「自分(私)がない」ということを前提にしてみる

 

 以前、「自分(私)がない」という記事でもかきましたが、トラウマを負っている人は、自分がなかったりします。

 ぽっかり真空のように自分というものが空いている。

(参考)→「「私(自分)」がない!

 

 行動力があったり、色々と頭では考えたりしているので、とても「自分がない」なんて実感がわかない。

 でも、よくよく考えてみると、自尊心はなく、自分の考えだと思っているものは、親や周囲の価値観の直訳だったりする。

 そのことにも気がついておらず、ただ「失敗すると自分にダメ出しをしてしまう」「自分に厳しい」、あるいは「よくイライラする」と思っていたりする。

 
 しかし、それは、実は親(他人)の価値観を真に受けてしまっている(内面化)ために起きている現象だったりします。

(参考)→「他者の価値観の影響はかなり大きい

 

 

 他人の価値観を直訳しているというのは、いうなれば主権を奪われて、「植民地」のような状態になっているということです。植民地は、土地があって人があって、政府らしきものはあっても、主権を奪われてしまっています。

 同様に、人間は身体があって、頭が働いていて、行動していれば「自分(私)」なのではなく、「自分(私)」が成り立つためには、様々な要素が必要になります。
 自他の区別(国境)であったり、自分の考え・価値観(憲法や法律)であったり、ストレス応答系など身体の機能(警察や消防や軍隊)であったり、
 処理された記憶(歴史や伝統)、社会的地位と役割(正統性)であったり・・・ 

 

 トラウマを始めとして、生きづらさを感じているとうのは、上記の要素のなにかを奪われていたり、制限されていたりする。国でいえば、主権が制限されているのです。

 

 人間とは不思議なもので、植民地のように自分を奪われたままでも、他人の価値観を気が付かぬまま直訳して、あれこれと何十年も行動することはできる生き物だということです。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 全く動けなくなったりでもすればわかりやすいのですが、逆に行動的になったりするから、余計に気がつかない。

 

 生きづらさは確実に感じています。ただ、それは自分のせいにしたり、何か他の原因であると考えています。

では、どうすれば気がつけるのか?ということが気になります。
  
 

 「自分(私)がない」というと、何やら特殊で実感がわかない、ということになりがちですが、

例えば、

 ・自他の区別がついているか?  例えば、他人の考えや感情を先回りして考えたり、気をもんだりしていないか?
 (参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 ・自分の考えや価値観をしっかり持っているか?   好き嫌いやその考え、実は親や他人のものなんじゃないの?

 (参考)→「他者の価値観の影響はかなり大きい

 

 ・ストレス応答系など身体の機能   睡眠、食事、運動は十分ですか?少しでも足りないとすぐに人間は心身のバランスが崩れます。

 (参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 ・処理された記憶   過去について後悔したり、自分に駄目だしするような過去の記憶、ストレスはないですか?

 (参考)→「更新されない記憶と時間感覚」「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 ・社会的な地位と役割   何らかしらの社会的な役割についていますか?  社会的な役割がないと人間は自分を保てなくなります。 
 (参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」 

 

 といったことを具体的にチェックしてみることです。 

 

 とくに自分の考えや価値観は一番曲者で、ほぼ、他人のものだと、疑ってかかったほうが良いです。

 私たちは、仕事やプライベートで自分の意見が通らないと思っていたり、自分だけがないがしろにされている、バカにされやすい、とおもっていたりすることがあります。
 

 他人の考えや価値観からばかり発言したり行動したりしているのですから、他人に通るわけがない。

 (参考)→「自分の意見ではなくて、世の中こうあるべきという観点でしか意見や不満がいえない。

 

 あるクライアントさんは、電車などでよく人が自分のスペースに入ってきてぶつかったりして、嫌な思いをすることがある、とおっしゃっていました。

 それも、実は「自分というものがないために」他人からは自分は見えていないのかもしれない。
 (参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム」 
 

 「自分がない」という現象は、かつては特定のケースだけに起きているかと思っていましたが、生きづらさのある人はほぼ、なんらかしら「自分(私)がない」という事象が生じています。

 

 
 生きづらさを感じていたら、
 まずは、「自分(主権)がない」ということを前提にしてみることです。
 (参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」 

 

 すると、悩みの解決というのは単に症状を取るだけではなくて、自分(主権)というものを取り戻す取り組みでもあることが見えてきます。

 

 

 

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言葉が出ない!

