年末年始が嫌い、苦手

 

 寒い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか?

 年末年始は非日常で、身の回りの整理や見直し、あるいは夜更かしなど、いつもはできないことができたりする時期でもあります。

 ただ、年末年始が苦手、嫌い、という方は少なくありません。ご相談者からもよく聞きます。

 帰省して親や親族、義理の親に会うのが嫌だというケースから、過去、年末年始には嫌な思いでしかなかった、ということを仰る方もいます。

 帰省して家族に会うと親や兄弟からいろいろと嫌なことを言われる、義理の親族がモラハラチックに、いろいろなことを詮索したり、押し付けてくる、みたいなことがあったり。

 愚痴や悪口を聞かされる、といったことから、ただ一緒にいるだけでも調子が悪くなる、といったことも。

 家という場所で過去に嫌な目に遭ったことで、その場所自体がもうだめ、という場合。

 地域自体に嫌な思い出や人間関係があり、そこに帰りたくない。

 

 

 そもそも、クリスマスや年末年始の雰囲気がダメ、嫌い、ということもあります。

 年末年始は、親や親戚、祖父母、兄弟が喧嘩をする。
 あるいは、待ちは華やかでいろいろな行事があるにもかかわらず、親は旅行など何もしてくれなかった。
 
 街や、人はにぎやかで充実しているのに、自分はそうではないことへのなんとも言えない感情。

 大人になっても、子ども時代の嫌な思い出がフラッシュバックしてくる。

 あるいは、自分の元配偶者、パートナーとの嫌な思い出という場合かもしれません。
 

 こうしたことは個人の心理や性格の問題とされがちですが(本人もそう思っていたりしますが)、実はそうではありません。

 

 これらは環境のせいです。環境とは何か?といえば、それは「家族の機能不全」という問題です。

 

 家族の影響というのはとても強く、私たちの様々な面に影響します。そして、家族が機能不全に陥っていた場合、私たちには生きづらさとして感じられるようになるのです。

 しかし、「個人化(環境の問題も個人のせいにされること)」が進んだ現代社会にあっては、私たちは自分の性格の問題と間違って捉えてしまうのです。

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 そのうえで、年末年始が嫌いになることについての原因を考えると、その背景に家族の機能不全ということが見えてきます。

 実は、年末年始には、家族の機能不全が目立って現れやすいのです。

 

 年末年始という非日常の中で、日常のルーチン以外の動きをすると、例えば家族のイライラや喧嘩が噴出しやすくなります。 

 よくあるのが、家族で旅行などに出かけようとしたら、家族の準備ができておらず、出かける予定時間を小一時間過ぎてようやく出発になるが、その時点で、家族がイライラし、言い合いや喧嘩をしている。

 出先で、子どもがぐずって、それにうまく対応できずにイライラして、自己嫌悪に陥ってしまう。 
 

 本来であれば、人の多様性を理解し、尊重し、失敗やミスを許容し、大人が家庭を大きくマネージ(経営)していくものです。

 機能不全とは、1つには、多様性や成熟が欠如した文化によって生じます。
 
 
 ちょっとしたことでイライラし、単一の価値観から他者を裁くなんてことが生じてしまう。余裕のない非日常や危機は、単一の価値観の押しつけを招きます。

 
 「機能(←→機能不全)」というと、言葉の印象からテキパキ上手に動くことをイメージするかもしれませんが、実は、機能する、とは、失敗やミス、予期しないことを許容する、歓迎する、その上で大きくリカバリできる、あるいは流れに任せる、といったことと言えるかもしれません。

  
 年末年始が嫌だ、苦手だと感じる場合は
「あれ?これって、家族の機能不全、あるいはトラウマを自分が背負わされているだけ(個人化)ではないか?」と立ち止まってみることも良いかもしれません。

 

 

(参考)→「親が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

(参考)→「親が機能するか否かの基準2~ストレスへの対処

(参考)→「機能するか否かの基準3~感情の受容と交わり

 

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親や家族が機能しているか否かの基準3~感情の受容と交わり

 
 

 親は、会社で言えば、ベテランマネージャーのように、暗黙のルールについてもポイントを把握している必要があるのです。

 機能する家族では、メンバーが「弱くあること」が許されます。
 そうして、弱さが都度、適切な形で消化される。

 

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

 

 これは、“弱い”メンバーに対してそうではなく、“一見強そうに見える”メンバーに対してもそうです。

 結局、世の中でうまくいっている人、強い人でも、そうあることができるのは、多くの場合、誰かがその人の”弱さ”のケアをしているからです。

 弱さを他人にケアさせることで成功や強くあることが成り立っている。

 
 夫が、妻に弱さをケアさせていたり、
 親が子どもにケアをさせていたり、
 部活であれば、上級生が下級生にケアさせていたり。
 会社であれば、上司が部下にストレスをケアさせていたり、

