“あいまいな”マルトリートメント(虐待)②

 今回は、前回ご紹介した『精神の生態学へ』(岩波文庫)に紹介されている母子の話についての続き、です。

参考)「“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①」

 ダブルバインドによって精神障害(統合失調症)を発症し、で入院していた息子のところに、問題の母親が見舞いに来ます。息子は入院によって体調はかなり回復をしていました。

 

 しかし、母が来たことを喜んで息子が母の肩に抱き着くと、母は身をこわばらせます。

 それで、息子がとっさに手を引っ込めると

 母は「もう、私を愛していないの?」と言います。

 顔を赤らめる息子に対しては母は、「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」といいます。

 そうして、母が帰った後、息子は暴れ出し、ショック療法の部屋に連れていかれました。。。

 

 
 もし、息子が「母は僕が肩に腕を回すと落ち着かないんだ。僕の愛情表現を受け入れられないんだ」とでも表現できれば、暴れ出すような破滅的な事態は起きず、状況は少しは改善したかもしれません。

 しかし、息子は、強度の束縛(ダブルバインド状況)の中で、母親のコミュニケーションの真実を言語化することができない状況に育ってしまっているのです。
 

  
 一方で母親は息子の状況にもっともらしい論評を加え、自分の解釈を息子が受け入れることを強要しています。

 さらに、息子は医師からも「統合失調症」の烙印を押され、「暴れた」という事実もあるために、その診断は“医学的にも”合理的とされることになっています。

 自分がもしこの息子だとしたらと思うと、本当に恐ろしい状況です。

 前回も書きましたが、統合失調症として現れるか? 複雑性PTSD(発達性トラウマ)として現れるかは、単なる体質の差です。
 パニック障害、解離性同一性障害、うつ病、依存症としてもあられることがあり、気質の違いによります。ベイトソンは、統合失調症の原因としてこれを書いていますが、複雑性PTSD(発達性トラウマ)でもそのまま当てはまります。
 

 

 恐ろしいのは、では、この母の言動は、社会的に虐待と認定されるようなものなのか?といえばそうではありません。まったくもって“あいまいな”ものです。  

 しかし、この“あいまいな”虐待は、社会的認定されている虐待以上の恐るべきダメージをもたらしています。

 

 

 では、ここで取り上げた見舞いの際の母のコミュニケーションをベイトソンが解説していますから、その詳細も紹介させていただきます。

 

●母親は、腕を引っ込めた息子の反応を「もう、私を愛していないの?」などとあげつらうことで、自分の拒絶を隠ぺいしています。
 さらに、息子も母の非難を受け入れて自分の感覚、状況理解を否定しています。 (これが、母が帰った後で暴れたことにつながります。)
 

●「もう愛していないの?」という言葉からは、以下の含みがくみ取れます。

 a)「わたしは愛するに値する」という前提。

 さらに、
 b)「お前は私を愛するべきだ。愛せないお前が悪い。それは間違っている」という非難の含み。

 

 c)「もう」の一言が、「以前はわたしを愛していたのに、今は愛していない」という含みを添える。
  それによって、息子が愛を表現できるか否か、ではなく、愛情を抱くことができるか否かに焦点が移ります。
  しかし、息子は過去に母を憎んだこともあるのだから、この葛藤において母の優位は揺るがなくなります。
 息子は過去も十分に母を愛せていなかったことに罪悪感を感じます。

 

 d)「もう愛していないの?」と言うことで、つまり息子が母の肩を抱いたことについて「お前が今表現したことは、愛情ではなかった」という一方的なラベルを貼っています。
  そのラベルを息子が認めるとき、これまで社会的に学んできた愛情表現の方法(肩を抱く、など)は愛情表現ではないと否定されます。
  すると息子は、過去に自分が行った愛情表現が表現として不適切だったのだ、相手がそれを受け入れたと思えたことまでが疑わしい、と不安を感じるようになります。
  ここで彼が経験するのは「支えの喪失」です。
  過去の経験が自分の支えとしての機能を失ってしまう、疑わしいものになるということです。

 

