“足場(前提)”の複雑なねじれ

 

 

 トラウマとは、ストレス障害+ハラスメントの大きく2つで構成されています。
 

 その中でも、ハラスメントは厄介で、簡単に言えば、より良く生きようとする意思を悪用し、その方の土台(足場)となるものを狂わせてしまいます。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 ハラスメントは、矛盾するコミュニケーションを使って、相手を支配しようとします。

 簡単に言えば、不全感から発した言動をルール、常識でコーティングして、呑み込ませようとする。

 自分が単に自分の不全からイライラしているだけなのに、それを「お前が悪いからだ」といってねじ伏せようとする。

 人間はDoingレベルではミスをする生き物ですが、Beingレベルでは無謬、無答責の存在です。

 しかし、Doingレベルでのミスを盾にして、Beingレベルを侵害して良い、というごまかしを行って、相手を支配する根拠とします。

(参考)→「哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 そうしたことを長い時間行われると、経験、体験レベルで”足場”が歪められてしまうようになります。

 さらに、より良く生きようとする意思や、世の中にある表面的な道徳が邪魔をします。

 道徳とは、
 「相手のせいにせず、自分に原因を求めて、改善しなければならない」
 「嫌なことをされても、相手を恨んではいけない」
 「感情は抑えなければならない」
 「家族は大事にしなければならない」
 「友人は大事にしなければならない」
 といったようなことです。 
 

 そうしてくると、段々と土台がねじれてきます。

 直感(本来の自分)では、相手に対する怒りや憎しみを感じていますが、それを直視してはいけない、それは抑えるべきものだ、としており、そのこともねじれの原因となります。

 さらに、問題の根源に怒りが向かずに、眼の前の人や物に怒りが向くという現象も起きると、もう訳がわからなくなります。

 

 

 

 ねじれとは例えばこのようなものです。

 1.親からハラスメント、マルトリートメント(不適切な関わり)を受けていた。
 
 2.しかし、それは自分がいい子ではないせいだ、自分が可哀想な親の代わりに頑張らなければ、しっかりとしなければいけない。
   (親は何をしてほしいかは言わずに、子供に忖度させるような関わりしかしないため、責任は忖度した側に負わされてしまう)

 3.機能しない親への怒りを感じる。

 4.しかし、それは抑えなければならない。感情は抑えるべきものであるし、親は可愛そうな人だから。

 5.親に認めてもらいたいのに、認めてもらえない。

 6.親に認めてもらうためには、いい子でいなければいけない、そのためには自我を抑えなければならない。

 7.認めて、と言うことも自我だから抑えなければならない。しかし、親は認めてくれない。更に怒りを感じるがそれは抑えなければならない。

 8.7までのことと、世間で流布されている道徳にまつわる表面的な言葉が結びついて、区別できなくなってしまう。
   「親は大事にしなければいけない」
   「人のことを悪く言ってはいけない」
   「愚痴を言ってはいけない」
   「努力して頑張らなければならない」など

   ※親が宗教などに傾倒しているなどの影響がある場合は、家の中でもそのような言説が通っているために、”道徳”の影響はより強く作用します。

 

   
 9.7までのことは、家の秘密として外ではうまく言語化できない。言語化できないためと、秘密であるため、とで自覚が薄れていく。
   (言語化困難はトラウマの影響もある) 

 10.社会恐怖、対人恐怖も相まって、世の中とはそのようなものだ、として家の中の出来事は「大したことがない」として記憶されていく。

 11.解放の足場となるべき外の大人が機能不全。親戚や学校など。
    場合によっては、親戚も巻き込まれていて、表面的な道徳を言われて混乱する(「いい子でね」「親を大事にね」など)
 
 12.7までのことは問題としてもはや自覚できなくなる(アプリオリ=所与の前提となってしまう)。

 

 

 ※社会に出てから

 13.他者に投影されてイライラが向く。眼の前の人が悪いからだとどうしても怒りが湧く

 14.他者に問題がないとすると、自分に問題がある、自分が負けたということになって、それは受け入れられない。

 15.現実の生活や仕事、学校でミスやハラスメントが続いて、自分が駄目な証拠が積み重なってしまう。
    (自分のだめな原因が、1~7のせいだとは言えなくなってくる。)
 
 16.自分を改善するために自己啓発などに励んで、一瞬良くなるが、だんだんそこで書かれた道徳が自分を縛るようになってくる。

 ※あるいは、

 16.自分の問題を解決しようとして、心理学セミナーや本をたくさん読む。
    そこに書いてある俗な理論や言葉(クリシェ)を当てはめて、状態を説明しようとしてしまい、逆に身動きが取れなくなる。
       
