私たちは、子どもそして人間のそのままが全然わかっていない。

 

 世の中には子育てについてなど様々な本が出ています。ネット、動画、SNSなど、たくさんの情報が溢れています。
  
ですが、

 子どもというのは、正味、どんな存在なのか? ということについて私たちはいまいちよくわかっていません。

 子どもは、私たちの想像以上にわけがわからなくなりますし、手がつけられなくなります。

 わがままもいうし、ギャーッと泣いてどうしようもなくなることもしばしば。
どんなお母さんでもうんざりしてしまいます。

 個人差も大きいです。発達の差も想像以上にあります。

 しかし、そういう子どもの正味の姿を私たちはよくわからない。

 

 専門家も、そのことを発信しているのかもしれないですが、うまく伝わっていない。
 本だと、なにかきれいごと(≒つまり、あなたのやり方が間違ってますよ)を突きつけられるような気がして、読むのが億劫という方も少なくありません。
 

 

 私は、子どもを持つ方からのご相談も多くいただきますが、お悩みの当事者はそうした子育て本や愛着や発達の本を読んだりしていても、都合の良いところだけ(あるいは、悪いところだけ)を切り取って吸収していたりします。

 つまり、「子どもが発達障害である」という情報や、「~~依存症という項目にチェックが当てはまる」といった情報であったり。
 ただ、「自分の子どもはおかしい」という不安を確定させてひとまず安心したいという欲求からか、都合よく見ていたり、ということがあります。
 (もちろん、本の側にも問題はあります)

 カウンセラーという第三者の立場から見ると、「~~障害なんて言葉をつけなくても、子どもって単にそういうものではないですか?」
 あるいは、「何か不安な要素があるから、お子さんがそうなっているのでは?」ということが本当によくあります。

 

 親御さん、とくに母親は、社会からのプレッシャーや過度な責任を負わされていますから、子育ては不安だらけです。
  
 さらにそこに、自身の愛着不安などが重なると、不安につけ込んだ情報だけが入り込んで、正味の子どもの姿が見えなくなってしまいます。

 

 

 例えば、幼稚園や小学校低学年でどこまでの勉強ができるのが当たり前か?どこまで運動ができるのが当たり前か?といったことさえ、私たちはよくわかっていません。

 子どもは抽象的な概念などはよくわかりませんし、勉強も親が思う以上にできません。
 

 しかし、自分に不安を持つ親は、そうした子どもの姿に自分の不安を投影して、イライラしてしまい、子どもにぶつけてしまう。「こんな事もできないのか?!」とか、「こんなことくらいで」なんてやってしまう。

 実は、それは子どもの平均的な姿でしかないのですが、それがわからない。

 他の子どもは勉強ができているように見える。

 東大に子どものを入れたママの話を見ては自分は親としてはだめなのかも?と不安になる。
 (単なる幻想でしかありません)

 

 

 子どもはかなり怖がりですし、ちょっとしたことで嫌にもなります。
 特に問題はなくても学校に行きたくな~い、何ていうのもしょっちゅうです。
 (でも、子どもは言語化する力はありませんので理由を聞いても何も出てきません)
 

 気の強い子もいれば優しい子もいますが、気の強い子が素晴らしく、そうではない我が子は劣っていると捉えてしまう。 

 
 他の家は見栄を張っていて、グズグズぶりは隠して世間体を良くしているだけなのに、それがわからない。見えない。

 さらに、親である自分は苦労して頑張ってやってきた、同じ年齢のことはできていたという考え(思い込み)も根強く、実際に過去の自分がどうだったか、できていたとしてもどういう環境の後押しのゆえにそれが可能だったか?が見えなくなっている。

 

 先にも書きましたが、これだけ教育や発達についての研究がされているにも関わらず、私たちはいまいち子どもの実態がわからない。専門家も本当にわかっているのかも怪しい場合もありますし、本当にいい情報はきちんと届いていなかったりもします。

 もしかしたら、発達障害やHSPといった概念も、そんなわからなさの果てにでてきた徒花(あだばな)でしかないのかもしれません。

 

