言葉は物理に影響を及ぼさない。

 

 前回、世界は物理でできている、という信頼感。と書きました。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。

 

 

 本来は脅かされないはずのBeing が他者の言葉で簡単に覆されるように感じられてしまう。これがまさにトラウマというか、ハラスメントの本質とも言えるものです。

 多くの人は、この状況を自己啓発やセラピーによって対抗しようとします。

 自分に対して持っている負の感情とは、言葉でできているんだから、それを変えれば自分は変われる、というわけです。

 しかし、ここには重大な落とし穴があって、言葉によって変われる、という前提をおいているために、いつまでたっても「自分の存在は、言葉で容易に覆ってしまう」という感覚が拭えない、という状態が続いてしまうのです。

 オセロのように、黒を白にしたけども、また白が黒にひっくり返されてしまうかもしれない?!

 なぜなら、言葉でできている、という前提を持っているから。

 

 

 生きづらさが続いているケースでは、他人の言葉が自分のBeingに影響を及ぼすという呪術的な感覚が拭えない、ということがあります。とくに、母親父親の言葉は、自分の存在を規定しているように感じている。

 ポジティブに気持ちや考え方を変えても、また、頭の中で、母親や父親の言葉が響いてくる・・・

 たとえば会社で人からの評価が気になる・・

 「いかんいかん、ポジティブ、ポジティブ。私はすごい、私はすごい!」

 とやってみても、また覆されてしまうかもしれない。

 なぜなら、人間は言葉でできている、と本に書いてあったから。。

 

 もちろん、こうしたことは間違いです。 

 現代の自己啓発やセラピーの多くは、基本的にキリスト教文化の亜型ですから、言葉が大事というときには、それは「神の言葉」ということの言い換えで、言葉とは「人間の言葉」のことではありません。
 人間の言葉は戯言でしかありませんし、影響を及ぼす力はありません。

 

 自己啓発難民のようになっている場合、その背景には、「言葉が大切」と考えていることがあります。

 言葉なんてとても価値が低いもの、言葉は物理に影響を及ぼさない、と知ることのほうが絶大な威力があります。

 
 
 認知療法、認知行動療法など信念や内言を書き換えるといった療法も、ネガティブな信念(言葉)をポジティブな信念(言葉)に書き換えるものではなく、正しくは、内面化したネガティブな信念(言葉)によって現実を見れなくなった状況から、そのままに現実を見れるようにすることです。
 

 間違った用いられ方をしていて、 言葉 から 言葉 へ イメージ からイメージ へ といった空想界の戦いにとどまっているものが多いのですが、そうではありません。  

 

 言葉 から 現実へ  イメージ から 現実 へ これが本来の方法。

 

 ※現実というとあまりにも怖いイメージが付いてしまっているので、一時的にポジティブな言葉を経由させてもよいですし、実際、現実の自分はポジティブなものだから、ネガティブな信念から ポジティブな信念へ と書き換えても概ね間違いではありません。ただ、最後は、言葉やイメージというものから抜け出すようにしないと、またオセロゲームのようにくつがえってしまいます。

 

 言葉の呪術的な価値を解体していくのが本来の認知行動療法。 現実を拠点に主権を回復させるものです。

 
 現実というと怖く感じるかもしれませんが、もちろんそうではありません。
 怖く感じさせているのは言葉やイメージによってであって、現実というのは本来は抵抗の拠点となるものです。

 

 前回もかきましたが、目の前の りんご を 「みかんだ!」と言ってみても、りんごがみかんになることは絶対にないのですから、現実の力、物理の力ほど私たちを守ってくれるものはありません。

  
 

 

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お悩みの原因や解決方法について

世界は物理でできている、という信頼感。

 

 昨年のM-1グランプリをテレビで見ていましたら、審査員のコメントで、劇場で毎日着実に経験を積んでいるから」とか「芸を磨いてきているから(それが現れている)」といった言葉がありました。

 審査員たちが言っているのは、「実力をつけているから、面白い」「その実力も、毎日の積み重ねで積み上がっていく」というもの。

 例年よりも、そういうコメントが多いように感じました。
 レンガ職人がコツコツ積み上げていくような感覚。

 しかも、どこかでそれを芸に関わる人が共同作業で取り組んでいるような一体感もあるような。

 

 そこには“芸”という捉えづらいものなのに、「物理的な信頼感」がある、という感じでしょうか。
(参考)→物理的な現実への信頼」 

 

