物理的な現実がもたらす「防御壁」

 
 スポーツをするときに、自分がこう動きたい、とおもってもなかなか体が言うことを聞いてくれないことは多いものです。

 コーチから「こうしたほうがいい」といわれても、そのとおりにできない。

 自分では従来のほうが心地よいのですが、結果は出ないので、やはり変えたほうがいいことは明らか。でもうまくできない。

 もちろん、完全に意識と自分の身体が連動したら、プロになれるわけですけど、そんなことは難しいです。プロでも思ったように動かすためには相当なトレーニングが必要です。

 

 皆さんもスポーツやエクササイズをしててもどかしい思いをしたことがあるのではないでしょうか?

 
 わかっているんだけど、うまくできない。

 身体としての自分というものは、なかなかもどかしい存在です。

 

 

 このように「現実」というものは、なかなか変わりません。一朝一夕には変化しない。

 同じような日常が繰り返されます。

 先日の記事にもかきましたが、
 「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」
 というように、こちらの気も知らず、変化してくれない。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 

 私たちも、生き辛さの中にあえいでいる自分を変えようと、気持ちを新たにして、何かに取り組みますが、躁的な気持ちが一段落したら、何も変わっていないことに気づく。
 そして絶望的な気持ちになる。

 「ああ、また変わらなかった」と。 
 
 そして、自分は永遠に変わらないのか、といった気持ちになっていく。

 トラウマを負うというのは、こうした気持ちの中でもがくこととも同義です。

 いつまで経っても、「自分は世に出ることができない」という感覚。 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 かつては筆者もこのような感覚にとらわれていました。
 休みのときも何かをしなければと焦るけども、何をしていいかわからない。何をしても変わらない、と。

 

 あるゴールデンウィークのときに、連休前半にあるイベントに参加したのですが、そのときに同席していた同じ世代の男性が、「ああ、これで、とりあえずは充実したと感じられる」といったのがとても印象に残っています。
 連休前半にそれらしいイベントに参加していれば、連休を終わったときに有意義ではなかったと後悔しなくてすむ、というわけです。

 充実感を感じるために充実できたと感じることを探して安心するなんて本末転倒な話だけど自分もそういう感覚があるな、と感じたことを記憶してます。

 

 しかし、ローカルルールが解けてくると、日常をのんびり過ごせるようになってきました。
 さらに、現実の「変わらなさ」を感じるとき、「これは都合がいいな」と筆者は感じるように変わってきました。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 「時間がかかる」「容易に変わらない」というのは私たちにとってとてもよいことだ、というように。

 なぜかというと、その変わらなさ、時間がかかる、ということが、私たちにとって「防御壁」になってくれるからです。

 

 なぜ、修行した職人が作ったものに価値あるか?といえば、修行や技能の習得に時間がかかるからです。簡単にできれば、価値などありません。

 学歴とか、難しい資格になぜ価値があるか?といえば、容易には取れない、取るのに時間がかかるからです。

 

 すごく手間の掛かる仕事もそうで、手間がかかるというのは、他人にとっても面倒で容易には参入(真似)することはできません。

 「手間がかかりそう」ということが自分を守ってくれる。

 

 社会的な技能とか資格とかだけではなくても、単に年月を重ねて人間としてここに存在しているということ自体も実は守ってくれています。その人の持つ経験、時間というのは他者が介入できないものだからです。私たち人間は別々のトラックを走っていて、そのトラックの間にも「防御壁」は存在しています。 

 

 一日で変わるものは、一日で覆されます。

 一日でできるものは、他者にも一日で追いつかれてしまいます。

 世の中では、簡単にできるものの価値は低く、いわゆる差別化になりません。
 (経済の世界だと「参入障壁」といいますが)
 

 

 

 「物理的な現実」というのは、その容易には変わらない、時間がかかる、という性質で私たちを守ってくれています。

 前回の記事で、「5年、10年もすれば景色がガラッと変わっているものです」と書きましたが、生きづらさを抱えていると、「5年も10年も待てないよ」と感じるものです。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 こんなに生きづらいのですからすぐにでも変わってくれないと困る。

 それはそうなのですが、すぐに変えようと「言葉」や「イメージ」世界に留まってしまうと、結局はローカルルールからローカルルールへというように積み上げることができなくなる。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 言葉で変わった気になっても、頭の中で他人からの汚言や自責感によって、すぐにひっくり返される。
 イメージを変えようとして取り組んでみても、すぐにひっくり返されるの繰り返し。  

