 

 

 みにくいアヒルの子が、反省して、良いアヒルになろうとするような行為、これは全くフィードバックになっていません。
 (みにくいアヒルの子をいじめる“親”や“兄弟たち”も本来のフィードバックがかかりません。)

(参考)→「「みにくいアヒルの子」という状態

 本来は、

 あれ、何やら変だな?

 自分はアヒルの世界ではうまくいかないんだな?

 なにかちがうぞ?

 この際の「直観」こそ大事で、それはフィードバックのアンテナの機能をします。

 そうして、違和感を持ちながら過ごす中で、ある日、「機会」が訪れます。みにくいアヒルの子であれば、白鳥に出会う機会が。

 そうして、ああ自分は白鳥だったんだ、と気づくわけです。

 親からも自分の気質を認められず、
 学校でいじめられていて、

 でも、直観のきらめきは「自分が正しい」と示唆してくれている。

 
 そんな中、別の集団に移った際に、全然違う文化に出会った際に、そこで自分を知る。

あるいは、慰めに読んだ文学作品や映画、漫画、ゲームの中に自分を見出す。

 スポーツや文芸が自分の本来を発揮できる場所である場合もあります。

 これらは本来の意味でのフィードバックです。

 つまり、フィードバックとは、不全感や、悪意、嫉妬などをフィルタすることが必須で、本当に意味が顕現するまでに時間が必要な場合も多く、中期的なプロセスであるということです。自然界に生じるフィードバックも中長期であるといえます。

 
 もちろん、勉強ができない、仕事がうまくいかないというときに、何が問題か?を確認し、間違い直しをする、修正をする、といったDoingレベルでの比較的短期のフィードバックもあります。

 スポーツ選手も試合に負けたら、改善をしていく。

 ただ、よい選手は、いたずらに自分を責めたりはしていない。

 知りたいのは「構造」ですから。 

 

 商品開発もそうですし、創作もそうです。
 目の前の人に意見を聞いても、意見を積み上げたらいい作品ができる、とはならないことは、私たちにもわかります。

 
 「どんな風に作品を作ればいい?」と読者に聞いても読者もわからない。

 「面白くない」「つまらない」という表面的な意見が間違っていることもよくあります。

 

 国民的漫画「ドラえもん」も実は、連載当初は全く評価されず、編集者も面白さをいまいち認めず、だから、いちど6巻で打ち切り、終了しています。

 その後ドラえもんが戻ってくる話ができて復活し、その流れで作られた話が伝説的な名話「さようなら、ドラえもん」「帰って来たドラえもんの巻」(『STAND BY ME ドラえもん』として映画にもなっています)、ということになりますが、なぜドラえもんが未来に帰り、また戻ってきたのは、実は当初の「不人気」と再評価のためだったのです。

 当初の“不人気”渦中の作者の藤子不二雄は「もっと評価されてもいいのになあ」と粘っていたそうです。

 その時の、編集者の反応や態度などは正しいフィードバックか?といえばそうではありません。
プロの編集者だから作品を理解している、できるというわけではまったくありません。

作者の直感こそが正しくフィードバックをキャッチしていた。

 
 正しくフィードバックが機能するためには、愛着の土台が必要です。

自分の存在は大丈夫、という安心感があってこそ機能します。

 さらに、不幸にしてトラウマを負い、愛着が不安定であっても、
 魂のレベルの直感は実は根底で必ず動いています。

 その直感はいろいろなセンサーとして働いています。

 そうした愛着の土台や、直観のセンサーで濁りのある情報をフィルタし、時間がかかる場合は結果が出るまでの時間を稼ぎながら、本来のフィードバックを得る。

 こうして私たちは気質を活かしながら、自らを社会化し、状況の変化に対応、自己を実現していきます。

 

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家族の中で一番利発でまともな子が頭がねじれて病んでしまう

 

 クライアントの持つ疑問(ある種の呪縛でもある)としてよくあるのが、「育った家庭環境が悪いのはわかったが、兄弟もいる中でなぜ私だけこんなに苦しんでいるのか?」というものがあります。

 
これは、もっともな質問であると同時に、その裏には暗に「環境が悪いし、その影響があるというなら、兄弟もすべてが病むならわかるが、私だけそうなるということは、私がやはりおかしいのだ」というトラウマによる心理的な呪縛を伴っている質問です。

 

 これについては以前の記事でも書きました。

(参考)→「同じ環境でも問題が出ているのは自分だけだから自分に問題がある? おかしな環境は優等生を必要とする。
 

 同じ環境であっても受ける側の気質も状況もポジションも異なりますから、同じようにならなくて当たり前です。
 家族の中でも影響に差が出ますし、その中で優等生として優遇される人が出たり、カルト宗教で幹部になるようなごとき間違った適応を果たす人もいる、ということです。

