王様は裸だ、と言えない。核心の外をループさせられてしまう。

 

 トラウマを負うと、しばしば自分の言葉が失われてしまいます。

問題の核心を言語化できなくなる。そのまま表すことができなくなります。

 眼の前のりんごと、「これはりんごです」とは言えなくなる。

 

 「ええっと、赤くて、丸いもので、人によってはそうは見えないかもしれませんけど、なにやらそのようなものがあるような気がする」

 

 

 となったり、あるいは、

 「テーブルがあるんですけど、私がそこが気になっていて、うーんと、よく人間は、そこでご飯を食べますよね?たまに、そこにいろいろなものを置いたりすると思うんですけど、例えばお菓子とか、お皿とか、あるいは、まあ、ええっと、そうですね、 別に私は気にならないんですけど、例えば、果物とかが置かれたりすることもありますよね。 でまあ、あの、私が子供の頃に、妹が・・」
 
 みたいに、さらに周辺を描写したり、

 結局言いたいこと、言うべきことは「これはりんごです」だけなのですが、これだけ回りくどくなってしまう。

 

 

 まだ、準備が整っていないと、カウンセラーが「りんごじゃないですか?」といっても、「そうなんですけど、妹が・・」といって、無意識にそらしてしまう。

 

 

 昔、京極夏彦か誰かが書いた推理小説などで、死体がそこにあってもそれが認知の具合から見えない、みたいなストーリーのものがありましたが、まさにそんな感じ。「そこにある」と第三者が言っても、どうしても目がいかない。

 

 これらは、いろいろなものに拘束されているために生じています。
 

 例えば、人を傷つけてはいけない、ぐちを言ってはいけない、 弱くてはいけない、とか、いろいろなニセモノの”前提”が入っていたりするためです。

 

 まさに、前提を支配され、相手の問題を自分のものとして、言葉の主権が奪われているために問題の核心にたどり着くことを妨げられています。

 いくら知識で、第三者が「これが核心だ」としてもあまり意味はなく、土台となる前提のねじれを解消していく必要があります。

 

 

 前提を見ないままにしているから、言葉が多くなってしまう。理屈が増えてしまう。

 ”オッカムの剃刀”という言葉がありますが、説明はシンプルなほうが良い。事実、真実というものはさっぱりしています。
 
 

 トラウマの世界観は妙に複雑に見えますが、実は、それは、真実が複雑なのではなく、ただ、前提がねじれていて、「王様は裸だ」「これはりんごだ」といえないために、ぐるぐると言葉が複雑になっているだけなのです。

 論理とは、前提があってこそ成り立ちますが、前提を操作されると、操作されたねじれた前提の上で、延々、答えの出ない連立方程式を解かされ続けるようになるのです。

 まさに、賽の河原の石積みのようです。

 

 

 複雑になってしまうと、その複雑さを理解、共感しない他者が無理解に見えます。
 しかし、それは他者が無理解なのではなく、他者は「これはりんごだ」ということが見えているだけ、ということがよくあります。

 
 他者が「りんごでしょ?」というと、なにやら細やかな情緒を汲めない、理解のない、がさつな人に見えたりもします。

 しかし、他者のほうがよほど真実に迫っていて、トラウマを負っている側が、無用に物事をこねくり回されているだけだったりするのです。

 他者の“無理解さ”身も蓋もない切り捨て方にこそ、真実があったりします。
 ぐるぐると回る”説明”やそれに伴う悲しさ、苦しさ、怒りに付き合わず、「王様は裸でしょ?」という他者の態度にこそ救いがあったりします。

 ですから、治療者は時に、回り回る言葉や感情にはあえて共感せずにスルーすることがあります。いっしょにトラウマのダンスを踊らずに、ログインする方向に進めるためです。
 
 

 こうした核心を突けずにループさせられてしまう、というのは、実は悩みにある場合に誰しもに共通します。

 

 

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