 

 人からふいに何かを聞かれても、とっさに言葉が出ない。
 言葉が出ても、なにか上ずったようで、自分の肚から出ている感じがしない。

 

 言葉を出しても、その後に恥ずかしさや自責感が残ったりする。

 

 人から失礼なことを言われても、とっさに言葉が出ない。  
 あとから怒りが湧いてきて、相手を頭の中でボコボコにしたり、
 次回言い返すシミュレーションをしたりする。
 でも実際にその場面になったらできなくなってしまう。
 

 こうしたことは、「私」が奪われていることから生じます。

(参考)→「「私(自分)」がない!

 

 話す段になっても、私という主語がなく、常にまず、「他者の眼、他者の価値観」を参照しようとしてしまう。

他者から見て問題ない発言をしようとする。

 さらに、発言した際の罰で身体が緊張する。 

 さらに、我に返る。

 何かを言おうとする。タイミングを逸しているし、胸や喉が詰まって声が出なくなっている。

 言葉が出ない、というのも、単に発声の問題なのではなく、内面ではこうしたプロセスがあると考えられます。

 いわゆる、「人見知り」というのも同様で、人と接するのが苦手だとか、億劫だ、と感じることの裏にはこうしたプロセスが展開していたりする。

 

 筆者も、少し前まで、ご近所の人と「挨拶」ができない、という症状がありました。
 
 仕事では挨拶しますが、ご近所の人とはうまく挨拶ができないのです。

 

 上に書いたようなプロセスもありますし、過去にそのことを理解してもらえずに、形だけ「挨拶したほうがいい」といわれたことへの抵抗感みたいなものもない混ぜになったような感覚があって、結果挨拶するのに躊躇して、結果できない、ということが起きていました。

 

 まさに、言葉を奪われたような感じ。
 (当然余計に誤解されたりすることもあるでしょうから、損を引き受けるのは自分です。そうすると理不尽さがさらにまします。)
 

 上に書きました「他者の眼、他者の価値観」の他者とは、多くの場合母親や父親だったりします。
 

 
 結構自分では、母や父のことは相対化して、否定しているつもりでも、結構影響を受けていたりする。
 
 まだまだ内面化していて、自分の考え、だと思っているものが、そうではない、ということはたくさんあります。  

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 自分の考えで話をしたとしても、「私」という主語がない状態で話をさせられてしまう。

 トラウマを負うと、「私」が奪われ、そして言葉も奪われるのです。 

 

 

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なぜか自分だけが「きつい」とか「おかしい」と言われてしまう。

 

 人見知りであるとか、人といると億劫だ、人とうまく話すことができない、といったお悩みを持つ方は多いです。

 コミュニケーションの問題だ、とか、対人緊張が原因だとかいろいろなことは考えられますが、

 その背景には実は、そもそも自分の考えや感情を素直に表明することができない、ということがあります。

 

 もちろん原因としては、親の悪口や、変な指摘をされてきたためにローカルルールの影響もあります。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 自分の意見を表明すると親が変な指摘をしてきたり、価値観を押し付けられてきたから。

 あるいは、テレビを見ていて、親がいつもテレビに出ている人に文句を言っていて、「こういう行いはダメなんだ」とその影響を受けてきた。

 自分の意見はうかつに言わないようにしようと決めてきた、ということはよくあります。 

 

 自分の価値観だと思っていたことは、実は、親のローカルルール(不全感)でしかないのに、それに気が付かずに、ずっと忠実に守っているのです。
 そのために、自由に意見を表明することが今でもできなくなっていたりする。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 さらに、トラウマを負った人の悩みとしてよくあるのが、自分の意見を言うと、「変だ」とか、「おかしい」といわれてしまったり、「きつい」といわれてしまい、こわくなって自分の意見が言えない、自己開示できないということがあります。

