ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 

 ウソをついたり、隠し事をするのは、発達の過程ではとても重要だとされます。ウソや隠し事をすることで、自と他との区別が初めてできるからです。ウソや隠し事を通じて人間は自我を確立していくのです。
(育児や発達の本を読むと登場してきます。)

 

 人間とはクラウド的な存在です。
自分というものが初めから存在しているわけではなく、外来要素を内面化して束ねているのが自分です。オープンなスマートフォンのような状態です。スマホ本来の機能は何もない。

 ただ、写真やメールなど自分のデータを暗号化して外から読み取れないようにしたときに、はじめてその部分が「自我」になる。

だから、ウソや隠し事はとても大切なのです。

 

 

 機能している健全な家族、安定型愛着の家庭であれば、ウソや隠し事もある種のユーモア(諧謔)で対応されます。
「なんちゃって!」が通用することがすごく重要です。
もちろん、「ウソや隠し事はダメよ」とはなりますが、実際は「ウソや隠し事もときにOK」「仕方がないな(人間というのはそういうものだ)」として柔軟に運用されているわけです

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 機能不全家族の場合は、逆に、とても厳格に真面目に運用されます。人間のイメージが宗教画のように清らかで完璧です。そこでは、「ウソをつくな!」といって、ウソや隠し事は封じられてしまいます。

 

 

 

 あるいは、親が機能していないために、子供が「優等生」となり、親代わりにしっかりしている、という場合もあります。

 

 そこでは、子供がしっかりしているから自我が芽生えているか、というとそうではなく、子どもらしいうそや隠し事ができないまま、子役のようにニセ成熟として親代わりを演じているだけです。ですから、大人になってから「自分がない」という状態になり、苦しむことになります。

 

 

 

 ブラック会社やカルトなどはある種の機能不全職場ですが、そこでも、「ウソや隠し事は厳禁」で「社員は素直であること」が強いられます。上司が「俺の目を見ろ!」として、ウソや隠し事がない状態を強います。

 

 社員は隠し事なく、会社の指示に従う。それがいいように聞こえますが、全然そんなことはありません。

 

 昔、東大教授が書いた「できる社員はやり過ごす」という本がありました。つまり、上司も万全ではないので、健全な組織では、時に上司の指示をやり過ごしたり、部下たちは自分たちの裁量でこっそり開発したり、仕事を進めたりしていた、ということです。

 

 

 最近はやりのガバナンスというと、すべてが透明で、指示が徹底される、というように思われていますが、健全な職場というのはそうではなありません。機能する家庭のように、ある意味いい加減で、社員それぞれは秘密はありますが、全体としては成果を上げるように頑張っている、というものです。

 

 

 

 トラウマを負った人は、過度に真面目です。隠し事ができません。建前と本音が嫌いです。使い分けることができません。それはピュアでいいこととされますが、実は、真面目で隠し事ができないことが、「自分がない」という生きづらさを生んでいるのです。

そして、“本当の自分”を外に求めてさまようことになります。

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 

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「接する」のではなく「信じている」

 

 トラウマを負った人の特徴として、自分や他人、世界に対して、直接ありのままに「接する」のではなく、「信じている」ことがあります。

 
 理不尽な経験をしてきていて、世の中や人間というものは、安心安全ではない、と感じています。

 

 そのため、直接「接して」はあまりにも危ない、ためにありのままの他者、世界に、ではなく、いったん抽象化(ファンタジー)したものを「信じる」ように接しています。

 

 

 そのため、他者や世界について、見たくないものは回避しようとします。信じるかどうか?なので、抽象化したイメージにそぐわないととても腹が立ったり、こき下ろしたりするようになります。

 

 ありのままの他者や世界は、良いものも悪いものもほどほどに同居しているものですが、そうした真ん中がありません(二文法的認知)。

 

 例えば親に対しても、ありのままに見ればよいわけですが、抽象化したイメージとしての親(親´)と接し続けています。

 ですから、実態としては愛情が持てないご両親だったり、過去には理不尽なことを重ねてきていても、それがわかっていながら、イメージとしての親(本当は愛してくれるはず)をずっと追い続けて、イメージ通りに動いてくれない親に対して、腹が立って、小突いてみたり、口論になったりするのです。

 

 
 自分自身に対しても同様です。自信自身に対する時も、ありのままの自分と接するのではなくて、抽象化した自分(自分´)を信じています。

 スティグマ感を背負い、罪悪感があり、自分に自信がありませんが、それらは、周囲から背負わされた抽象化されたイメージです。

 

 ありのままの自分はとても汚れていると思いこまされているために、抽象化したイメージ(少しマシな自分)を信じるようにしているのです。

 

 そのイメージを信じてしまうので、いつまでも、自分に自信が持てないままになってしまいます。

 

 

 「自他の区別」がつかない原因の一つは、抽象化したイメージを通じて世界や自分と接しているからです。

 イメージだから、区別や距離が取れないのです。現実の自分や他者をありのままに見れれば、区別は距離は明らかにとることができるのです。

 

 

 

 このことに気づくだけでも、結構変化が生じます。
 ありのままの他者を見る、ありのままの世界を見る、ありのままの自分を見る、ということができると、生きづらさは、ぐっと良くなってきます。