前回の記事でも書きましたが、私たちは自我からスタートすることが必須になります。
生きづらさを解消するとは、自我を滅却して、理想の何者かになるなんてことはありません。
自我からスタートするということは、自分勝手な人になるのでは?と不安になってしまうのですが、そうではありません。
自我を土台にして、成熟していった果てに、周りのことも考えて、ということは普通に身につきます。
決して、二者択一ではない。
料理の手順と同じです。段階を分ければそれぞれはなんの困難もなく共存できます。
最初は生々しい魚や肉も、レシピの手順を経て、美しく盛りつけされた料理になります。
生の魚や肉を使うと美しい料理にならない、とは誰も考えません。
しかし、トラウマを負うと、そうした手順を踏む、多次元、多要素並列ということが、なぜかありえないと感じてしまう。
自我を出すと、自分勝手になる、とか、
自我を出すと、他者に嫌われてしまう、とか、
なぜ、こんな単純な考え方になってしまうのでしょうか?
それは、トラウマというのは、理不尽なストレスに圧倒される中で
他者のローカルルールを丸呑みしてしまう、ということがあるためです。
結果として、すべてが多様性のない一元(単次元)的世界観になってしまう傾向があるためです。
他者のローカルルールという帝国主義に征服されてしまうようになってしまう。
単次元の価値観の住人となってしまうことで、ステップを踏んで自分を構築するという感覚や、人がそれぞれに異なる、ということもわからなくなってしまう。
「わかるけど、そうはいっても、正しいか間違っているか二者択一でしょ?」「何が正しいかがわからないと私は見捨てられてしまうのよ」と感じてしまうのです。
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“トラウマを負うと、手順や段階、多次元多要素並列という視点が抜ける” への2件の返信
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