 他の人は好き勝手に話をしているのにその人はなにも言われなくて、“自分だけ”が「きつい」「おかしい」と言われてしまう、というのです。

 

 

 その原因の一つはなにかといえば、“自分の”感情、意見を言っていないから。 

 親などから影響を受けた「理屈(不全感≒ローカルルール)」がくっついていて、それを表明している。

 本人は、自分の意見や考えを言っているように見えますが、自分のものではない「理屈(不全感)」がついているために他者にとっては侵害を受けているように感じられて、「きつい」と言われてしまう。

 ローカルルールは、「You’r NOT OK」でなりたっていますから、内容としてももっともに見えて他者にきついもの(「You’r NOT OK」)です。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 

 一方、反抗期などを経て一旦他者の意見を否定して、自分の感情からスタートして、自分の意見を言えるようになると、自分の意見や考えを言っていても、あくまで「私は~感じる」「単に私のものでしかありません(あなたには関係ないよ)」というメッセージとなります。

 言葉だけを見たら、きつく見えるようなことでも、他者は「きつい」とは言わず、反対に共感してくれたり、面白がってくれたりする。

 

 具体的に言えば、「芸能人の~~っていう人は嫌い」という同じ言葉でも、他者(親など)の価値観から発せられた言葉は、越境する理屈(同意しないお前は変だ、とか、自分の不全感にまきこまれろ)が暗についているため、それを聞いた人は、「きつい」といって眉をひそめたりする。
 (よく見たらわかりますが、「芸能人の~~っていう人は嫌い」という言葉は、ほとんどの場合「Iメッセージ(私の言葉)」になっていません。)

 

 

 そうではなく、自分の感情から発せられたなら、「あくまで自分の好き嫌いでしかありません」というわきまえがあるため、越境することがなく、それを聞いた人も、安心してうけとめることができる(受け止めても侵害されない)。そして、「私は好きだけど、私は~~が嫌い」といって会話を楽しむことができるのです。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 
 こうして、自分の感情からやりとりすると、自他の区別の中で安全に他者と意見を交換したり戯れたりすることができるようになるのです。

 なぜか、「きつい」とか「おかしい」と言われてしまうなら、他者の価値観(ローカルルール)を直訳していないか、影響を受けていないか、をチェックする必要があるかもしれません。

 

 

 

『夜と霧』再読

 

 新型コロナウイルスに対応するための自粛で、多くの方は疲れを感じておられるのではないでしょうか?
 ただ、行動を自粛するだけではなく、マスクや除菌と気をつけないことは多い。

 
 本当に、気疲れしてしまいます。

 

 専門家によっては1年、あるいは、終息には数年かかるとの見通しもある中で、制限を受けた生活は苦しいものです。

 先の見えない中で私たちはどのように過ごせばいいのでしょうか?

 

 なにかヒントを得ることができないか?ということで、
 V・E・フランクルの『夜と霧』と、『それでも人生にイエスと言う』を再読してみました。

 再読、というのは、高校生か大学生の頃に推薦されて読んだような記憶があるからです。 
 内容はほとんど覚えていませんでしたが、あらためて手にとってみました。

 

フランクル「夜と霧」

それでも人生にイエスという

 

 

 

 

 

 

 

 

 フランクルは、ウィーンに生まれた精神科医で、オーストリアのドイツ併合などによってナチス支配下に入り、ユダヤ人ということで、強制収容所に収容されてしまいます。約3年に渡り収容所生活を送ることになります。

 収容所では僅かな食べ物しか与えられずに、文字通り骨と皮だけになって過酷な労働を強いられる日々。
 

 

 歴史を知る私たちはいつ戦争が終わったかを知っていますが、当時収容されていた人たちにとっては、永遠にも思える絶望の中で、仲間たちも命落としていきます。

 フランクルは、「内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている」「未来を失うとともに彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と述べています。

 