   ※言葉というのは慎重に使わないといけません。
    例えば、私達の生きづらさを特定の宗教やマルクス主義などの言葉で当てはめていくと、最初は良くても段々と窮屈になって、現実をそのまま捉えられなくなりますが、それと同様です。

 17.本来足場となるべきパブリックルールに対して気後れと反感があり、そこに足場が置けず、迂回ルートを通ろうとしてしまう。

 

 
 このような状態の方は少なくありません。多くの方に当てはまります。

 ですが、見ての通り、わけがわからない状態になっています。

 そうして、世の中の道徳とごちゃごちゃになった状態に足場を置いているために、問題を覆すための”支点(足場)”を得ることもできなくなっています。

 こんなにごちゃごちゃしていれば、スピリチュアルなどに頼って、「ログアウト」したくなるのも無理はありません。
       

 解離性同一性障害(多重人格状態)にある人などは、この上にさらに、内面化した人格が喋り続けたりして、カウンセリングが困難になります。
 「1~7に目を向けましょう」と提案しても、ごまかしたり、邪魔をしたり、退行(幼児返り)したりするようになります。

 

 ねじれを起こすのは、
 前回の記事でもかきましたように、

 ・表面的な道徳の言葉が当てはめられてしまって、反論ができなくなってしまっている
 ・経験や体験として、複数箇所で「自分が悪い」を感じてしまっているために前提を疑えなくなっている。「自分は本当は大丈夫」ということを捉えきれない。
 ・「これは絶対に正しいはずだ」として所与のもとして、初めから疑う、検討から除外、している。
 ・前提を見たくない、前提を疑うことは自分が間違っているということを認めることになる、という感覚
 ・加害者との”共犯関係”(加害者のマネージャー役、お世話係)になっている。
 
 というようなことがよくあります。

 

 最後の、共犯関係というのはやっかいで難しいものです。
 
 自分が属するグループ(家族)自体がおかしい場合には、自分もその構成員として属しているために、「自分も共犯」と言う位置に置かれてしまうことがあります。

 これは、その方にも問題がある、ということではありません。
 そのように思わされてしまう、ということです。

 
 戦時中やコロナ禍などもそうですが、社会全体がどこかおかしくなってしまう場合、例えば、個別の事象について違和感を感じても、それを全面的に表明することは難しく、最低限は社会に適応しなければならなくなります。

 そのために、完全に身ぎれいであることは難しく、反対したら「変人」扱いとなり、批判され、いじめられる。
 積極的に関われば「体制に順応した」となり後で責められる。
 消極的に無視をしても、「無視は加害といっしょ」ということにもなります。

 それぞれはなかなか難しい。マスクをしているだけでも、同調圧力に協力したことにもなりえます。

 

 家族についても同様で、賢い子供ほど、自分の責任と感じて、家族の問題の解決に積極的に取り組もうとして巻き込まれ、共犯化され、「お前もおかしなことをした」と言われたり、あるいは、抵抗して「あいつは変わり者だ」とされたり、するようになります。

 長年、おかしいなモノ扱いされ、あるいは、親の代わりに責任を引き受けしていくうちに、足場がねじれていきます。
 
 
 自分が問題解決に頑張ってきて「敗れた」プロセス全体としてですから、これを自分だけできれいに制することは難しく、さらにそこに屋上屋を架すようにして、さらにねじってしまう人もいます。

 屋上屋には、俗な心理学も含まれます。

 
 多かれ少なかれ、こうしたねじれは誰にでも存在し、そこから抜け出すことができるかどうかが、解決がスムーズに進むか否かに関係してきます。

 

 

 

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 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

言葉やルールが適用される状況はかなり限定的なものである。

 

 世の中には、さまざまな道徳があります。

 例えば、「全て自分の責任だと思え」といったようなこと。
 会社の経営者は全て自分の責任だと思わなければならない、街のポストが赤いのさえ自分の責任だと思え、みたいな考え方があります
 

 そうした経営者が、武勇伝のように本を書いたりして、「自分はこれで成功してきた」「駄目な社員とできる社員の違い」みたいなことを書いたりしている。
 あるいは自己啓発の本や、ポップ心理学の本にも「全ては自分の選択」みたいなことが書いてある。

 

 よりよくありたいという意識が高い人は、そんな本を読んで「たしかにそうだ」と考えてしまう。

 

 しかし、実は真に受けるとうまくいかなくなります。
 それどころか、パフォーマンスが下がってしまう。

 一瞬うまくいくような高揚感があるのですが、だんだん上手くいかなくなって苦しくなって、追い込まれる。

 そうして、決定的な瞬間を迎えます。

 それは、自分が心がけていることと真逆の評価をされてしまうことです。

 「~~さんは、自分ごととして仕事をしていない」とか、
 「コミットできていない」とか、
 「人のせいにしている」といったようなこと。

 なんで??と気が動転するようになりますが、
 トラウマを負った人にはよくある光景です。

 

 

 あるいは、プライベートな場面などでも「家族は大切にしなければならない」「人に嫌なことをされても、許すことが大切だ」
「嫌な人でもいいところを見つけなければならない」など

 それを守れば良さそうな気がしますし、当初は良いかもしれませんが、やはり、徐々にうまくいかなくなって、追い込まれていき、しまいには、反対の評価をくだされて ガーンとなってしまう。

 

 

 なぜ、このようなことが起きてしまうのでしょうか?