●「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」

 このメッセージには以下の意味を含んでいます。
 a)「普通の人は自分の気持ちを表現するのにお前はそうしない、できていない。だからお前は他のきちんとした正常な人間とも違う」

 
 b)「自分の気持ちを恐れることはない」ともっともなことを言い、「お前の感情自体は問題ない。問題はお前がその感情を容認できていないことだ」としていますが、しかし、自分が母に触れた時に母が示したこわばりが自分に現れた感情を母が容認しないと示している以上、彼は過去の葛藤に追いやられることになります。 
 母が勧めるように、自分の感情に恐れを感じないでいるならば、母への愛の感情も素直に表現して当然です。

 しかし、そうしてしまえば、恐れているのは母のほうだを気づかずにはいられない。しかし、気づいてはならない。
 息子はこれまで母との関係や母の幻想を壊してしまわないように、自分が感じた感情(つまり、母は私を拒絶している)を認めないようにして来たわけです。母は自分の欺瞞のために息子を協力させてきたのに、ここではそれがおかしいと非難をしているわけです。言葉では「自分の気持ちを恐れることはない」とキレイ事を言っていますが、構造としては、私の幻想と私との関係を壊すなとしているわけです。

 

 この見舞いの場面では母に愛情を示さなければ母を失う、でも、示した愛情はおかしいとされる、自分の気持ちに率直になることは、母の幻想や関係を壊すためにできない、こうした解決不能のジレンマに息子はおちいっているわけです。

 

 ベイトソンの解説は秀逸だと思います。

 こうした構造の状況は、トラウマ、複雑性PTSDの相談において実際によくあります。

 

 繰り返しになりますが、母の会話がもし音声で録音されていてもおそらくすぐには「虐待!」とは認定されないでしょう。よほど、家族関係やハラスメントの専門家が見なければ正しくアセスメントはしてくれません。

 

 ましてや本人は呪縛の中にいますから、気が付きようもなく、しかし、心身に症状だけが生じていて、社会でもうまくいかず、人間関係も作れず、その“事実”から自分はおかしいと責めるようになります。

 前回でも書きましたように、
 「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・」
 「親のせいにするなんて自分がそう思いたいだけかもしれません??」
 「実際に、社会でうまくいっていない自分のほうがおかしい。だって他の兄弟は何ともありませんし。。」などとなってしまうのです。

 社会的にもあいまいだからこそ、それ自体が、第4、第5の拘束のメッセージともなりさらなる拘束となります。
 

 まさに、あいまいなマルトリートメント(虐待)の恐ろしさです。
そして、あいまいなマルトリートメント(虐待)は、決して稀ではなく、そこここに存在しています。

 

 母子に単純化していますが、これが、親族、学校、会社などでも様々な場面でも起こりえます。

 生まれつきそうではないか?天才的!?と思うくらいに、絶妙のタイミングで私たちの些細な行動を弱点として取り上げて、あげつらう(ハラスメントをする)のが得意な人というのはいたりします。
 あるいは、普通の会話、やり取りなのに、なんとも言えない嫌~な気にさせるような人などもいますし、皆様もそうした人に出会うことがあるのではないでしょうか?
 (それは、もちろん生まれつきではなく愛着不安やトラウマによる不全感を抱えたことを土台として、その人の気質が合わさって生じるものです。)

 そうしたことは表面では現時点では、虐待ともハラスメントとも、されないかもしれませんが、ベイトソンが明らかにした視点から精緻に分析すれば、それは、私たちを縛る欺瞞的なコミュニケーションなのです。

 このことに対して私たち社会全体も、もうさすがに気がつかなくてはなりません。
 不全感に基づく欺瞞的なコミュケーションについて賢くなり、明らかにしていく必要があります。

 

 

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“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①

 臨床においては、明らかに家族の影響によって生きづらさが生じているにもかかわらず、相談者自身も「別に、虐待されたわけではないし・・」といったように、家族がもたらす影響が自覚できない、わからなくなる、というケースが珍しくありません。
 
 
 明らかな暴言、暴力などはないけども、親のおかしな接し方が子どもの生き生きとした気質を削ぎ、力を奪い、子ども自身も自分はダメだ、とおもうようになる、ということは実はよくあります。

 
 今回は、そうした“あいまいな”、でも深刻な虐待についてグレゴリ・ベイトソンの『精神の生態学へ』(岩波文庫)の内容を紹介しながら、詳しく解説してみたいと思います。

 人類学者のベイトソンは、ダブルバインド(二重拘束)が統合失調症の原因、という仮説を提示したことで有名です。特に近年はあらためてその妥当性、慧眼が注目されています。
 

