もっといい加減に、というダブルバインド

 

 ここ数回の記事では、「わけのわからなさ」「いい加減さ」というものにこそ、自分の足場があるのではないか?ということをお伝えしています。

(参考)→「わけのわからなさを承認できていないと、他人のおかしさにも拘束されやすくなる

 乳幼児などは、ある意味、わけのわからなさ、いい加減さの塊のようなものです。
 

 それらを受け入れてもらうことで、安心安全(愛着)というものを感じていくことができます。

  その、足場を作る、本来の自分に戻るという際に、もう一つ罠となるのが、反面教師や偽の役割を背負わされる、追いやられるという問題です。

 
 アダルト・チルドレンや、ヤングケアラーといったことがまさに典型ですが、家族が機能不全に陥ると、その中で才気ある子どもは、その役割を埋める、埋めさせられることを背負わされます。

 家族はいい加減に、わけのわからないことをしているのですが、自分は「きっちり」「ちゃんと」ということを強いられる。

 自分が「わけのわからなさ」「いい加減さ」を見せると受け入れてもらえずに、否定されるということが生じます。

 もちろん、家族がおかしな価値観に支配されていて、子どもの「わけのわからなさ」「いい加減さ」を受け入れないという場合もあります。これもある種の機能不全です。

(参考)→「機能不全家族に育つと、自分が失われて、白く薄ぼんやりとしてしまう

 

 そんな中で育つと、自分というものは段々と失われて、「きっちり」「ちゃんと」という部分だけ、役割や立場だけが自分となってしまいます。

 生の素材の風味や地味はできる限り脱臭して、削ぎ落とした料理を作るようなものです。食品サンプルのような自分が出来上がってしまい、本来の自分に戻ろうにも抵抗が生じてうまく戻れなくなります。

 そうした状態の中で、カウンセリングやセルフケアに取り組んでみても、本来の自分≒何やら立派な存在 みたいにすり替わってしまって、足場になるようでならない、ということも生じてしまいます。

 

 更によくあるのが、周囲や家族が「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」といったアドバイスをしてくることです。

 こうした場合の「いい加減さ」「気楽さ」というものは、見かけは「わけのわからなさ」「いい加減さ」を示しているようで、実は本当のいい加減さではありません。

 

 あくまで周囲にとって都合の良い「わけのわからなさ」「いい加減さ」であり、結局そうした言葉を通じてその人を否定しているだけだったりします。
「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」というアドバイスが、暗に「あなたは真面目てつまらない人間」というような前提を刷り込むような結果になってしまい、自分のほんとうの意味での「わけのわからなさ」「いい加減さ」に戻ることを妨げます。

 そのアドバイスに沿って、「わけのわからなさ」「いい加減さ」になろうとしても、アドバイスに従うということ自体が自分を失う結果をもたらしたり、「そうはなりたくない」という反発を生むなどして、本当の足場にはならないのです。

 あるいは、エッセイや自己啓発本が唱えるような、「気楽に」とか「いい人はやめよう」といったことや、「老荘思想」みたいなものにも足場はありません。読んだ一瞬気持ちよくなるだけです。
 
 
 まさに自分の中にある自分の「わけのわからなさ」といったものを見つめ、捉えて肯定していくことにこそ、足場ができていきます。

 だんだん、周りが大したことがない、ということが見えてくるのです。

 

 

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ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 これまでの記事で見てきましたように、私たちがこの社会と生き生きと関わるためには、主体性を持って向き合うことが必要になります。
言い換えると“私は~”で生きる。 「自分」というIDでログインすることが必須になります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 この“私は~”というものを健全に出せば出すほど、愛着的世界に入り、世の中はこちらに優しく関わってくれます。反対に、“私は~”を隠して、回避すればするほど生きづらいものになってきます。
 主権を奪われて、他人の価値観で、他人の言葉で生きていくようになってしまうからです。

(参考)→「「私(自分)」がない!