 

 実態がわからないままに、わがままをいう子どもや本来の姿を示す子どもを受け入れられずに、「あなたは~~だ」と否定をしていってしまうことも起きてしまう。

 普通の事象でしかないにも関わらず、あるいはストレスが掛かっておかしくなっているだけなのに、「感覚過敏だ」「発達の問題だ」「ゲーム依存だ」としてしまう。
 

 

 

 これらは親の例ですが、学校でも同様です。
 少し前までは、給食では「完食」が当たり前で、完食するように指導されていました。

 しかし、最近は、子どもの発達の個人差などが認識されるようになり、完食の弊害も多いことがわかってきました。

 そのため、完食は求めず、残しても良いことは当たり前となってきました。

 

 こんなことでさえ、社会はよくわかっていない。  
 おそらく、現時点でも同じようなことはあるのでしょう。

 
 そんなこんなで、人間にとって普通にある弱さ、情けなさ、どうしようもなさが十分に受け止められないまま、「自分はおかしい」という前提が隠されて刷り込まれていく。

 

 ”みにくいアヒルの子”の完成です。

 
 以前、機能不全な親は子どもの素の状態を異常として恐れる、と書きましたが、子どもの素の状態に異常としてしまうのは、まさに社会が機能不全に陥っていると言えます。

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準5~親バカになれない

 その裏には、大人たちが抱える不全感があります。

 ※不全感によって機能不全に陥った状態の社会を本来のものと区別するためにここでは“社会”とします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 子どもとは、つまり私たち自身のことです。

 こうした機能不全は、本来ではない意味での“社会”の中で生じてきました。

 ”社会”自体が、私たち人間のことを実はよくわかっていないのです。
 

 生きづらさや心の悩みとは個人の頭や心の中で生じているのではなく、実は、これが生きづらさの根源にあるのです。

 

(参考)→「自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい

 

 

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同じ環境でも問題が出ているのは自分だけだから自分に問題がある? おかしな環境は優等生を必要とする。

 

 トラウマによって自分を失っている人が自分を取り戻すためには、過去現在の環境の影響で苦しんでいることを自覚する必要がありますが、それを妨げるのが、同じ環境でうまくいっている人(優等生)の存在です。

 よくあるのが、家庭の中での兄弟(姉妹)の存在です。

 本当にひどい環境で育ったのに、症状が出ているのは自分だけ、弟や妹(姉、兄)などは元気にしている、あるいは、親に可愛がられている、というようなケースはとても多いです。

 すると、同じような状況でうまくいっている人がいるのだから、やはり自分はおかしいんだ、と思っている当事者は珍しくありません。

 

 
 もちろん、これらの結論(推定)は、ローカルルールに影響された思考によるもので、自分がおかしいという理由には全くなりません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

「でも、同じ環境で大丈夫な人がいるなら、自分に問題があるのでは?」とどうしても感じてしまうかもしれません。

 そんなことはありません。

 まず、兄弟で待遇に差があったり、長子の存在が風よけになり第二子以降のストレスが緩和されることはよくあります。
 別の例では、いじめの横行する学校やクラスでも比較的被害の少ない生徒がいることや、ブラック会社でも比較的ストレスが少ないという社員はいます。

 「同じ環境だから~」というのは、実は、かなり無理な結論だと言えます。同じ環境ではないのです。

 

 

 さらに、です。
 実は、待遇差は、ブラックな環境、ローカルルールの世界を成り立たせるために意図的に作られているということがあるのです。
 もっと言えば、ローカルルールが支配する環境が成立するためには、その中でうまくいっている人が必要なのです。 

 

 

 例えば、最近でも新興宗教に関連して、元首相の暗殺事件が生じるなどしましたが、その際に会見に登場した代表や幹部の方たちは、その組織の中で「エリート(優等生)」とされる人です。

 かつてのオウム真理教でも、幹部、エリートが存在しました。

 その組織の中で活躍している人たちもいたわけですが、では、その組織は問題なく、被害を受けた人が問題なのでしょうか?
 活躍している人たちはそんな環境でも克己して成果を上げれる優れた人なのでしょうか?