 

 そのベイトソンが書いた『精神の生態学へ』の中巻の中で、ある母子の例が紹介されています。

 それは、子どもが近づくと母は不安を感じて身を引いてしまう、というケースです。

 

具体的には、

 その母は、子どもと親密な関係になると不安と敵意を感じるという問題を抱えています。

ベイトソンは、その不安の原因として、例えば

母が、
 ・自分と家族との関係に不安を感じている
 ・子どもが、男の子か、女の子かということだけで不安を感じる
 ・その子の誕生日が身内の命日と重なるから、という理由から不安を感じる
 ・その子の兄弟の中での位置が自分と重なる
 ・母の感情的な問題が理由で、その子を特別視している
などいくつかの可能性を挙げています。
 実際のカウンセリングの相談でもよくありそうなものばかりです。

 

 母親はそうした自分の中の不安や敵意を否定しようと、子どもを愛していることを強調する行動をとります。
(母が自分の愛を子どもに強調する行動とは、優しい言動だけではなく、子どもをいい子にしつけることも含みます。)

 その行動に対して子どもが母を愛情に満ちた母として見ないと、母はさらに身を引いてしまうのです。

 

 さらに、父の存在の欠如、希薄さがこの状況を増幅させます。
本来ならば、父が洞察力をもって、こうしたおかしな母子関係に割り込み、子どもの支えになることが父の役割なのですが、その存在がいない、あるいは子を支えるにはあまりに存在が薄い。
 父の存在の欠如、薄さはこうしたケースのつねだ、とベイトソンは述べています。(実際のケースでは、父以外でも祖父母など関係する大人の機能不全があります)

 

 簡単に言えば、たったこれだけのことが統合失調症のような重い精神疾患を生じさせる、というのです。
 たったこれだけのことが、です。

なぜか?

 これが有名なダブルバインド(二重拘束)と呼ばれる作用によるものです。

 

 ダブルバインド(二重拘束)とは、矛盾するメッセージを受け入れさせられることが人間にとって非常なダメージになるということを明らかにした理論です。

 

 このケースに即して具体的に言えば、

 母は、自分が子どもと親密になると不安や敵意を感じてしまいます。
子どもは、母の不安や敵意の反応を無意識に感じとります(第1のメッセージ)。

 しかし、母は、子どもに対する自分の不安や敵意を受け入れることができず、愛情を溢れる母親を演じることになります(第2のメッセージ)。

 その結果、子どもは矛盾する2つのメッセージを投げかけられることになります。これが、矛盾するメッセージによる拘束です(ダブルバインド

 

 

 これだけならまだ抜けることはできますが、さらに、ダブルバインドから抜けられない第3のメッセージが飛んできます。

 それは、母との関係を維持しなければならない、母の幻想を壊してはいけない、というものです。

 

 子どもは母との関係を維持するために、真実を見破ることが許されない状況に陥ることになります(逃げてはいけない、拘束を壊してはいけない、という第3のメッセージ)。見破ってしまったら、母子関係がもたないからです。

 そして、子どもは、素朴に感じた自分の感覚を否定する、歪める必要性に迫られます。

 

 別の場面で、例えば、母が子どもに対して不安や敵意を感じた時に、それを否定するために「もうおやすみなさい。私はあなたにゆっくり休んでほしいの」と愛のメッセージを発しますが、その裏には、「お前はうんざりだ、お前はもう目の前から消えておしまい」というメッセージが含まれています。

 

 そのことに子どもは気づいても、それを見破ってしまっては、
「母は自分を疎ましく感じ、しかも優しい素振りで騙そうとしている」ということに直面しなくてはなりません。

 

 それを避けるために、子どもは、自分の本来の感覚よりも、例えば「自分は疲れている」ことにしてしまうようになります。

 そうして、子どもは自分の感覚を欺くようになり、母の欺きに加担することになります。

 

 母以外の他者との関係においても、子どもは、自分の感覚について誤った識別を行うように動かされることになります。

 

 さらに、母親は、“子ども本人になり代わり”「思いやりのあふれたメッセージ」で子どもの感覚を言語化することで、子どもの問題はさらに深まることになります。

 具体的には、母親は、子どもの「疲れ」について気遣いを表明する。
 これは、母が子どもの感覚を制御し、返答も制御していることになります。
(もし、子どもが自分の感覚から批判的なことを口にしても「あなたは間違っている」「それは本気ではないわよね?」などと言う)

