生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 アラン・ソーカルという物理学者が、1996年に「境界の侵犯:量子重力の変換解釈学に向けて」という論文を雑誌に掲載しました。その内容を見て、批評家や思想家たちが評価しました。
 一通りの評価が揃ったころに、その頃合いを見計らって、実はその内容は哲学や物理学の単語をもっともらしく並べただけの全くのデタラメだったと発表しました。意味のない文章を見て「意味がある」と評価した学者や批評家は面目丸つぶれになりました。

 

 

 アラン・ソーカルは、現代思想などで科学の知識がいい加減なまま乱用されていることへの警鐘として、こうした挑発を行ったといわれています。
 
 「アラン・ソーカル」事件といいます。

 

 実は学者とか専門家でも、自分の目で見て、頭で考えて物事を判断しているわけではなく、「すごそうだ」とか、「すごいといわれている」ということで判断をしているのではないか、というのです。

 

 

 昔は、日本でもマルクス主義という考え方が主流でしたが、今から見ると非科学的な考えも含まれていますが、「真理である」と普通に流通していたりしていました。

 それも、当時の社会状況や問題意識もありますが、じつはベタに言うと「(内容はよくわかってないけど)なんか、すごそうだ」というような感情がベースにあったのではないかと考えられます。

 

 

 もう亡くなってしまいましたが、吉本隆明という思想家がいました。娘は吉本ばななという作家です。「戦後最大の思想家」と呼ばれ、信奉者も多い人です。

 近年は、それに対して疑義を唱える人が出たりしています。

 

 「吉本隆明という共同幻想」という本がありますが、簡単に言えば、「吉本隆明というのは、難しく書いてあるだけで、何を書いているのかわからない。実は内容も意味がないのではなかったのではないか?!」
 というものです。単なる難癖ではもちろんなく、吉本のいい加減な言葉遣いや、デタラメさについて、細かく例を上げて示しています。

 

 

 かんたんなことをわざわざ難しそうに書いてあるのは、結局は、「どうだ、オレはすごいだろう!」という顕示欲や相手をマウンティングしたいという支配欲だったのではないか、というのです。  
 その難しそうな文章を見て、同時代の人たちは「吉本隆明はすごい」と思って、共同幻想(ローカルルール)に染まっていただけではなかったのか?と。

 

 

 

 明治大学の鹿島茂教授が、小林秀雄を取り上げて同じようなことを書いています。
  
 小林秀雄といえば、私たちが使っていた国語の教科書にも登場する日本を代表する英文学者とされます。

 しかし、小林秀雄もどうやら「どうだ、オレはすごいだろう!」という自意識から、わざわざ難しい言葉で文章を書いていたのでは?というのです。

 

小林秀雄

 

 
 

 

 

 

 

鹿島茂は、

 「小林秀雄が書いた文章で「わかった!」と思った経験が一度もない。文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは小林の文の方であることがわかる。」
 「こういう意味不明なことを書く小林秀雄も困ったものだが、それを入学試験にあえて出題する大学教師とは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 

 

 作家の丸谷才一や、比較文学者の小谷野敦も小林秀雄は意味不明だと批判しているそうです。

 

 

 でも、小林秀雄は国語の教科書にも載っているくらいだから、それなりの学者たちには評価されていたはずですが、実は、それは、「どうだ、オレはすごいだろう!」というローカルルールに染まった結果だったのかもしれない。
 

 そのことを、鹿島茂は、漫画家東海林さだおの言葉を借りて「ドーダ」という言葉で表現しています。
 
 

 

 「ドーダ」とは、「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義しています。
 (なんか、ローカルルールとよく似ていますね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本当はすごくないけども、皆が何故かすごいと思いこむのは、「その時代特有の「集団の夢」」だと鹿島茂は言っています。
 

 

 さらに、森鴎外や、西郷隆盛などを取り上げて、歴史上の人物の行動にも、「ドーダ」というものがあったとして、これまでとは違って視点で「すごい」とされる人の行動の背景にある「ドーダ」を描いています。

 さて、こうしたことから見えてくるのは、「すごそうだ」とか、「皆から評価されている」ということの実像です。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちも、「職場のあの先輩は皆から評価されている(でも、私には理不尽なことをする)」「親戚のあの人は尊敬されている(でも、とても支配的で窮屈だ)」ということがあります。
 周りから評価されているから、ということで理不尽さを否定し難いように見え、自分を否定する行為を真に受けてしまいがちですが、それも、結局「ドーダ」という集団の夢だったのではないか?別の言葉で言えば単なる「ローカルルール」でしかなかったのではないか。