 

 

  そうしたことに加えてもう一つ、自分だけが病んでいる、ということの理由があります。

 それは、その方が家族の中で一番利発でまともであった、ということです。

 

 私たちは景色や見ている画像が揺れたりすると、酔ったり、気持ち悪くなったりしますが、それも、こちらがまともな感覚があればこそです。
 おかしいのは揺れている画像のほうです。

 反対に、海に揺られていると、揺られていることに適応して、陸に戻っても揺られているような感覚がしたりすることもあります。

 

 こうした自然環境だけではなく、社会環境に対しても同様に、私たちには環境に適応しようという動きが自然と起こります。

 しかし、社会環境の側がいびつでおかしければ、こちらの側が酔う(病む)ということは生じます。

 

 

 例えば、とてもねじれた考えやコミュニケーションの仕方を持つ家族に囲まれて生活しているような場合などはそうです。

 まともで、まじめであるほどに、そこに適応しようとすると「不適応」を起こしてしまう。

 もっといえば、家族が持つねじれを、その利発で賢い子供の側が、家族のねじれを「整えよう」としてしまう。

 
 例えば、親のねじれた発言を子どもが忖度して、意味が通るように“翻訳”したり、自分の感情を殺すようにして吸収したり、といったことはよく見られます。
 親のおかしな行動を、マネージャーや執事のように先回りしてごまかしたり、取り繕ったりすることを半ば無意識に行うなどしたり。

 

 
 歪んだ鏡に囲まれた部屋に住むがごとく、歪んだものに囲まれていれば、こちらの認知がそれに合わせるかのように歪んでしまいますが、前回の記事でも書いた「頭がねじれる」と、まさにそのような結果生じるのです。

(参考)→「トラウマ、ハラスメントによってどのように頭がねじれるのか?~連鎖して考えてはいけない

 それは、その人がおかしいから、ではなくて、その方が一番利発で、まともだからです。

 たまたま、その人が引き受けてくれたおかげで、適当でいい加減でいられたりできたほかの兄弟(姉妹)は軽く済んだりすることもあります。
(あるいは、優等生として、歪んだ世界で優等生になったり、おかしいと思わないように誤適応したり)

 
 おかしな環境で心が病む、というのは、その方がおかしいからではなくて、まともである証拠です。

 

 

 しかし、本人は、適応できていない、あるいは症状を発症している自分がおかしい、弱い、病んだ人間だと捉えてしまう。

 もちろん、そんなことは間違いです。

 歪んだ鏡を見させられすぎて、ねじれてしまった頭を、常識の世界に戻って元に戻す必要があります。 

 元に戻す際に生じる課題は、「そのおかしな環境に対しても適応しなければならない」という偽の責任意識や、偽の義理の感覚(罪悪感)、自分への疑い(やっぱり病む自分がおかしいのだ、自分の中に問題があるのだ)が邪魔をする、ということです。

 

 その邪魔自体、トラウマの柱の一つでありハラスメント(心理的支配、呪縛)によるものですが、まずは、知識レベルでよいので、自分は大丈夫だ、まともだからこそ苦しんでいるのだ、と知ることです。

 

 

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「みにくいアヒルの子」という状態

 

“社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを前回の記事にも書かせていただきました。

参考)→「“It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)」
 

 そして、その際の社会とは、ダイレクトに「社会の制度が~」「現在の社会が~」といった意味での「社会」とは異なり、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えて規範を騙る状態や機能不全をまずは“社会”と呼んでいます。

 結局、生きづらさの原因をたどると、“社会(環境)”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。
クライアントの状況を見ていて、現時点でわかる究極因はそこにあります。

 クライアントの頭や心がおかしいのではありません。

 

 

 そして、“社会”の問題を「自分のせいだ」「自分がおかしいのだ」と思わせる偽装がいくつかあり、その罠にかかり、“社会”の理不尽を自分のものとしてしまい、どうしても、そうではないと思えない、自分は大丈夫と思えない状態こそが「生きづらさ」であるということです。

 白鳥が、アヒルとして劣っていると責められて「みにくいアヒルの子」と思わせられている状態です。

 ここからサッと逃れる方法を探そうとしているのが私の臨床での取り組みになります。

 

 

 機能不全な社会における日常の経験や体験というのは、究極のマインドコントロール装置、といってもいいくらいに作用します。
 
 
 長期にわたり、何度も何度も「あなたはおかしい」とつきつけられる経験を重ねることで自分は「みにくいアヒルの子」で、それはどうしても否定できない、と”作られた事実”を重ねられていってしまうのです。

