私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?

 

 今年、新しい『エヴァンゲリオン』の映画が公開されるそうです。
筆者が学生のときにテレビで放映されていたものですが、だいぶ息が長い作品ですね。
 (そのため、主人公はいまでもカセットテープのウォークマンをしています。)

 

 『エヴァンゲリオン』は、評論家などからは「セカイ系」と分類されるような作品です。セカイ系とは、複雑な社会は抜きにして主人公の内面と世界の危機が連動している、といった内容のものを指すそうです。

 実際に、主人公の行動と連動して大変動が起きたりします。

 

 自分にとって思うようにならない社会というものを中抜して、自分の心と世界が連動する(ことを望む)というのは、トラウマチックな心性と近しいものです。
 (『エヴァンゲリオン』の主人公も明らかに愛着不安というか、トラウマ的なキャラクター設定ですね)

 

 

 人間は、幼少期に自分の意志に共感するように養育者が反応してくれる経験を通じて「愛着」が形成されます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 もちろんズレもありますが、概ね自分の意志に対応するように「おっぱい」であったり、「おむつ」であったり、「だっこ」であったり、が提供されることで世界が自分に応えくれる、理屈の通った、という経験をするわけです。

 成長するにつれて、なんでも自分の思い通りには行かないことも知るようになります。

 しかし、自分が現実的に働きかけることで現実は確実に変わっていく、ということも学んでいきます。

 世の中が理屈にあったもので成り立っていることを基本として、理不尽な例外もある、というかたちでとらえていきます。

 自分も学業や仕事でコツコツと積み上げていくことで、高いところにも手が届く、ということを体感していくようになります。

 

 こうしたプロセスが不安定だったり、理不尽なことが多いストレスが高い環境だと愛着が安定せずに「複雑性トラウマ(慢性的なストレスによる障害)」と呼ばれるような状態になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分にとって周囲の環境は、思うにまかせないもの、というふうにしか感じられず、積み上がる感覚がありません。
 だから、努力が空回りしてヘトヘトになるか、ショートカットして自分の願望と結果を結びつけるしか手段がなくなってしまうわけです。

 その結果、「セカイ系」のように、自分の意志が世界とつながるようなことを願うようになるわけです。

 
 もちろん、現実には、連動することはありえない。そんな事になったら大変なことになります。

 結局、思うようには動かない世界があって、積み上がらない自分の経験だけが残る、という結果になります。
 

 

  
 1945年8月に敗戦を聞いた(いわゆる玉音放送を聞いて)日本の人々がどう感じたか?という体験談の中に下記のようなものがあります。

 

「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」(伊東静雄という詩人の日記)

 

 国を総動員した戦争に、国民は勝つと考えて臨み、負けました。
 負けるとは考えていなかったし、考えたくなかったわけです。
 
 悲しい事実の前に、自分を取り巻く物理的な自然も合わせて崩壊でもするのかと思っていました。

 しかし、自然は、全く変わることがない。

 ただ、「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」というだけ。

 

 当時の人々も、それだけのショックな出来事が起きれば、それに対応して、物理的な自然も変化すると思ったわけです。
 でも何も変わらない、動かない。 それどころか、穏やかな風景がつづいているだけ。

 

 「物理的な現実」は、歯がゆいくらいに、私たちの意思とは関係なく、そこに存在する。

 

 私たちも同様の体験をします。

 生きづらく、自分が思うようには人生は進まない、やりたいことも明確にならない。

 でも、外に出たら、何の変わらない日常が広がっていて、太陽は照っている。
 ゴミ収集車がメロディーをのんきに流しながら走っている。公園では保育園の子供が走り回っていたりする。
 
 野良猫が車の上であくびをしている。

 
 それを聞きながら、いいな~とも思わず、ただお腹の中のジワジワする焦燥感と胸の不安のやり場もなく歩いている自分がいる。

 自分の気持ちに合わせて嵐でも吹いてくれればまだ落ち着くのですが、そうではない。

 「物理的な現実」は、私たちの精神とは関係なく、何も動かない。ただ変わらずそこにある。

 そして、冒頭のセカイ系のように、自分の願望が現実に反映されることを願う。しかし、反映されることはなく、「やっぱり叶わなかったか」と失望することを繰り返します。

 