 
 自分らしく生きていくためには「自分」のIDでログインする。“私は~”というものを表に開示していくということが求められます。

 ただ、多くの場合、そこには強い恐怖感がつきまといます。

 “私は~”を表に出したら、他人から攻撃される、否定される。あと、自分が独りよがりになってしまうのでは、といった不安です。過去に失敗してきた苦い思い出が蘇ってきます。

 

 そのために、“私は~”は殺して、理想的な人間を目指すニセ成熟状態となってしまうのです。

 スピリチュアルなもので回避したりすることはもちろん、“私は~”を回避するというのは、結果として他者に依存することになります。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 記憶では、今までの人生において“私は~”を出したから人から攻撃されたと捉えていますが、よくよく検証してみるとその反対だったりします。

 例えば親とか周りから理不尽に怒られたり、感情をぶつけられたりする場合も、相手はそれをローカルルールとして成立させるために「あなただから」と「あなたに問題があるから」因縁をつけることがよくあります。

 ただ、理不尽なことをされたり、感情的にされているのも嫌ですが、相手を支配するためには、自分の言動を理屈でコーティングしないと成り立ちません。
 ローカルルールは、相手に「自分が間違っている」と思わせて完結するという性質があります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 理不尽を受けた側もローカルルールに巻き込まれて、「自分はおかしい」「“私は~”を出すと攻撃される」「自分だからだめなんだ・・」というふうに捉えてしまいます。

 そうすると、“私は~”を奥へと引っ込める。“私は~”を回避するということが身につくようになります。
 

 「私は~」を出すことを回避することで、生育の過程で内面化した他者の価値観が前面に出てくるようになります。
 特に他者のローカルルールが前に出てくる。

※解離の方は、父や母など強くハラスメントを仕掛けてきた方を内面化しているのため、父母と同じ否定的な言葉を発するようにもなります。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 ローカルルールは自他の区別を越境するようにして「こうあるべき」「こうあるはず」というふうになりがちです。“私は~”というものを脇においた言動になります。

(参考)→「ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す

 あるいは、自己不全感を癒やすために躁的になったり、自我肥大したように自分をアピールするような言動となることもよくあります。  

 その言動が他者の違和感を生みますから、さらに「おかしい」と指摘されるようになります。 

 本人は、自分が喋ったり行動したりしているため、まさか「私は~」を脇においているとは思いません。
 むしろ“私は~”を積極的に出して行動していると考えていますから、「おかしい」と指摘されると「“私は~”を表に出したからこうなった」と、回避を強化するようになります。

 さらに“私は~”を奥へと引っ込めるようになるのです。

 

 

 「自分のIDでログインする、といっても今まで「私」を出したら嫌われていたし、さんざん否定されて嫌な思いをしてきたから、それはできない」というのは、“私は~”を出すどころか、反対に“私は~”を回避する言動を取らされていたために起きていたのです。

 “私は~”を出すと否定される、というのは誤った強いられた条件づけだったわけです。
 

 
 本来“私は~”を出せば出すほど、自他の区別はつき、他人への侵害、他者からの侵害はなくなるものです。

 なぜなら、「私は~と思います」「私は~と感じます」といっている限りは、他者からも「あなたはそうなのね(私とは別)」で終わるからです。

 自他それぞれが適度に区切られた中で「つきあう」ことができるからです。

(参考)→「「私は~」というと、社会とつながることができる。

 

 

 しかし、“私は~”がなくなって、「人間全般」として言動するようになると、真逆となります。

「人としてこうあるべきでしょ?」ということから言動するため、他者には侵食的で強い違和感、反発を持たれます。

 他人の言動に対してもイライラが止まらなくなります。

 本当にあるべき行動をしてくれないし、こちらは“私は~”を抑えて我慢してがんばっているのに察してくれないという不満が湧き上がってくるのです。

 
 さらに、人とも馴染めず生きづらくなってしまうのです。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 
 “私は~”を出すことが問題の根源と思い込まされ、“私は~”を抑える方向に努力をするのか?
 
 “私は~”を出すことが解決の道と知り、“私は~”を出す方向に行くのか?

 全く真逆ですが、この迷子になっているかのような状態になっている方はとても多いです。

 というか、この迷子自体が生きづらさの本質といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示がずっと効いてしまっているようです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」 

 
 「“私は~”を出したら嫌な目に合う」という壁を越えることは、愛着を回復するためにも、自分の人生を生きるためにも一大ポイントといえます。
  

 

 

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「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる

 

 言葉やイメージによって人を操る、というと新興宗教の教祖とか独裁者が浮かびます。

 有名なところでは、ナチスのヒトラーがいます。

 巧みな宣伝と演説で人々を熱狂させて権力を握って、ユダヤ人を虐殺したり、戦争をしたり、と考えられています。

 親衛隊のユニフォームは有名デザイナーにかっこよくデザインさせて、ヒトラー自身も多くの人に支持されるようにと軍人にもサラリーマンにも労働者にも見えるような制服を着ていました。
 党大会では一糸乱れぬ行進と、サーチライトを光の柱に見立てて幻想的な風景を演出したり、といったように。