 そして厄介なのは、身近な親族が絡んでいるケース。

親だけおかしいなら「親がおかしくて自分はそうではない」とわかりやすくて良いのですが、親族が絡むとそうは見えなくなる。

 親戚というのは一見、「立派で」「物わかりがよく」見えますから、その親族から「自分がおかしい」とされたり、反対に加害者である親を評価されたりするとわけがわからなくなる。

 あるいは、学校でのいじめの経験、職場でのハラスメント経験が重なるようなケースも厄介です。

 学校でも、一見、「イケていて」「人気があって」「運動もできて」「勉強もできて」「ものがわかってて」「バランス感覚があって」などという同級生がいますから、その友だちたちから「おかしい」「ダメだ」とされることの衝撃は簡単なものではありません。

 会社も同様です。

「家のみならず、学校でも、職場でも自分がおかしいとされるなら、もうこれは確定された事実なのだ」となってしまうのです。

 そうするとみにくいアヒルの子の状態から逃れられなくなります。
 

 

 

 しかしながら、「家も、学校も、職場もおかしい(It’s the society,the community)」ということが実際に存在するのです。 

 ハラスメントの罠は日常のそこここに存在します。

そのような状況の中に家で親に「みにくいアヒルの子」とされたトラウマを抱えた子どもが行けば、学校でもいじめられる、職場でも否定される、ということは普通に起こります。

 そのことをもって、「自分はやはり確定された事実としておかしいのだ」と思う必要はないのです。

 立派に見える親族も同様で、親もおかしいなら、親族も同様の文化を背負っていて、立派に見えているけど実態は変な人たちである場合も多いのです。

 学校もそう、会社もそうです。自分に対してハラスメントをしてくるようなおかしな環境でも「優等生」が存在します。
 社会問題となったカルト宗教でも、その教団に適応し、実績を上げて出世し、立派に見える人たちが記者会見で登場している様を見ればよく分かります。
 ナチのアイヒマンやハイドリヒのようにおかしな集団の中でも仕事がバリバリできて出世する人がいるのです。
 しかし、適応できた彼らがまともか?といえば、そうではありません。
 適応できないことのほうがまともさの証なのです。

 
 白鳥であるあなたは、白鳥ゆえにいじめられて、苦しみますが、それはあなたのおかしさを示すものではありません。環境がおかしいのです。

 みにくいアヒルの子とされた白鳥が自分を取り戻す道は、よいアヒルの子を目指すことではありません。
 ちゃんと不適応を起こして、自分はある日ではない、と気づき、白鳥へと戻ることです。
 

 ベストセラー『窓際のトットちゃん』は、みにくいアヒルの子にされかけたトットちゃんが、移った学校でのびのび育っていく様子が描かれているわけですが、“社会”は人間というものをちゃんと理解できておらず、さらにいえば、“社会”は子どもの気質(個性)、激しさを恐れるものなのです。

 会社でも、ちょっと率直な物言いをしたらすぐに「問題社員」扱いとなります。

 社会(ローカルコミュニティ)自体がおそれや不全感を隠し持ちながら立派なふりをしていて、その立派なふりを見破られて「王様は裸だ!」とされることを“社会”は極度に恐れる、ということなのかもしれません。

 

 

 

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“It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)

 私たちは幼い頃を思い返すと、数々傷ついてきた経験を抱えています。

 仲良くしてほしいし、そうすればいいと幼心に感じているのに、両親が喧嘩をやめない。

 訴えてみても、耳を傾けてくれない。

 なんで??

 ただ、仲良くすればいいじゃない?
 
 お互いに話を聞けばいいじゃない?

 こうすればいいじゃない?

 でも、直感的な正論が全然通用しない。

 その絶望感、孤独感。

 

 友達に対してもそうです。

 自分の素直な気持ちや在り方で接したら、ある時、急に意地悪される。

 突然嫌なことを言われる。

 なんで??
 
 どうして??

 
 自分はこんないい子なのに、仲良くしてくれればいいじゃない?

 ただ受け入れてくれればいいじゃない?

 なんで、人はこんなふうにおかしなことになるの?