 
 

 

 日常でも、わたしたちに対して、「仕事はここまでできて当然だ!」とか、「これができないなんて恥ずかしい!」と指摘してくる人がいたりしますが、それって、結局は、その人が「自分をすごいと思わせたい」「相手をマウンティングしたい」「相手を負かしたい」という気持ちの発露でしかなかったのではないか。

 つまり、「ドーダ」でしかなかったのではないか?
 
 もちろん、「ドーダ」以外にも嫉妬ということもあります。広義では嫉妬も「ドーダ」といえますが。
  

 

 

 筆者も、以前の職場で、先輩から「東大卒で営業部に配属されて、上司からいじめられた人」の話を聞いたことがあります。
 東大卒ということに対するやっかみから、「こんなこともできないのか」と些細なことを取り上げて上司がその人をいじめて潰してしまった、というのです。

 東大卒のその人は、指摘されることが事実であると真面目に考えて、単なる嫉妬でしかないことで潰されてしまったのです。

 

 

 このブログでも、手塚治虫の有名なエピソードをとりあげましたが、
 手塚治虫も、嫉妬から同輩や後輩の漫画家を「こんな描き方はだめだ」こき下ろして、トラブルになることしばしばであったのです。
 漫画家の神様も、当たり前ですが、業の深い人間でしかないのです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。」

 

 わたしたち人間はだれでも、嫉妬や「ドーダ」から自由ではありません。
 

 

 鹿島茂は、「ドーダ」は自己愛から発するので、「自己愛とはターミネーター2の金属男のように、あらゆる形をとってどこにでも発言するから、容易にそうとは見抜けぬ」といい、そして、「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」ともいっています。
 

 

 いいかえると、私的領域の言葉はすべてローカルルールということです。

 

 だから、人の言葉や行動をそのまま真に受けるなんてしない。できるわけない。

 

 

 トラウマを負った状態というのは、いいかえれば「ローカルルール」の幻想にとらわれている状態。ローカルルールの幻想とは、「そうはいってもローカルルールが正しい」「自分は間違っている」という感覚。
 だから、代謝が進まない。

 でも、そのローカルルールとは、結局「ドーダ(私的情動、不全感)」でしかなかった。 

 

 ローカルルール(人格)の言葉とはすべてそうです。

 深刻そうにして、相手を非難する。自分は悲劇の主人公で、それを理解できない相手の理解や共感性の欠如に問題があるとする。
 難しい理屈で感情や思考をこねくり回して理屈を作り上げているが、意味不明。

 しかし、ローカルルールというものの正体がわかると、
 「文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちらのせいだと思っていたが(罪悪感を感じていたが)、今になると悪いのはローカルルールの方であることがわかる。」
 のです。

 

 

 もっと別のケースでわかりやすく言い換えたら、

 「昔は、親の言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは親の方であることがわかる。」
 
 あるいは、

 「昔は、友人やパートナーの言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは友人やパートナーの方であることがわかる。」

 そして、親や友人やパートナーの言うことに賛同していた人たちは、「集団の夢」に染まって、
 「こういう意味不明なことを言う親や友人パートナーも困ったものだが、それに賛同する人たちとは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 ということです。
 

 

 「生きづらさ」とは、結局、他人のドーダを真に受けて、後始末を押し付けられている状態、といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」

 

 

 実は、冒頭のアラン・ソーカル事件のように、人間というのはローカルルールの世界では中身などは見ていないのです。「なにやらすごそうだ」という様だけを見て、それなりの人でも、おかしな理屈に染まったりする。

 

 ドーダはあちらこちらにありますから、そうと知っていなかれば、ついついもっともな気がしてしまいます。そして、自分が特別に駄目だと思ってします。

 

 

 歴史に名が残るような人、あるいは現在すごいとされている著名な人でも、結局は意識、無意識にドーダをかましているだけ可能性が高い。
というか、鹿島茂が「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」といっているように、すべての言動はドーダなのだと思う必要がある。
 特にテレビとかマスコミに出るような人は、全てが演出でできていますので。

 