 物理的な現実のもつ「積み上げ」の力、「質的転換」の力を借りることができません。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 「物理的な現実」はある時点を超えるとぐっと大きく変化、飛躍をもたらしてくれます。

 しばらく淡々と続けることで、その力を借りることができる。

 

 
 変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→質的転換(カットオフ)→大きく変わっていた。

  ↑この変化への長さ、変わらなさが壁となって自分を守ってくれる。我慢できない人は途中で脱落していきます(そして、言葉を唱えたり、イメージトレーニングするだけになってくれる)。一方、続けた自分にはカットオフがやってきます。だから、容易に変わらない取り組みであればあるほど、「よしよし、都合がいいぞ」と密かに企むことを楽しむ。

 

 さらに、積み上げた物理的な現実は他者からの否定的な言葉やイメージからも守ってくれます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 

 「変わらない、変わらない」と感じる状況は、私たちにとってはとても良いことです。

 その容易に変わらなさ加減が自分を守ってくれます。

 

 「物理的な現実」は、大きな変化と大きな防御と、その両方を提供してくれる。とっても頼りがいのあるものです。
 

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

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目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する

 

 現在私たちが住む社会は近代社会と呼ばれます。

 近代社会の定義というのは色々取りますが、一つには、出自によって制限がないこと、とされます。
 
 出身地や身分によって、差別されたり、制限を受けることがない。

 

 言い換えれば、Being(存在) ではなく、Doing(行動) のみで評価され、Doing(行動) によって人生を切り開くことができる。

 以前記事にもかきました、ウェーバーという政治学者のテーゼというのは、まさに、プロテストタントは、予定説によって、Being(存在)の部分をまるごと神に預けて、人間はDoing(行動)に専念する。
 それが、近代資本主義社会の駆動力になったのではないか?というものでした。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 反対に、Being と Doing をつなげてしまうのは、前近代的な仕組みです。

 なぜくっつくの?と聞かれたら、「いや、そうきまっているから」とか、「生まれがそうだから」といった答えが返ってくるような世界。
 つまり、Being とDoing の間が、なにやら非合理的な、魔術的と言ってもいいものによって繋げられている状態です。

 

 技術についてもそうです。

 近代化された世界であれば、AをすればBになる、CをすればDになる、ということで、そこには非科学的なものが入る余地はありません。

 すべてDoing の世界です。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感

 

 しかし、前近代的な発想であれば、Yさんが、Aをするから、Bになる。 ZさんがAをしても、Bになるかはわからない。Yさんも気持ちがこもらなければBにならないかもしれない。といったもので、AとBの間に、Beingの良し悪しや、何やら目に見えないものが介在していると考えるものです。
 

 

 臨床心理では、フラクタル(相似形)という概念が用いられることがあります。
 個人や社会のある部分で成り立つことは、形が似た他の場面でも成り立つというもの。

 近代社会云々という例を取り上げましたが、人間個人の発達についてもこうしたことは当てはまります(フラクタル=相似形)。 
 

 

 人間が成人するというのは、まさに社会に置き換えれば前近代の状態から近代社会へと発展するということと相似形と考えられます。

 

 実は、かつての社会であっても、一人前になる、というのは、その人が生きる世界において身分のや出自の制約が少なくなるということです。
 例えば、大工の棟梁になる、というのは、それによって自分が生きる世界では制約が少なく自分の腕を振るうことができるわけです。

 簡単に言えば、自分のBeing とDoing との間の繋がりが切れて、目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなる。

 あくまで、Doing によって評価され、自分のBeingは、Doingの成否や良し悪しで左右されない状態になる、ということです。

 気兼ねなく、Doing に集中することができます。

 

 スポーツで言えば、試合に集中できている状態で、人格云々は問われない。
 
 Doingのみに集中できていることで、社会の中で位置と役割を得て、それがやがてBeingへと健全にフィードバックされてくる、という感覚。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 

 

 反対に、発達の過程でトラウマを負っているとこうはいきません。

 必ず、Doing とBeing には変な癒着がつけられています。目に見えないもの、魔術的なものが介在させられている。

 「自分だからダメだ」「自分は変だ」といったものがついていて、Doingに専念できない感覚がある。
 
 Beingにケチが付いていて、Doing と切り離すことを許されていない。

 多くの場合は、親などの家族や、学校といった生育環境でその癒着という暗示をつけられている。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 

