神話と虚構

 

 

 私たちの周りには実は神話、虚構にあふれています。

 例えば、
 「あの人はしっかりしているから、そんな事を言うとは思えない」とか、

 「あの人は、会社では評価されているし、友達も多いから、あの人の言うことは間違いない」とか、

 「学歴が良くて、良い会社に言っているし、部長にもなれているから成功者だ」とか、

 

 反対に、自分に対しても虚構は存在します。

 「こんな失敗をする自分は、よほどだめに違いない」とか、
 
 「あんな発言で人を傷つけてしまった自分は罪深い」とか、

 「親との関係がうまくいっていないのはだめなことだ」とか、

 

  実は、こうした、自分はだめだ、とか、あの人はうまくいっている といったことは、わずか数点の情報から成り立っているだけの虚構に過ぎません。

 

 数点から成り立つものを、心理学ではヒューリスティックといいます。

 私たち人間は、現実の全てを認識することはできません。
 日常において全ての事象に対してそれだけの処理力はないし、全てに対してありのままの処理をしていまうとパンクをしてしまいます。

 だから、数点の情報から判断しようとする性質があります。

 ヒューリスティックとは、そうした意識の省力化のことです。

 

 神話や虚構というのは、その数点の柱を操作されてしまうことによって生じます。

 

 
 たとえば、友達グループの中で、人望がある、成功している、とされる人が「まともだ」というのも単に、いくつかの情報で判断している。
 

 ・割と立派な会社に努めている
 ・いつも、落ち着いて発言する
 ・友だちもいる

 だから、あの人はまともだ

 など

 

 でも、実際その人がまともかどうかなどは全くわかりません。

 事実、DVの加害者などは、上記の特徴に全て当てはまったりします。

(参考)→「DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 
 不祥事を起こす有名人たちなども、上記の特徴を満たしたりしていますが、実際蓋を開けてみると、その各条件を維持するために、周囲が犠牲を払っていることもしばしば。

 本人がその負担に耐えかねて、おかしな行動を取る、なんてこともあります。

 「ベストマザー賞」「ベストファザー賞」を受けた有名人が続けて不祥事を起こしていることが話題となりましたが、それなども、仮にも賞はだれかが選考していて当然なにかの情報から選んでいるわけですが、まさに虚構を掴まされているわけです。

 

 東大などの学歴があるということの背景には、幼い頃から、かなり窮屈に塾通いをしていて、ある種の歪みを抱えてしまっている人もいます。
 本当にオーガニックに頭がいい人いうのは稀で、だいたい、その領域で良い成績を取るための文化に過剰適応をしてしまっていて、融通が利かなくなってしまう代償を払うことも生じます。
 

 そうしたことへの違和感を書いたのが、例えば、東大の安冨歩教授が書いた「東大話法」に関する本などです。
 東大話法というのは、事務仕事などについてバランス感覚に優れたとされる東大出身者たちが発する、現実を歪める歪な会話や立場主義やを批判したものです。
 
 成功者やエリートとされる人たちも、ある種の歪みの上に成り立っていたりします。

 

 おごれる平氏も久しからず、ではありませんが、うまくいっている、ように見える状態と言うのは、ある一定の条件下で可能になっているだけでしかありません。

 とくに、水面下の水かきは世間には見えず、華麗な一面だけしか表には出てきません。

 

 スポーツ選手など、華麗なプレーの背景には、日々の努力があり、引退してからはもう競技に触れたくない、と言う人も少なくありませんし、プロになった時点ですでに、もうその競技に飽きていて、うんざりしている、なんてケースも珍しくないようです。

 学生時代に輝いていた人、成績の良かった人に、あとで話を聞いたら「当時は結構大変だった・・」なんていう裏話を聞くことなんていうのも珍しくありません。 

 

 学生時代にみんなから頼りにされていた人が、実は、アダルトチルドレン状態の結果「しっかりしている子」になっていただけ、ということもよくあります。
 

 