 例えば、安易な希望的観測や楽観を持つような人、
 「クリスマスまでには解放される」「何月何日までには自由になれる」といったような人たちは、その希望が絶たれてしまうと、「人生にはもはや何の意味もない」としてろうそくの火が消えるように亡くなってしまったのです。フランクルによれば、実際、クリスマスの時期は不思議と死者の数も多かったそうです。
 それらは真に楽観的や希望をいだいているのではなく、悲観を隠すための楽観だったのかもしれません。

 

 反対に、生き残るために大切なものはなにか?本当の希望をもたらしたものはなにか?といえば、それは「生きることからなにかを期待する」のではなく、「私たち自身が問いの前に立っている」「私たちは問われている存在」であるという視点の転回であった、というのです。

 

 これはどういうことかといえば、
 「人生にはどんな意味があるのか?」という視点は、主権が自分にはない状態です。
 自分の外部に人生の有限の意味があって、それが枯渇するという感覚。
 未来への希望といっても、単に希望的な観測でしかなく、缶の中のクッキーの残りがもっとあるに違いない、と期待するようなものです。
 外部に翻弄されている状態です。実は暗に「人生には意味なんてないんじゃないか?」、あるいは「こんなにつらいのだから、大きな意味がなくては困る」という不安や怒りが潜んでいます。
 

 だから、希望的観測が外れて目の前にある状況が悪い状況が現れれば、絶望して命を落としていってしまうのです。

 
 精神障害や神経症、トラウマを負った人の感覚とも通じるものがあります。

 

 一般にトラウマを負っている人は楽観に頼り他人のせいにして生きているかといえばそうではなく、むしろ環境にあるものを過剰に自分で引き受けて生きてもいます。
 ものすごく努力もしていますが、積み上がらない。過大に背負った責任や苦労によって身動きが取れなくなっているのです。
 
 過剰な自助努力と、その苦しみや不安を癒すための希望的観測(しばしばスピリチュアルなものも含む)というアンビバレンツなものがともに存在しているのです。
 

 

 反対に、人生は常に自分に問いを投げ続けている、という考えは、常に自分に主権がある状態です。
 どんなに悪い状況でも、それは人生からの問いであり、自分はそれに答える権利がある。人生の問いは、無限に投げ続けられていて絶えることがありません。
 

 フランクルも、未来に希望があることは大事だと述べているのですが、その希望とは、自己都合による希望的観測ではもちろんなく、人生の問いに答えるという覚悟ということだというのです。

 
 厳しい環境を覚悟してそのまま受け入れますが、実はそのことで、責任は自分から外れて、自分に主権が戻り自分のことに集中できるようになる。
  

 現実をそのままを受け入れると決めると、自分のニセの責任が外れて主権が戻る、という逆説が人間にはあるようです。
 (「実存」というものの本質はこの辺にあるのではないかと感じます)

 

 

 「それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられる。ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。」
 「そこに唯一残された、生きることを意味のあるのもにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限される中でどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。」

 

 新型コロナウイルスの自粛生活下の私たちにとっても通じるものがあります。

 5月6日に緊急事態宣言の期限が来ますが、再度延期される可能性もあります。
 「5月6日までがんばる」というのは、「クリスマスまでに解放される」という強制収容所での希望的観測にも似た趣があります。

 緊急事態宣言下のストレスに過去のトラウマを投影して、期限が来ることへの希望はそのかりそめの癒やしであるということです。
 でも、もし外れたら「希望が見えない」としてうつっぽくなったりしてしまう。

 これは、宣言の期限や新型コロナウイルスの方に主権があり、主権が自分にはない状態です。

 

 

 反対に、ウイルスによる制限のために失った「ないもの」にではなく、「あるもの(現実)」に目を向けて、淡々と自分のルーティンを作って、健康を守りながら、日々を過ごす。  
 何時に起きて、食事をして、仕事をして、家では自分でできるエクササイズをして、可能であれば健康維持のための散歩をして、というように。
 ※睡眠や食事が少なくなると、心理的なコンディションはてきめんに下がります。睡眠や食事はしっかり取る必要があります。

 