 では、「物理的な現実」というのは残酷な存在なのか? といえば、実はそうではありません。

全く反対なのです。

 精神とか、言葉とかイメージには関係なく自然、「物理的な現実」が存在することは、実は私たちにとっては大いに救い、希望になることです。

 なぜなら、「物理的な現実」には、言葉とか心とかイメージにはない、大きな機能、特徴があるからです。

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

Doingとして世の中が見えるようになると、趣味も仕事も勉強でも、主権がもてる。

 

 筆者の個人的な話ですが、正月に親戚の子どもと将棋をしていたら、ふと、また暇なときに将棋をやるのもいいかも、と思い、スマホのアプリや本を買ったりしていました。

 ロールプレイングゲームみたいに時間がかかるものは大変だし、手軽にできるものとしてあらためて将棋はいいかも、なんていうことからです。

 

 もともとは、筆者は将棋が苦手で、いろんな手を読んだり、考えたりすると頭が疲れるし、うまくできないと自分の劣等感も刺激されるし、ということで、「自分は向いていない」と思っていました。

 

 特に、小学校の頃は、将棋をしても、自分勝手に駒を動かしては、うまい相手に取られる。動かしたいところには敵の駒が効いていて動かせない。角や飛車の筋を見逃す、嫌になる、ということの繰り返しだったと思います。

 

 本来、将棋も手筋とか、定跡といわれるものがあって、つまりはスポーツなど他の趣味と同様に、基礎があって、その基礎のもとに行うものです。
 ゴルフなどでも上達にはものすごく時間とお金がかかります。

 
 よほど天才でもなければ、いきなりやってうまくできるものではありません。

 人間はいろいろなことを同時には検討できませんから、ある程度決まった手順を体で覚えて、思考を省略することが普通です。 
 

 

 ただ、子供の頃の私は、将棋を「自分が頭が良いかを証明するもの」みたいなふうに考えていた部分があって、なにも基礎を身に着けないまま、将棋をやって、うまく行かないと「ああ、自分はアタマが悪いんだ・・」みたいに捉えて、自己否定的になっていたように思います。
 

 

 将棋というのは、あくまでDoing(行為) の世界のもの、Doing(行為) の世界で基礎を見つけて、行うゲームでしかありません。

 それを、Being(存在、才能)の証明みたいにとらえて、ドン・キホーテのようにむかっていって頓死する。

 基礎を身につけるのも、Beingの証明の邪魔になる、くらいに素朴に捉えていたのかもしれません。

 勉強も似たところがあって、算数の問題が解けないと、自分の Being(存在、才能)の否定と捉えて、嫌になる。

 

 勉強も、本来は Doing(行為) の世界です。
 極端に言えば、数学オリンピックに出るのであれば才能というBeingの世界があるかもしれませんが、東大に入るという段階まで、つまり入試という世界であればすべて答えや解き方も明らかで、あくまでDoingの世界なのです。  

 

 安全な環境が整っていれば、勉強も自然とできるのだとおもいます。
 なぜなら、目の前の失敗をBeing に結び付けず、Doingとして淡々とトライ・アンド・エラーができますし、「答えはかならずある」という安心安全のなかで、対応できるからです。
 これが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 しかし、トラウマを負っていて、愛着が不安定だとこうはいかない。
 勉強の問題が、なにやら落ち着かない、自分のBeing(存在)にバッテンを付けてくる審判のような気がして嫌になる。
 「答えがかならずある」という感じがしない。
 問題と答えの間のつながりが、魔術のように感じられてしまって、自分にだけ意地悪されて正解の位置が変わるような感じさえする。
 

 そうして嫌になる、勉強が嫌いになる。という感じがします。

 

 本来は、あくまでDoingの世界ですから、淡々とすれば必ず結果が出るものです。

 

