前回の記事では、「私」を出すと否定されると思わされてきたこと、そのことでログインとは真反対の方向に努力させられてきたことを見てきました。
本当は「私」を出して、自分のIDでログインすれば愛着的世界で生きることができるのに、回避することでどんどん生きづらくなっていることがわかります。
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」
では、「自分のIDでログインしよう!」と気合を入れるだけでできるか?といえば、なかなか難しいものです。
なぜなら、私たちが、自分のIDでログインして生きていくためには環境が必要になるからです。
では、環境というものはどの様に整えられていくのでしょうか?
その参考になるものということで、先日NHKの番組取り上げられていました、大阪の西成高校で行われている「反貧困学習」について見てみたいと思います。
生活保護の受給者が多い大阪・西成ですが、西成にある西成高校も非行や中退が多い教育困難校として知られていました。
子どもの問題の裏には必ず家庭の問題があるとされますが、西成高校でも教師が家庭訪問をしてみると、家庭の問題が見えてきました。
例えば、親が精神疾患で働くことができない、子どもを養育することができない。食事も十分に提供されない。
親が出ていって不在、育児放棄されてきた、という場合もあります。
子ども自身が家事をする、食事を作らないといけず、学校に行く余裕がない、といったことも。
そうした背景から、学校に行こうにもいけない、行っても仕方がない、希望がない、と思い非行や退学といったことにつながっていることがわかったそうです。
退学しても就ける仕事は非正規や安い賃金、過酷な環境の仕事で、そこでも不当な扱いをされて泣き寝入りといったことになりがちです。そうして貧困が連鎖していく、という結果になっていました。
そこで、西成高校の教師たちが取り組んだのは「反貧困学習」という名の取り組みです。
「反貧困学習」とは、生徒を取り巻く貧困とは一体どういうものか?何が背景にあるのかを教え、バイトなどで不当な扱いをされた場合は労基署に相談させる。親がいない場合は生活保護を受けさせる、といったように、具体的に貧困に立ち向かうための学習を提供していったのです。
もちろん、日常でも家庭訪問を続けるなど地道な努力も合わせて行われています。
そうするなかで、生徒たちは、世の中に関わる力、貧困の連鎖から抜け出す自信をつけていったのです。
ここで興味深いのは、問題を抱える生徒に対して「本人のせいだとして叱責する」のでもなく、本人の心の問題だとして「カウンセリングを受けさせよう」ではなく、「反貧困学習を提供しよう」となった点です。
人間は環境の影響で成り立っている生き物、環境のサポートがなければ、生きていけない存在です。
子どもも大人の問題、社会の問題をとても敏感に受けていて、心身の不調や問題行動となって現れます。
不調や問題行動を当人の責任とすることを「関係性の個人化」といいます。
環境の問題であるはずのものを、「個人のせいだ」としてしまうのことをいいます。
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」
そうすると、問題はかえって悪くなる恐れがあります。なぜなら、問題はその人のせいではないから。環境の問題を個人のせいにするというのは、まさに、“ニセの責任”を背負わされているということです。
(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」
「カエサルのものはカエサルに」とはキリストの言葉ですが、「環境の問題は環境に」が本来です。原因は正しく返さなければいけません。
西成高校でも、個人のせいにされがちな非行や退学を「貧困」という問題として「社会化(外部化)」したことで、責任が本来あるべき環境へと返されたのです。それが効果を上げていきました。
さらに、観念的に責任の所在を整理するだけで終わるのではなく、公的機関への働きかけなど具体的な行動でそのことを実現していきます。
労基署に相談したり、といった個別の具体的な取り組みによって社会とのつながり、
「働きかけたら、必要なときに助けてもらえる」という効力感が生徒にも身につきます。
貧困といった具体的な問題、物理的な問題に個別の物理的なサポートをおこなった。その中で社会とのつながりや、適切な距離感が作られていった、ということです。
そうして、自分に主権、自尊心が戻っていった。
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
「ヤル気の問題」「本人の問題」とされていたことを、学習を通じて、「ああ、環境のせいなんだ」「問題を解決する物理的手段があるんだ」と知っていくことで問題がもとのところへと返っていく。
個人化されたニセの責任が、ドバーッと社会に戻されて行って解放されるようなイメージです。