 経営者も、現役時代は華麗な業績を上げていても、実はそれは不正のためだったということもあります。
 資本主義というのはレバレッジを特徴としており、ブラック企業とされるくらいにおかしな企業でも上場するまではいきますし、大企業であれば、おかしな経営をしても5~10年は良い業績を出すことは普通にあるのです。アメリカのGEや日本の日産、ビックモーターのように、のちに問題が明らかになったりします。
 (さながら、ある特定の栄養素だけを接種したり制限をする単品ダイエットのようです。栄養のバランスを崩せば人間はダイエットに一時的に成功しますが、それは本当のダイエットでも何でもなく、その代償を後に払うことになりますがそれと同じです。) 

 

 でも「ほら、あの会社はうまくいっている、あの人はうまくいっている(なのにお前は)」と言われたら真に受けてしまう。トリックでしかありません。
 

 

 さらにいえば、そもそも、人間がまともだ、ということ自体が虚構です。
 ある一定の条件下でかろうじてまともに見えるのが人間というものです。 
このことは『プロカウンセラーが教える 他人の言葉をスルーする技術』(フォレスト出版)で書かせていただきました。

 人間は社会的な動物ですが、足場に多様性を欠き、ローカルな環境に過剰適応をしてしまうと、「しっかりしていて、まともにみえるけども(実はおかしい)」という状態に容易になってしまうのです。

 

 一方、虚構は自己評価にも向いています。

 ・自分は今働いていない
 ・友達も居ない
 ・上手くコミュニケーションが取れない

 だから、おかしい

 など

 ほんの数点のことで判断させられてしまっている。 
 

 これなども虚構です。

 ちょっとゴールポストを動かされてしまえば、数点の柱などを揃えることなどは造作もありません。

 そうして幻惑されると、「だめな自分」の完成です。

 一旦成立してしまうと、自尊心も失われてしまいますから、失敗を繰り返すことになります。

 そうして、虚構は何がしかの説得力のある”証拠”で固められて、事実のように思わされてしまいます。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 
 トラウマが長引く場合は何が原因かといえば、こうした虚構、神話があって、そのもつれ具合、絡まり具合がその主要な要因としてあり、それをほぐすのに時間がかかるということが背景にあります。

 虚構や現実は、前回の記事でお伝えしたような複数箇所でのハラスメント経験で強固なものとなります。

(参考)→「複数箇所での常識を揺るがされるハラスメント経験

 多くの場合、本人も、虚構だとは思えず、思うことじたいが「逃げ」「都合の良い解釈」「ピンとこない」として放棄されていることも珍しくありません。

 今回しているような「虚構、神話」についてお伝えしても「たしかにそうですが、でも、私はダメなんです」として無意識に流されてしまうということが生じます。

 

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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トラウマを負うと、手順や段階、多次元多要素並列という視点が抜ける

 

 前回の記事でも書きましたが、私たちは自我からスタートすることが必須になります。

 生きづらさを解消するとは、自我を滅却して、理想の何者かになるなんてことはありません。

 自我からスタートするということは、自分勝手な人になるのでは?と不安になってしまうのですが、そうではありません。

 自我を土台にして、成熟していった果てに、周りのことも考えて、ということは普通に身につきます。

決して、二者択一ではない。

 

 

 料理の手順と同じです。段階を分ければそれぞれはなんの困難もなく共存できます。

 最初は生々しい魚や肉も、レシピの手順を経て、美しく盛りつけされた料理になります。

 生の魚や肉を使うと美しい料理にならない、とは誰も考えません。

 しかし、トラウマを負うと、そうした手順を踏む、多次元、多要素並列ということが、なぜかありえないと感じてしまう。

 自我を出すと、自分勝手になる、とか、

 自我を出すと、他者に嫌われてしまう、とか、

 なぜ、こんな単純な考え方になってしまうのでしょうか?