 A をすればBになるという確信がないから、仕事が積み上がらない。
 他人がすればなるけど、自分の場合はそうなるかどうかわからない。
 
 日々Aをして、Bになってよかった~!とほっとして、なんとか仕事をこなすのに、やりすごすのに精一杯という感覚。

 そうしている間に時間は立つけど経験は身についた感覚はなく、精神はヘトヘト、というふうになっている。

(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。

 

 

 トラウマを負っていると、スピリチュアルなものにどこか親和性を感じる方が多いのですが、それも、実はBeing とDoing の癒着、魔術的なものの介在という暗示にかかっていることが背景の一つとして考えられます。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 やっかいなのも、生きづらさや悩みから解決を図るはずのセラピーも、ポップなものほど、魔術的なものを肯定していたりする。
 それが例えば、ポジティブシンキングであったり、口ぐせであったり、引き寄せ、といったものであったり、などなど。
 魔術の世界から脱出させるのではなく、その世界の中にとどまったままで対抗しているような感覚。ここには大きな落とし穴があります。

 

 
 映画「ハウルの動く城」で、魔法使いハウルが魔女を恐れて自分の部屋でたくさんのまじないやお守りに囲まれているシーンがありますが、まさにあのようになってしまいます。

 目に見えないもの、魔術的なものというのは、結局はイメージや言葉の世界なので、他人から容易にひっくり返されやすいものです。
 だから、安心! という感覚はなくどこかオドオドしているのです。

 

 悩みを解決するために進むべき道は、魔術的なものの介在を排除することです。多くは家族などからもたらされています。物理や現実に立脚することが何よりも強く、私たちを守ってくれます。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。

 

 孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざく」といいましたが、まさに至言です。
 (ゴータマにもたしか似たようなエピソードがあったと思います。)
 

 Being と Doing そして、Doing間での目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなっていくと、私たちはもっと生きやすく、自由になっていきます。

 

 

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自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 以前、「「自分(私)がない」ということを前提にしてみる」ということを書いたことがあります。

 人間というのは、「私」がなくてもとりあえずは生きていくことができる存在です。

 しかも、そういう状態の人ほど行動力はあったりしますので、自分に私がない、なんてゆめゆめ思わない。

 でも、確実に「私」というものはなかったりします。

 (筆者も昔、それを他人に指摘されて、「えっ!?」ってなったことがあります。改めてチェックしてみたら、やはり、「私」はなかった。単に他人の規範を自分だと思って猛烈に頑張っていただけだった・・・)

 

 

 例えて言うと、ログインしていないまま使っているスマートフォンのようなもの。
 スマホは、グーグルやアップルのIDでログインして使用しますが、ログインしなくても、ある程度使えたりする。
 電気屋さんに見本で置いてあるようなのがそうでしょうか。

 もちろん機能は制限されています。 

 

 周囲からは「~~さん、不便だからログインして使えば?」と提案されても、

 「いいの私はこれで」と答えたりする。

 「でも、不便でしょう?簡単だからログインしちゃえばいいのに」と更に提案されると、

 すこし怒り気味に
 「私の好きにしているんだからいいのよ!!」となってしまう。

 

 それどころか、ログインしていないことにも気がついていない、ということが起こっていたりする。

 
 
 さらに、よくあることが、親など他人のIDでログインしていて、それに気がついていない状態。

 
 「自分のIDでログインすれば?」と聞かれると、腰が抜けるような、足元が寒くなるような不安が湧いてくる。不安が怒りになってくる。

 もしかしたら、他人に情報を乗っ取られるかも?スパムのメールが来るし、炎上するかも知れないし・・・などともっともな理由を考えてしまう。

 
 
 当然現実に生きればリスクはありますが、健全なリスクを取ったほうが実際の被害は最小にできるのが社会というものです。

 

 反対に、自分IDでログインしていない「私」がない状態を続けていることで大きなリスクを背負っている。親などの他者のIDに支配されている状態を無自覚に続けているような状態です。

 

 ※興味深いのは、「私」がない状態が重い方の中には、実際にメールアドレスも親のアドレスをそのまま使っていたりすることがあります。 
  あるいは、アドレスや電話番号がコロコロ変わったり。
 「自分のIDでログインしていない~」というのは比喩じゃなく、本当に自分のIDを持てないんだ、ということがわかります。