 もちろんそんな事はありません。

 なぜ、そんなおかしな組織でも活躍する人、高待遇な人達がいるのか?といえば、組織というのは、正統性を維持するためにはそれを証する要素、たとえば優等生が必要なのです。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 もし、すべての構成員全員がうまくいっておらず、不幸であるならば、その組織の存続に関わるからです。

 構成員を従わせるためにも「ほら、~~さんはうまくいっていますよ(あなたも疑問を持たず、従いましょう。苦しいのはあなたの問題です)」という見本が必要になるからです。
 

 

 かなり以前の記事にも書きましたが、
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 実際に、かつての中国の文化大革命などの時期には、「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」といって、共産主義社会の成功例をされていた地域がありました。もちろん、捏造です。

 あるいは、世界恐慌の頃は、ソ連は成功しているとされていました。
実際は、映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』に描かれているように、ウクライナなどから穀物を収奪し、繁栄を演出していただけだったのです。
(ホロモドールと呼ばれ、ウクライナの人口の2割!が餓死したとされます)

 しかし、当時のソ連は、世界恐慌に陥る資本主義と尻目に成長する成功事例とされていて、イギリスのバーナード・ショーなど、ソ連の宣伝を信じてしまう欧米や日本の知識人は大勢いたのです。

 

 
 トラウマにおいては、過剰な客観性、自己責任意識や罪悪感から自分にも問題がある、と捉えがちです。
(「親のせいにばかりしていいのだろうか?」といった感覚。喧嘩両成敗といった誤った認識など)

(参考)→「過剰な客観性」「「喧嘩両成敗」というローカルルール」「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 「確かに環境にも問題があったが、自分にもやりようがあった」などというのは、公平に状況を見れていると本人は考えていますが、そうではありません。
トラウマに影響されて歪んで状況を見ているということです。

 トラウマをケアする、トラウマから抜け出して自分を取り戻すためには、こうした知恵(常識、教養)もあらためて身につけていくことも必要なのです。

 

 

 

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なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 家族に対して責任意識や罪悪感を抱えていて苦しんでいる方は少なくありません。

 そして、クライアントさんとお話していて、しばしば尋ねられるのが、「別に家族は、自分に対して直接的に罪悪感を植え付けるようなことは行ってきたことはない。なのに、なぜ自分は罪悪感を感じているんだろうか?(つまり、自分で勝手に感じていることだから自分の責任では?)」といったことや、「親はむしろ、悪気はなくて、ただ、苦しんでいるだけで、それを見て自分はなんとかしないといけないと思っただけ(人として当然の感覚では?)」というようなことです。

 

それに対して、私は「いえいえそんな事はありません。陰に陽に、子どもに負担がかかるような構造があったはずです。罪悪感を感じるような環境があったということです」とお伝えしています。

 

ただ、そう、お伝えしても、すぐにピンとは来ないものです。

 

 こうした問題に対して徐々に日が当たるようになってきました。その一つは、2018年頃から登場した「ヤングケアラー」という概念です。

 

 その中でも、私も最近手に取りましたが、下記の本は、ヤングケアラーをテーマにしていますが、まさに発達性トラウマ、ハラスメントについて書かれた本といっても良い内容で、なぜかわからないけど(別に家族は自分に植え付けるようなことは事は言わなかったけど)、家族に対する強い責任意識、罪悪感を抱えて苦しんでいる方にとっても、とても参考になる良書です。
 
 なぜ、家族に対して責任意識や、罪悪感を抱えるようになるのかについて当事者の証言とともに言語化されていて、ぐっと迫ってくるものがあります。

 

 その中でも特に第一章で登場する、脳死の兄に対して、家族が機能不全に陥って「兄は生きている」という幻想に囚われた家族のもとで苦しんできたヤングケアラー(30代の女性)の語りは非常に参考になります。終章とあわせてご覧いただくとよいかと思います。