 

 

 それは、トラウマというのは、理不尽なストレスに圧倒される中で
 他者のローカルルールを丸呑みしてしまう、ということがあるためです。

 結果として、すべてが多様性のない一元(単次元)的世界観になってしまう傾向があるためです。
 他者のローカルルールという帝国主義に征服されてしまうようになってしまう。

 単次元の価値観の住人となってしまうことで、ステップを踏んで自分を構築するという感覚や、人がそれぞれに異なる、ということもわからなくなってしまう。

 「わかるけど、そうはいっても、正しいか間違っているか二者択一でしょ?」「何が正しいかがわからないと私は見捨てられてしまうのよ」と感じてしまうのです。

 

 

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人間の“実際”とはなにか?

 

・自分をつくるスルースキル
 ~「人間」と「言葉」の実際を知ると、人生が変わる~

・「人間」と「言葉」はすべてザレゴトである

・言葉をスルーすれば、<世界>が変わる

 

 これは、自分で考えていた本のタイトル案の一部です。

 

 本の内容を端的に表し、かつ、手にとってもらえるタイトルを、と思って休みの日も本屋を回りながら、アイデアをひねり出そうとしていたんですが、結果を言えば、これだ!ということには至りませんでした・・・・

 
 ネーミングとか、タイトルを考えるっていうのは、あらためてなかなか難しいですね。

 ただ、ひねり出したタイトル案には、本のテーマは現れています。

 

 

 「人間」と「言葉」の実際を知る となっていますように、まずは、等身大な“人間”っていうのはどんな存在なの?っていうことを明らかにしたかった、ということがあります。

 対人関係の悩みのほとんどといっていいのが、人間が怖い、ということに関係するのではないか、と思います。

 他人が過度に大きく見えてしまっている。

 

 とても立派なものに見えていて、反対に、自分は幼く、弱く、おかしくて、ダメなものと捉えている。

 頭ではそうではないとわかっていても、どうしても、そうではないと思えない。

 他人はとてもしっかりしてて、何かの真実を捉えていて、それを自分に気になる言葉として“予言”してくる。

そして、その予言に縛られるような感覚がして、身動きが取れなくなる。

 さらに、余計に他人が怖くなる、というような悪循環。

 

 

 一方、自分の言葉は他人には届かない。

 なぜなら、自分を取り巻く他人の言葉たちを正しく捉えられているという自信がなく、正確に、客観的にとらえられているとは思えていないので、
 自分が自信を持って何かをいうことが出来ないのです。

 
 まさに、自分の「言葉」が奪われているような状態。
 

 こういう状態を破るためには、まず、人間ってどんなものか、どんな条件で成り立っているのか?というのを、一度整理してお伝えしたい、ということがありました。

 

 カウンセリングでは、セッションの中でこうしたことを個別に打ち破っていくことをしているのですが、各個撃破では及ぶ範囲に限りがありますから、臨床の経験からわかったことは集合知として、あたかも集団免疫となるように書籍にしてお伝えしたいということがありました。

 もちろん、私の見解でしかなく、仮説なのですが、それを臨床心理はもちろん、歴史学や社会学などの知見の力も借りて、わかりやすく、皆様が抵抗できる視点を提示しようというのが、今回の本の狙いの一つです。

 

 簡単に言えば、人間っていうのは、偉人も人格者もすべての人が弱いもので、エヴァンゲリオンの機体ではありませんが、まともでいられるのはごく限られた条件のもとでしかない。ちょっと条件が狂うとおかしくなってしまうもの。

 そんな人間が言葉を発しているわけですから、そんな言葉をそのまま受け取っていいわけがない。

 

 おかしくなるから怖い、というのではなく、それがわかれば、「ああ、そんなものだったのか」と怖さが下がってくる。

 怖いというよりは、面倒、という感じにスライドしていく。
  
 その面倒さに愛着がブレンドされると、人間が好き、という感覚がなんとなく分かるようになってくる。

 

 ここには、よくあるヒューマニズムなどにある「人間って素晴らしいものなんだ、本来ひとつなんだ」といったような理想はどこにもありません。

 (そんな理想から入っても、なんの結果も得られず、結局自分がしんどくなって終わるだけです。)

 

 みんな違う、みんな弱い、いろいろと面倒くさい、でもそれもご愛嬌かな、というような、ただ現実だけがある。

 