 そして母は、自身のことよりも子どもを気遣っているのだということを主張して譲りません。
 
 子どもは、真実を捉えようとする欲求を挫かれます。

 子どもは母の愛を装うことに反応して、愛を求めて母に近づこうとしては親密さを恐れる母から咎められ(子どもは自分の愛情表現が適切ではないのかも?として混乱し)、かといって、求めに行かなければ愛を装う母に咎められる。母は愛を装うために子どもに寄って行くが、子どもが近づいたことで母は不安になり、、、と混乱を極める。

 こうして、子どもは母の状況を正確に認識したことで罰せられ、不正確に認識したことでも罰せられるというダブルバインドに陥ります。

 

 同じようなことが成長の過程で長い年月をかけて何度も何度も繰り返し再現されることになるわけです。
(これは、現代の知見で言えばもちろん「発達性トラウマ」に該当します。)
参考)→「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状

 

 こうした矛盾する状況をさらに修正するためには子どもは自分の「認知」、さらに「自己認識」を操作する必要があります。矛盾を整合させるために子どもが自身を「おかしな子ども」「ダメな自分」として、自己を規定することも起こるのです。 そして、そのゆがめた自己規定を追認するような出来事も起きます。

 

 具体的には、そのような呪縛にあっては、当然、パフォーマンスも下がりますし、対人関係もうまくいかなくなります。
(自分の感覚についても誤った識別を行うように動かされていますから)
その結果、コミュケーションがうまくいなくなり、学校でもカーストの下位に陥ったり、いじめられたり、運動や学業もうまくいかなくなることで「ダメな自分」は”確定”となります。
 家の中だけではなく、外でもうまくいかない自分に直面して「やはり、母の言っていたことは正しかったのだ」と、母が自分の感覚を偽るための取っていた言動、それに気づいた子どもの感覚をおかしいとする欺きの言動のほうが正しいと認識されることになるわけです。

 そうして、自分はダメだ、という“(家以外の複数箇所でも)証明された”自己規定を基にその後の人生を進むようになるのです。

 

 また、矛盾する状況を修正するためには、子どもが自分の「感情」を歪めるといったことも起きます。ネガティブな感情が起きてもそれを無いことにしたり、自分の感情を操作するのです。操作とは文字通りのことで、気分や気持ちの切り替えといったような軽いことではありません。実際に、感情を無いことにするのです。そんな感情の操作などができるのか?あり得るのか?と信じられないことですが、そんな感情操作を行うことを子どもが身に着ける、ということも生じます(もちろん、その副作用は生きづらさや他の問題として生じることになるのですが)。

 さらに感情にまつわる別の例としては、親の不安や恐怖を子が抱え込むということもあります。親子の距離が近くなり自他の区別がなくなることも手伝い、親の不安や恐怖を子ども肩代わりするかのように自分のものとして抱え、その結果として、成人してもなぜかよくわからない不安や恐怖にさいなまれ続けることも起こります。

 

 

 以上のように、親などの家族の矛盾する状況を整合させるために賢い子どもが自分の認知、感覚を歪めてまで、親との関係や、家族の調和を維持しようということは珍しくないのです。人間はかように高機能なために、それが逆用されると、長く深刻な影響を引きずるのです。

参考)→「家族の中で一番利発でまともな子が頭がねじれて病んでしまう

 

 そんな状況について、父に助けを求めようにも存在が薄い、あるいは状況を洞察する力がない(機能不全)、介入したらヒステリックになるであろう母(妻)について関わろうとしない。仕事に忙しいことを半ば言い訳にかかわれない(単身赴任なども)場合もあります。さらに、母は外面は良いので、学校の先生や、親族も問題に気が付けない

 

 

 このようなダブルバインドの状況になると、子どもは、状況をメタ認知で言語化することができなくなります。

メタ認知とは、わかりやすく言えば、状況を俯瞰して、つっこみを入れることです。

 「それって、どういう意味?」「マジかよ?!」「なんでそんなことしたの?」といったようなことです。

 おかしな状況に水をかけるような言葉です。
 

 つっこみとは、自分の感覚から発する言葉でもあります。

 母親は否定のメッセージを発しているときにメタの言語化をされるのは脅威ですから、それを子どもに禁じます。

 すると、子どもは、真に相手の意図を組み、真に自分の思いを表現するという、正常な関係にとって基礎的なコミュニケーション能力の欠けた人間に育っていくのです。それどころか、自分の感情や考え、本心が何かもわからなくなるのです。