 たとえば、筆者も趣味で行っているスポーツのスクールが緊急事態宣言によって、休校となってしまいました。
 「新型コロナウイルスさえなければ・・」という考えで見てしまうと、「スクールがない」ことはストレスになってしまいます。
 外で運動をすることもかなりはばかられます。

 それらはすべて「ないもの」です。

 

 一方、あるものとしては、睡眠時間や食事、読書や動画、DVDを見る時間、など、仕事や収入が減った方も多いですが、その分自由な時間は増えたともいえます。
  
 そうした「あるもの(現実)」に目を向ける、ということは、私たちができるレベルで、人生からの問いに答えることになるかもしれません。

 

 これは、ポジティブ・シンキングということではありません。
 そうではなくて、最善手の幻想や作られたニセの現実を検定して、自分の主権で状況を翻訳する、ということです。
 (ニセの現実とは、過去のトラウマ/ローカルルールを投影して現実を曲げて捉えることです。)

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 ※さらにいえば、新型コロナウイルスに対するストレスには実は「最善手の幻想」も潜んでいるかもしれません。収入にしても余暇にしても常に最善手が得られなければならないという非現実的な期待を私たちは持っていた。現実は株価のように上がったり下がったりするものなのに、なぜか常に最善の値であることを期待して、それが外れたら絶望に陥るといったようなおかしな感覚を当たり前のものとしていたのかもしれません。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 

 

問いに答えるというのは、『夜と霧』の中に
 「考えこんだり、現地を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、答えは出される」とあるように、
 高尚なことではなく、普段の行動によるもの。

 以前の記事でもまとめましたように、現実は常に動いているのですが、人間にはそれを感じ取ることは難しい。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 

 カットオフ(質的変化)までは、待つしかない。人間の側が質的変化を感じ取ったり、具体化するためには準備をし、力をつけなければならない場合も多いですから、できることは目の前のことをして日々を過ごすことです。

 

 「目の前のこと」や「淡々と」というと地味に見えますが、そのことと質的変化(希望)とは結果としてバイパスして通じているようです。
 反対に大きな希望や夢と絶望もバイパスして通じているのです。

 

 現実はある時点を越えると急速に展開します。

 

 それがいつかはわかりませんが、それまでは、先は見ず、睡眠、食事、運動(家でできるエクササイズなど)をしっかりとしながら、普段できないようなことを楽しみながら(時間がないと読まない本や動画、DVDを見たり、どか)、淡々と過ごすことではないかと思います。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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内面化した親の価値観の影響

 

 新型コロナウイルスに感染したことで、志村けんさんが亡くなりました。
 そのことにショックを受けた方も多いのではないかと思います。

 筆者も子どもの頃は、「8時だョ!全員集合」などを生で見ていました。
 当時は、「志村けん」という名前をいうだけで、子どもがゲラゲラ笑うというくらい人気があったと記憶しています。

 筆者も大好きで見ていました。それが小学校低学年くらいのときでしょうか。
 

 

 少し時間が進み、筆者が10代になったころだと思いますが、母親が、志村けんさんのコントを見て、「汚い」とか、「下品だ」みたいなことを言って嫌悪感をあらわにすることがあって、それを真に受けた筆者は、それ以降、なんとなく志村けんの番組から遠ざかっていったのです。
 (志村けんさん自体も、一時、死亡説が流れるくらい、TVに出ない時期があったのもありますが)
 

 

 亡くなって感じるのは、「もっと見ておけばよかったなあ」ということです。
 落語とか古典芸能の世界でも名人がいますが、喜劇の世界でまさに名人に値する方ですから。

 

 

 お亡くなりになったこともあり、そんな事を考えていると、筆者が気がついたのは、「志村けん」と「汚い」ということを結びつけていたのは、単に親の価値観を相対化せずに内面化されていただけだったんだ、ということです。

 自分の価値観、自分の考えだと思っていたことは、自分のものではなかった!

