私たちが成長する、というのは、私的な状態を脱して「公的な環境」に身を置くようになることです。
親とのかかわり、大人たちとのかかわりの中で、私的な情動を公的に表すための適切な表現方法を学んでいく。
逆に言えば、「公的な環境」がなければ、私的な情動を自分にも他人にも分かるかたちで表現することはできない。表現できないものは身体にネバネバと滞留して、それがいわゆるトラウマ(ストレス障害)になる。
あるいは理不尽に漏洩して、境界性パーソナリティ状態と呼ばれる
トラウマとは、長期にわたってそうした「私的な環境」に置かれてしまうこと、とも言えます。
震災など災害がトラウマになるのも、災害の衝撃もありますが、それ以上に、災害後に私的な状況に置いてきぼりにされてしまうこと(孤独)。実際に、自殺が多いのは災害が起こった直後ではなく、数か月、数年以上たってからとされます。
絆を強調したり、コミュニティでの声掛け、死者に対する合同での慰霊祭といったことは、「公的な環境」を維持するための工夫です。
私たちは「公的な環境」にいることで、トラウマはその中で癒されていくと考えられます。私的な環境にいるとトラウマを処理することができず、身体などの不調となって現れます。
ストレスは、まずは、自分の体内のストレスホルモンで処理をしますが、それができない程に大きなものは、社会のネットワークに流して処理をしていくものだからです。
よく、「ファン、サポーターの応援が力になりました」とスポーツ選手などが言うのは、大舞台のストレスをネットワークに流すことで対処しているからかもしれません。
これも、「公的な環境」を作り出す工夫です。
身近な親などを通じて、私たちは社会への橋渡しをされますが、家庭とは社会へ出るための準備の場、ローカルネットワークですから、ある時、そこから自分を思い切って切り離して、社会というクラウド「ワールドワイドウェブ」につながる必要がある。
そのための儀式がまずは2度にわたる「反抗期」であり、世に出る「就職(しごと)」になります。
反抗期で、ローカルネットワークの象徴である親を精神的に“殺して”、自我を確立していく。そして仕事を通じて、本当の意味で社会とつながっていきます。
もちろん、現代は“会社”社会、会社という組織を介したつながりであるため、会社が機能不全を起こして歪んでいると(モラハラ、パワハラ)、会社がおかしな私的環境(ローカルネットワーク)となってしまって、社会というクラウドと十分につながることが妨げられてしまうことにもなりかねません。
(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」
私たちが意識する際に最も大切なことは、「社会通念」「常識」とつながる、ということ。
「社会通念」「常識」というのは、長い歴史や伝統の中で紡がれたもので、現在も、社会を構成する無数の人のネットワークでできているもの。
古代から芸術や政治、経済の理想というのは、その目に見えるようで見えない「社会通念」「常識」(輿論)≒イデアというものをいかに具現化するか、というところにあるといわれています。
天才的な芸術家や政治家がイタコのようにそれを降ろしてきて表現する存在とされます。
凡人である私たちも天才的とまでいかなくても、普段言葉には出せませんが、「社会通念」や「常識」というものを体感して生活しています。
心身が健康な常態であるとき、私たちはそれを中心軸に感じ取って、落ち着いて生活することができます。
「公的な領域」で生活している状態です。
心身が不安定な時、「社会通念」や「常識」を十分には感じ取ることができません。外部からやってくる否定的な感情に振り回されてしまって、イライラして、バランスを欠いた感覚にとらわれてしまいます。
自分が何やら常識から離れているかのように感じてしまい、自信を失ってしまいます。
社会が自分の敵に回ったかのような、疑心暗鬼に陥ってしまうこともあります。
「公的な環境」を維持できず、「私的な領域」で生活している状態です。
「家」の中というのは、避難場所としては機能しますが、実は、「社会通念」や「常識」≒イデア とつながるにはとても不向きな場所です。
家系、親の偏った常識、価値観というローカルネットワークの呪縛されてしまうからです。
学校や会社も実はとても難しい場所で、正しく機能すれば「社会通念」や「常識」への仲介となる場所でもありますが、中間集団として、偏ったローカルネットワークとなりやすい場所でもある。それがハラスメントやいじめとなって現れる。
(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」
そのため、小中学校などでも、できる限りローカルネットワーク化しないように、社会学者などがクラス単位ではなく、科目単位で編成するような組織作りを提案していたりします。
社会に出ていくときには、支配しようとしてくる人がいたり、機能不全のローカルネットワークにからめとられたりすることがあります。それらはすべて公的環境を騙った「私的な領域」です。
世にあるノイズに対抗するために、自己啓発などの考え方では、個人の成長によって果たそうとしてきました。
でも、それはとても難しい。
なぜなら、自分の頭だけで自分のアイデンティティを確立させてという作業は、天才的な哲学者でも難しいことだから。なにより、人間は構造的にクラウド的存在だから。
機能している社会には、「常識」や「社会通念」というものが悠然と存在している。
「常識」や「社会通念」は、何気なく街や職場で出会う素朴な人たちとのかかわりで感じることができます。
本来の「常識」や「社会通念」とは、多元的であり、“人それぞれ”というわきまえがあって押しつけがましくなく、でも、人々に太い幹のような基準を与えてくれるもの。
そうしたものを内面化する。自分は「公的な環境」という光の道を常に進む。「私的な領域」の闇をのぞき込んだり、かかわろうとしない。
(もっともらしく見えても、生きづらさを感じるならば、それは歪な「私的領域」です。)
そうすることで、ハラスメントや生きづらさから解放されていきます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か」
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