 あと、うまく支援に繋がって”解決”していった事例も多く書かれていますので、それも参考になります。

 

 ヤングとは若い人だけのことではなくて、成人以後でも、看病、介護が必要な家族や、働けていない親族が気になって罪悪感を抱えていたり、そのために自分も働けなくなっていたりするケースもあります。そうした場合にも、過剰な罪悪感や責任意識から過度に家族のケアにかかりきりになって、自分の人生が失われてしまっているケースは珍しくありません、。

 

 ケアには、「世話」だけではなく、「心配」というような意味もありますが、心配させられるという延長で、「罪悪感」や、いつ終わるともしれない他人の人生や困難をケアし続けなければならないということで、「支配」「呪縛」も含まれます。

 

 私が担当させていただいているクライアントさんの中には、ご紹介した本の1章の事例のように、死別や、親の機能不全のケアを行ってきて罪悪感を抱えているというそのもの、といういらっしゃいますが、それにとどまらず、トラウマを負った人というのは、実は、他者の不全感の「ケア」をずっと押し付けられているとも言えます。

 

 さらにいえば、親や兄弟が、学歴もあって、キャリアもあって社会的にも評価されているけども、そのための「無理」や「ストレス」のケアを、家族の中で一番、気が回る、本質が見える子ども(クライアントさん)が引き受けさせられてしまい、そのために「おかしなやつ」扱いされ、のけものにされる、場合によっては引きこもりや働けなくなる、心の病を抱える、ということも生じるのです。

 これも、一見すると家族はケアが必要な人には見えず、ただ、クライアントさんが働けずにだめな人のように見えたり、病気を抱えたり、本人もそう思い自信を失っていますが、実は、隠れされたヤングケアラー(成人も含む)と言えます。

 

 

 「自分は、実はヤングケアラーだったんだ??」「現在もケアラーではないか?」という視点で、自分の状況を捉え直してみるとトラウマを乗り越える手がかりにもなります。社会の構造から元々脆弱な家庭に負荷がかかり、機能不全になり、トラウマが連鎖し、というようなことも見えてきます。

 

 よろしければご覧ください。

 

村上靖彦「「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立」朝日新聞出版

 

 

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不意打ちの恐怖

 

 トラウマを負った方に多いのは、不意打ちされるのではないか、という恐れが強いということがあります。

“不意に”嫌なことを言われるのではないか? とか、

“不意に”自分が気づいていない欠点、弱点を指摘されるのではないか? とか、

街を歩いていたら、
“不意に”怒られるのではないか?とか、

仕事でも、
“不意に”上司やお客さんが怒り出すのではないか?とか

そういった恐れを持っていたりします。

 

 攻撃が外から来るだけなら、まだマシです。

 その恐怖心を解消し、日常では確率が低い出来事なんだ、ということがわかれば、警戒は解けていきますから。

 しかし、“不意打ちされる”原因が自分にある。だから自分はおかしい。自分はミスが特別に多いのだ。楽観的にわかったつもりになっているとろくなことがない。自分は大事なことに見落としがある不注意な人物なんだ、といった感覚を持っている場合は、なかなかそうもいきません。

 

 外からの攻撃だけではなくて、自分の内部(Being)も信頼できない、という感覚があるからです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 こうしたことは、ローカルルールによる因縁付け、原因帰属によって生じます。

 例えば、親が自分の機嫌が悪いことに任せて子どもに感情をぶつける。子どもにとったら平和な日常の中で急に怒られる。
でも、その理由を「お前が悪いからだ」として、真に受けると、上記のように「自分は大切なことを見落としていた」「自分はおかしい」と捉えるようになります。

「自他の区別」がぐちゃぐちゃになってしまいます。

 

 相手は単に感情に任せて理不尽なことをしているだけなのに。
 ローカルルールは、ルールとして成立させるために理由をつけて相手に原因を帰属させてしまうからです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 不意打ちの恐怖があることで、物理的な現実への信頼感も低下します。

 「1+1=2」であることが信頼できない。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。

 