 しかも、日本のお勉強の業界は、戦後だけでも80年近い歴史があります。
 その間延べ何千万人という人が取り組んできて、解法でも、勉強法でもノウハウが蓄積されているので、求めれば必ず自分にあった勉強法が得られます。

 

 筆者が昔、高校3年の担任の先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
 それは、3者面談のときに、「努力がわかりやすく結果に出るのは受験の時くらいですからね」といった言葉でした。

 話の流れで何気なく言った言葉でしたが、強く印象に残っています。

 確かに、社会に出ると、将棋や勉強と違って、範囲も答えも決まっていないので、努力が結果となって出るかどうかはわからない。
 勉強は範囲や答えが決まっているのだから、今にして思えばこれほど結果が出やすいものはありません。

 

 勉強ができるかどうかは、早くそのことに気がつけるかだけ、いいかえれば、BeingとDoingの切り離しが早々にできているかどうか、ではないかと思います。
 言い切ってしまえば、頭の善し悪しは入試レベルではほぼ関係ありません。

 

 さらに、人生2,3周回って今思うのは、社会や仕事においても、勉強や将棋と違って範囲や条件は圧倒的に広くなりますが、それでも、Doingとして捉えられる状態になっていれば、必ず答えはあるでしょうし、ノウハウとして考えることはできるのだろうと思います。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 日本の経営コンサルタントの草分けとも言える大前研一という人がいますが、実は、コンサルタントになった当初は活躍できず、どうしたものかと思ったいたら、どうやら、パターンがあることに気がついて、過去の事例を社内の倉庫で読み漁って、コンサルタントとしての方法を身に着けた、ということを読んだことがあります。

 すごく頭のいいとされる人ですが、そういう人でも、種を明かすと頭の良さで仕事をしているわけではなくて、仕事をDoingとして捉えて、手筋や定跡を身につけていた、ということです。

 

 近年、話題のAIなんかも、コンピュータの能力のみによってではなく、膨大なデータをパターン化して予測しているわけですから。
 AIは、世の中を究極にDoing化するものといえます。
 

 

 仕事でうまく行かなかったり、職場で問題が生じるのは、Doing仕事に Being が乗っかかってしまっていたり、ハラスメントによって、Being とDoing が一体化させられたりということから来ます。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 冒頭に筆者の将棋についてのエピソードを書きましたが、また将棋をやってみてもいいかも?と以前とは違う感覚になったのも、筆者の中で、Being と Doing が切り離されてきたためかもしれません。
 目の前にあるものがDoing として捉えられ、失敗してもBeingには影響がない。
 Doing として世の中が見えるようになると、自分でコントロール可能な、自分に主権のある感覚を感じられるようになります。
 
 

 

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お悩みの原因や解決方法について

相手の気持を考えることが良いことだと思わされ、「他者の植民地」になっている。

 

 最近、いろいろなクライアントさんを見ていて気がつくのは、相手の意識、心の中を覗き込むことが、「相手に気を使うこと」「共感すること」「相手の気持を考えること」で、それが良いコミュニケーションだと勘違いさせられていて、そのことが悩みを生んでいるというケースが非常に多いということです。
 (少なくないケースでそこが大きな要因の一つである、ということがあります。)

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」「共感してはいけない?!」 

 

 

 まるで自分の体から意識が抜け出すようにして、他人の心の中を覗きにいって、そこで相手のプライベートなドロドロとした感情を拾ってきてしまう。

 人間はプライベートな状態では、おかしくなってしまう。
 さまざまな他者の否定的な感情を取り込んでしまっていたりもします。

 

 

 相手の心のなかにあるものは決して「本音」ではありません。
 
 本音とは、あくまで社会化(パブリック)の洗礼を浴びたものだけです。

 本音と思っているのは、他者のネガティブな感情や意識でしかない。
(参考)→「まず相手の気持ちや立場を考える、というのは実はかなり変なこと
 
 
 それを勘違いして、「本音」を拾いに行ってしまう。

 すると、背負う必要もない負荷を自分の中に溜め込んでしまいますから、それが心や身体の症状となって現れてしまう。

 なかなか取れない悩み、生き辛さの原因になって、その負荷が腸に現れれば過敏性腸症候群、目に現れれば視線恐怖、といった具合になります。
  

 おそらく、発達の過程で誤学習をさせられてしまったためにそうしたことが生じています。

 