 

 以前、このブログで、トラウマが重いと「壊れたラジオ」のようになる、ということを書きましたが、トラウマを負った方は、まさに自分の感覚や、メタを言語化することが苦手です。

 自分の本心を言うことに制限がかかっているので、えんえんと壊れたラジオ、あるいは酔っ払いが管を巻くように話続けたり、自分の状況を尋ねられても自分のことをうまく言葉にできないということがあります。そもそも自分が何を考え、感じてて、何を言いたいかも自分でわからなくなるのです。
参考)→「”壊れたラジオ”のように

 

 なぜこうなるか?といえば、頭の中に家族との歪んだコミュニケーションで負った矛盾した状況を内面化していて、さらに、「自分(の考え、感覚)はおかしい」という不安が強固に思ったまま、会話しようとしているからです。

 おかしな連立方程式を解きながら会話しようとしていて、さらに解けない自分は他人よりも劣っている、欠陥がある、と自己否定しているからです。

参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 こうした生育歴で成人した場合、非常な生きづらさを感じることになります。

 ベイトソンは、統合失調症を例としていますが、統合失調症になるか、複雑性PTSD(アダルトチルドレン、ヤングケアラー状態)となるかは、その人の体質や気質によります。
 パニック障害として現れる場合も珍しくありませんし、多重人格となる場合もあります。うつや不安症、強迫性障害、俗にいうパーソナリティ障害、依存症としても現れます。

 それぞれは、ダブルバインド状況の中で葛藤から発症し、発症によって何とかその状況から抜け出そうとする心身の働きです。
   

 しかし、本人は生きづらさを抱えてカウンセリングなりにかかったとしても、はっきりと自分を表現することもできず、「明確に親が自分を虐待したという事実」も見つけることができず、「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・(だから、ただただ自分がおかしいのでは?)」と言うことになります。

 さらに、症状が出ているのは自分で、家族は社会的には問題ないとされています。同じ環境で育った兄弟は見た目には病んでいなかったりもする(本当は同じではないのですが)。パフォーマンスが上がらない、たまに耐え切れずに親に暴言を吐くような自分のほうがおかしいとされる“客観的な”状況がそろっており、そのことも苦しめます。

 まさに、“あいまいな”マルトリートメント(虐待)です。

 

 実はここでご紹介した“あいまいな”状況こそが一番深刻とさえ言えます。
 わかりやすい虐待のほうが、相手が悪で被害者が善であると認識しやすく、社会の承認も得られてよほど良い、とさえ言えます。

 そして、治療者も、ダブルバインドなどの知識がなければ、状況を洞察できず、バランス感覚を重視して根拠もなく決めつけるようなことを避けたいという心理も働きますから、治療者自身もその欺きに少なからず加担させられるなどという恐ろしいことにもなりかねません。

 仮に、良い治療者に出会っても、子どもは家族を守るために内(家)の文化をどこか守ろうとします。場合によっては、医師やカウンセラーに対して家のおかしさを理知的に語るかもしれません。しかし、その物腰は本当に家族の文化にどっぷりつかった人のそれで、どうしても核心に迫れない、本当の解決策につながれないということも起こるのです。

参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 ※ここで表現したのは母子関係に単純化したもので、実際のケースではここに兄弟、父や祖父母などが複雑に関係してきます。

 

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トラウマ、ハラスメントによってどのように頭がねじれるのか?~連鎖して考えてはいけない

 

(いろいろなお考えの方がいる中で、政治的な話題というのを取り上げるのは、あまりよろしくないのですが、あくまでわかりやすくするためのネタとして政治的な話題の部分は話半分でお読みください)

 最近、ウクライナの停戦交渉がニュースになっています。

 今回、皆様がご存じのようにロシアが侵攻してウクライナと戦争になっています。

 背景は置いておいても、まず、侵略したロシアが国際法上も悪い、というのが土台にあり、そのうえで、ウクライナは抵抗して戦っていて、長引いていて、さあどうするか?というのが現状です。

 