 スポーツ選手も、経営者も、作家も、政治家も、哲学者も、芸能人もみんなみんな「ドーダ」でできていただけだった。

 

 

 
 身近な人達なども同様です。
 カーネギーの名著「人を動かす」はまさに、「ドーダ」の塊である人間をどう扱うか?をまとめた本でした。

 

 

 
 日常生活において、例えば仕事で威圧的な人にあったら、「あ、この人もドーダなんだ!」と考える。
 「このくらいのこともできないの」といわれたら、「あ、この人、今ドーダをかましてきた」と気づく必要がある。
 (昔、アニメとかで見た、見栄を張った奥様同士の会話のようですね。「うちの主人は、今度ニューヨークに出張なんですのよ!」のと同じこと)
 「自分はできていない」「自分はだめだ」なんて、反省したり、真に受ける必要なんてありません。

 

 みんなが「すごい、すごい」と言っていても、「本当か?」と思ってよい。
 というか、思うほうが普通だし、世の中を生きる者の作法として、疑わないといけない。

 
 
 でも、健康な人間はすべてを疑って生きてもしんどいので、ノリつつツッコミ、ツッコミながらノル、ということをして生きる。
 二重の意識を持ちながら物事を楽しんだりします。

 人間というのは、本来「すごい人」など実は一人もおらず、誰しも業が深く、弱い生き物なのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「いい人」には意識してなるものではなく、環境の集積である。

 
 昔日本は戦争に負けましたが、補給を確保することを怠ったからだと言われました。

 軍隊もいくら強くても、補給が続かなければ闘うことができない。

 よく考えれば当たり前のことなのですが、目先のことに目が行くとプロでもそのことがわからなくなってしまう。

 ナポレオンも補給がうまく行かなくなり破れてしまいました。

 当時は、現地調達で食料などを確保していたそうですが、フランスは侵略者であると考えられるようになり協力が得られなくなったり、
敵が先に食料を奪うなどして調達できなくなってしまいました。

 

 

 企業活動も同様に、インスタグラムやLINEとそっくりにまねて作れば誰でもすぐに追いつけるかと言えばといえばそうではなく、それをささえる「しくみ」がないとだめだと言われます。

 

 ラグビーやサッカーなどの球技もそうですが、得点シーンだけを見ると、得点をとった人の手柄に見えますが、何手も前から始まっていて(多くはボールを奪うところなどから)、パスを繋いで繋いで、囮になる人もいたりして、結果点が取れる。

 

 反対にミスも同様で、ゴールキーパーやディフェンダーは点を取られる場面にいるので一見すると犯人にされることがありますが、実はそれ以前に周りのサポートがなかったり、そもそもフォーメーションがうまく言っていなかったりして、その結果ミスが生じる。

 さらに、普段の練習環境がどうか、チームとしてのサポートがどうか、経営はどうか、など、実は多くの要因が関係している。

 最近なくなった野村克也さんなども、「強くなるためには(選手、監督以前に)フロントが大切」といったようなことを言っていました。

 

 

 このブログでも繰り返し述べていますが、人間は環境の生き物です。

 環境で殆ど決まっているといってもいい。

 

 「いい人」である、ということもそうです。

 いい人とは、その人の性格、気質のことではありません。
 
 実はその人を取り巻く環境の集積物です。 

 
 例えば、ストレスフルなコミュニケーションがあった際に、巧みに応答することができれば、「神対応だ」ということになります。

神対応のうらには、その人を支える環境、仕組みがある。

 家族のサポートであったり、友人の言葉であったり。いわゆる“愛着”というものであったり。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」

 

 もっと言えば、身体のコンディション。睡眠不足、栄養不足、運動不足では良い対応はできません。

 特に睡眠不足になると人間は余裕がなくなり、すぐにおかしくなる。
 (子どもはてきめんで、人が変わったようになってグズグズになりますが、大人でも同様です。)

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切」

 

 

 「いい人」になれる、というのも、環境の集積物で、意識してなれるものではありません。

 環境の支援がないまま、意識して「いい人」になろうとすると、どうなるかといえば、過剰適応になり、生きづらさを抱え、ローカルルールに支配されてしまうことになります。
 
 補給が続かない軍隊、チームのアシストのない選手、会社のサポートがない社員のように疲労困憊して潰れてしまいます。

 