 

 私たち人間は「社会的な動物」であり、そもそもが「クラウド的な存在」です。スマホのように、外からのネットワーク供給でなりたっている。
(参考)→「私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。」 

 ネットワークからの供給がうまくいかなくなる、あるいは、主権を奪うくらいに供給過多になると、ひきこもるしかなくなってしまいます。ひきこもりの方が死に至る事例が最近多数報告されていますが、それもそのはずなのです。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント」 

 内面化した他者の意識は、私達を強く規制し、主権を奪います。

 

 本来は、「愛着」という名のOSによって、他者の意識を一旦否定して、自分のものに翻訳し直すプロセスが必須です。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 そのためには他者からの承認が必要ですし、自我の発揮を後押ししてもらわなければなりません。
 二度の反抗期に見られるように、内面化した他者の意識を否定することが、発達におけるとても大切な課題になります。

 

 

 その「否定と翻訳」ができずに、内面化した他者の意識が人格のように誤って機能しはじめると「ローカルルール人格(≒人格化された超自我)」というように本人を困らせるようになります。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 それが強く行き着くと多重人格というようなケースにも至ります。

 

 他人の意識に憑依する、というのは、無自覚にタコのように意識を他者に向けて、他者の意識を取り込んで内面化しつづけて、主権を奪われている、ということです。
 

 

 見た目は立派な大人でも、内面は「他者の植民地」という方はゴロゴロいて、そうした方々はカウンセリングを受けても効果を感じられず、あれ?ということでさまよい続けてしまうのです。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」

 それもそのはず、自分と思っているものが「他者の植民地」なのですから、自分が自分であるかもよくわからないままでいては、なかなかままなりません。

(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。

 しかし、他者の意識の内面化しつづけていることが問題の原因なのだと気がつくと変わってきます。

 

  
 以前にも書いたことがありますが、相手の気持の中を覗き込もうとしては絶対にいけない。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 それは健康な状態でもなければ、良いコミュニケーションでもありません。

 意識が自分の体から出て、相手に入るこむようなことはことはやめて、ドライに感じるくらいに、自分の範囲を守る。

 すると、自他の区別がついてきますし、それをきっかけに人格の成熟も再び機能し始めます。

 

 

 

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おかしな“連立方程式”化

 

 人間は、問題を正しく認識できれば、解決することができる、と言われることがあります。

 それはたしかにそうで、あまり難しすぎる問題であれば問題としても認識されませんし、私たちは、正しく問題を捉えられれば解決の糸口はそこここにあるものです。

 
 岡目八目といいますが、他人から見たら「なんで、そんなに悩んでいるの?ぱっとやってしまえばいいじゃない」と思えることもしばしば。

 でも、本人の中ではう~ん・・・となっていたりする。 

 そのときには必ず、本来は簡単なはずの問題が本人の頭の中では、連立方程式になっていることがあります。

 それも、3つも4つも式が連立している。

 

現実では 6x+ 1 = 13 といった簡単な式のはずが、  

 悩んでる人の頭の中では、

  6x+ 1 = 13
 ————————————
  x+9y+z=1  (ローカルルールA)
  x+2(y+6z)=1 (ニセの責任)
  x÷3yz=5  (ローカルルールB)

 といったものになっている。

 そして、どうやったらいんだ~?と悩ませている。

 いやいや、ローカルルールとか他人の責任がくっついてじゃましているだけですよ、ということなのですが、本人は気づいていない。
 

 

「ローカルルールも含めて計算しないと正しい答えにならない」「現実の問題だけで解いたのでは自分勝手で冷たい、そっけない、罪悪感を感じる」という感じなのです。
 

 このように問題解決に進むことができていない、あるいは生きづらさを感じている、という場合、目の前の事象を連立方程式で捉えている、ということがあります。

 「自分は嫌なんだけどやらなければならない」「苦しみに耐えるのがあるべき姿だ」とか、というのも、まさにこの“連立方程式”になっている、ということ。

 

