このブログでお伝えしてきたことを改めて見ると、どれも本来は“常識”というか、当り前のようなこと、と言えるかもしれません。
「言葉は戯言」だとか、
「物理的な現実を信頼する」とか、
「自我が大事」だとか、
「俗にまみれる」だとか、、、
さらには、
「食事、運動、睡眠が大事ですよ」といったことなど、、
(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切」
健康な人からすれば、人として成熟するため、世の中を渡っていくためには当然なことばかり。
しかし、この“当然”とか“当り前”を身につけることは実はかなり難しい。
特に若いころは体力とか勢いで状況を打破できることが多いために、わからなくなる。
しかも、常識というのは言語化されない。みんなわかっていても言語化できず・されず、密教のように分かる人にだけじわっと感じ取られているものだったりする。
やっかいなのは、時代の流れで一時的に“当然”とか“当り前”が崩れたように見えることもしばしば起きます。
“当然”とか“当り前”の反対のことが正しいように見えてしまうし、それを宣伝して商売する人もいますから、さらに厄介です。
(参考)→ 「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている」
「常識」とつながっていて、「自我」、もっといえば体感が機能していると、なんとなく、何が正しいかの判断ができたりします。
(参考)→「常識、社会通念とつながる」
しかし、「自我」が未形成で、焦燥感や不安などで体感を十分に感じ取ることができないでいると、「常識」からのメッセージもキャッチできず、何が当り前のなのかはわからなくなります。
“当然”とか“当り前”ということが全く見えなくなってしまうのが、不全感(愛着不安、トラウマ)の影響の中核ともいえるものです。
そうすると世の中の当り前が全く真逆に見えてしまう。
そんなものからは自分を遠ざけることが解決の筋道であるかのように見えてしまって、ずーっと遠回りをしてしまう。なぜかセラピーも創始者自身がトラウマを負っているために、遠回りする方向に持っていってしまう。
(参考)→「心理学、精神医学の由来にも内在するログアウト志向」
例えば、失礼なことを言われても、反撃もせずに怒らないことが良いことだ、として、その方法を指南しようとする。
当然ながらそんなことは実行できないのですが、一生懸命カウンセリングを受けたり言葉を唱えたりして、怒りがスルーできるように頑張ってみようとする。
本来は、失礼なことを言われたら、怒ればいい。
それこそが自尊心である、ということは、以前の記事でも見てみました。
(参考)→「自尊心とはどういうものか?」
免疫システムのように、ウイルスが入ってきたら、まずは有無を言わさずに攻撃する。それが生き物のあり方です。
一方、「ウイルスにも意味があるのだから、すぐに反撃しないようがよい」とか、「免疫を使わずにスルーできる方法を探したい」といっているのがトラウマがある状況です。
ウイルスの意味などは別の場所で研究者などが考えれば良いことで、現場に生きる人間としてはとにかく免疫を機能させて自分を守る必要があります。
ログインするとは、別の言い方をすれば「常識に還る」ことだということができるかもしれません。
常識とは、もっといえば愛着的世界観の中で自分のものにしたルールや作法ということ。
(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。」
常識に還るためにはすべてをいきなり全部実行することは難しいかもしれません。
だから、まずは運動してみる、とか食事をしっかりとってみる、とか当り前のことから始めてみる。
「こんな事で変わるはずがない」と思ってもやってみる。
のんびりと過ごしてみる。気楽に散歩をしてみる。
「私は~」といって、話しはじめてみる。これも当り前。
そうして、だんだんログインする世界へとスライドしていく。
平凡なことほど、物理的な現実として積み上がっていって、私たちを守ってくれるものです。
(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」」