 そんなことから、大衆というのは、言葉とかイメージで簡単に操られてしまう、と考えられてきました。 

 

 

 しかし、最近の研究ではこうしたことは否定されています。 

 どうやら「巧みな宣伝で人々を熱狂させた」という事自体がナチスの宣伝だった、ということのようです。

 今残っている映像などは、ナチスが撮ったものなので、宣伝がうまくできているように見えるように編集されているわけです。

 

 
 実際のナチスの宣伝の方法などは、他の政党もやっていたもので特別なものではなかったようですし、それほど巧みでもなかったようです。 

 しかも、当時のナチスの支持率は高くなく、政権を取れたのも偶発的な要素も強い。
  
 宣伝の力というよりも、どちらかというと、議会戦術で他党が妥協しているあいだに権力を握った、というのが実際のところです。
 

 現代のプロパガンダの元祖ともいえるナチスの実態もこのようなもので、言葉やイメージで現実をなんとかできる、というのは、実はかなり怪しい「神話」なのです。

 

 そのナチスドイツは、戦況が不利になってきた1943年に、宣伝大臣が巧みな演出で盛り上げた演説を行います。
 宣伝大臣自身が「最高」と自賛するような演説ですが、その結果はどうなったでしょうか?

 戦況は全く好転しませんでした。当たり前です。巧い演説したからと言って敵が手を緩めるわけはありません。

 当時は東側でソ連と戦っていましたが、ソ連は大量の戦車と人員を投入して怒涛のように迫ってきます。

 1年後には、国内でもヒトラーを暗殺しようという人が出てきます。
 このように人々が熱狂的に支持していたわけではありません。

 さらに、ノルマンディー上陸作戦の成功で、米英軍も西から迫ってくる。

 結局、左右から挟まれるように首都ベルリンが陥落して負けてしまいました。

 宣伝が巧みといっても、実際はこのようなものです。

 
 

 同じ時期、日本も戦争をしていましたが、最終的に、世界の5分の4の国を相手に戦うような状態に陥っていました。
 
 「軍部が暴走して、人々はいやいや悲惨な戦争していた」と私たちがイメージするのと違って、当時の日本人の戦意はとても高かったようです。

 一般市民もアメリカとの戦争を期待していて、慎重な政府や軍部の上層部もその声を無視できず、「ここで引き返しては世論やすでに中国大陸で犠牲になった人たちに顔向けできない」という面子もあって、ズルズルと戦争に突入していったという要素も強いようです。
 (新型コロナで政府が世論とマスコミに押し切られて緊急事態宣言を出した状況とどこか似ていますね。)

 先日の記事でご紹介したような日記もなぜあのような言葉出てきたかというと、「負けるはずがない」と考えていたからです。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 

 

 でも、戦意がいくら高くても、「負けるはずがない」とおもっていても、物理的な現実には歯が立ちません。
 最新鋭のB29の大編隊で空襲されて焼野原になる、さらに原爆も投下されるなどして、ご存知のように日本も負けてしまいました。

  
 言葉やイメージは、「物理的な現実」によってかんたんにねじ伏せられてしまいます。

 

 

 例えば、現代でも、電通などの広告会社がキャンペーンをしたりしますが、何十億円を投じても、失敗することがあります。

 平成は「モノが売れない時代」といわれましたが、そんなときにいくら巧みに宣伝をしても人々が熱狂して買うなんてことはありません。

 
 じつは売れるモノというのは最初から売れる要素・価値があって、宣伝というのはあくまで早くそれを必要な人に伝えるためにあるものなのです。

 

 

 確かに、言葉というものが持つ力、というものはあります。
 人を勇気づけたり、感動させたり。時代を先どったり。
 
 ただ、それは言葉が時代をつくる、というよりは、あいまいな時代の変化を「代表」して表現している、というもので、言葉が時代、社会を変えるというものではどうやらないらしいのです。

 糸井重里さんなどが、「おいしい生活」などのコピーで80年代を代表しましたが、あれも、キャッチコピーが時代を変えたのではなく、時代の空気を感性でキャッチして言語化した、としたほうが適切。

 

 
 近年は災害が多いですが、歌手などのアーティストが、「こういうときは、僕たちは無力で」みたいなことをおっしゃるのをよく耳にします。
 
 筆者などはそうはおもわないのですが(「歌は十分に社会の力になるよ」とおもいますが)、確かに、災害が発生した直後は、物資がまず第一。直接的な物理的な援助こそ求められるというものです。
 言葉でいくら励ましても、物理的なものがなければたちゆきません。