 それは、言葉やルールというのは本来、適用される場面がかなり限定的で、適用されるのには条件が必要だからです。

 
 クスリに置き換えればわかりやすいのですが、クスリも、適用される症状や、飲むタイミングにはかなり条件があります。

 症状に合わなければ効果がありませんし、飲みすぎれば副作用が起きますし、タイミングを間違えば効きが悪くなります。

 どんな人にもどんな状況にも効果がある万能薬などは存在しません。

 

 

 言葉やルールも同様です。
 適応される症状や状況はかなり限られる。

 
 例えば、「全て自分の責任だと思え」というのも、あくまで、それは、そう思ったほうが効果が出る場面だからそれを用いるのであって、絶対のルールでもなんでも無い。

 「許し」などというのも、それが効果を発揮する場面でのみ使うのであって、いつもではない。

 それどころかそれぞれ副作用が出る危険性のある要注意の言葉です。

さらに、教条的に守っていることを突かれて心理的な支配の道具として悪用されることもある。
 

 

 

 先日も社員に厳しいと有名な経営者が記者会見で、目標未達になったのは部下が悪いからだ、とすごく「言い訳」をしていました。

 「あれ?言い訳せずに必ず成果を出すんじゃなかったの??」というところですが、当人は、なんの疑問も持っていません。

 場面場面で、自分に都合よく使っているだけで、パフォーマンスが上がればそれでいい、ということなのかもしれません。巻き込まれる社員の側は大変ですが。

 「あなた、以前、言っていたことと違うじゃないの?」と言われても、
 「だって、状況や場面が違うんだから違って当然でしょ?逆にあなたはなんでいつも同じなの?」という感じです。

 これは、あるいみ健康な人がもつ感覚です。

 言葉やルールがどんな場面にも遍く適用されるというのは、トラウマを負った方が持つ特徴と言えます。

 さらに、いい加減な他者を反面教師にしているために、自分はそうはならない、なりたくないとさらに真面目にルールを徹底しようとしてしまい、柔軟性を失ってしまう。

(参考)→「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 

 キリストが言葉が方便であることを言っていたといったように、言葉やルールとは、適用される状況はかなり限定的であり、本来融通無碍に使うものだということも、言語化されていない暗黙のルールかもしれません。

(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう

 

 

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日常にこそトラウマは存在する

 

 トラウマが身近な生きづらさを説明する概念として、これまで十分に適応されてこなかった理由として、「日常のストレスでは、トラウマになりえない」という専門家の先入観がありました。

 

 トラウマ概念自体が戦争やレイプといった重度のストレスを中心に概念化されていったためということや、概念化を担う医師たちは、一般には重いケースを中心に見ることが多いということも理由としてあげられます。
 (フロイトが日常のトラウマに着目して理論を展開できたのは、フロイトが日常のトラウマに触れる機会のある在野の治療者であったためだと言われています)

 

 しかし、ストレスのダメージとは、“強-弱”ではなく、その対象となる生物の脆弱性にかかわるかどうか?が重要で、実際には生物は強度のストレスには意外な抵抗力を示したりもしています。

 例えば、阪神淡路大震災でPTSDとなった人は被災者全体の1割、ベトナム戦争でも研究によって幅がありますが15%というデータがあります。
 もちろん簡単ではない経験ではありますが、多くの方は自然と正常へと復帰しています。

 

 一方、軽度~中度でも慢性的に脆弱性にかかわるストレスを受けてきたケースというのは、長く生きづらさを抱えることにもなります。

 

 実際に、自衛隊などでメンタルケアをしていた医師も、その著作の中で、軍隊においても、PTSDなどを引き起こすのは、実は劇的な経験ではなく、慢性的なローリスクストレッサーである、ということを指摘しています。
(福間詳『ストレスのはなし』中公新書)
 福間氏はいまだに強度のストレスばかりがPTSDの原因とされる精神医学の現状について違和感を表明しています。

 戦争でも後々まで苦しむケースは、その劇的な経験も影響しますが、その後に社会からのサポートがなかったり、厭戦気分などで生死に関わる事象への意味付けがなかったり、といったような脆弱性にかかわるダメージによってもたらされるようです。

