親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処

 

 前回の記事の最後に触れましたが、病気や事故、死別といった不幸というのは最重度のストレスと言えます。

 そうしたストレスへの対処というのは、常識、文化、さらに霊性的なものへの距離感など、まさに、親や家族の「成熟さ」が問われる事象です。

 
 親だけではなく、親族や地域社会などの成熟さも問われます。

 非常に閉鎖的、封建的な地域、コミュニティだと、家族を支える力が弱く、むしろ「世間体」という檻となって覆いかかってくることもあります。

 

 親戚に中心となるような人がいれば話は早いのですが、そうした存在がが不在なことは少なくありません。一番年長の親族が、本来はドシッと構えて、親族を取りまとめないといけないのにそれができず、自分の不安から残された家族を責めるなどの幼い対応に終止してしまう、なんていうこともよくあります。

 これも機能不全と言えます。

 

 親が不慮の不幸に対して、機能せず、呆然としてしまったり、不安に陥ったり、代わりに新興宗教などに救いを求めたりする中で、親族の中で一番責任感のある聡明な若年者が、大人の代わりに家族、親族のストレスを一身に受けるような役割を背負うことがあります(アダルトチルドレン、ヤングケアラー)。 

 役割を背負った若年者、子どもがその頑張りを認められればまだしも、よくあるのは、その至らなさを責められたり、その子どもの責任だとされたり、さらに理不尽な理由で、都合よく大人の代替の役割を負わされてしまうことがあります。
 
 

 子どもも賢いように見えて、まだ子どもですから、子どもなりの視点で不幸な事象を捉えますので、ファンタジーや、因果を自分に結びつけて、無用な罪悪感を背負うことがあります。

 非日常的な大きなストレスへの対処をするのは、本来は社会の役割です。
 ここでいう社会とは、現在や過去も含めた文化の集積、(社会や文化的な意味での)宗教や、行政など様々なものを含みます。

 そうした支援がうまくいかないまま、特定のメンバー、子どもなどが背負うというとどうなるか?といえば、表層的な道徳をもとに過度な責任意識、罪悪感に還元された対応となってしまいます。

 そして、他のメンバーの分まで責任や役割を背負うような歪な様になるのです。

 元々無理に背負った役割ですから、至らない部分、できない部分が身体に負担として現れたり、うつやパニックという形で現れたりします。

 役割を背負わせている周囲から理不尽にに責められることもあります。 

 

 反対に、無気力や、白紙のような精神状態となって、不登校や多重浪人、職が定まらない、引きこもりという形で現れることもあります。

 
 こうしたことからみると、生きづらさや悩みというのは個人のものではないことがよくわかります。

 社会や共同体がなんとかしないといけないことが機能不全に陥ることで、個人のものとなってしまうのです。

 そうしたことを「個人化」といいます。

 生きづらい感覚の大本は、結局は社会や家族が負うべきストレスを自分が背負わされていることにあるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい

 

 生きづらさを抱えていると、自分の状態をわかって欲しい、理解、共感してほしいと望みます。

 

その際に、いろいろな事項がありますが、

 結局のところ、
 生きづらさを抱える人にとって、本当に言いたいことはなにか、といえば、「自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい!」ということではないか、と思います。

このことを言いたいし、わかってほしいけども、前回の記事でも書きましたような神話、虚構がそれを封じてしまう。

(参考)→「神話と虚構

 

 

「おかしいって思いたいけど、周りの人たちは自分よりも安定していて、社会でも活躍しているし・・」
「自分はこんな症状が出ていて、実際に働くこともままならないし・・」
「客観的に見たら、自分がおかしいし・・」

というように、

あるいは、人に自分の違和感を伝えたら、暗にあなたがおかしい、という反応が返ってくることもあります。それによっても封じられてしまいます。
 

でも、これらは虚構によって、ある条件下で、そのように見えているだけで、(他人は立派で、自分はおかしい)実際はそうではない。

例えば、家族療法などでも指摘されるように、家族の病理が一番弱いメンバーに病気として現れる、ということがあります。
 

あるメンバーがおかしいということがあることで、他の人が立派でいることができたりする。

では、病気のメンバーがおかしいか、といえば、もちろんそうではありません。

 

