「文化づくり」という視点

 昔、私が夕方、マンションの階段を上っていたら、人がいないはずのスペースに人がいたことがありました。ドキッとして鼓動が早くなります。なんだ??と。

 どう考えても、人がいるはずもないところに人がいて何やらスマホを見ている。

 たぶん、泥棒か何かなんだ、と思い、どうしようか?と逡巡します。

 そこで、勇気を振り絞り、何やってんだ!と声をかけると、その人物は、すみません、とかなにかを言い、一目散に逃げていきました。

 

 

 そのあと、この事態をどうしようか?と考えていました。
警察に通報するべきか、別に何も起こらなかったからそのままでいいか?と。

 その時点で私は人生で110番通報をした経験は一度もありません。

 その後の手間などを想像したり、あと、昔に自転車を取られたときの面倒くさそうな交番のおまわりさんの対応を思い出すと、どうせ通報したって、、という気持ちもわいてきます。

 

 しかし、この時に浮かんできたのは「文化づくり」という観点です。

 ここで、私が通報しなければ、よほどでなければ通報しないという文化が自分にも、自分の家族にも生まれてしまいます。

 避難訓練というものがあるように、人間というのは行動したことがないこと、練習したことがないものはできないようにできています。

 初見では臨機応変に対応できる、というのは幻想で、人間は過去に練習したことしか基本はできません。

 これは知人から聞いたことですが、自分や家族が具合が悪くなった時も「救急車を呼ぶ」ということが案外できなかった、というのです。それはその方が救急車を呼ぶということを過去にしたことがなかったからです。医療関係者からは「そういう時は呼んだほうがいいよ」と言われたそうです。

 

 

 そんなこんなを考えた時に、私は、何もなかったとしても、ちゃんと対応されなかったとしても、一度通報したほうがいい、とおもい警察に電話しました。

 すると、3人の警察官が来て、いろいろと調べてくれました。いわゆる調書みたいなことはなかったのですが、管理人にも話をしてくれて、後日、マンションには監視カメラが付くようになりました。

 結果的にはセキュリティは上がりました。

 これは一つの事例です。

 このこと以外でも、私は「文化づくり」というのは日頃からも意識しています。
 

 

 

 会社などの組織も、文化というものがありますが、その文化とは何か?といえば、結局は「過去にその会社とそのメンバーがとった行動の集積」ということです。

 過去にどんなことをしたかが文化になって、先例になって、参照されて、有形無形の文化となって現在に影響している。例えば、過去に問題があって、謝罪や返品といった対応をすれば、そういう誠実な文化にもなりますし、ごまかせばそういう文化にもなります。

 

 家庭もそうです。
 特に問題が生じた時、失敗が生じた時にどう対応したのか?がその家の文化になります。

 適切な行動ができないことはもちろんですが、家庭でよくあることとしては、学歴や財産、世間体といった見た目から逆算した表面的な行動ばかりしているということ。本来的な行動がなければ、曲がった文化、機能不全な文化になります。

 

 あるいは、特に親などの大人たちが自身の不安や引き継がれてきたトラウマ、不全感といったものを隠したまま間違った行動や対応をしているというようなこと。そうした対応からは、不安や不全化からの行動が「文化」となります。

 こうした曲がった文化が蓄積された家が「機能不全家族」というものです。

 

 機能不全な家庭だと、多くの場合、その家系で家長となるべき人(たち)が機能せずに、おかしな行動を繰り返していたりするものです。もちろん、それは、生育環境からの愛着不安、トラウマによって生じます(近年は、祖父母の世代の戦争のトラウマが及ぼす影響が注目されていたりもします。)

 それらがおかしなものとして認識されていればいいですが、なにやら理屈でごまかされたり、親族などによって追認されていたり、することで、ローカルルール化してしまいます。

 社会的存在、文化的な存在である私たち人間にとって、その影響はすさまじいものがあります。

 トラウマというのは私たちが背負ったそうした機能不全な文化のことである、といっても過言ではありません。

 

 

 カウンセリングなどではよく「認知(信念)」を変えるといったようなことが言われますが、そんなことでは生きづらさの解消には追いつきません。
 私の経験では、身体へのアプローチについても影響は限定的です。なぜなら人間はロゴス、ポリスの生き物だからです。

 