 もっと言えば、「いい人」になると意識している時点で、ローカルルールの影響が働いている可能性が高い。
(ローカルルールに巻き好もうとする人にとって、都合の“いい人”になっているだけだったりする)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 人間は、発達の過程で、エゴを等身大にし、反抗期を経て自他の区別をつけ、社会的な役割を得て、公的人格として、健全な形でエゴを表現できるようになります。

 こうしたプロセスも、「いい人」を支える仕組みです。

 

 この仕組みがないまま頑張っても、上に書いたように、ローカルルールの奴隷になるだけ。

 人を支配するために一番狡猾な手段は、支える環境を奪ってしまうこと。

 もともとトラウマとは、ストレスに拠るダメージももちろんですが、支えてくれる環境を奪われてしまうことです。
  
 家族であったり、仲間であったり、社会であったり。

 

 支えてくれる環境を奪われながらも、「頑張れ」「努力しろ」「ちゃんとしろ」というメッセージが飛んでくる(メリトクラシーといいます)。

 

 支えてくれる環境がないまま頑張った結果、補給が続かず敗北し、「はい、負け犬、決定!」「さあ、支配する側に従え」とされ、ローカルルールの呪縛が強まってしまいます。

 意識高い系と言って、努力する人が揶揄されるのもこうしたことを警戒してのことではないかと思います。仕事ができる人というのも環境の集積物なのに、意識を高く持とうとすると、逆に変なものに支配されしまう。
 

 

 大切なのは、環境を整えること。
 家族など他者はコントロールできませんから、自分の体内の環境をしっかり整える。

(参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる」

 ガットフィーリングから来る感覚を大切にする。  

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」

 感じたことを表現する。

 自分の体の輪郭を越えた責任は負わない。

 他人の心の中は覗き込まない。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」

 

 
 体内の環境を整えながら、エゴから出発して、ローカルルールに反抗して否定して、自分を表現していくことで、プロセスが整ってくる。

 

 そうした先にほんとうの意味で「いい人」はあるかもしれませんが、意識していい人(できる人とか、頭のいい人、とかも含む)になろうとすることは要注意。
 ローカルルールにとって都合の“いい人”になるだけです。

  

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 私たちが重いものを持ち上げるとき、自分の体を支える足場が必要になります。

 足場がグラグラしていたら持ち上げることができません。

 宇宙のように無重力だと、力を入れると自分の体自体が浮いてしまうことになってしまいます。

 

 それと同様に、私たちが生きていく上でも足場が必要になります。とくに何かを考えたりするときは。

 

 西洋(欧州大陸)の哲学とは、人間は真理を認識できるか、人間の認識とはどこまで可能なのか?を主要なテーマにしてきました。

 近世ごろからキリスト教が明らかな限界を迎えて、代わりに「世の中はどうなっているのか?(神はいるのか?)」を人間の認識(理性)を使って知ろうとしたのです。

 

 そこで大切になるのは、はじめに私たちの認識(理性)はどこまで正しいのか?を疑う(批判)ということ。

 
 もしかしたら、今この現実は夢かもしれない。幻覚かもしれない。その恐れがあるわけです。

 夢だとしたら、認識したものも幻となり、考えたことも意味がなくなってしまいます。

 

 

 そこで哲学者たちは、人間はどこまで疑えるのか?(可疑性)を検討しました。

 デカルトの「我思う故に我あり」というのもその一つで、「徹底的に疑っても、思っている私まで疑ったら疑うことさえ成立しなくなる。」ということ。
たとえ、夢であったとしても、この思っている私、ということを疑うことは意味がない、としました。 

 カントは人間の理性の限界を示しました。

 

 現象学のフッサールなどもどこまで疑ってよいのかを研究していました。
 「私たちが物事を認識する志向性自体については疑うことは意味がない」としたのです。

 そうして、思考の「底(足場)」を定めてから、哲学を組み立てていきました。

 

 

 ちょっと難しそうな話からスタートしましたが、私たちが疑うためには「足場」が必要です。足場がなければ疑えません。

 

 日常に生きる私たちは哲学者ではありませんから、そもそも深く疑う必要はありません。自分の存在は是認、肯定した上で具体的な行為や思考のみを疑います。これが健康な状態です。

 

 

 しかし、トラウマを負った人は、疑いえないもの、疑う必要のないものまで疑わされてしまっている。

 それは、「自分」というもの。
「自分はそもそもおかしいのではないか?」とか、「自分の考えは異常なのでは?」といったような感覚にとらわれさせられてしまっている。

 これは養育環境で理不尽なコミュニケーションを繰り返された結果です。

 