 健康な世界は、シンプルな1本の式のあつまりです。

 

 

 ハラスメントというのは、そこにローカルルールや他人の責任をくっつけて“連立方程式”にしまうことをいうのです。
 (社会学では、こういうことを「関係性の個人化」といいます。社会の構造的な問題である場合でも、個人の努力のせいだと言ったりする。こうした理屈もローカルルールといえます)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 変な式がくっつくことを昔の人は、因縁とか呪いとか、カルマとかなんとかと表現したのかも知れません。 
  
 
 自分の悩んでいることには何がくっついているのかを見てみることです。

 劣等感、自己否定感、罪悪感、義務感、責任 など・・・・

 それらはすべて本当のことではない。ローカルルールであるということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 「いや、現実に失敗してきた。事実こうだ」という場合は、それが「作られた現実」ではないか?ということをチェックしてみることです。

(参考)→「「事実」とは何か?その2

 

 

 まちがって、その“連立方程式”を解こうとしてしまうと、頭は終始ぐるぐるして、エネルギーを無駄に使い、解離してしまったり、依存に陥ってしまったり、はたまた妄想に走るしかなくなってしまう。

 

 “連立方程式”は解こうとしてはいけない。

 
 むかし、ベイトソンが、ダブルバインドといいましたが、まさに「ダブルバインド」は、解が出ない式がくっついてしまうこと。

 今では否定されましたが、一周回ってオープンダイアローグで大きく改善するようになったことを考えると、統合失調症なども、いってみれば連立方程式化で病状がなりたっているかもしれません。
(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント」  

 

 依存症でも、治そうとするとドツボにはまるが、開き直って“底をつく”とよくなったりする。依存症も連立方程式化した結果といえるのかもしれません。

 連立方程式を一時的に外すためには、酔っ払って酩酊するしかない、というわけですから。
(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと」 

 

 ひきこもりも、“連立方程式”が積み重なってしまっていると考えられる。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント

 

 人間の生きづらさや、苦しみとは、“連立方程式化”なんだ、と考えるとなかなか奥が深いものです。 

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 問題を連立方程式にしないことを、「免責」とか、キリスト教などで言えば、「祝福」ということになるのかもしれません。
 

 効果のある心理療法は、“連立方程式”状態を外すことが大きな目標であると言えます。

 外してしまえば、本来の式はシンプルですから、あとはご本人が勝手に解決していける、というようになります。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 愛着的世界観、人間観とは、人間をありのままに見る、ということです。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 ありのままに見るのはかんたんなことではないか?と思うかもしれませんが、これはなかなか難しいことです。

 多くの場合はそうなっていない。

 

 他者を怪物のように捉えてしまって恐れるか、自分を汚れた存在、ダメな存在と捉えてしまって自信を失っているか。

 あるいは、不安から、自分は人よりも優れている、他人は自分よりも下等である、と捉えているか。

 

 あと、よくあるのは、人間は素晴らしい存在である、あるべきだ、より良くなることを目指そう。しかし、既成の概念に染まっているがために、本来の力を発揮できていないから、自己啓発やセラピーによってそうしたものを外していけば、素晴らしい存在になれるはずだ、という考えです。

(参考)→「カウンセリング、心理療法側も「人間は立派なもの」と思っていたりする

 

 実はこうしたことも、“非”愛着的な人間観、世界観といえます。
愛着が傷ついたがゆえに、人を素晴らしいと捉えざるを得なかったり、自己否定から自分を改善しようと考えている。人を支配したい人がそのように唱えて不安な人をひきつけているケースもよくあります。

 「素晴らしい存在と捉えること、目指すことになにが問題か?」と思うかもしれませんが、現実はそうではないのに「素晴らしい」と捉えれば、当然ながら実際とは異なり無理が出ます。
 本当はそうなれないわけですが、なれない原因を当人に帰属させて、その人は素晴らしい存在よりも劣った存在、ステータスだと認識されてしまう。
 本来は素晴らしいはずなのに、なれていないのはその人が根本的におかしいからだ、となります。
 「素晴らしい存在であるはず」というテーゼが崩れるのを防ぐためにそう考えるようになります。