 カウンセラーなども同様で、災害時への対応の指針となる「サイコロジカル・ファーストエイド」というものがあります。
 その中でうたわれているのは、「見る・聞く・つなぐ」というものです。
 つまり、災害時の支援では、なにか言葉かけをするとか、そういうことではなく、物理的な支援につなぐこと、安全を確保すること、そばにいることで安心を提供することが仕事になります。

(参考)→「【保存版】災害(震災、水害、事故など)時の心のケアと大切なポイント

 そこでは言葉は求められていません。 

 アーティストが災害時に「僕たちは無力」と感じるのも常識的な感覚です。

 

 

 私たちは、ポップ心理学や自己啓発の影響のためか、いつの間にか人の言葉や評価イメージが物理的な現実よりも大きく感じさせられています。ポジティブな言葉を言えば現実が変わる、みたいなことを聞いて確かに勇気づけられますが、言葉やイメージの価値がインフレーションを起こした結果、他人の言葉やイメージにも過剰に敏感になってしまう副作用も起こしている。
 (そもそも生育環境で他人の言葉や評価に振り回されてきた経験も重なります。)

 そのために、他人から「あなたってダメな人ね」と言われたら、そんな気になって落ち込んでしまう。

 なぜなら、言葉やイメージはすごいって思わされているから。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 
 もちろん、それはいわゆる暗示にかかっているだけで、「物理的な現実」としての私たちが言葉によって変わることは絶対にありません。

 目の前の「みかん」が、言葉やイメージによって「りんご」に変わることはありません。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。

 以前も書きましたが、フッサールという人間の認知の仕組みを研究した哲学者も、認知とはすべて主観だが、「物理的な現実」というのはその主観をねじ伏せるように立ち現れる、としました。

(参考)→「物理的な現実への信頼

 

 本来、言葉やイメージというのは力がなく、「物理的な現実」によってねじ伏せられてしまうものなのです。

 セラピーとかカウンセリングも、負の暗示から別の言葉イメージに移すためにあるのではなくて、本来の「物理的な現実」に気づいて、それによって、おかしな暗示、”作られた事実”をねじ伏せるためにあるものです。

 

 
 筆者も最近、スポーツをしていたときに、人の目が気になって調子を崩しそうなことがありましたが、そのときに、「物理的な現実は変わらないから、これまで練習してきた分の力は自然と出るはず」と自覚してみると、力が出て、思う通りにプレーすることができました。「物理的な現実」が負の暗示をねじ伏せてくれたな、と感じました。

 他者から「あなたって、~~な人ね」と言われて力を奪われてしまう、ということはしばしばあります。

 現在や過去に人から言われたひどい言葉、気になる言葉で力が抜けそうになったら、「物理的な現実」「物理的な自分」と思ってみることです。

 言葉に対して言葉、イメージに対してイメージの場合は、打ち消そうとしても、すぐにぶり返しますが、「物理的な現実」だとサーッと負の暗示が抜けていくことを感じることができます。

  
 「物理的な現実」としての自分は、言葉やイメージによって1ミリも変わることはありません。

 そこに気がつけば、「物理的な現実」が他者からの言葉やイメージもねじ伏せていってくれます。
 

 

 

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「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 筆者は、趣味でテニスをしているのですが、先日、同じスクールの人に「(新型コロナの)ワクチンって打ちますか?」って尋ねられました。

 世間話ですから、真剣に答えるものでもないので「いや~どうですかね~。すぐには打たないんじゃないですか。」「自分が打たなくても、たくさん打つようになったら集団免疫ができますし・・・」
なんて、他愛もなく、適当に話をしたりしていました。

 

 ワクチンを打つ、打たないというのは、ニュースでも話題になっています。
もしかしたら、副反応が出たらどうしよう?といったことを考えるわけです。

 もちろん、何千、何万人もの人に治験して安全性をチェックしているわけですが、それでも、「大丈夫か?」となったり、「それだけの効果はあるのか?」とさまざまに検討がなされています。

みなさんも「新型コロナのワクチンができたら、自分なら打つかな?」なんて考えたことはあるのではないでしょうか。

 

 

 ちょっとかんたんな思考実験ですが、

 

 例えば、「新しいワクチンがあります。10人の人が効いたという“意見”を持っています。あなたは打ちますか?」と言ったらどうでしょうか。

 

 ほぼ100%の人が「絶対に打たないよ」というと思います。

「だってあまりにも人数が少ないし、しかも、人の“意見”でしょう?それだけでは信用できないよ」と。

 意見ではなく、なにか疫学的チェックが入っても、治験のサンプル数が10人ではほぼ打たないでしょう。

 100人ならどうか? 「打ってもいい」という勇気のある人が一人二人は出るかもしれませんが、多くの人は打たないでしょう。筆者も打ちません。

 

なぜでしょうか?