 以前も書きましたが、現実の力はとても強く、一度積み上がれば、容易には崩れることがありません。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「防御壁」

 

 “実際”(現実)を知るというのは、私たちが悩みから抜け出し自分を作るための土台となってくれるものです。
 
 
 そんな、人間の“実際”について書いてみました。

 

 

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常識に還る

 

 このブログでお伝えしてきたことを改めて見ると、どれも本来は“常識”というか、当り前のようなこと、と言えるかもしれません。

 「言葉は戯言」だとか、
 「物理的な現実を信頼する」とか、
 「自我が大事」だとか、
 「俗にまみれる」だとか、、、
 さらには、
 「食事、運動、睡眠が大事ですよ」といったことなど、、

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 健康な人からすれば、人として成熟するため、世の中を渡っていくためには当然なことばかり。

 

 

 しかし、この“当然”とか“当り前”を身につけることは実はかなり難しい。

 特に若いころは体力とか勢いで状況を打破できることが多いために、わからなくなる。

 しかも、常識というのは言語化されない。みんなわかっていても言語化できず・されず、密教のように分かる人にだけじわっと感じ取られているものだったりする。

 

 やっかいなのは、時代の流れで一時的に“当然”とか“当り前”が崩れたように見えることもしばしば起きます。

 “当然”とか“当り前”の反対のことが正しいように見えてしまうし、それを宣伝して商売する人もいますから、さらに厄介です。
(参考)→ 「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 「常識」とつながっていて、「自我」、もっといえば体感が機能していると、なんとなく、何が正しいかの判断ができたりします。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 しかし、「自我」が未形成で、焦燥感や不安などで体感を十分に感じ取ることができないでいると、「常識」からのメッセージもキャッチできず、何が当り前のなのかはわからなくなります。
 

 “当然”とか“当り前”ということが全く見えなくなってしまうのが、不全感(愛着不安、トラウマ)の影響の中核ともいえるものです。

 そうすると世の中の当り前が全く真逆に見えてしまう。

 そんなものからは自分を遠ざけることが解決の筋道であるかのように見えてしまって、ずーっと遠回りをしてしまう。なぜかセラピーも創始者自身がトラウマを負っているために、遠回りする方向に持っていってしまう。

(参考)→「心理学、精神医学の由来にも内在するログアウト志向

 

 例えば、失礼なことを言われても、反撃もせずに怒らないことが良いことだ、として、その方法を指南しようとする。
 当然ながらそんなことは実行できないのですが、一生懸命カウンセリングを受けたり言葉を唱えたりして、怒りがスルーできるように頑張ってみようとする。

 

 本来は、失礼なことを言われたら、怒ればいい。
 それこそが自尊心である、ということは、以前の記事でも見てみました。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 免疫システムのように、ウイルスが入ってきたら、まずは有無を言わさずに攻撃する。それが生き物のあり方です。
 

 一方、「ウイルスにも意味があるのだから、すぐに反撃しないようがよい」とか、「免疫を使わずにスルーできる方法を探したい」といっているのがトラウマがある状況です。

 ウイルスの意味などは別の場所で研究者などが考えれば良いことで、現場に生きる人間としてはとにかく免疫を機能させて自分を守る必要があります。

 

 

 ログインするとは、別の言い方をすれば「常識に還る」ことだということができるかもしれません。

 
 常識とは、もっといえば愛着的世界観の中で自分のものにしたルールや作法ということ。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 常識に還るためにはすべてをいきなり全部実行することは難しいかもしれません。

 だから、まずは運動してみる、とか食事をしっかりとってみる、とか当り前のことから始めてみる。

 「こんな事で変わるはずがない」と思ってもやってみる。

 のんびりと過ごしてみる。気楽に散歩をしてみる。

 
 「私は~」といって、話しはじめてみる。これも当り前。

 そうして、だんだんログインする世界へとスライドしていく。 

 

  
 平凡なことほど、物理的な現実として積み上がっていって、私たちを守ってくれるものです。

 

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」