 例えば、人からなにか気になることを言われたら、自分の存在までさかのぼって疑わされてしまう。

 仕事でちょっと失敗したら、自分の存在や前提まで疑う。

 そうやって、疑ってすべてを相対化して焼け野原のようになるまで疑わされてしまう。

 その結果、世の中を見通す最高の哲学者になれればよいのですが、そういうわけでもない。

 徹底した相対化とは、実は暗黙の前提の絶対化を意味します。

 つまり、焼け野原を支配しているのは実はローカルルールということです。

 

 何もない状態には人間は耐えられませんから、自分を疑って無になる、のではなく、実はおかしなものを絶対化してしまう。
 自分を疑う、ということは、イコール、ローカルルールを信じさせられる、ということです。

 

 

 健康な状態の私たちは、自分を疑う、ということ自体、原理的にできないし、する必要がない。

 

 「自分」という足場をもとに、「行動」や「考え」を修正したりすることはありますが、そもそも「自分」を疑うようなことはできない。

 

 ハラスメントや虐待というのは、このできないはずの行為ができるかのように錯覚させること。
 そして、それを通じて、ローカルルールで支配することです。
 

 

 洗脳セミナーなどでは、罵倒や睡眠不足などを通じて、「自分」そのものを疑わせるようなことをして、主催者の都合の良い考えを刷り込みますが、まさに原理的には同じことです。

 親などが「あなたはだめな人間だ」「根本的におかしい」というメッセージを出すのは、「自分」を疑わせて、親にとって都合の良いメッセージを刷り込みたいということ。それによって「自分の不全感を発散させたい」ということです。

 

 

 しかし、ローカルルールを真に受けてしまった人は、自分を疑うことがあたかも正しく、誠実で、客観的な行為だと錯覚させられたまま、大人になっても、自分を疑う、ということを当たり前としてしまう。

(参考)→「「過剰な客観性」」

 

 

 仕事や勉強においても同様で、「定理」や「公式」や確認された「事実」はお約束(前提)として、考えるものですが、それができなくなる。

 

 前提を前提とすることができず、いつも疑いを向けて、不安になります。
 
 疑うということで真理に到達するわけではなく、反対にローカルルールに絡め取られる。

 

 計算ミスがあったら、計算ミスをしたポイントに立ち返って再度間違えないようにして答えにたどり着きますが、計算ミスがあったら、「自分はだめだ」と足場まで疑い始めて、不安になり、絶望的になり、勉強が嫌になる。

 

 公式や定理そのものへの信頼も持つことができない。何か不思議な力によって、不意打ちのように間違いが起こるような気がして安心できない。
 さながらこの世の中が自分を駄目にする不思議な力が支配しているようなオカルトのみたいな感覚にとらわれるようになります。

 

 安心してコツコツと積み上げていくことができなくなる。コツコツとは、一度確かさが確認できたものは再度疑わない、ということです。

 それができなくなる。すべてを再度疑わなければならなくなる。頭はヘトヘト、仕事も勉強も嫌になってしまう。

 

 

 その結果、「自分はだめだ」「世の中は不確かだ」というローカルルールの世界に陥ってしまうのです。

 足場がないまま、根性で努力をして頑張ってそこそこに成功する人もいますが、エネルギーは続かなくなり、壁にぶつかることになります。

 「巨人の肩を借りる」といいますが、私たちは、先人たちの知恵(前提)にうまく乗っかかり、答えにたどり着くものです。

 さらに言えば、他者に代わりに確認してもらうなど協力してもらえばもっと楽に生きることができます。

 

 

 私たち人間は本来、「自分」というものは原理的に疑うことができない。その必要もないし、意味もない。

 デカルトも言うように、思っている「私」を疑っては疑うことさえできなくなってしまうのですから。

 

 「自信がない」という現象それ自体が論理的にはありえず、実はローカルルールの産物なのです。

 

 ローカルルールによって本来は疑うことができない自分を疑うという作業を強いられている。

  「自分」というものを疑っているときは、実はその足場は「ローカルルール」に置かれているということなのです。

 