 そして、必要なのは“個人の”「認知」ではなく、「文化」を変える、という視点です。

 認知を変えるとしても、身体や行動を変えるとしても、それは「文化を変える」という視点がなければ効果はなくなってしまいます。
(身体の動かし方でさえ、かつての日本の文化と西洋の文化は違うと言われます)

 

 日々自分の行動で、自分の人生の「文化」を作っているという視点が重要です。

 パートナー同士であれば家庭の中、さらに、お子さんをお持ちであれば、親の役割は「文化」づくりである、と考えるとわかりやすいです。
 (いわゆる、”背中”で見せる、ということです)

 いかに、社会を“代表”して、理屈がちゃんと通った行動をとれているか、機能した行動を適時、適時に行っていけるか、がとても問われます。
 (こうしたことを、東洋哲学では「中庸」と呼ばれます)
  

 文化づくりにおいては、こうするべき、といった意識からであったり、不安からアクションしてもそれは全く機能しません。なぜならそれは多くはトラウマ由来のものだからです。
 メンバーから、無意識に「それ、あなたの不安ですよね」と感じ取られて、「従う道理なんてない」とされてしまうのです。

 

 そして、もし、無理やり従わせることができても、結局は、不安が文化になってしまいます。

 会社でも、経営者や上司がただ不安から部下を詰めたり、ワーワー理屈を言っている、という景色はよくあります。そうした会社の文化はどこやら強迫的になっていきます。

 

 不安もよくありませんが、立派であろうとすることや、完璧であろうとしたり、過度に正しくあろうとすることも、文化づくりとは対極にあるものです。それらも結局不安でしかありません。
 
 文化 とは、もっと実質的、機能的、愛着的、そして社会的なものだからです。

 文化づくりの8割は、いわゆる ソーシャルワーク といわれるものです。

 

 

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『私はHSPだから』では解決しない理由―“繊細さ”の真の正体を専門家の視点から

「自分はHSP(繊細さん)かもしれない」 そう気づいて、心が軽くなった経験はありませんか? でも、その一方で「HSPの対処法を試しても、根本的な生きづらさが変わらない」と、密かに悩んでいる方も少なくありません。

実は、臨床現場では、その繊細さの背景に「HSP」だけでは説明できない、別の要因が隠れているケースが多く見られます。それは、私たちが「日常」として見過ごしてきたストレスや、トラウマです。

本記事では、公認心理師の視点から、HSPブームの影に隠れた“生きづらさの本当の正体”について、最新の知見をもとに解説いたします。


1.HSPという言葉が広まった背景と、その影で起きていること

ここ数年、「HSP(Highly Sensitive Person)」という言葉は急速に社会に浸透しました。書店では「繊細な人」をテーマにした書籍が目立ち、メディアやSNSでも頻繁に取り上げられています。自分の生きづらさを説明する言葉として、HSPを用いる人も珍しくなくなりました。

カウンセリングの現場でも、「自分はHSPだと思う」「HSS型HSPに当てはまる気がする」といった自己理解の仕方をされる方が増えています。こうした言葉が、自分を責めずに済む説明として機能している側面は確かにあります。

しかしその一方で、専門家の間では懸念も広がっています(発達心理学者の飯村周平氏など 参考:『HSPブームの功罪を問う』岩波ブックレットなど)。HSPという概念が、学術的な定義から離れたまま拡散し、「生きづらさ全般を説明する概念」のように扱われている点です。本来は限定的な特性概念であるにもかかわらず、過剰な意味づけがなされている状況が見られます。

HSPはもともと、感覚刺激への反応の仕方に個人差があることを示す「感覚処理感受性」という特性を指します。これは診断名でもなければ、病理概念でもありません。生きづらさや不調の原因を直接説明するものではなく、才能や優位性を意味する概念でもありません。

また、感覚処理感受性は連続的な分布を示す特性であり、HSPと非HSPを明確に分けられるものではありません。「〇〇型HSP」といった分類も、学術的な裏づけはありません。こうした点が十分に共有されないまま概念が広がった結果、資格ビジネスや商業利用に結びついたり、極端な文脈で用いられたりするケースも見受けられます。

問題なのは、こうした説明が当事者の理解を助けるどころか、本来向き合うべき原因から目を逸らしてしまう可能性があることです。臨床現場では、クライアントの語りを尊重しつつも、HSPという言葉だけでは説明が足りないと感じる場面が少なくありません。