 

 
 でも、自分の気づきや訴えは全然周りに通じない。

 大人に相談してみても、ちゃんと対応してくれない。
 喧嘩両成敗になる。

 そのうち、「自分にも悪いところがある」というお題目を信じるようになってしまう。

 

  
 大人になってからもでもそうです。

 自分は普通にしているだけなのに、理不尽な目に遭う。

 信じられないような失礼なことを言われたり、意地悪をされたり、などということは日常のそこここにあります。

 しかも、それらは明確に言語化できないようなとても微妙な状況で行われるので、声を上げることさえできない。

 声を上げる不利益や手間を考えれば、と飲み込んでします。
気の強い人なら言い返せるのに、即座に反論できない自分が悪いのだと思ってしまう。
 

 理不尽は自分で何とかすることが当たり前だ、とされて、“社会”のおかしさは個人化されてしまう。
 

 幼いころ、自分はただありのままにいるだけのものなのに、親から「この子はダメだ」「この子はおかしい」といった間違った指摘を受けて、それをずっと心に抱えたまま、真に受けたまま、ボタンを掛け違えたまま、その答えを探そうとして、その後の人生を生きている人もとても多いです。

 

 いじめを受けても親たちが「仕方がない」として適切に対処してくれないことで不登校に陥っているのに、個人のメンタルの問題にさせられている、というようなケースもよくあります。
 
 例えば、最近、海外で日本人の子供が襲われても現地の政府は「偶発的な事故」といいっていますが、仮にそうだとしても、「全力で対処します」と言ってくれなければ、安心して住むことはできません。だから問題になっています。
 同様に、親や先生が「学校ができることも限られるし、仕方がない」なんて言っていては、子どもが安心して登校できるはずもありません。「いじめには断固対応します」「全力で守ります」ということが本来です。
 
 しかし、大人の都合で安心安全が守られていないから学校にいけないのに、自分が弱いせいにさせられているし、自分でもそう思い込まされてしまっている。 

 これも、大人(“社会”)の機能不全を子どもが背負っているようなケースです。

 
 
 あるいは、親の理不尽、家族の問題を自分が引き受けて、そのために生きづらい人生を生きている人もいます。ヤングケアラーなどはまさにそうですし、ヤングケアラーと名付けられなくても、トラウマを負った人の多くはそうです。

参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 確かに、多くの人は、心の悩みについては、環境に問題がある。環境が大きな要因になる、ということには同意します。しかし、「それはそうなんだけど、結局、環境は変えられないんだから、個人が何とかしなきゃね」といったおかしな留保がついてしまい、そのことで、結局個人の中に問題が流れ込んでいってしまう。

 

 

 あるいは、「“社会”全体がおかしいなんてことはない」といった思い込みも強く存在します。

 ここでいう“社会”とは、日本社会とかアメリカ社会といった大きな社会や社会問題の社会ではなく、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えてルールを騙る状態や機能不全を“社会”と呼んでいます(いわゆる社会の問題や不正義や加害者を糾弾しようとか!そういう論とは異なります)。
 

 

 それらが全部、おかしいなんてことはないだろう?という思い込みです。

 
 もちろん、そんなことはありません。いじめは学校や職場でも横行していますし、いじめに感染するとあっという間にみんなの頭がおかしくなることは観察されている事象です。
 

 学校、会社や親族には「しっかりしていそうな人」「客観的な判断ができそうな人」「立派な学校や会社にお勤めの人」もいたりします。そして、そうしたひとが“バランスの取れた意見”を言ったりしますが、それらが正しいか?といえばそんなことはありません。
 
 そうした人がみんなを惑わすので一番厄介なのです。

 立派そうに見える人がまともである、というわけでは全くありません。

 そうした人は、自分を失った結果見かけの立派さを手にしているケースもとても多いですし、立場主義から発言することが上手であることはよくあります。
 
 以前書いた記事で取り上げられたなんでも100点が取れるエリートたちはまさにそうです。
 

 「あんな立派な人が、しっかりした人が言うんだからやはり自分が悪いんだ」

 「さすがに自分を取り巻く周りが全部おかしいことはないでしょう?」

 という風になってしまうと、自分が飲み込んでしまった“社会”の問題は出ていかなくなってしまい、生きづらさを抱え続けることになってしまいます。

 

 文化人類学者のベイトソンは、結局、他者の理不尽(ダブルバインド)を引き受けてしまうことが統合失調症の原因だと、喝破しましたが、結局はまわりまわってみれば正しい認識だったとされています。

 

 そのとおりで、“社会”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。

 

 だから、そろそろ、私たちは気づいてもいいのではないか?声を上げてもいいのではないか?

 “社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを。

 

 ※本記事のタイトルの”It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)
 とは、昔、クリントン大統領が選挙戦で使ったスローガン(経済こそが問題なんだよ、愚か者! It’s the economy, stupid”)をもじったものです。当時の問題の核心をついて、有権者の共感を得て当選をしたそうです。

 

 

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