 

 押し出しの強い他者に出会った際に、根源的に素晴らしい存在として過度に理想化するか、あるいは、悪魔、支配者と捉えて、強く恐れるようになったりもするのです。

 

 その背景には、存在(Being)と行動(Doing)との一体視があります。存在(Being)と行動(Doing)を一体と見て、「素晴らしい存在」とします。
しかし、行動(Doing)は不完全で弱い、ということは変わりがありませんので、それが、「素晴らしい存在」ということと整合しない。
 すると、行動(Doing)と一体化している存在(Being)も「劣った例外」として一体で処理されてしまう。
 さらに、行動(Doing)を装飾する他者に出会うと、存在(Being)も理想的で完全だ、と錯覚して、自分が駄目な証拠とするか、ローカルルールに従ってしまう、となってしまうのです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 共産主義だとか宗教といったユートピア運動において、人間を理想的な存在としながら、現実にはそうなっていない人たちを別カテゴリとして排除する、支配欲を持った人たちが自分たちは完全、他人を支配して当然だと錯覚する、
 といったことはしばしば見られることです。

 それと同様のことが私たち個人レベルでも生じます。
 

 
 「人間は素晴らしい存在である」という価値観と、私たちを苦しめるローカルルールとは同根であるのです。

 ローカルルールは、「人は素晴らしい」はずなのに、「あなたみたいなわがままで、扱いにくい人間はよほどおかしいにちがいない」(その証拠に、行動Doingが不完全だ)とします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 
 
 セラピーやカウンセリングの理論や人間観などでは、「人間を素晴らしいもの」とする考えをするものがよくありますが、実は危ない前提であったりする。

 聞いているとうっとりしてよいかもしれませんが、論理の構造はローカルルールと親しく、実は自分の首がしまって、主権は奪われてしまう。

 ローカルルールから離れようとして、別のローカルルールを対置しているような変な構造になっている。

 

 

 カウンセリングの始祖のロジャーズも、人間の素晴らしさを訴えて、同時代の哲学者から手痛い反撃を食らったことがありました。
 哲学者は、人間とは弱く、不完全で、それゆえ社会の中でしか生きていくことができない存在だ、としていたのです。

(参考)→「私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

 
 
 実は、「人間は素晴らしい」とすることで愛着的世界観から離れてしまい、他者はモンスターのように感じ、自分はなぜか自信がなくなる。
 人間らしさ、主権が奪われてしまうのです。
 

 人間とは、社会内の存在であって、社会の中で位置と役割を得る必要があります。人間とは弱く不完全だ、と認識した人間が技術や教養を身につけ一身独立し、位置と役割を得ることで初めて公的な存在としてあることができるようになります。
 公的な存在でなければ、人間は独立した人間として存在することができません。
 ひきこもりなどの問題は、このプロセスにおいて、不適切な対応や、サポートがなかったりすることから生じます。
 私たちが感じる生きづらさも、主権を持って生きるための要件に問題が生じているために起きています。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 自由というのも、社会の中での位置と役割を持つことと同義です。 
 公的な存在としてあることができなければ、生物的には存在してても、自分が何者かわからないまま、主権を奪われ、焦燥と不安に生きるしかなくなってしまいます。

 

 愛着的人間観、世界観というのは、生きるための土台ともなるものです。

 ローカルルールから離れようとして、「より強く、より完全に」と努力することは、実は反対に方向に進んでいることになっていたりする。
 ローカルルールの世界観をなぞる結果となってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 

 私たちが頭の中で、自分をなじって責めるのも結局、何やら理想的な状態と比べて自分を罰しているわけですからね。

 本来、解決の方向とは、「弱く、不完全に」(現実を知る)というもの。
それは、自分だけではなく、すべての人間がそもそもそうだ。だから自分の存在(Being)に罪などない、という世界です。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 

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