2.「敏感さ」はどこから生まれるのか――多因子的な視点の必要性

繊細さや過敏さ、生きづらさといった問題は、単一の要因から生じるものではありません。HSPとして語られる特徴の多くは、実際にはさまざまな背景を持っています。

たとえば、発達障害の特性として感覚過敏や感覚鈍麻が見られることはよく知られています。生育環境の影響によって、他者との距離感がうまく取れず、対人関係に過度な緊張を抱える場合もあります。うつ病や不安障害、パニック障害、強迫性障害などでも、過敏さや鈍さが前面に出ることがあります。

さらに、長期間にわたるストレスによって心身が疲弊した結果として、感覚の調整がうまくいかなくなるケースもあります。職場や家庭など、慢性的に緊張を強いられる環境は、それ自体が大きな負荷となります。文化的背景や社会的プレッシャー、経済状況といった要因も、生きづらさに影響します。

心理職や精神科医が行う評価は、こうした複数の要因を丁寧に重ね合わせる作業です。概念はラベル付けのためにあるのではなく、その人の回復や理解に役立つ仮説として用いられるべきものです。

HSPという言葉が問題になるのは、それが唯一の説明として使われてしまう場合です。過去にも、発達障害やパーソナリティ障害といった概念が過剰に適用され、混乱を招いた歴史があります。同じことが繰り返されないよう、慎重な扱いが求められます。


3.生きづらさの背景として注目されてきた「発達期のストレス」

近年、研究の蓄積によって、生きづらさの背景として改めて注目されているのが、子ども時代に受けたストレスの影響です。

一見すると些細に思える出来事でも、発達過程にある子どもにとっては大きな負荷となることがあります。たとえば、家庭内で繰り返される夫婦喧嘩は、直接的な暴力がなくても、子どもの脳や情緒の発達に深刻な影響を及ぼすことが示されています。現在では「面前DV」として、重要な問題と位置づけられています。

発達期における過度なストレスは、「発達性トラウマ」や「逆境的小児期体験(ACE)」として研究されてきました。大規模調査では、小児期に逆境体験を持つ人が、成人後に精神疾患や生活習慣病を発症するリスクが大幅に高まることが明らかになっています。

愛着研究の分野でも、親との関係性が、その後の対人関係や自己評価、健康状態に長期的な影響を及ぼすことが示されています。こうした問題は「愛着障害」という言葉で広く知られるようになりました。

また、発達期のトラウマによって生じる症状は、発達障害と非常によく似ることがあります。そのため、環境由来の影響が見逃され、先天的な問題として扱われてしまうケースも少なくありません。


4.トラウマは「特別な出来事」だけの問題ではない

トラウマという言葉は、災害や事故、犯罪被害といった極端な出来事と結びつけて理解されがちです。しかし実際には、トラウマはもっと日常的な文脈で生じます。

強烈な出来事でなくても、逃げ場のないストレスが長期にわたって続くことで、心身は確実に影響を受けます。人間は、些細でも慢性的なストレスに対して非常に脆弱です。

この意味で、トラウマは「日常のストレスによって生じるストレス障害」と捉えることができます。パワハラやモラハラ、いじめ、家庭内の緊張、親の養育機能の問題なども、深刻な影響を及ぼします。本人がその影響を自覚していない場合も多くあります。

その結果として、過緊張、過剰適応、対人関係の難しさ、集中力の低下、不安や抑うつ感といった問題が現れます。感覚過敏や鈍麻といった「繊細さ」も、その延長線上で理解することができます。

こうした視点から、精神医療や臨床心理の分野では、まずトラウマの存在を仮定して理解を進める姿勢が重視されつつあります。HSPという言葉で説明されてきた生きづらさも、より広い文脈の中で捉え直す必要があるのです。

 

 

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自責や反省はフィードバックではない

 前回、フィードバックについて触れました。

参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない」

 そして、ポイントは、フィードバックループが作動する状態に身を置くことができるかどうか?です。 そして、フィードバックループを妨げるものは何か?を見定め、それを除くことでした。そして、本来、変化しない人はいないということも。

 

 このフィードバックという観点を持つ際に大切なことがあります。
それは、自責や反省はフィードバックではない、ということです。

 フィードバックというと、ついつい反省すること、自分を責めること、とおもってしまいますが、実はそれはフィードバックではなく、むしろ反対に、フィードバックがかからなくなる行為である、といえます。

 どういうことか?