具体的な取り組みを通じて、社会人としての人格形成(成熟)も後押しされていきます。
まさに、みにくいアヒルの子が 「あれ?環境のせいで、そう思わされていただけだったんだ?」と気がついたような感覚。
こうした取り組みは私たちが自分のIDでログインしようとする際にも、とても参考になります。
悩みというのは、基本的には、自分の問題ではないもの、ニセの責任を引き受けてしまってるような状態。
その結果、自他の区別がつかなくなり、主権を奪われて、力を発揮できなくなっている状態のことです。
例えば、養育環境での親の対応によって愛着が不安定になっている、というのは子どもには責任はありません。
そのことで大人になってから生きづらさを抱えていることについても本人に責任を求められても困るものです。
これらはニセの責任です。
以前も、「おかしな連立方程式」として記事を書いたことがありますが、ニセの責任との複雑な連立状態になって解が出ずに疲弊している。
(参考)→「おかしな“連立方程式”化」
西成高校の貧困学習とは、おかしな連立方程式を解体して、個別の式として離して解決していったといえます。
しかも、具体的な社会的な手段によって。
そこは、物理的な現実に根ざし、主権が自分にあることを知らせる取り組みです。
それらが、ニセの事実やおかしな連立方程式などをねじ伏せるように壊していってくれる。
(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる」
「反貧困」というは、そのためのとても明確なキーワードです。
一方、私たちの悩みの多くは原因の所在が一見して曖昧です(曖昧にみえるから長く悩まされるわけですが)。
なので、「反貧困」というようにスパッと還元しにくいのですが、その構造は同じです。
ニセの責任をほぐしながら、原因の所在を明確にしていく。
多くの場合は、身近な人に巻き込まれているので、自他の区別(人格構造)を確立していく必要があります。
(参考)→「自尊心とは、自分の役割の範囲(なわばり)が明確であること~トラウマを負った人はなわばり(私)がない」
そこで大切なのは「主権」という意識。
いいかえると、自分のIDでログインするということなのです。
主権(「私」)を持とうとすると、理不尽な目に合う、責任を取らされるという恐怖心も湧いてきます。
そこでカウンセリング、セラピーの出番。
その恐怖心を解決しながら、自他の区別を確立していきます。
(その際のカウンセリング、セラピーは、問題の責任はその方にはないということを前提にする必要があります。)
具体的な場面での対処についても徐々に再学習されていく。
自分に主権があって、自他の区別があれば、理不尽な言動する相手に理がないことは明らかです。
その明確な区別が「この人は犯し難い」という雰囲気となって伝わり始めるようになります。
場合によっては、言葉で「やめてください」と伝えることもあります。
以前だと伝えられなかった言葉がすっと出てきたりするようになる。
そこで醸し出される雰囲気が「公的環境」です。
(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張」
相手も自分も解離せず、本来の人格同士の関わりになります。
(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」
そうすると、他者から愛着を受け取ることもできるようになります。
特定の一人ではなく、多くの人から少しずつ愛着を集められるようになります。
それがメッシュ状のゆるやかな絆のネットワークです。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
ネットワークの中で、「位置と役割」もよりはっきりを感じられるようになります。
(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」
なにか自分がミスをしたり、他者から感情をぶつけられても、
「本質的に自分はおかしいからだ」という暗闇に落ち込むことはなく、少し凹んでもすっと立ち直ることができるようになります。
自分と他人は別なんだ、責任は限定されている、という感覚。
人間関係における基本と例外を分けて考えられるようになる。
(参考)→「人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造」
物理的な現実というものに基礎をおいて、1+1=2というように理屈が通ることが肌でわかる。
自分でログインしているから積み上げを感じることができる。
(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」」
こうしたことを繰り返しながら、人格も成熟していきます。
自分のIDでログインする、自分をもって生きる、とはこういう環境に基づいた取り組みです。
●よろしければ、こちらもご覧ください。