 不思議だな、と思うのは、ネットでニュースなどを見ると、早く停戦の判断をしなかった、ウクライナの対応が悪い、といった論を目にすることです。

 
 あれれ?
 「ロシアよ、撤退しろ」というならわかります。

 かつてのベトナム戦争の時も、反戦デモというのは基本的に、ベトナムにムダな抵抗はやめろというのではなく、侵略しているアメリカに撤退を求めるものでした。そうであるなら、ロシアに向かって戦争をやめなさい、というのが筋、となるはずです。

 

 しかし、なぜか、戦っても勝ち目がないんだから、すぐに白旗を上げないウクライナが悪い、大統領が頑固で悪い、という話が普通に語られていることです。いつの間にか、ロシアの侵攻が自然災害のように動かせない前提扱いになっていることです。

 これを評論家とか識者が言っていて、いくら頭がよくても人間の頭って面白いねじれ方をするものだな、とおもうのです。
 ※もちろん、NATOの東方拡大の影響、といった背景はあるのですが、今回はそれは置いておきまして。 

 

 さて、なぜ、あまり好ましくない政治ネタからブログを始めたか?といいますと、実は、トラウマを負った方でも、こうしたねじれ方が顕著に見られるからです。

 

x)背景-a)原則-b)事実認識-c)方策 と連鎖しているとします。

 

a)原則:加害を行う側が悪い、被害者(自分)は悪くない、おかしくない

b)事実認識:自分は加害を受けている
 
c)方策:状況を改善する方策として加害者に反撃する、止めてと言う 距離を取る

x)背景:加害者が加害に及んだ加害者側の事情
 
という風に整理をされますが、

 最後の c)方策 ができそうもない、と感じられることで、b)事実認識 も a)原則 までもが歪められる、ということがあるのです。

 

 

 たとえば、母親からマルトリートメントを受けてきた、言語化できないけどおかしな対応をされてきた、という方がいて、言っても母の対応は変わらない、距離をとっても追いかけてくる、という場合に、

 なぜか、「母が悪いと思えない」「私も悪い」「申し訳ない」と思うようになったりa)、「母も頑張っていたのだ」「それほどひどいことをされたわけではない」というように事実認識b)さえ歪むようになります。
「酸っぱいブドウ」で木になっているブドウが食べれないなら、あのブドウは酸っぱいんだ、と思おうとするキツネに似ています。

 

 さらに、母の持つ背景 x) に理解を示そうとしたり(例:「母も祖母からひどい目にあったから、自分におかしな対応をするようになったのも無理はない」など)。
  ※冒頭の例でいえば、NATOの東方拡大がロシアに与えた影響に相当

 

 母親の背景に理解を示す、というようなことは、自分のトラウマが癒えた後で十分なはずです。まずは、自分の被害を満腔の怒りで訴えて、現状を捉えることが大切です。
 

 

 ここで大切なのは、何か?というと、

 x)背景- a)原則- b)事実認識-c)方策  をつなげて考えない、ということです。

 それぞれはパーツパーツで切り分けて捉える、ということです。

 

 a)原則 と b)事実認識 はただそれだけで捉える。

 a)原則 としては、この世の誰も、自分を侵害する権利などない、という認識が大切。

 加害者は、この原則を口八丁手八丁でゆがめようとしてきます。「お前がおかしいからだ」「お前にも問題がある」「私も傷ついた」というように、やくざの因縁などまさにこんなかんじです。そして、b)事実認識も歪められてしまいます。

 

 
 その原則の上で、
 b)事実認識 をしっかりすることです。

 その際には、因縁で「作られた現実」に惑わされないことです。

 誰しも、Doing行為レベルのミスはします。そのミスをあげつらわれて事実認識を歪められないように、喧嘩両成敗、どっちもどっちにならないように。

参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 

 例えば、加害者が怒鳴ってきた、というのと、被害者が叫び声をあげた、怒鳴り返した、というのは同じ行為ではありません。 前者は加害としての「暴言」であり、後者は守るための「抵抗」です。

 特に家族では、これをごちゃごちゃにされてわけがわからなくさせられているケースがよくあります。
 (例えば、親に言い返したら揚げ足を取られたり、「親にひどいことを言って来るお前はおかしい」、「言い方が親族の~~とそっくりだ」として、罪悪感を植え付けられたり)

 

