トラウマを負った方に多いのは、不意打ちされるのではないか、という恐れが強いということがあります。
“不意に”嫌なことを言われるのではないか? とか、
“不意に”自分が気づいていない欠点、弱点を指摘されるのではないか? とか、
街を歩いていたら、
“不意に”怒られるのではないか?とか、
仕事でも、
“不意に”上司やお客さんが怒り出すのではないか?とか
そういった恐れを持っていたりします。
攻撃が外から来るだけなら、まだマシです。
その恐怖心を解消し、日常では確率が低い出来事なんだ、ということがわかれば、警戒は解けていきますから。
しかし、“不意打ちされる”原因が自分にある。だから自分はおかしい。自分はミスが特別に多いのだ。楽観的にわかったつもりになっているとろくなことがない。自分は大事なことに見落としがある不注意な人物なんだ、といった感覚を持っている場合は、なかなかそうもいきません。
外からの攻撃だけではなくて、自分の内部(Being)も信頼できない、という感覚があるからです。
(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」
こうしたことは、ローカルルールによる因縁付け、原因帰属によって生じます。
例えば、親が自分の機嫌が悪いことに任せて子どもに感情をぶつける。子どもにとったら平和な日常の中で急に怒られる。
でも、その理由を「お前が悪いからだ」として、真に受けると、上記のように「自分は大切なことを見落としていた」「自分はおかしい」と捉えるようになります。
「自他の区別」がぐちゃぐちゃになってしまいます。
相手は単に感情に任せて理不尽なことをしているだけなのに。
ローカルルールは、ルールとして成立させるために理由をつけて相手に原因を帰属させてしまうからです。
(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由」
不意打ちの恐怖があることで、物理的な現実への信頼感も低下します。
「1+1=2」であることが信頼できない。
(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。」
算数(数学)が苦手な人に多いのですが、単に計算ミスをしても自分がおかしいせいにしたり、なにか魔術的なトリックで答えがすり替わったかのような感覚をもってしまう。
本当は間違ったところまで立ち戻って、計算しなおせばよいのですが、そういう気持ちが起きない。
これまでの境遇の中で、積み上がるようなプロセスではなく、“不意に”理不尽な結果が降り掛かってくる経験をしているために、算数で間違いがあっても、同様に感じてしまう。
(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」
仕事でもそうですが、「自分の意見」「自分の考え」を提案するときにも、どこかで、自分の考えには見落としがあって、それを“不意に”指摘されてしまうのではないか?という恐れでビクビクしている。
結果、絶対に突っ込まれない内容にしようとガチガチの理屈になってしまったり、過度に完璧を目指そうとしてしまったりします。
しかし、完璧なものなどありません。誤解や見解の相違もつきまといます。
ちょっとでも疑問を呈されたり、批判されると、「自分がおかしなことがバレた」という感じに頭が真っ白になってしまう。
(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚」
愛着的な世界観であれば、あくまで私の意見。完璧なんてありえない。相手の批判もあくまで相手の意見でしかなく、完全ではない。
だから自分の視点を伝えて、意見を交換する。その結果、さらによいものになるかもしれない、と捉えます。
トラウマ的な世界観ではそうではなく、自分の存在(Being)をかけて、真理か否か?と完璧を目指そうとしたりしてしまいます。
でも、どこまでいっても真理なんてありませんから異論が出ます。
それを「自分がおかしい証拠」「真理が崩れた」と捉えて絶望し、顔面蒼白になってしまうのです。
不意打ちされないことをあらゆることの第一条件にしているために、身体も緊張しているし、人の言葉にも弱いし、自然体でいることができません。
不意打ちの恐怖から逃れる方略として、絶対安全や完璧を目指すというのはローカルルールの世界観、トラウマの世界観です。
(参考)→「「素晴らしい存在」であるべきと「弱さ、不完全さ」を隠していると、いつのまにかローカルルール世界にとらわれるようになる」
不意打ちされる恐怖を持っているということは、言い換えれば、「主権がない」ということ。
自分が自分にまつわる出来事の主権を持っているという感覚を奪われているということです。
主権を持つこと、自他の区別をもって人と付き合うということをすることは、愛着的な世界観です。
主権というのは「それが及ぶ範囲が決まる」ということでもあります。
だから、範囲が及ばない出来事については、不意打ちとも思わない。「自分の責任ではない」として、自分を免責することができるのです。
(参考)→「愛着的世界観とは何か」
さらに具体的にいうと、
相手の理不尽まで含めて「理屈を整えて」反応しようとすると、頭も体も固まってしまいます。
意味のある反応をしようとすればするほど、かえって相手の呪縛にとらわれてしまいます。固着してしまいます。
相手の方程式(理不尽さ)も含めて連立方程式を解こうとする感じです。
私たちが解くのは自分の方程式だけです。
(参考)→「おかしな“連立方程式”化」
ですから、不意なコミュニケーションでうまくいえないときは、「言う言葉がないなあ」といったり、「言葉が思いつかない」と口に出すことです。
どう動いていいかわからないときは「どうしていいかわからない」。
相手の言動が訳がわからないなら、「わけがわからない」「急に怖いなあ」「あぶない」。
気まずいなら、「なんか、気まずいですね」と言葉を発します。
つまり、常に何かを反応して返す。
お笑いのツッコミなんかはその一番良い見本ですが、不意打ちな理不尽の空気から主権を戻して、自他の区別をつける作用がある。
言葉が出ない場合は言葉を飲み込む習慣がついてしまっています。身体で言えば喉につまりがある状態。
言葉を発する習慣が戻ると、どうしても立場的に発することができない場合でも、頭の中で突っ込むようになって、自然と自他の区別がつくようになります。
こうしたことをしていくと、“不意打ち”へのトラウマティックな恐怖がなくなってきます。
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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