昨年のM-1グランプリをテレビで見ていましたら、審査員のコメントで、劇場で毎日着実に経験を積んでいるから」とか「芸を磨いてきているから(それが現れている)」といった言葉がありました。
審査員たちが言っているのは、「実力をつけているから、面白い」「その実力も、毎日の積み重ねで積み上がっていく」というもの。
例年よりも、そういうコメントが多いように感じました。
レンガ職人がコツコツ積み上げていくような感覚。
しかも、どこかでそれを芸に関わる人が共同作業で取り組んでいるような一体感もあるような。
そこには“芸”という捉えづらいものなのに、「物理的な信頼感」がある、という感じでしょうか。
(参考)→「物理的な現実への信頼」
それを聞いて、「トラウマを負った人にはこういう感覚はないな」と筆者は思いました。
トラウマを負った人の感覚というのは、M-1グランプリでいえば、
一発勝負だから、そこでファインプレーをできるかどうか。
審査員に好かれるかどうかがすべて。
審査員の言葉は神の言葉、それこそが現実。
実力とは、人のご機嫌が得られるかどうか、ということだけ。
得られれば自分は選ばれた存在で、そうでなければ自分は汚れた存在である。
「芸を磨く」というのとは真逆の感覚。
なぜこうなるか?といえば、
生育の過程で、身近な人の言葉に翻弄されてきたから。
自分というものの存在が、他人の言葉で一瞬で覆される、という理不尽な経験をしてきたから
言葉で自分の存在が覆るといったことでよくあるのが、「あなたって、怒りっぽい」とか、「わがままだ」とか、
夫婦に不和があると、対立する相手側に「似ている」といわれる。
「あなたのそういうところがお父さん(おかあさん、おばあちゃん)とそっくりだ」というような言い方
(参考)→「「言葉」偏重」
本来は理不尽なものは、怒り一発で払いのけるものなのですが、その怒りという感情表現も封じられてしまっている。
そのために、より深く理不尽さの中に抑え込まれてしまう。
物理的な自分というものは、あくまで物理的に存在し、他人の言葉で変わるものではありません。
りんごはりんご、みかんはみかん。
目の前のりんごに「これはメロンだ」といっても、メロンに変わるわけではありません。
でも、自分に対して向けられた言葉は、自分を「おかしなもの」「汚れたもの」へと瞬時に替えてしまう。
そうすると、言葉や印象、人の思考がすべてを決めているような気持ちになってきて、相手の気持ちを過剰に読み、合わせるようになってしまう。
コツコツ積み上げての一瞬で崩される感覚があり、また、相手に無理難題を叶えると喜ばれるので、つねにファインプレーを目指そうとしてしまう。
自分のペースはなく、自分というものはありません。
そうしてヘトヘトになっていってしまう。
これはトラウマティック(トラウマ的)な感覚です。
主権を奪われてしまっている。
冒頭に、例としてあげましたお笑いの世界でも「面白いやつは、結局売れる」と言われるそうですが、世の中は本来、ある種の物理法則でできています。実力(Doing)がついたものは時間がかかっても認められる。
積み上げたものは容易に覆されることはない。
一方、存在(Being) については不可侵である、ということ。
(デカルトによって、物理と精神(魂)とは分離されましたから。精神は物理に、物理は精神に影響を及ぼさない、というのが近代思想の基本です)
Beingは誰にも脅かされませんが。脅かされるように感じられるのは、見せかけの暗示でしかありません。
人格が順調に成熟してくると、Doing と Beingの分離が起きてきます。そして、世界は物理でできている、という信頼感を自然と持つようになります。
反対に、うまくいかないと、Doing と Being がくっついたまま、しかも、Doing は他者の気まぐれで成功失敗が判定され、Beingも一瞬で塗り替えられるような感覚になってしまうのです。
(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」
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