たとえば、アメリカ史の常識ですが、アメリカの民主主義は、黒人や先住民の差別することで白人がまとまることができ、成り立っていることは知られています。
そうしたなかで黒人は意欲も奪われ、低層にいることを強いられています。しかし、表面的には「やる気なんて、個人のせいだ。チャンスは平等なんだから自分が努力していない言い訳だ」として、マイノリティの人々はさらに追い込まれてしまうし、当人もそのように感じてしまう。

 

そうした状態で、生きづらさが抱えている人たちが言いたいことは、「自分の取り巻く世界はおかしい!」「わかってくれ!」ですが、そういう意欲も封じられるし、もともと意欲の高い人ほど、「自分のせいだ」と思いやすいので、言おうとしても、自分を監視する別の自分がいて、「そんなこというけどさ~」と言ってダメ出しが入る。

だんだん、本来「言いたいこと」が、当人もわからなくなってしまいます。そうして、「自分はここがダメなんです」「ここがおかしいんです」という話になる。

治療者や、支援者が「いや、家族がおかしいと思いますよ」といっても、「う~ん、ピンとこないんです」ということになります。

そうして、本当に言いたいこと(自分の取り巻く世界はおかしい!)が奥底に押しやられてしまい、解決が遠のいていってしまうのです。

近年話題のオープンダイアローグなどは、関係者の対話が劇的な改善をもたらす、ということですが、じつは、こうした「自分の取り巻く世界はおかしい!」という理解が進むからではないか?

あるいは、対話を通じて、取り巻く人たちが「まともになる」からではないか?修正されているのは、周囲の人たち(世界)ではないか?と感じます。

 

 

「発達性トラウマ」でも取り上げた、自殺が少ない地域では「病は市に出せ」が合言葉ですが、病気は、取り巻く世界のおかしさからやってきているから、それを世界に返す、ということではないか?

トラウマとはわかりやすく言えば、環境、他者の闇(ストレス)を抱えてしまうこと、と言えます。
個人の視点で見ればストレス障害+ハラスメントであり、社会の視点で言えば、社会、環境問題ということになります。

 

親が問題なら親が問題だと言って何が悪いのか?

環境が悪いなら環境が悪いと行って何が悪いのか?

原因を原因というのは、とっても科学的な態度ではありませんか。

逡巡している間に自分のせいにされていることになぜおかしさを感じないのか?

 

 

もしかしたら、「自分の取り巻く世界はおかしい!」と言えて、生きづらさを社会に押し返すことが、改善のためのキーファクターと言えるかもしれません。

 

 

 

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複数箇所での常識を揺るがされるハラスメント経験

 

 トラウマを構成する2大要素のひとつは「ハラスメント」になります(もう一つは、ストレス障害)。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 ハラスメントとは、不全感をルール、規範と偽って飲み込まされることです。

 それによって、いきいきとしたその人本来の感情や思考のプロセスが働かなくなってしまうのです。資質が発揮できなくなってしまいます。

 心理的な支配とも言い換えられます。
 

 トラウマからの回復のプロセスでは、ハラスメントの影響を解く必要があります。

 ただ、その影響が長引く場合は、必ず、ハラスメントが複数箇所で生じています。

 例えば、

 1.まず、家でハラスメント体験があった(自分は変な人間だ。でも、いやいやそうではないはず)、

 2.さらに、学校でも受けた(あ、学校でもそうなんだったら、やっぱり自分は変なんだ)

 3.そして職場でも(ああ、もう決まった、自分はダメ人間が確定した・・)

 

 というような感じです。

 あるいは、親戚が関与する場合もあります。

 「親は変なのはわかるけど、親戚にも言われるということは、自分は変なんだ」と言う感じで、親戚≒世間という捉え方から、社会からも自分はおかしいと認定されてしまう、というようにとらえてしまう。

 

 物理的にも、1点だけであれば、不安定で除去も容易です。

 2点になると取り除きにくくなります。

 さらに、3点になると“鼎立”と言う言葉があるように、強固になり、容易には取り去ることは出来ません。

 

 ハラスメントの影響が強固な場合、かならず複数箇所で生じていて、ハラスメント≒世の中、社会となっていて社会不信、自己不信となっています。

 座標軸が狂わされていて、足場が失われてしまっています。

 そして、社会が怖いところ、という風に思わされて、家に引きこもらざるを得なくなります。

 しかし、家とは、たとえ一人暮らしだとしても、そこはローカルルール(偽ルール)の世界。 そこにいても改善には繋がりません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 人間は「社会的存在」ですから、社会にこそ居場所がある。