 

 

 ストレス学の権威であるアメリカの心理学者リチャード・S・ラザルスも以下のように指摘しています。
「重大なライフイベンドだけでストレスを定義づけてしまうやり方は、ストレス対処の方法を解明するうえで適切なストラテジー(方略)ではない」
「日常的混乱とは、モラール、社会的機能、そして健康をも害するような、外見的にはささいにみえても、ときに非常にわずらわしさを感じさせる、日常のいらだちのことを言う。そして、驚くべきことに我々は、この日常的混乱のほうが重大なライフイベントよりも、健康障害にとって重要な要因であることを見いだしたのである」(『ストレスと情動の心理学――ナラティブ研究の視点から』実務教育出版)。

 

 

 先入観に加えてやっかいだったのは、研究分野同士の縦割りの壁です。
 
 トラウマ研究と、ストレス研究とは、ほぼ交流がなく進んできたために、ストレス研究では当たり前とされるような知見や成果が、トラウマ研究に十分に取り込まれてきたとはいえず、トラウマ研究の研究者は、全てではありませんが、「トラウマティック・ストレスと、一般のストレスは全く別物」と考えてきたようです。

 一般の私たちの常識からすればとても奇妙な捉え方ですが、こうしたこともトラウマが一般の人達の生きづらさの説明として適応されることを阻んできたといえます。

 

 

 その結果、「一部のタイプの「トラウマ」のみが診断学的に、あるいは治療上、特権的な地位を享受しているようにみえる」(立木康介「トラウマと精神分析」『トラウマ研究1 トラウマを生きる』(京都大学学術出版会))と言われるような状態になりました。

 

 京都大学人文科学研究所の立木教授は「PTSDを特権化する一部の言論によってともすれば忘れられたり、その背後に隠れてしまったりする種類の「心的外傷」に、あらためて光を当てることが重要なのだ」としています。その光を当てる対象とは「日常風景といってもよい外傷」や、「家族の言説のなかにタブーとして存在し続け、間接的に、主体に対して持続的な影響をおよぼすような外傷」としています。

 

 今回の著作では、そんな私たちの日常にこそトラウマは存在していて、それが生きづらさの多くの原因となっている、ということを明らかにしています。

 『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』は、日常にあるトラウマによる生きづらさに苦しむ人にケアが届かない状況に対して、なんとか橋渡しができないか、と思い微力ながら書かせていただきました。 

 

 

 

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トラウマと発達障害が酷似する理由

 

 カウンセリングをしていてしばしば尋ねられることとして、「私は、発達障害ではないでしょうか?」というご質問です。

 

 自分があまりにも仕事や人間関係がうまくいかないために、「自分はもしかしたら?」と尋ねてこられるのです。

 多くの場合は、そうした疑い、不安とは当然ながら的を得たものではなく、単に自分の生きづらさや症状を説明する言葉を求めてのことです。
(中には、ただ「自分はだめな人間だ」とおっしゃりたいがために、発達障害という疑いを持ち出していらっしゃるケースもあります。)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 一方で、そうした疑いが全く意味がないものではない、ということもあります。

 なぜなら、トラウマによって、発達障害と酷似した症状が生じることは知られており、そのことを専門家は「第四の発達障害(発達性トラウマ障害)」と呼んでいるからです。

 これは、発達障害などを専門にする医師などが、被虐待児を見る中で、被虐待児の症状が発達障害と症状がそっくりであることに気がつくようになったことから始まりました。
 

 それまでは、発達障害と診断されていた子どもたちが、背景を尋ねる中で、虐待を受けてきていることが明らかになります。

 発達障害と思われていたものは、実はトラウマによって引き起こされた症状だということがわかったのです。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴

 

 さらに、虐待とまではいかなくても、慢性的に続く家庭内などでのストレスを受け続けると同じように発達障害に類する症状を呈するようにもなります。

 

 先天的と思われていた発達障害が、近年急増していることは知られていますが、その急増の原因は、実は、周辺に存在していた愛着障害やトラウマによる症状が発達障害と誤診して取り上げられていることが大きな要因ではないか?と指摘されています。

 つまり、これまで発達障害と診断されてきた、疑われてきたものの多くにトラウマや愛着障害など後天的な環境要因のケースも多々含まれているということです。

 

 では、なぜ、トラウマ、と発達障害という全く別の概念による症状が、同じような症状を引き起こすのでしょうか?

 偶然にしては出来すぎています。

 なんらかの共通する要因を持たなければそのような現象は生じないはずです。

 

 では、その”共通要因”とはなにか?

 本日発売された『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』では、そんな発達障害とトラウマの謎についても迫っています。

 よろしければ書店などでお求めください。

 

 

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