 当たり前のことですが、信頼性がないから。安全性が確保されていないから。
その人数では、効く、安全ということが事実であるとは到底いえないと考えるからです。

 

 効果がある、という事実もしくは信頼性がある程度確定するまでには、相当なチェックが必要とされることは言うまでもありません。

 

 人文科学、社会科学でも同様です。
 本当に事実とされるには、査読とか、様々にチェックされてはじめて「妥当」「確からしい」とされます。
 「私、見たんです」「そう思うんです」「10人の人がそう言っています」というだけでは、認められることはありません。
(参考)→「「事実」とは何か?その2」 

 

 

 

では、話題を変えまして、

 3人の人が
 「あなたが変だ。あなたは間違っている。あなたは嫌いだ」と言っていました。信用しますか? と尋ねられたらどうでしょうか?

 

おそらく、ガ~ンと頭を殴られてような感じがして、
「3人もの人が言っているんだったら、本当に違いない・・・」と思ったりしませんか。

 これが10人だったらほぼ確定。もう死刑宣告のような気がしてしまいます。

 

たとえ1人でも、

「他人が言っているんだったら、そうかも?」と思ったりしてしまいます。

 

 

 ワクチンだと、10人でも、100人でも「人の意見なんて信用できない」となりますが、自分に関する否定的な事柄になると、サンプル数が1であっても、信用してしまいます。

 

なぜなのでしょうか?

 

 これが、負の暗示の力、ローカルルールのもつ力によるものです。
ワクチンとか、他のことに置き換えたらもっともだ、ということでも、自分に関する事柄になると、重力が歪むがごとく、ぐにゃ~っと事実の基準も歪んでしまうのです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源

 

 自尊心が高い人だと、ここで、ショックを受けながらも、「いいかげんにしろ!」と怒ったり、振り返ってみて「う~ん、なんか肚落ちしない。なんかおかしい」となって、スルーすることができます。 自らの力で“治験”することができます。

 

 その際には、内面化した自分の仲間などを思い浮かべてその人達に頭の中でチェックを通してみるわけです。
 こうした治験、解毒のプロセスが「愛着」と呼ばれるものです。まさに心の中の免疫メカニズムです(アイヒマン実験で同様のことが指摘されています)。

 

 でも、愛着が不安定だと、あるいはトラウマを負っていると、このプロセスが機能しません。そのために、そのままその毒にやられてしまって自分を疑い、否定し、自尊心が低下していってしまうのです。 

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 他人の言葉をチェックなしに受け入れるなんてありえません。それは「素直」ではまったくない。「無防備(免疫不全)」といいます。「素直さ」とは、免疫システムをくぐり抜けて解毒された“後の”ものを消化吸収する機構のスムーズさのことです。ノーチェックで外から入ってきたものを受け入れることではない。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 世の中で、素直と言われたり、物分りが良い、と言われる人というのは、しっかりと免疫メカニズムが備わっている。ガードがしっかりある、ということです。だから、解毒して、必要なものは受け止めることができているだけです。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 

 「頑固な人」というのがいます。少々乱暴ではありますが、あれはあれで実は健全です。国境に未確認な飛行機が近づいたら発砲する、みたいなもので、それが普通。他人の話をチェックなしに受け入れるほうが、実ははるかに病的なのです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 

 でも、トラウマを負っている人は、ノーチェックで人の話を飲み込んでしまう。 

 何万人の治験をくぐり抜けたワクチンでも警戒するのに、人の話はそのまま信用して飲み込んでしまうことの異常さは繰り返すまでもありません。

 

 

 昔の王様などは、不老長寿のために水銀を飲んだり、今の時代から見たら毒でしかないものを服用していたなんてエピソードがあります。それと似たようなことがトラウマ。

 

 自分に自信がない、自分はだめだ、自分はおかしいという場合は、これまで生きてきた中で「他人の言葉」という、治験もされていないニセの薬を信じて飲まされてきた毒素にやられていると言っても良いかもしれません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 

 

 

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