 

 自責や反省とは、多くの場合、他者のローカルルールを飲み込まされて、その基準から自分を罰する、責める、ということでしかありません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 他者が私たちにローカルルールを飲み込ませることとは、他者が自分がフィードバックがかからない固定されたポジションに居たいために、自分の責任を他人に負わせる行為です。多くの場合は家族や、友人、パートナー(あと、学校の教師や職場の上司・同僚などから)からもたらされます。

 「お前はおかしい」
 「お前はダメな子どもだ」
 「お前は足を引っ張っている、迷惑だ」
 
 と、これらはすべて嘘です。

 こうした言説を受けて、社会的な存在である私たちは、自信の誠実さ、関係を希求する気持ちを悪用されて拘束されてしまう。
 これを「ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用)」といいます。

 これらローカルルールのニセの規範を飲み込まされた結果、その規範から自分を罰し続けることになるのです。

 前回の記事でも触れましたように、これはフィードバックが作動しない機能不全な状態、狭義でいえば共依存などが代表的ですし、広義でいえば、実は自責や反省もそれを負わせる人との間で距離の離れた依存関係にあると言えるのです。
 

 

 みにくいアヒルの子が、反省して、良いアヒルになろうとするような行為、これは全くフィードバックになっていません。
 (みにくいアヒルの子をいじめる“親”や“兄弟たち”も本来のフィードバックがかかりません。)

(参考)→「「みにくいアヒルの子」という状態」

 本来は、

 あれ、何やら変だな?

 自分はアヒルの世界ではうまくいかないんだな?

 なにかちがうぞ?

 この際の「直観」こそ大事で、それはフィードバックのアンテナの機能をします。

 そうして、違和感を持ちながら過ごす中で、ある日、「機会」が訪れます。みにくいアヒルの子であれば、白鳥に出会う機会が。

 そうして、ああ自分は白鳥だったんだ、と気づくわけです。

 親からも自分の気質を認められず、
 学校でいじめられていて、

 でも、直観のきらめきは「自分が正しい」と示唆してくれている。

 
 そんな中、別の集団に移った際に、全然違う文化に出会った際に、そこで自分を知る。

あるいは、慰めに読んだ文学作品や映画、漫画、ゲームの中に自分を見出す。

 スポーツや文芸が自分の本来を発揮できる場所である場合もあります。

 これらは本来の意味でのフィードバックです。

 つまり、フィードバックとは、不全感や、悪意、嫉妬などをフィルタすることが必須で、本当に意味が顕現するまでに時間が必要な場合も多く、中期的なプロセスであるということです。自然界に生じるフィードバックも中長期であるといえます。

 
 もちろん、勉強ができない、仕事がうまくいかないというときに、何が問題か?を確認し、間違い直しをする、修正をする、といったDoingレベルでの比較的短期のフィードバックもあります。

 スポーツ選手も試合に負けたら、改善をしていく。

 ただ、よい選手は、いたずらに自分を責めたりはしていない。

 知りたいのは「構造」ですから。 

 

 商品開発もそうですし、創作もそうです。
 目の前の人に意見を聞いても、意見を積み上げたらいい作品ができる、とはならないことは、私たちにもわかります。

 
 「どんな風に作品を作ればいい?」と読者に聞いても読者もわからない。

 「面白くない」「つまらない」という表面的な意見が間違っていることもよくあります。

 

 国民的漫画「ドラえもん」も実は、連載当初は全く評価されず、編集者も面白さをいまいち認めず、だから、いちど6巻で打ち切り、終了しています。

 その後ドラえもんが戻ってくる話ができて復活し、その流れで作られた話が伝説的な名話「さようなら、ドラえもん」「帰って来たドラえもんの巻」(『STAND BY ME ドラえもん』として映画にもなっています)、ということになりますが、なぜドラえもんが未来に帰り、また戻ってきたのは、実は当初の「不人気」と再評価のためだったのです。

 当初の“不人気”渦中の作者の藤子不二雄は「もっと評価されてもいいのになあ」と粘っていたそうです。

 その時の、編集者の反応や態度などは正しいフィードバックか?といえばそうではありません。
プロの編集者だから作品を理解している、できるというわけではまったくありません。