 

 

 これがトラウマというものの一番の問題ではないかと思います。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 
 強いストレスを過去に浴びたことで、ログアウトしてしまった。ないしは、自分のIDでログインできない状態になった。
 仮のIDや、ログインしていない状態で心身に違和感を感じている状態を「解離」と呼びます。

(参考)→「解離性障害とは何か?本当の原因と治療のために大切な8つのこと」

 

 自分のIDではないから、機能が制限されたり、アプリがいう事聞かないのも無理はありません。
 それどころか、リモートデスクトップ※みたいに、他人が操作していたりするようになります。

 ※リモートデスクトップとは、例えば、会社のパソコンを家で操作したりするような仕組みのことです。親が自分というPCを操作している、としたら怖いことですね。

 

 

 自分のIDでログインできるようになるためには、いくつかの要件があると思っています。

 その中での一番のものは、自分の自我(Being)を育むこと。

 スマホでも、PCでも初めて使う場合には、セットアップを行いますが、そのセットアッププロセスのどこかでエラーしている。

 人間で言えば、自我の発達段階のどこかでエラーが起きている。
 具体的には、自他の区別がうまくつかなくなったり、自己主張できない、嫌と言えない、嘘がつけない、秘密が持てない、他人像や自己像が適切なものになっていない、といったことが生じている。

 

 原因としては、親子関係が適切なものではなかったり、ストレスによる心身のダメージであったり、といったようなこと。
  

 
 人見知り、といったようなよくある悩みも、信念の書き換えみたいなものでは到底解決できず、自我(セルフ)が成熟しないと対人関係の苦手感は拭うことはできません。

 他者の価値観を内面化して、それに振り回されたり、ローカルルール人格みたいな状態になって乗っ取られたり、人の言葉に対しても壁がなく、ちょっとしたことでグサっと来たりしてしまうのです。
(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 自我(Being)を育み、自分のIDでスマホにログインしてみたら、「なんで、今までこれをしてこなかったんだろう?」って、思うくらい世界は違って見えるのでしょう。

 「他の人はどうりで、サクサク気楽に操作して、お互いにスムーズにコミュニケーションを取れているわけだわ」と。
   
 それは、決して他者がすごいのではなく、自我が形成されていて、自分のIDでログインでしているという簡単な理由だったりするのです。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 従来のセラピーでどこかうまくいかない、悩みが取れない、という場合、自分のIDでログインしないまま(自我が未形成なまま)で、理想の人間になろうとしている、症状だけ取ろうとしている、ということが考えられるのです。  

 

 

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存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間とは、弱く、間違いをおかすものでもあります。
 人間はいい加減で、だらしがなく、まとまらない存在。
 よく「落語の登場人物のよう」といわれますが、こうした人間観、世界観は、「愛着的世界観」です。 健康な人にとっての見え方です。

(参考)→「非愛着的世界観

 では、弱く不完全であるということは、その存在がだめだということを表しているのでしょうか?

 そんな事はありません。

 その存在自体はなんの罪もなく、誰もが尊重されるに足ります。

 

 

 「もともと呪われている」「もともとがだめだ」というような考えというのは偽りで、滑稽なことです。

 

 例えば、カラスを見て、「カラスは呪われた生き物だ」なんて考えている人がいたとしたら、いつの時代の価値観なんだ!?と思われるでしょう。

 

 私たち現代人は、科学的な価値観を持ち合わせていますから、「カラスだってひとつの生き物だ」「いろいろな特徴や習性はあるが、それと存在の正邪は関係ない」と考えるでしょう。

 

 つまり、行動(Doing)と、存在(Being)とを分けて捉えていて、
 存在(Being)になにか根本的な問題がある、という考えはとりません。

 ゴミをつついたり、鳴き声がうるさくて迷惑をかけていたとしても、カラスは単なる生き物。存在(Being)自体にはなにも問題はありません。

 

 
 もちろん、存在(Being)にはなにも問題がない、からといって、カラスが完璧な生き物だ(生き物でなければならない)というわけではありません。

 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして、両立します。
 

 

 人間も同様です。

 冒頭に書きましたように、人間の行動(Doing)は、弱く、不完全です。間違いをすることもあります。
 しかし、それをもって、存在(Being)が「呪われている」「邪悪だ」ということを意味しません。