                 足場       疑う
 (通常)            自分※ → 実際的な行動・思考
              
               ※自分というのは原理的に疑えない

  
          足場      疑う       疑う
 (トラウマ) ローカルルール → 自分  → 実際的な行動・思考

 

 

 ローカルルールがひどい場合になると、関係妄想などにとらわれて、事実も歪められてしまい、戻る足場がどこにあるのかさえもわからなくさせられてしまうのです。
  

                              
 (ひどい場合)  ローカルルールが自分のように振る舞う(いわゆるローカルルール人格にスイッチ) → 世界や他者はひどいと捉え、疑い否定する → ローカルルール世界を肯定する
       

 

(参考)→「ローカルルール人格が感情や記憶を歪める理由」

 

 

 

 生きていると、フィッシングメールのように「自分を疑え(あなたは変だ)」と言われることがありますが、論理的にも成立しないことを要求されているということです。
(裏のメッセージは「私のローカルルールに服従せよ」ということ。)

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」

 

 私たちは本来、無前提に、自分を肯定していてよいのです。

 (足場は常に自分において、疑いを向けるべき対象はローカルルールです。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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・お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 物事には、前提となるステップや要素というものがある。

 いきなり実現することが難しいことでも、前提が整えば、それを組み合わせれば宇宙にまで行くことができる。

 宇宙に行く技術も、物理学の研究と、工業化された製品の組み合わせ。

 極端に言えば、子どもでも、要件さえあれば、ロケットを飛ばすことだってできるようになる。
 

 

 目の間にあるパソコンも汎用品の組み合わせ。
 アポロ計画などの時代ではオーダーメイドで何千億円もした機能の何倍もの物が格安で手に入るし、誰でも組み立てられる。

 さらにそれで組み立てたものでプログラムを打てば、大きな資本がなくても新しいサービスを作ることもできる。

 

 でも、もし、パソコンが手に入らなければ、それも不可能になる。それ以前に、そもそも文字が読めなければ、計算ができなければ、チャンスさえつかめない。

 だから、人類は、教育などを通じて、社会全体で補助をしたりして「足場」を作ろうとしてきた。

 人間は環境の影響を強く受ける生き物で、そこからはだれも逃れられない。
 
 だから、前提(土台)を整えるために補助が必要になる。

 

 器械体操も、もし、安全対策や補助マットがなければ、上達することは難しい。

 補助輪(コマ)というものがこの世になければ、自転車に乗れる人はもっと少ないかもしれない。

 安全装置があるから、何百キロで走る車や電車、飛行機をたくさんの人が利用できる。

 スマホも、要件が積み重ねられて、誰でも使えるインターフェースがそなえられ、全世界の人が利用できるようになっている。

 

 

 「要件」が整うと人間は大きなことができるようになる。 
 反対に、整わないと、とてつもないハンデキャップを背負うようにもなります。
 

 人間も同様に、様々な要件を整えながら発達していきます。基礎(要件)が整っていると、その後の発達もスムーズで、トラブルにも強い。

 要件に問題があると、のちの時期にはそれを取り戻すことにはとても苦労します。

 それを「発達課題」と呼び、先達たちが、様々な仮説を打ち出してきました。

 中でも最も大切なのは、生後半年~1歳半の時期です。
 この時期に、「愛着」と呼ばれるものが形成されていきます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと」

 

 愛着とは、安心安全を身体のレベルから感じられることであり、社会的な発達の要件の「パッケージ集」とでもいうべきものです。パソコンでいえばプリインストールされたOS(オペレーションシステム)にあたります。

 

 反対に、この時期に強いストレスを受けたり、身体的な愛護が十分ではないと、愛着が形成されず、その後の発達にも支障をきたすことがわかっています。

 パソコンで例えていえば、トラウマを負っているというのは、一からパソコンを組み立てて、動くために必要なソフトを自分で一からインストールしていかないといけない状態にあるということ。
 さらに、インストールも時間がかかったり、途中で不安定になったりして何度もやり直しをしないといけないということ。
 その間、パフォーマンスが上がらず低い評価に耐えないといけない、ということ。こうしたことが支障ということです。

 

 

 

 もちろん、1歳半~2歳以降の環境も大切です。

 家庭の中が安定しているか? 親や親族が機能しているか?といったことはとても大切。

 夫婦喧嘩などはもってのほか。現在では、「面前虐待」といい虐待と認定されてしまいます。一発レッドカードでトラウマになってしまいます。
 (参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード」 