 算数(数学)が苦手な人に多いのですが、単に計算ミスをしても自分がおかしいせいにしたり、なにか魔術的なトリックで答えがすり替わったかのような感覚をもってしまう。

 本当は間違ったところまで立ち戻って、計算しなおせばよいのですが、そういう気持ちが起きない。

 これまでの境遇の中で、積み上がるようなプロセスではなく、“不意に”理不尽な結果が降り掛かってくる経験をしているために、算数で間違いがあっても、同様に感じてしまう。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 仕事でもそうですが、「自分の意見」「自分の考え」を提案するときにも、どこかで、自分の考えには見落としがあって、それを“不意に”指摘されてしまうのではないか?という恐れでビクビクしている。

 

 

 結果、絶対に突っ込まれない内容にしようとガチガチの理屈になってしまったり、過度に完璧を目指そうとしてしまったりします。

 しかし、完璧なものなどありません。誤解や見解の相違もつきまといます。
 ちょっとでも疑問を呈されたり、批判されると、「自分がおかしなことがバレた」という感じに頭が真っ白になってしまう。

(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 愛着的な世界観であれば、あくまで私の意見。完璧なんてありえない。相手の批判もあくまで相手の意見でしかなく、完全ではない。
 だから自分の視点を伝えて、意見を交換する。その結果、さらによいものになるかもしれない、と捉えます。

 

 トラウマ的な世界観ではそうではなく、自分の存在(Being)をかけて、真理か否か?と完璧を目指そうとしたりしてしまいます。
 でも、どこまでいっても真理なんてありませんから異論が出ます。
 それを「自分がおかしい証拠」「真理が崩れた」と捉えて絶望し、顔面蒼白になってしまうのです。

 

 不意打ちされないことをあらゆることの第一条件にしているために、身体も緊張しているし、人の言葉にも弱いし、自然体でいることができません。

 不意打ちの恐怖から逃れる方略として、絶対安全や完璧を目指すというのはローカルルールの世界観、トラウマの世界観です。

(参考)→「「素晴らしい存在」であるべきと「弱さ、不完全さ」を隠していると、いつのまにかローカルルール世界にとらわれるようになる

 

 不意打ちされる恐怖を持っているということは、言い換えれば、「主権がない」ということ。

 自分が自分にまつわる出来事の主権を持っているという感覚を奪われているということです。

 主権を持つこと、自他の区別をもって人と付き合うということをすることは、愛着的な世界観です。

 主権というのは「それが及ぶ範囲が決まる」ということでもあります。
 だから、範囲が及ばない出来事については、不意打ちとも思わない。「自分の責任ではない」として、自分を免責することができるのです。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 

 

 さらに具体的にいうと、
 相手の理不尽まで含めて「理屈を整えて」反応しようとすると、頭も体も固まってしまいます。

 意味のある反応をしようとすればするほど、かえって相手の呪縛にとらわれてしまいます。固着してしまいます。

 相手の方程式(理不尽さ)も含めて連立方程式を解こうとする感じです。

 

 私たちが解くのは自分の方程式だけです。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 ですから、不意なコミュニケーションでうまくいえないときは、「言う言葉がないなあ」といったり、「言葉が思いつかない」と口に出すことです。

 どう動いていいかわからないときは「どうしていいかわからない」。

 相手の言動が訳がわからないなら、「わけがわからない」「急に怖いなあ」「あぶない」。
 気まずいなら、「なんか、気まずいですね」と言葉を発します。

 
 つまり、常に何かを反応して返す。

 お笑いのツッコミなんかはその一番良い見本ですが、不意打ちな理不尽の空気から主権を戻して、自他の区別をつける作用がある。

 言葉が出ない場合は言葉を飲み込む習慣がついてしまっています。身体で言えば喉につまりがある状態。
 

 言葉を発する習慣が戻ると、どうしても立場的に発することができない場合でも、頭の中で突っ込むようになって、自然と自他の区別がつくようになります。
 

 こうしたことをしていくと、“不意打ち”へのトラウマティックな恐怖がなくなってきます。

 

 

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