作者の直感こそが正しくフィードバックをキャッチしていた。

 
 正しくフィードバックが機能するためには、愛着の土台が必要です。

自分の存在は大丈夫、という安心感があってこそ機能します。

 さらに、不幸にしてトラウマを負い、愛着が不安定であっても、
 魂のレベルの直感は実は根底で必ず動いています。

 その直感はいろいろなセンサーとして働いています。

 そうした愛着の土台や、直観のセンサーで濁りのある情報をフィルタし、時間がかかる場合は結果が出るまでの時間を稼ぎながら、本来のフィードバックを得る。

 こうして私たちは気質を活かしながら、自らを社会化し、状況の変化に対応、自己を実現していきます。

 

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“あいまいな”マルトリートメント(虐待)②

 今回は、前回ご紹介した『精神の生態学へ』(岩波文庫)に紹介されている母子の話についての続き、です。

参考)→「“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①」

 ダブルバインドによって精神障害(統合失調症)を発症し、で入院していた息子のところに、問題の母親が見舞いに来ます。息子は入院によって体調はかなり回復をしていました。

 

 しかし、母が来たことを喜んで息子が母の肩に抱き着くと、母は身をこわばらせます。

 それで、息子がとっさに手を引っ込めると

 母は「もう、私を愛していないの?」と言います。

 顔を赤らめる息子に対しては母は、「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」といいます。

 そうして、母が帰った後、息子は暴れ出し、ショック療法の部屋に連れていかれました。。。

 

 
 もし、息子が「母は僕が肩に腕を回すと落ち着かないんだ。僕の愛情表現を受け入れられないんだ」とでも表現できれば、暴れ出すような破滅的な事態は起きず、状況は少しは改善したかもしれません。

 しかし、息子は、強度の束縛(ダブルバインド状況)の中で、母親のコミュニケーションの真実を言語化することができない状況に育ってしまっているのです。
 

  
 一方で母親は息子の状況にもっともらしい論評を加え、自分の解釈を息子が受け入れることを強要しています。

 さらに、息子は医師からも「統合失調症」の烙印を押され、「暴れた」という事実もあるために、その診断は“医学的にも”合理的とされることになっています。

 自分がもしこの息子だとしたらと思うと、本当に恐ろしい状況です。

 前回も書きましたが、統合失調症として現れるか? 複雑性PTSD(発達性トラウマ)として現れるかは、単なる体質の差です。
 パニック障害、解離性同一性障害、うつ病、依存症としてもあられることがあり、気質の違いによります。ベイトソンは、統合失調症の原因としてこれを書いていますが、複雑性PTSD(発達性トラウマ)でもそのまま当てはまります。
 

 

 恐ろしいのは、では、この母の言動は、社会的に虐待と認定されるようなものなのか?といえばそうではありません。まったくもって“あいまいな”ものです。  

 しかし、この“あいまいな”虐待は、社会的認定されている虐待以上の恐るべきダメージをもたらしています。

 

 

 では、ここで取り上げた見舞いの際の母のコミュニケーションをベイトソンが解説していますから、その詳細も紹介させていただきます。

 

●母親は、腕を引っ込めた息子の反応を「もう、私を愛していないの?」などとあげつらうことで、自分の拒絶を隠ぺいしています。
 さらに、息子も母の非難を受け入れて自分の感覚、状況理解を否定しています。 (これが、母が帰った後で暴れたことにつながります。)
 

●「もう愛していないの?」という言葉からは、以下の含みがくみ取れます。

 a)「わたしは愛するに値する」という前提。

 さらに、
 b)「お前は私を愛するべきだ。愛せないお前が悪い。それは間違っている」という非難の含み。

 

 c)「もう」の一言が、「以前はわたしを愛していたのに、今は愛していない」という含みを添える。
  それによって、息子が愛を表現できるか否か、ではなく、愛情を抱くことができるか否かに焦点が移ります。
  しかし、息子は過去に母を憎んだこともあるのだから、この葛藤において母の優位は揺るがなくなります。
 息子は過去も十分に母を愛せていなかったことに罪悪感を感じます。