 

 あと、よくあるのは、ストレスにはけ口に子どもに親族の愚痴を言ったり、など母親(父親)が悪口が止まらない、というケース。
 小さい頃は本人もあまり何とも思っていないように感じていますが、成長するにつれて蓄積されたダメージは計り知れないものになります。
 自信がなく、人間関係が億劫に感じられるようになります。

 

 ストレスを受けると身体の恒常性が低下しますから、外部からのストレスにも一層弱くなります。

 

 

 環境が不安定でも、人間関係がシンプルな小学校低学年まではまだよいのです。何とか乗り切れます。
 

 問題なのは、小学校高学年以降。多感で複雑な人間関係の測り方、乗り越え方を体得していくには、「安心安全」という土台が不可欠。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」」

 

  特に、
   ・人間とは解離しておかしくなる生き物であることや、ローカルルールの存在
   ・常識や社会への信頼感
   ・関係の作り方、コミュニケーションの作法
   ・公的環境の維持の仕方(礼儀やマナーといったプロトコル)
   ・常識とローカルルールの区別

  といったことを身に着けていきます。

 

 

 例えば、同級生や先輩が理不尽なことをしてきた。
 相手が急に不機嫌になった。その原因を自分にせいだとしてきた、といったようなことでも、安心安全という土台があれば、
 
 「あれ?自分のせいではないのにおかしい」
 「そうか!人間というのは、体調やストレスで、急におかしくなる生き物なのだ。」
 「相手が言っていることは理不尽だ(ローカルルールだ)」

 と直感して、理不尽さの背景を冷静にとらえて、ストレスをキャンセルすることができます。

 でも、安心安全がなければ、それができない。

 

 相手の理不尽さの原因は自分にあると勘違いして、傷ついて落ち込んでしまったりする。それどころか、相手の理不尽さに応えて、合わせてしまうようなことが起きる。

 極端な場合は、「理不尽なことは実は愛情なのだ」といった歪んだ理解をしてしまい、理不尽な行為や人に従ったり、執着したりしてしまうことにもなる。

 常識とローカルルールの区分けがうまくできなくなってしまう。

 

 常識とローカルルールとの区別化できるかどうかで、社会や人間が「信頼できる存在」と感じるか、「恐ろしいモンスター」と感じるか、大きくわかれる。
 
 

 
 本来の親や大人というのは、個人のパーソナリティを超えて、社会を流れる歴史や常識を代表する存在であり、それを公的人格として体現して、子どもを保護して伝達していくのが「機能」であると考えられる。

 ネガティブな私的情動が入ると機能不全になってしまう。
 

 

 特に、人間関係というのは、じゃれ合うようなコミュニケーションを通して、学び取る部分がある。

 そして、敬意やマナーや礼儀といった公的環境を整えるためのプロトコル(手順)を身に着けていく。
 私的環境に置かれると人間はすぐに発作を起こし、解離しておかしくなる。
 礼儀やマナーというのは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置である。

 

 礼儀というのは、固定されたものではなくて、学習され、更新されていく動的なもの。

 意味を理解して、時と場合に合わせてうまく使っていくもの。

 

 

 安定型の人であれば、こうしたことを、「安心安全」を基盤としながら、地域、学校といった場所で、身に着けていく。

 
 しかし、安心安全を奪われたり、養育環境が機能不全を起こしていると、それができなくなる。特に、相手と距離を詰めて、じゃれ合うようにコミュニケーションを学ぶことは安心安全なしにはできない。
 
 

 

 もちろん、本人のせいではありません。

 本人も知らず知らずに負った気質、体質が問題であるケースや(内的環境)、
 養育環境が問題であるために起きる(外的環境)。

 

 

 本人はむしろ、人よりも苦労をし、もがき、努力をしている。

 安心安全の足場がないために、本来であれば身に着けるはずのものが身につかない。学ぶ機会が奪われてきた。

 

 足場がなく、本来のものが身に着かない結果、他人の理不尽な言動に巻き込まれてしまい、2次的なトラウマを負ってしまったりする。

 礼儀やマナーといったプロトコルがわからず、公的環境を維持できず、
 その結果、相手が解離して、ローカルルールで呪縛してきたり、いじめられたりもする。(解離したとしても、相手が100%悪いのですが)
 

