人間は、問題を正しく認識できれば、解決することができる、と言われることがあります。
それはたしかにそうで、あまり難しすぎる問題であれば問題としても認識されませんし、私たちは、正しく問題を捉えられれば解決の糸口はそこここにあるものです。
岡目八目といいますが、他人から見たら「なんで、そんなに悩んでいるの?ぱっとやってしまえばいいじゃない」と思えることもしばしば。
でも、本人の中ではう~ん・・・となっていたりする。
そのときには必ず、本来は簡単なはずの問題が本人の頭の中では、連立方程式になっていることがあります。
それも、3つも4つも式が連立している。
現実では 6x+ 1 = 13 といった簡単な式のはずが、
悩んでる人の頭の中では、
6x+ 1 = 13
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x+9y+z=1 (ローカルルールA)
x+2(y+6z)=1 (ニセの責任)
x÷3yz=5 (ローカルルールB)
といったものになっている。
そして、どうやったらいんだ~?と悩ませている。
いやいや、ローカルルールとか他人の責任がくっついてじゃましているだけですよ、ということなのですが、本人は気づいていない。
「ローカルルールも含めて計算しないと正しい答えにならない」「現実の問題だけで解いたのでは自分勝手で冷たい、そっけない、罪悪感を感じる」という感じなのです。
このように問題解決に進むことができていない、あるいは生きづらさを感じている、という場合、目の前の事象を連立方程式で捉えている、ということがあります。
「自分は嫌なんだけどやらなければならない」「苦しみに耐えるのがあるべき姿だ」とか、というのも、まさにこの“連立方程式”になっている、ということ。
健康な世界は、シンプルな1本の式のあつまりです。
ハラスメントというのは、そこにローカルルールや他人の責任をくっつけて“連立方程式”にしまうことをいうのです。
(社会学では、こういうことを「関係性の個人化」といいます。社会の構造的な問題である場合でも、個人の努力のせいだと言ったりする。こうした理屈もローカルルールといえます)
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」
変な式がくっつくことを昔の人は、因縁とか呪いとか、カルマとかなんとかと表現したのかも知れません。
自分の悩んでいることには何がくっついているのかを見てみることです。
劣等感、自己否定感、罪悪感、義務感、責任 など・・・・
それらはすべて本当のことではない。ローカルルールであるということです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
「いや、現実に失敗してきた。事実こうだ」という場合は、それが「作られた現実」ではないか?ということをチェックしてみることです。
(参考)→「「事実」とは何か?その2」
まちがって、その“連立方程式”を解こうとしてしまうと、頭は終始ぐるぐるして、エネルギーを無駄に使い、解離してしまったり、依存に陥ってしまったり、はたまた妄想に走るしかなくなってしまう。
“連立方程式”は解こうとしてはいけない。
むかし、ベイトソンが、ダブルバインドといいましたが、まさに「ダブルバインド」は、解が出ない式がくっついてしまうこと。
今では否定されましたが、一周回ってオープンダイアローグで大きく改善するようになったことを考えると、統合失調症なども、いってみれば連立方程式化で病状がなりたっているかもしれません。
(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント」
依存症でも、治そうとするとドツボにはまるが、開き直って“底をつく”とよくなったりする。依存症も連立方程式化した結果といえるのかもしれません。
連立方程式を一時的に外すためには、酔っ払って酩酊するしかない、というわけですから。
(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと」
ひきこもりも、“連立方程式”が積み重なってしまっていると考えられる。
(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント」
人間の生きづらさや、苦しみとは、“連立方程式化”なんだ、と考えるとなかなか奥が深いものです。
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」
問題を連立方程式にしないことを、「免責」とか、キリスト教などで言えば、「祝福」ということになるのかもしれません。
効果のある心理療法は、“連立方程式”状態を外すことが大きな目標であると言えます。
外してしまえば、本来の式はシンプルですから、あとはご本人が勝手に解決していける、というようになります。
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
(参考)→「「免責」の“条件”」
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