 例えば、会社で、仕事ができるとされる人が結構イライラしやすく、部下がいろいろと気を回すことで、その人が仕事がうまくいくことが成り立っていたりします。
 でも、当人たちはそのような構造には気がついておらず、イライラしやすいが仕事のできる上司と、怒られるその部下たち、というような感じになっている。

 クライアントさんの問診を伺っていても、幼い頃、父親が暴れていた。あるいは、母親が気分屋ですぐにイライラして振り回されていた、というような話はよく伺います。
 

 これらは歪に成り立っている機能であって、本来的なものではありません。
 

 

 本来は、それぞれのメンバーが弱くあることが許される、そしてそれぞれに受け止める風土があります。
 愚痴を言えたり、弱音を吐けることも大切です。
 そこでは、世の中の実際(人はみんなそれぞれ弱い)も正しく理解されている。
 ローカルルールによるマウンティングもない。

 本当に意味で愚痴を言えて、受け止められて発散できれば、それらは解消されていきます。
 前を向くことができます。

 反対に、悪い形の場合は、ローカルルールによって拘束された価値観から変に強くあろうとして、あるいは、発散できなくて抑えてしまうようになり、結局、回り回ってその弱さは負担のかかる形で別の人(子どもやパートナーなど)がケアすることが必要になります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 その押し付けられてケアの負荷は明らかにはされずに、ケアラーの側の不調とか、やる気が出ないとか、罪悪感というような形になり、以前の記事でも書きましたように、一見すると強者は何も問題がなく、弱者だけが問題があるからそうなっているという見え方になり、当人も何が問題かがわからなくなってしまうのです。

 

 機能不全の状態では、そうした「感情の受容と交わり」がなされずに、ただ、一面的な対応しかされずに、本人の弱さだけが非難されたり、ということが行われます。

 言っても無駄、となり、代替となる居場所を求めるしかなくなってしまうのです。

 機能している家族では、そうしたことが生じにくいものです。
 弱くあることが許され、ネガティブな感情も受容されます。
 ムツゴロウさんが動物とじゃれ合うような感じで、「よ~しよ~し」とするような交わり感があります。

 
 家族が機能しているか、自分の育った家族が機能していたか否か?という基準として、こうした、「感情の受容と交わり」があるか(あったか)どうかがあります。

 

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 

 

 

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親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

 

 前回の記事の最後に触れましたが、病気や事故、死別といった不幸というのは最重度のストレスと言えます。

 そうしたストレスへの対処というのは、常識、文化、さらに霊性的なものへの距離感など、まさに、親や家族の「成熟さ」が問われる事象です。

 
 親だけではなく、親族や地域社会などの成熟さも問われます。

 非常に閉鎖的、封建的な地域、コミュニティだと、家族を支える力が弱く、むしろ「世間体」という檻となって覆いかかってくることもあります。

 

 親戚に中心となるような人がいれば話は早いのですが、そうした存在がが不在なことは少なくありません。一番年長の親族が、本来はドシッと構えて、親族を取りまとめないといけないのにそれができず、自分の不安から残された家族を責めるなどの幼い対応に終止してしまう、なんていうこともよくあります。

 これも機能不全と言えます。

 

 親が不慮の不幸に対して、機能せず、呆然としてしまったり、不安に陥ったり、代わりに新興宗教などに救いを求めたりする中で、親族の中で一番責任感のある聡明な若年者が、大人の代わりに家族、親族のストレスを一身に受けるような役割を背負うことがあります(アダルトチルドレン、ヤングケアラー)。 

 役割を背負った若年者、子どもがその頑張りを認められればまだしも、よくあるのは、その至らなさを責められたり、その子どもの責任だとされたり、さらに理不尽な理由で、都合よく大人の代替の役割を負わされてしまうことがあります。
 
 

 子どもも賢いように見えて、まだ子どもですから、子どもなりの視点で不幸な事象を捉えますので、ファンタジーや、因果を自分に結びつけて、無用な罪悪感を背負うことがあります。

 非日常的な大きなストレスへの対処をするのは、本来は社会の役割です。
 ここでいう社会とは、現在や過去も含めた文化の集積、(社会や文化的な意味での)宗教や、行政など様々なものを含みます。

 そうした支援がうまくいかないまま、特定のメンバー、子どもなどが背負うというとどうなるか?といえば、表層的な道徳をもとに過度な責任意識、罪悪感に還元された対応となってしまいます。