 人間においても、 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして両立するのです。

 
 愛着的世界観、健康な人間観では、存在(Being)は、行動(Doing)とは、全く別のものとして捉えられています。
 
 
 だから、安心して失敗できる。安心して自己開示できる。人を特別恐れることもありません。
  
 

 

 しかし、虐待とか、ハラスメントというものは、存在(Being)と行動(Doing)という別次元のものを無理やりつなげようとします。つながっているように見せる、刷り込む、そして行動(Doing)の不完全さによって存在(Being)の不完全を証明する、というトリックを行います。

 

 例えば、行動(Doing)の不完全さ、未熟さを取り上げて、存在(Being)がダメだと叱責する。
 子どもが失敗したことを取り上げて、「あなたは生まれてこなければよかった」といったことをいう。
 部下が失敗したことを取り上げて、「お前なんか、社会人として失格だ。クズだ」と暴言を浴びせる、といったようなこと。 

 

 健康な状態では別れていたはずの存在(Being)と行動(Doing)が繋げられて、しかも、存在(Being)が不完全だと思わせて呪縛にかけます。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 ここからがさらに厄介なのですが、ハラスメントを仕掛けられた人(被虐待者)は、その状態から抜け出そうと努力をします。

 努力というのは、行動(Doing)によって行われます。

 しかし、存在(Being)と行動(Doing)はもともと別次元のものであるために、いくら行動(Doing)を頑張ったとしても、存在(Being)のキズは癒やされることはありません。なぜなら、種類が違うから。

 

 存在(Being)のキズは、そもそも、呪縛によって仕掛けられたものなので、行動(Doing)よって挽回されるものではなく、あくまで、呪縛自体を覆しにかかる必要があるのです。

 

 しかし、そのことがわからないまま、行動(Doing)によって挽回しようとして、へとへとになってしまいます。

 特に、存在(Being)の完全性を取り戻すために、行動(Doing)レベルでも完璧さを求めて、絶対正しい、絶対に間違いのない、という領域を目指そうとして、挫折を繰り返すことになります。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 さらに、人間の本性は、行動(Doing)レベルは、弱く不完全なもの、ですから、どこまでいっても不完全なままです。うまくいったとしても、ゴールポストを動かされてしまえば、成功も失敗と判定される。

 「やっぱり、自分は存在自体が不完全なんだ、だって行動(Doing)レベルの証拠があるもの」となって、さらなる呪縛へと落ち込んでしまうのです。

 

 トラウマの裏には、存在(Being)と行動(Doing)との間違った接続、同一化が存在しています。

 

 

 

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人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 以前の記事で、
 健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしている、ということを書きました。

 その中で、やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、ということを書いた元ソニーの社員が書いた本をご紹介したことがありました。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 健康な人ほど人の話をスルーしているということ?!それって本当なの?と思います。

 でも、色々と現実を見てみると、やはり本当らしいということが見えてきます。

 

 

 例えば、先日、日本経済新聞で、NEC(日本電気)の社長のインタビューを目にしました。

 その中で、NECの社長は、合理主義者ということで、「仕事の上で無数に来る要望や指示の8割はやらなくても良い」と割り切り、着実に早く仕事をすることを心がけてきた。 ということが書かれていました。

 

 聞き漏らさないように、すべての指示を叶えることが優れていると思いがちな、仕事においても、8割はスルーして良い、と言っています。 

 大手の会社の社長になるような人ですから、仕事で評価されてきたわけですが、そのほうが評価される。 

 

 トラウマを負った人は、全てを叶えようとして、さらにはファインプレーをすることを意識して気を張ってがんばって、結果、頭が加熱して、ぼーっとしてしまう。 結果、無理やミスが生じて、過大な努力にも関わらず評価されない、ということが生じている。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 トラウマを負った人と健康な人では実は価値観、世界観が全く違うことがあります。当たり前と思っていることが実はそうではなかったりします。でも、それが言語化しにくいために、尋ねても明確に答えは帰ってこない。でも、よくよくみてみると全く異なったりします。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観」 

 

 仕事上の要望や指示ということですから、「意味がある」と思いきや、ほとんどが意味がない。
 仕事でさえ8割スルーして良いのであれば、プライベートの言葉なんて、ほぼ戯言といって間違いありません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

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