 やがて、自分にとっての社会や人間関係が「ローカルルール」そのものとなってしまう。困惑し何が問題かもわからず、自分はダメな人間だ、受け入れられない、と自分を責めてしまう。
 そして、人が恐ろしく、こわくなる。化け物のように感じるようになります。

 

 さながら、何のサポートもないまま異国の地に一人放り込まれたような状態。
 そして、誤解から差別され、土台がないから抜け出すこともできない、といった状況。さらに、社会への恐怖、対人恐怖を負ってしまい、その3次被害をケアするのにも四苦八苦で、しっちゃかめっちゃかになる。

 

 社会や人間関係は、ストレスをうまくガードしてキャンセルできれば、心地よい空間になりますが、ガードできなければ、途端にひどい所になってします。

 

 同じ国に旅行をしても、犯罪に遭えば「ひどい国」になるし、

 用心の結果、遭わずに過ごせれば「楽しかった」ともなる。

 日本のように比較的安全な国でも、ドアに鍵をかけることを知らなければ、泥棒にも入られて嫌な思いをします。防犯の対策ができていれば、「安全」と感じて安らかに過ごすことができる。

 

 環境を整備する機能が、関係構築するための手順であったり、礼儀やマナーといったプロトコルだったりする。
 基本的な、安心安全(愛着)が欠如すると、身に着ける機会を失ってとても苦労することになる。

 かつての時代であれば、「しごと」が媒介して、関係作りや公的環境を維持するためのプロトコルを身に着ける機会は多かった。
 でも消費社会である現代は、その媒介が少なく、新自由主義的な風潮もあって、個人のせいにされやすい。
 核家族化が進んだ結果、地域の様々な大人が親の機能を担ったりして、機能不全を補う共同体の支えも弱いこともあり、足場を失い、生きづらさを感じやすい。それがニートやひきこもり、といったことが目立つ原因であると考えられる。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」

 

 
 加えて、人間関係、とくに親との関係がさらにこじれたり、いじめに遭遇したりしていて、社会や人への恐怖が「恨み」や「不信感」となる「こじれ」を起こしてしまうと、問題はさらに難しくなります。

 身近な人のなんでもない言動まで、自分への非難として受け取ってしまう、
 「関係念慮」にさいなまれてしまう人も少なくありません。

 「関係念慮」とは、ちょっとしたことでも自分への非難や攻撃のサインとして捉えてしまうようなことです。
   何気ない表情で自分はつまらないと思われている、と感じてしまう。
   相手が少し笑顔を見せただけでバカにされた、と捉えてしまう。
   少し声が大きくなっただけで罵倒された、と受け取ってしまう。
   少し体が触れただけで暴力を振るわれた、と記憶してしまう。
  などなど、

 

 人間は、「関係」の中で守られ、回復していくのですが、「関係」が作れなくなって、さらに孤立させられてしまう。自尊心は傷つき、さらに自分を責めて追い込んでいくことになる。

 
 なぜ自分がそのようなことになっているのか訳が分からなくなるため、目に見える、「容姿」「学歴」「職歴」といったわかりやすい要因に問題の原因を帰属して考えるようにもなります。
 でも、それらは本当の原因ではないので、真の解決にはならない。
 

 さらに、サポートを受けるはずの、医師やカウンセラーといった人に対しても些細なことで不信感を持ったり、トラブルになるなどして、
 回復を支える足場さえなくなってしまいます。
 

 自分という成長の糸がもつれにもつれてしまっているような状態です。

 これも、本人に責任はなく、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶ場、足場を奪われてきたために起きていることです。

 
 安心安全という足場さえあれば、なんでもないことが、ないために身につかない。身に着ける機会が奪われ、
 それどころか、理不尽さに巻き込まれて「ローカルルール」を社会そのもののと思わされてしまうことも起きてしまうのです。

 
 「足場」がないつらさは計り知れず、
 「足場さえあれば、自分はもっと大丈夫な状態になれるはずなのに」というまっとうな直感と、でも、現実には「足場」がないために惨めな状態が続くギャップを誰も理解してもらえない。

 自分で「足場」を作ろうにも作れず、それどころか人間や世の中への不安や恐怖が襲ってきて動けなくなる。
 そんな自分の状態をうまく言葉にすることもできず、理解されず孤独を生きづらさにあえぐ、そんな状態にもがき苦しむ方は少なくありません。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

・ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

・お悩みの原因や解決方法について