 そして、他のメンバーの分まで責任や役割を背負うような歪な様になるのです。

 元々無理に背負った役割ですから、至らない部分、できない部分が身体に負担として現れたり、うつやパニックという形で現れたりします。

 役割を背負わせている周囲から理不尽にに責められることもあります。 

 

 反対に、無気力や、白紙のような精神状態となって、不登校や多重浪人、職が定まらない、引きこもりという形で現れることもあります。

 
 こうしたことからみると、生きづらさや悩みというのは個人のものではないことがよくわかります。

 社会や共同体がなんとかしないといけないことが機能不全に陥ることで、個人のものとなってしまうのです。

 そうしたことを「個人化」といいます。

 生きづらい感覚の大本は、結局は社会や家族が負うべきストレスを自分が背負わされていることにあるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい

 

 生きづらさを抱えていると、自分の状態をわかって欲しい、理解、共感してほしいと望みます。

 

その際に、いろいろな事項がありますが、

 結局のところ、
 生きづらさを抱える人にとって、本当に言いたいことはなにか、といえば、「自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい!」ということではないか、と思います。

このことを言いたいし、わかってほしいけども、前回の記事でも書きましたような神話、虚構がそれを封じてしまう。

(参考)→「神話と虚構

 

 

「おかしいって思いたいけど、周りの人たちは自分よりも安定していて、社会でも活躍しているし・・」
「自分はこんな症状が出ていて、実際に働くこともままならないし・・」
「客観的に見たら、自分がおかしいし・・」

というように、

あるいは、人に自分の違和感を伝えたら、暗にあなたがおかしい、という反応が返ってくることもあります。それによっても封じられてしまいます。
 

でも、これらは虚構によって、ある条件下で、そのように見えているだけで、(他人は立派で、自分はおかしい)実際はそうではない。

例えば、家族療法などでも指摘されるように、家族の病理が一番弱いメンバーに病気として現れる、ということがあります。
 

あるメンバーがおかしいということがあることで、他の人が立派でいることができたりする。

では、病気のメンバーがおかしいか、といえば、もちろんそうではありません。

 

たとえば、アメリカ史の常識ですが、アメリカの民主主義は、黒人や先住民の差別することで白人がまとまることができ、成り立っていることは知られています。
そうしたなかで黒人は意欲も奪われ、低層にいることを強いられています。しかし、表面的には「やる気なんて、個人のせいだ。チャンスは平等なんだから自分が努力していない言い訳だ」として、マイノリティの人々はさらに追い込まれてしまうし、当人もそのように感じてしまう。

 

そうした状態で、生きづらさが抱えている人たちが言いたいことは、「自分の取り巻く世界はおかしい!」「わかってくれ!」ですが、そういう意欲も封じられるし、もともと意欲の高い人ほど、「自分のせいだ」と思いやすいので、言おうとしても、自分を監視する別の自分がいて、「そんなこというけどさ~」と言ってダメ出しが入る。

だんだん、本来「言いたいこと」が、当人もわからなくなってしまいます。そうして、「自分はここがダメなんです」「ここがおかしいんです」という話になる。

治療者や、支援者が「いや、家族がおかしいと思いますよ」といっても、「う~ん、ピンとこないんです」ということになります。

そうして、本当に言いたいこと(自分の取り巻く世界はおかしい!)が奥底に押しやられてしまい、解決が遠のいていってしまうのです。

近年話題のオープンダイアローグなどは、関係者の対話が劇的な改善をもたらす、ということですが、じつは、こうした「自分の取り巻く世界はおかしい!」という理解が進むからではないか?

あるいは、対話を通じて、取り巻く人たちが「まともになる」からではないか?修正されているのは、周囲の人たち(世界)ではないか?と感じます。

 

 

「発達性トラウマ」でも取り上げた、自殺が少ない地域では「病は市に出せ」が合言葉ですが、病気は、取り巻く世界のおかしさからやってきているから、それを世界に返す、ということではないか?

トラウマとはわかりやすく言えば、環境、他者の闇(ストレス)を抱えてしまうこと、と言えます。
個人の視点で見ればストレス障害+ハラスメントであり、社会の視点で言えば、社会、環境問題ということになります。

 

親が問題なら親が問題だと言って何が悪いのか?

環境が悪いなら環境が悪いと行って何が悪いのか?

原因を原因というのは、とっても科学的な態度ではありませんか。

逡巡している間に自分のせいにされていることになぜおかしさを感じないのか?

 

 

もしかしたら、「自分の取り巻く世界はおかしい!」と言えて、生きづらさを社会に押し返すことが、改善のためのキーファクターと言えるかもしれません。

 

 

 

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