 そして、本来は、常識こそ私たちを助けてくれます。

 しかし、ハラスメントの影響で、社会は怖いところ、おかしなところだと感じさせられていて、結果として、身内の理屈(ローカルルール)のほうが愛着があり、そちらの論理に堕ちていってしまうのです。

 前提が複雑にねじれてしまう大きな原因にもなります。

(参考)→「“足場(前提)”の複雑なねじれ」

 そうならないように、自分はおかしいというスティグマを取り去り、ローカルルールを脱して足場、反抗の起点をつくっていくことがとても重要です。

 

 

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王様は裸だ、と言えない。核心の外をループさせられてしまう。

 

 トラウマを負うと、しばしば自分の言葉が失われてしまいます。

問題の核心を言語化できなくなる。そのまま表すことができなくなります。

 眼の前のりんごと、「これはりんごです」とは言えなくなる。

 

 「ええっと、赤くて、丸いもので、人によってはそうは見えないかもしれませんけど、なにやらそのようなものがあるような気がする」

 

 

 となったり、あるいは、

 「テーブルがあるんですけど、私がそこが気になっていて、うーんと、よく人間は、そこでご飯を食べますよね?たまに、そこにいろいろなものを置いたりすると思うんですけど、例えばお菓子とか、お皿とか、あるいは、まあ、ええっと、そうですね、 別に私は気にならないんですけど、例えば、果物とかが置かれたりすることもありますよね。 でまあ、あの、私が子供の頃に、妹が・・」
 
 みたいに、さらに周辺を描写したり、

 結局言いたいこと、言うべきことは「これはりんごです」だけなのですが、これだけ回りくどくなってしまう。

 

 

 まだ、準備が整っていないと、カウンセラーが「りんごじゃないですか?」といっても、「そうなんですけど、妹が・・」といって、無意識にそらしてしまう。

 

 

 昔、京極夏彦か誰かが書いた推理小説などで、死体がそこにあってもそれが認知の具合から見えない、みたいなストーリーのものがありましたが、まさにそんな感じ。「そこにある」と第三者が言っても、どうしても目がいかない。

 

 これらは、いろいろなものに拘束されているために生じています。
 

 例えば、人を傷つけてはいけない、ぐちを言ってはいけない、 弱くてはいけない、とか、いろいろなニセモノの”前提”が入っていたりするためです。

 

 まさに、前提を支配され、相手の問題を自分のものとして、言葉の主権が奪われているために問題の核心にたどり着くことを妨げられています。

 いくら知識で、第三者が「これが核心だ」としてもあまり意味はなく、土台となる前提のねじれを解消していく必要があります。

 

 

 前提を見ないままにしているから、言葉が多くなってしまう。理屈が増えてしまう。

 ”オッカムの剃刀”という言葉がありますが、説明はシンプルなほうが良い。事実、真実というものはさっぱりしています。
 
 

 トラウマの世界観は妙に複雑に見えますが、実は、それは、真実が複雑なのではなく、ただ、前提がねじれていて、「王様は裸だ」「これはりんごだ」といえないために、ぐるぐると言葉が複雑になっているだけなのです。

 論理とは、前提があってこそ成り立ちますが、前提を操作されると、操作されたねじれた前提の上で、延々、答えの出ない連立方程式を解かされ続けるようになるのです。

 まさに、賽の河原の石積みのようです。

 

 

 複雑になってしまうと、その複雑さを理解、共感しない他者が無理解に見えます。
 しかし、それは他者が無理解なのではなく、他者は「これはりんごだ」ということが見えているだけ、ということがよくあります。

 
 他者が「りんごでしょ?」というと、なにやら細やかな情緒を汲めない、理解のない、がさつな人に見えたりもします。

 しかし、他者のほうがよほど真実に迫っていて、トラウマを負っている側が、無用に物事をこねくり回されているだけだったりするのです。

 他者の“無理解さ”身も蓋もない切り捨て方にこそ、真実があったりします。
 ぐるぐると回る”説明”やそれに伴う悲しさ、苦しさ、怒りに付き合わず、「王様は裸でしょ?」という他者の態度にこそ救いがあったりします。

 ですから、治療者は時に、回り回る言葉や感情にはあえて共感せずにスルーすることがあります。いっしょにトラウマのダンスを踊らずに、ログインする方向に進めるためです。
 
 

 こうした核心を突けずにループさせられてしまう、というのは、実は悩みにある場合に誰しもに共通します。

 

 

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