 

 d)「もう愛していないの?」と言うことで、つまり息子が母の肩を抱いたことについて「お前が今表現したことは、愛情ではなかった」という一方的なラベルを貼っています。
  そのラベルを息子が認めるとき、これまで社会的に学んできた愛情表現の方法(肩を抱く、など)は愛情表現ではないと否定されます。
  すると息子は、過去に自分が行った愛情表現が表現として不適切だったのだ、相手がそれを受け入れたと思えたことまでが疑わしい、と不安を感じるようになります。
  ここで彼が経験するのは「支えの喪失」です。
  過去の経験が自分の支えとしての機能を失ってしまう、疑わしいものになるということです。

 

●「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」

 このメッセージには以下の意味を含んでいます。
 a)「普通の人は自分の気持ちを表現するのにお前はそうしない、できていない。だからお前は他のきちんとした正常な人間とも違う」

 
 b)「自分の気持ちを恐れることはない」ともっともなことを言い、「お前の感情自体は問題ない。問題はお前がその感情を容認できていないことだ」としていますが、しかし、自分が母に触れた時に母が示したこわばりが自分に現れた感情を母が容認しないと示している以上、彼は過去の葛藤に追いやられることになります。 
 母が勧めるように、自分の感情に恐れを感じないでいるならば、母への愛の感情も素直に表現して当然です。

 しかし、そうしてしまえば、恐れているのは母のほうだを気づかずにはいられない。しかし、気づいてはならない。
 息子はこれまで母との関係や母の幻想を壊してしまわないように、自分が感じた感情(つまり、母は私を拒絶している)を認めないようにして来たわけです。母は自分の欺瞞のために息子を協力させてきたのに、ここではそれがおかしいと非難をしているわけです。言葉では「自分の気持ちを恐れることはない」とキレイ事を言っていますが、構造としては、私の幻想と私との関係を壊すなとしているわけです。

 

 この見舞いの場面では母に愛情を示さなければ母を失う、でも、示した愛情はおかしいとされる、自分の気持ちに率直になることは、母の幻想や関係を壊すためにできない、こうした解決不能のジレンマに息子はおちいっているわけです。

 

 ベイトソンの解説は秀逸だと思います。

 こうした構造の状況は、トラウマ、複雑性PTSDの相談において実際によくあります。

 

 繰り返しになりますが、母の会話がもし音声で録音されていてもおそらくすぐには「虐待!」とは認定されないでしょう。よほど、家族関係やハラスメントの専門家が見なければ正しくアセスメントはしてくれません。

 

 ましてや本人は呪縛の中にいますから、気が付きようもなく、しかし、心身に症状だけが生じていて、社会でもうまくいかず、人間関係も作れず、その“事実”から自分はおかしいと責めるようになります。

 前回でも書きましたように、
 「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・」
 「親のせいにするなんて自分がそう思いたいだけかもしれません??」
 「実際に、社会でうまくいっていない自分のほうがおかしい。だって他の兄弟は何ともありませんし。。」などとなってしまうのです。

 社会的にもあいまいだからこそ、それ自体が、第4、第5の拘束のメッセージともなりさらなる拘束となります。
 

 まさに、あいまいなマルトリートメント(虐待)の恐ろしさです。
そして、あいまいなマルトリートメント(虐待)は、決して稀ではなく、そこここに存在しています。

 

 母子に単純化していますが、これが、親族、学校、会社などでも様々な場面でも起こりえます。

 生まれつきそうではないか?天才的!?と思うくらいに、絶妙のタイミングで私たちの些細な行動を弱点として取り上げて、あげつらう(ハラスメントをする)のが得意な人というのはいたりします。
 あるいは、普通の会話、やり取りなのに、なんとも言えない嫌~な気にさせるような人などもいますし、皆様もそうした人に出会うことがあるのではないでしょうか?
 (それは、もちろん生まれつきではなく愛着不安やトラウマによる不全感を抱えたことを土台として、その人の気質が合わさって生じるものです。)

 そうしたことは表面では現時点では、虐待ともハラスメントとも、されないかもしれませんが、ベイトソンが明らかにした視点から精緻に分析すれば、それは、私たちを縛る欺瞞的なコミュニケーションなのです。

 このことに対して私たち社会全体も、もうさすがに気がつかなくてはなりません。
 不全感に基づく欺瞞的なコミュケーションについて賢くなり、明らかにしていく必要があります。

 

 

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