”自己の形成”という難しい問題

 

 前回、前々回と書きましたように、自分(自己)というものが正しく形成されているかどうか?というのは、なかなか難しい問題です。

参考)→「誤った適応

 

 発達性トラウマにより自己を喪失し、社会でうまくいかなくて困っている、というならシンプルですが、世の中で活躍している人、しっかりしている人が本当に自分を持っているか?といえば、そうではないということがあるわけです。

 

 前者については、これまでもこのブログで書かせていただいてきたように、トラウマによるストレス障害とハラスメントによって自己を喪失してきた、ということですが、後者は一体何なのでしょうか? 

 「うまくいっているなら、それでいいじゃないか?」とも感じますが、本当にそうか?

 あるいは、

 「本当にうまくいっていないならどこから問題化しているはずだから、やはり何十年もうまく行っているということは問題ないのでは?」

という疑問も湧いてきます。

 

 しかし、それ(何十年もうまく言っているように見えること)については、明確に、それはあり得る、よくある、と言えます。

 そうした奇妙な状態が可能なのは、1つには学校や会社、あるいは家族という仕組みの後押しがあるからです。

 学校や会社、家族というのは、そこに過剰適応してしまえば、自分を失ったままでも成果が上がり(むしろ自己を喪失しているがゆえにすごく良いパフォーマンスを発揮し)、何十年も継続する、ということは十分にありえます。

 しかも、私たちが感じるように、家庭生活、会社員生活はあっという間に月日が流れていきます。

 その中でゲームをクリアするかのごとく、上昇し続ける(家庭であれば家事や子育てが行われていく)ということは珍しいことではありません。
 

 

 そんな過剰な適応を可能にする仕組みが(昔からもありましたが)特に現代には顕著です。

 そして、自分に生じるはずの問題を、自分の属するシステムの一番弱い人が肩代わりしているというケースもあります。
 それは、パートナー(妻、夫)であったり、子どもであったり、部下やお客さんであったり。心身の不調、ひきこもり、不登校、パフォーマンス低下、しわ寄せ、といった形で。  
 外での活躍を、パートナーや子どもたちの犠牲で成り立たせている、ということもよくあります。

 

 また、もう一つには、ニセの成功でも自己形成をそこに依拠してしまっては、もう引き返せない、他に移る先がない、というその当事者が暗に抱える不安といった事情もあります。

 こうした悲しいエリート、優等生を描いたドラマや映画はたくさん存在します。

 そして、「現実は小説よりも奇なり」。ドラマや映画以上の信じられないような話が現実には存在しているものなのです。

 

 

 こうした事を考えたときに、
  
 実は、うまくいかない(フィードバックされる環境に身を置く)、ということはとても大切なことです。

 それが本来の自分へと戻るサインとなります。

 昔は大成するためには、「運・鈍・根」が必要、と言ったそうですが、何でも器用に、スピーディーに、というのは誠に変なものです。

 色んな環境に適応できるという(「あの人は、どこに言っても活躍できそう」)、というのは一番良くないことで、そんなありえない芸当を可能にするのは、「自分を失う」ということ以外にはありえません。
 以前の記事で取り上げたどんな課題でも100点を取れる東大生たちは、まさにそうなのかもしれません。
参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 

 同じく、
 仕事が厳しいことで有名な会社でエリートになるような人。
 次から次へと仕事が与えられてもクリアし、昇格していくような人。
 会社の文化にもどっぷりと染まれて、課題解決にフォーカスして結果を出せる人。

 これら「デキる人」は、実は自分がないのかもしれません。

 本当の自己とは、適応と同時に、自分に合わないものには不適応を示したり、タイムラグも生じるものです。
 (そんな、苦も無くなんにでも適応できるなんて変でしょう?)

 動物でも植物でも適応できる条件は限られますように、“自己”があれば、合う合わないは必ず存在するはずです。

 

 
 人間(生物)は、どうしようもなさ、情けなさ、弱さがあって、グダグダ、グズグズして、そのことをある程度受け入れてもらえた上に、教育などで人格を修養(涵養)し、社会における位置と役割を得ることでいったん完成していく、あわせて、背後にはグズグズの自分ももっていて、社会的人格との間を行ったり来たりして固着しない、という型なのでしょう。

 真に自己を持つためには、不適応、反抗が必要です。
参考)→「不良の論理

 
 トラウマの中核は自己の喪失、と『発達性トラウマ』で書かせていただきましたが、もしかしたら、トラウマによって生じる自己の喪失は、自分というものを原的に持ち合わせているからこそ、生きづらさとして生じているのかもしれません。

 生きづらさを感じられる、というのは、そこから立ち上げることができる根がある、という証、希望でもあります。

 

 

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私たちは多様性のある関係(文化)を育む訓練をしてきていない~学校文化の悪影響

 

 
 筆者が以前、休日にスポーツをしていたときに、仲間の振る舞いに嫌悪感を感じたことがありました。

「たぶん、これが学校だと、いじめられるだろうな・・」という言葉が頭の中で湧いてきました。

 別に、その人が好きにしているのだから、イライラすることもないわけで、頭ではわかっていますが、なぜか嫌な気持ちは抑えられませんでした。

 帰りにふと、なぜそんなことを思うのだろうか?と振り返っていたら、「あ、そうか、これは学校スキーム、学校のカルチャーの影響だ」と気づきました。

 私たちは、小学校、中学校、高校とクラス制の中で育ってきています。

 
 人間関係も、そうした中で学んでいきます。

 
 クラス制とは、単一のクラスの場の空気に合わせて生活をすること、といえます。

 色々な性格のメンバーが集っているにも関わらず、1つのカルチャーに染まることを余儀なくされて、1つの文化や、価値基準の中で序列がなんとなく決まってしまう。
 

 そうした多様性のないカルチャーの極点が学校カースト、そして極限がいじめという現象です。

 世の中には人を測る物差しは無限にあるにも関わらず、ごく限られたもので規定され、ニセの序列までつけられてしまう。

 