 因縁をつけてくるやくざも、殺人を犯した加害者も、生い立ちには不幸があったりするわけですが、そんな加害者の x)背景を、被害者がまず考えてあげるなどというようなことは、トラウマによって作られたまったくもっておかしな考え方です。

 家に入った泥棒にもなにか理由があった、なんて考えるなんておかしなことです。
 
 ただ、怒る、「いい加減にしろ」というのが健康的です。

 

 しかし、トラウマを負うと、加害者の背景も同時に考えて「おかしな連立方程式」をくみ上げてしまう。 
 それだけでも実際にパニックを起こしてしまうほどに、頭がごちゃごちゃになります。

参考)→「おかしな“連立方程式”化

参考)→「パニック障害の原因とは何か~内因説と「葛藤によるパニック」

 

 
さらにいうと、x)背景 の前には、z)ローカルルール があります。

z)ローカルルール-x)背景-a)原則-b)事実認識-c)方策 というように。 

z)ローカルルール とは、親子は仲良くしなければならない、とか、家族は大切だ、といったことです。

一見もっともに見えるけども、実はそうではない規範です。

参考)→「ローカルルールとは何か?

 

このローカルルールがあると、そのあと x)背景-a)原則-b)事実認識-c)方策  は連鎖して歪みます。

 

 冒頭のウクライナの件でいえば、「人は絶対に殺してはいけない」「戦争は絶対に良くない」といったようなことがローカルルールです。
 確かにそうなんだけど、自分たちの尊厳を守るためにはどうしても戦わなければならない場合(自衛)はあるよね、という“常識”までが無視されて理想が優先されるとそれは z)ローカルルール に転落してしまいます。

 

 いつのまにか、加害者は戦争をしてもいいけど(侵略は自然災害のように動かせない前提とされ)、自分は理想に殉じて無抵抗でなければならない、といったようなローカルルール状態が作られてしまいます。
(こうした政治ネタは、あまり好ましくないのですが・・ご了承ください)

参考)→「“足場(前提)”の複雑なねじれ

 

人間は、z)ローカルルール と c)方策 を加害者に抑えられることで、 a)原則 b)事実認識 が歪み、加害者の x)背景を考えろ、となるわけです。

 こうした作用こそが、トラウマの柱の一つであるハラスメント(心理的支配、呪縛)というものです。

戦争などは、心理戦、や ソフトパワーというように、この z)ローカルルール と c)方策 の奪い合い です。

z)ローカルルールは「大義(例:錦の御旗)」をどちらがとるか、c)方策は、圧倒的に被害を与えて、戦意をくじき、相手に勝てない、と思わせるかということなのでしょう。

 トラウマでも、まさに、家族などの加害者から「大義」や「戦意」を騙され、奪い取られています。

 

 

 実際は、ローカルルールであり、相手に大した力などないにもかかわらず、巨大な力を持っている、自分は無力だ、無価値だ、と錯覚させられています。

トラウマから抜け出すためには、こうしたメカニズムを客観的にとらえたうえで、自分の考え方や捉え方がねじれないように、z) ローカルルールを疑い、パーツパーツを別々のとらえる。つなげて考えない。

しっかりと、a)原則 b)事実認識 をまなざし続けることが重要なのです。

そうすれば、c)方策 は何とでもなります。支援者もいます。
特に加害者は社会的には非力で大したことのない人であることが多いのですから。
お悩みの当事者は単に無力と思わされているだけで、当事者のほうが実際にはよほど力を持っているのです。

 

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世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 トラウマや愛着障害について記事や情報をお伝えすると、その生きづらさや悩みを表現する際に、どうしても健康な人という、物差しを設定して、それとくらべて「トラウマを負った人は~」「愛着不安を抱えた人は~」という書き方になってしまいます。

 それを間違って捉えると、トラウマを負った人はハンデを負ってて、今働けている人、仕事で活躍できている人、主婦(主夫)でも幸せに暮らせている人は問題なくて、それが出てきていない人はおかしい、損をしている、というような見方になります。

 しかし、実はそうではありません。

 世の中で活躍できている人が万全、健全というではないのです。

 順調故に間違った適応をしてしまい、そのまま定年くらいまでは行ってしまう、ということは珍しくありません。

 

 東大の安冨歩教授が書かれた本に『幻影からの脱出 原発危機と東大話法を越えて』というものがありますが、その中で、熱心に授業を受ける学生たちと、テストだけ要領よくこなす学生たちがいるといいます。