 

 別の言葉で言えば、「ローカルルール(人格)」です。
   
 自分の中でも、相対化できる親の価値観は、まだまだ潜んでいることに気がついたのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  
  

 

 

 クライアントさんと接していても感じますが、親の価値観をそのまま内面化して、それが悪さをしている、ということは頻繁にあります。

 

 他人にイライラしたり、自分を責めている場面でも、結局それは、「ほら、だからあなたはダメなんだ。誰からも信頼されない」と、内面化した親の価値観がその人のそばで囁いているということだったりします。

 

 
 まれに、治療への抵抗が起きたり、中断が発生したり、ということもありますが、それも結局は、社会への不信感といった親の価値観を内面化したものだ、ということだったりします。
 「外で余計なものをもらうと危険だ」「治療者はお前を否定し、バカにしているんだ」「なんだかんだ言っても、家(家族)が一番だ」というのです。
 その結果、社会と分断され、親の価値観は相対化されずに残り続けてしまいます。

 

 

 「自分の考え」「自分の嗜好、感覚、価値観」だと思っているもののかなりの部分は実は、単なる親の価値観の直訳ではないか? ローカルルールではないか?と今一度疑ってみる必要があります。

 

 「良い会社に入らなければならない」「学歴がないといけない」に始まり、「こんな人間はダメだ」といったようなこと。
 
 あと、「こんな髪型は似合わない」とか、「こんな服は似合わない」というのも、子どもの頃に、親などから「あなた、そんな服はやめときなさい!」「似合わない!」と親の偏った嗜好、不全感から強く言われて真に受けたまま育ってしまったといったケースは本当によくあります。

 

 

 

 「でも、誰だって親とか周りから影響は避けられない。どれが本当の自分の価値観なのか。健全な影響とそうではないものとはどう区別したらいいの?」と疑問に思うかもしれません。
 

   
 区別できるポイントはちゃんとあります。

 それは、
 
1.親の価値観が社会の公的な価値を代表したものかどうか?(私的情動からのものではないか?)
 
2.公的な価値であっても、直訳ではなく、一旦否定したうえで、自分で翻訳し直しているかどうか?

 ということです。

 

1.についてですが、私的情動から発せられたものを、それらしい理屈でコーティングしたものはローカルルールといい、悪影響があります。
 価値観というのは社会を生きていくための学習であるわけですが、私的情動から発せられたものは価値観などと呼べる代物ではなく、結局は親の不全感にすぎないものだからです。

 

 

 志村けんさんの例で言えば、母親は、単に自分の不全感から「汚い」といっていただけだった。当時、母は夫との不和とかそうした問題がありましたから、男性に対する反感をもっともらしく吐き出していただけだったと考えられます。それに子どもを巻き込んでいただけで、価値観と呼べるような立派なものではありません。
 (巻き込まなければローカルルールは成り立ちませんから、子どもを利用していただけだった)

 

 ですから、皆さんも、親の価値観というものが、私的情動から発せられたものではないかどうか、不全感が隠れていないかをよくよくチェックする必要があります。

 

 本当に影響されるに足る価値観というのは、社会の公的な価値を代表したものです。
 親は、自分の私物のように好き勝手に子どもを育てて良いわけではなく、社会の代表として子どもに接することが本来です。
 「こういうときにはこうしたほうがいい」とか、「こうしたときは、このようにかんがえるとよい」といったことは、社会の公的な価値を親など周囲の大人が自分の体験、体感覚から翻訳して、子どもに伝えるものです。そこには世の中の多元性も踏まえた、“わきまえ”があります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

2.については、 
 
 私的情動から発せられたニセの価値観(ローカルルール)をチェックすることはもちろんですが、社会の公的な価値を代表としたものであったとしても、成人するまでに人間は一度それらを否定する必要があります。直訳はダメ。「守破離」とはよく言ったもので、直訳をしていると、原理主義的、強迫的になり、徐々におかしくなってきます。

 否定した上で、自分の体験、体感覚を通じて翻訳し直す必要があるのです。
 
 自分で翻訳し直してはじめて、「自分自身の価値観」となります。

 それらを促すのが二度の反抗期だったりします。その結果、自他の区別がついて、他者とも適切な距離が取れるようになります。
  

 

 1.2.を経ないものは、「ローカルルール(人格)」となって、大人になったあとも生きづらさをうんだり、思考や行動を制限することになるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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