前回の記事の続きです。
(参考)→「問題の根底にある「(作られた)ビビリ」」
さらに深く分析すると、イライラは自分がログアウトしたまま都合よく相手や状況に期待し、裏切られた結果でもある。
自分を出すと危険だからと、ログアウトしたままで、相手が自分の想定通りに動いてくれる、都合よく振る舞ってくれることを期待しています。
あたかも、赤ちゃんが母親を期待して見るかのように。
赤ちゃんにとっては母親(父親)は全能に見えます。だからなんでもできる、してくれると感じている。
ある意味相手を理想化して捉えています。
しかし、当然、目の前の人物は母親でもなければ、全能の存在でもない、こちらを察して相手は思い通りになど動いてはくれません。
期待だけは妙に膨らんでいるために、深い失望となって、理想化がこき下ろしに転嫁して、イライラや怒りに変わってしまう、ということが裏側では動いているのです。
自分はログアウトしていて、安全な位置にいながら、相手に勝手な期待をしているのでいまいち腰が定まらない。
相手もそれを感じ取っているので、イライラをぶつけられても響かない。
(「自分はログインせずに、他人に要求するのはおかしくない?」と無意識に感じます。)
(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」
過度な要求の割に、それに伴う責任(役割)を負っていないことについてアンバランスが起きている。
こうしたログアウトしたまま、自分は回避したままで、目の前の人や社会に都合の良い期待をかけて裏切られたとして怒りを感じる、というのも本当に多い。
(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる」
その場合は必ず、頭の中での考え、自分の発言や思考に「主語」が抜けています。
「普通、こういうときはこうするだろう? なんでしないわけ?!」と怒っていますが、主語がない。
自分はログアウトしているために「私は~と思う」「私は~~してほしい」というわけでもなくログアウトしたままニセモノの神のような視点に立って「人間なら、~~すべき」という頭になってしまっている。
そのことに本人も気づいていない。
(参考)→「自分の意見ではなくて、世の中こうあるべきという観点でしか意見や不満がいえない。」
しかし、以前も書きましたが、第三者の視点、神の視点に立ってしまうと、自他の区別が消失し、他人の介入も招くことになる。
自分の意見が通らなくなってしまう。
なぜなら、神になる資格もない一人間が、神の視点で「こうだ!」といっているだけだから。
意見が通らなくなるために、余計にイライラしたり、自分の考えが否定されて絶望したりして、相手が気が利かないわからず屋に見えて、さらにイライラとなってしまうのです。
本来は、ログインして、「私は~~が嫌です」とか、「私は~~こう思います」といえば、自分の持分だけ、領域だけは自分の意見が通ります。
そうやって、それぞれの人間が自分の持分をもち「交流」しあう、というのが健康な人間同士のやり取りです。
(参考)→「世界はあなたがログインすることを歓迎している。」
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