 安富教授の経済学の講義や課題図書などは決して簡単なものではなく、一夜漬けでなんとかできるようなものではないそうです。

 当然、熱心に授業を受けた学生が高得点、満点を取りそうですが、実際はそうではなく、テストだけ要領よくこなす学生たちが、要点を捉えた完璧な答案を書いてくるというのです。

 反対に、授業を受けた学生たちは、色々と考えてしまうからか、7~8割の点で止まってしまいがちです。

 

 安富教授も「なんでもかんでも100点を取ってくる東大生という人々は、想像を絶する人種です」と述べています。
 

 まさに、官僚や企業エリートになったら、「できる社員(官僚)」として称賛されるパフォーマンスを発揮できるでしょう。

 反対に自分で色々考えるせいか、7~8割の点しか取れない学生たちはどうでしょうか?

 上司の指示に対しても、色々考えるあまり、さっと動けなかったり、自分の意見を入れるためにビジネスで称揚されるフレームワークやロジカル・シンキングのセオリーからも外れ、「自分の意見と事実は分けなさい」と、上司から作った資料に駄目だしされそうです。

 

 

 かく言う私も、あきらかに後者で、いろいろと自分で空想や妄想を考えて盛り込んで怒られるようなタイプです。
 そうこうしている間に如才ない同期や先輩は、簡潔な資料をまとめて合格点を取っている、というような場面は実際にありましたし、大学(院)でも発表で勢い込んで大恥をかいた経験があります。
 

 仕事においても、ほんとうに脇目もふらずに目標達成に向けて邁進できる人を横目に、目標の意味とか、自分にしっくり来るかこないか、といった余計なことを感じるようなタイプでもありました。
 
 
 大企業の一部などにはいますが、目標達成に完璧なまでにフォーカスして全くぶれないような人は、私などからすると宇宙人のように見えます。
 

 そういう人は、会社でも出世しますし、評価されます。

じゃあ、その人達は本当に万全なのでしょうか?
  

 

 話は戻り、安富教授は、何でもかんでも100点を取ってくる東大生について、「なぜそういうことが可能か、理解に苦しみました」と言います。そして「色々と考えた結果、それは、自分というものがないからではないか と思い至りました」と述べています。

 どういうことかというと、例えば「わかる」というのは、自分の身体で反応すること、自身も学習に伴い変化することで、当然そこには、身体にとって違和感のあるものは違和感として反応することは多々あります。

 すべてを受け入れるなどはありえない。他者同士なのですから、なんらかの違和や差分が生じて当然です。だから、いつも100点を取るほうがよほどおかしい。

 さらに言えば、「暗黙知」が働く見えない次元を通じた学びというものによって人間は了解していきます。それが豊かさに繋がります。

 一方、なんでもかんでも100点を取る人というのは、ただ情報を箱に出し入れして処理しているだけで、そこには自分の身体を通じたやりとりも、自身の変化もありません。暗黙知も働かず、表層的な情報処理にとどまります。
  
 
 そうした芸当は、自分を失ったままのほうがむしろ効率的(コスパ、タイパよく)できるものです。

自分の“意見”もはっきり言うこともできるでしょう。

 「あの人は自分の意見をはっきり言うことができる」と評価されるかもしれません。

 そのうえで「立場」「役職」に身をおくことで、さらに自分は脇において置くことが合理的となります。

 

 ここまで極端ではなくても、現代の会社などの組織はよくできていますから、
立場・役職をまとえば、自分を脇においたままに、定年くらいまではそのまま行くことはできます。

 
 会社では周りを理不尽さの犠牲にするような、そうした人ほど出世したりもします。そうした人が果たして幸せか?はわかりません。

 

 あるいは、専業主婦(主夫)でも、自分を脇においたままに、子供が成長するくらいまでは行くことができます。

 しかし、その後はそうはいかなくなります。

 自分を置き去りにしてきた問題が押し寄せてきて、不調となって現れたり、一人前の人間として人生の問題に対処できない、といったことが生じてくるのです。

 万全に見えること、万全に見せることが、自分というものをもっと深刻に失わせてしまうのです。

 トラウマを負った人のほうがよほど自分という問題に向き合うことができている。周回遅れに見えて、実は先頭に立っているということがあるのです。

 

 

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