 しかも、教師も、多様性のないカルチャーで育ってきているために、知識では、個性を尊重と頭でわかっていても、それを支える経験、体験、リソースが圧倒的に不足しているために、気持ちがついてこない。
 
 そこで、自分の限られた経験からくるローカルルールで判断して、「いじめられる側にも問題がある」「もっと本人が空気を読まないと」という感覚になってしまう。

 
 
 多様性の欠如を生むのはもちろん学校だけではありません。家庭はもっとひどいもので、機能が不全に陥ると、親の不全感からくる理不尽な単一文化の牢獄となります。
 
 

 いじめの構造研究で知られる社会学者の内藤朝雄氏は、そうした状況を打破するために、学校においては、いわゆる大学のように、クラス制ではなく、科目ごとにクラスを編成し直すなど、多様性を担保するしくみを提案しています。

 そうした取組は必要でしょうし、その他にも、特に学校においては、いかにすれば多様性、多元性を担保できるか、をもとに環境が設計される必要があります。

 なぜ、こうしたことを書くかと言えば、生きづらさの原因の多くが、取り巻く環境、文化の多様性の欠如によってもたらされるからです。
 

 そして、自身の生きづらさや悩みというものは、ご自身の「頭(心)の中」にあるのではない、と知ることはとても大切なことです。
 
 悩みの原因は環境の側にあります。

 仮に認知行動療法になどで取り組むにしても、影響している文化、環境、そして経験を変えるのだ、という観点が必要です。

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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機能不全家族に育つと、自分が失われて、白く薄ぼんやりとしてしまう

 

 家族の機能不全の影響を受けるとどのようになるか、といいますと、
よくあるのが、予定や時間を守れなくなる、ということがあります。

 バイトや、病院や、カウンセリングでも、時間を守れなくなる。
予約を取っていても、なぜか抜けてしまう。忘れてしまう。

 
 周りは、「なにやっているんだ!」と怒りますし、本人がなにかよほどの病気になったのでは?とか、発達障害では?なんて疑いますが、そうではない。

 

 機能不全な環境に置かれると、大人もそうですが、特に子どもは、座標軸を失ってしまう。それが、時間という座標という場合もあれば、価値判断という座標、進路という座標という場合もあります。

 

 パソコンでも、スマホでも、ネットから切り離されれば、情報を最新のものに更新できず時計や場所、情報も狂っていきますが、まさにそんな感じです。
 
 予定などわからなくなってしまう。

 頭も回らなくなり、言語化もできなくなる。

 そうしたクライアントさんと、接してみると、どこか白く霞んで薄ぼんやりとした印象を持ちます。

 
 自分がどこか所在なく、ぼんやりとして、考えがまとまらない、すぐに言葉が出てこなくなる。出てきた言葉も自分のものではない。内省を促しても、いまいち気づきも湧いてこない。

 鉛のように、ベターっと不安が覆うというようなこともそうですが、そうした場合には、自分の内部にだけ原因を求めるのではなく、家族の機能不全を疑ってみると、解決の糸口が見えてきます。
 

 

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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親や家族が機能しているか否かの基準5~親バカになれない

 

 機能不全な親御さんを見ていて感じるのは、不安や恐れを子どもに投影して、しばしば、子どもを異常な存在としまっているということです。

 それを隠すように、外側から「うちの子は発達障害かも?」「働けていないのは同世代に比べて劣っている」といったような知識を持ってきてしまう。

 その親にとっては、それらは“客観的な事実”のように捉えられています。
しかし、実際は不全感を裏側に隠したローカルルールでしかありません。

 社会のマイノリティが差別などの環境の影響から、やる気を失ったり、所得や学歴などが低い位置に留め置かれることが指摘されていますが、同様に、機能の不全家庭の影響で子どもが自分を失い、おかしくなっている状況をとらえて「子どもの本質だ」「これが事実だ」と決めつけてしまう。
 

 私は、よくご相談者にお伝えするのは、「親は親バカであるくらいでちょうどいいものです」ということです。

 
 仮に、現時点では学業や仕事がうまくいっていなくても子どもを信じる。
 たとえ世間が子どもを非難したとしても土台では子どもを擁護するのが親の姿勢であって、「世間では発達障害というのがあって、その基準に当てはまるようだからうちの子は・・」などというのは、俗な知識を悪用して、自分の不安や不全感をごまかす卑怯な態度でしかありません。

 

 子の可能性や人間性を信じた上で、支援など必要な措置は具体的に講じていくことができる。   
 これが機能している状態です。
 
 会社で、上司や管理職に望まれる役割を想起すればわかりやすいです。
 会社の管理職も、そうして部下に接していくことになります。
 
 
 例えば、親がこの成功や活躍を喜べない、喜ばない、なんていうことも機能不全家庭ではよくあります。
 ダメ出しをする、調子に乗るんじゃないよ、なんていい、親自身も「子どもが慢心しないように年長者の知恵を伝えているだけだ」と自分を誤魔化していますが、実際は、背後に不全感を隠している、これもまたローカルルールのずるい態度です。

 親が望む方向に進んだときだけ喜ぶ、というのも同様です。 
 

 他者として子どもを尊重した上で、親バカなくらいの態度で信じ、守る。

 こうした事があったかなかったか?も自分の家庭が機能不全家庭であったか否か(つまりはトラウマを負っているか?)の判断の材料の1つとなります。
 

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準4~異文化、変化への対応の弱さ

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準3~感情の受容と交わり

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 

 

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