 それを聞いて、「トラウマを負った人にはこういう感覚はないな」と筆者は思いました。
 

 

 トラウマを負った人の感覚というのは、M-1グランプリでいえば、

 一発勝負だから、そこでファインプレーをできるかどうか。

 審査員に好かれるかどうかがすべて。

 審査員の言葉は神の言葉、それこそが現実。

 
 実力とは、人のご機嫌が得られるかどうか、ということだけ。
 得られれば自分は選ばれた存在で、そうでなければ自分は汚れた存在である。

 「芸を磨く」というのとは真逆の感覚。
 

 

 なぜこうなるか?といえば、
 生育の過程で、身近な人の言葉に翻弄されてきたから。

 自分というものの存在が、他人の言葉で一瞬で覆される、という理不尽な経験をしてきたから

 
 言葉で自分の存在が覆るといったことでよくあるのが、「あなたって、怒りっぽい」とか、「わがままだ」とか、

 夫婦に不和があると、対立する相手側に「似ている」といわれる。

 「あなたのそういうところがお父さん(おかあさん、おばあちゃん)とそっくりだ」というような言い方
(参考)→「「言葉」偏重

 

 本来は理不尽なものは、怒り一発で払いのけるものなのですが、その怒りという感情表現も封じられてしまっている。
 
 そのために、より深く理不尽さの中に抑え込まれてしまう。

 物理的な自分というものは、あくまで物理的に存在し、他人の言葉で変わるものではありません。

 りんごはりんご、みかんはみかん。
 目の前のりんごに「これはメロンだ」といっても、メロンに変わるわけではありません。

 
 でも、自分に対して向けられた言葉は、自分を「おかしなもの」「汚れたもの」へと瞬時に替えてしまう。

 そうすると、言葉や印象、人の思考がすべてを決めているような気持ちになってきて、相手の気持ちを過剰に読み、合わせるようになってしまう。

 コツコツ積み上げての一瞬で崩される感覚があり、また、相手に無理難題を叶えると喜ばれるので、つねにファインプレーを目指そうとしてしまう。

 

 自分のペースはなく、自分というものはありません。

 そうしてヘトヘトになっていってしまう。

 これはトラウマティック(トラウマ的)な感覚です。
 

 主権を奪われてしまっている。

 

 冒頭に、例としてあげましたお笑いの世界でも「面白いやつは、結局売れる」と言われるそうですが、世の中は本来、ある種の物理法則でできています。実力(Doing)がついたものは時間がかかっても認められる。

積み上げたものは容易に覆されることはない。

一方、存在(Being) については不可侵である、ということ。
 (デカルトによって、物理と精神(魂)とは分離されましたから。精神は物理に、物理は精神に影響を及ぼさない、というのが近代思想の基本です)

 Beingは誰にも脅かされませんが。脅かされるように感じられるのは、見せかけの暗示でしかありません。

 

 

 人格が順調に成熟してくると、Doing と Beingの分離が起きてきます。そして、世界は物理でできている、という信頼感を自然と持つようになります。
 反対に、うまくいかないと、Doing と Being がくっついたまま、しかも、Doing は他者の気まぐれで成功失敗が判定され、Beingも一瞬で塗り替えられるような感覚になってしまうのです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

おかしな“連立方程式”化

 

 人間は、問題を正しく認識できれば、解決することができる、と言われることがあります。

 それはたしかにそうで、あまり難しすぎる問題であれば問題としても認識されませんし、私たちは、正しく問題を捉えられれば解決の糸口はそこここにあるものです。

 
 岡目八目といいますが、他人から見たら「なんで、そんなに悩んでいるの?ぱっとやってしまえばいいじゃない」と思えることもしばしば。

 でも、本人の中ではう~ん・・・となっていたりする。 

 そのときには必ず、本来は簡単なはずの問題が本人の頭の中では、連立方程式になっていることがあります。

 それも、3つも4つも式が連立している。

 

現実では 6x+ 1 = 13 といった簡単な式のはずが、  

 悩んでる人の頭の中では、

  6x+ 1 = 13
 ————————————
  x+9y+z=1  (ローカルルールA)
  x+2(y+6z)=1 (ニセの責任)
  x÷3yz=5  (ローカルルールB)

 といったものになっている。

 そして、どうやったらいんだ~?と悩ませている。

 いやいや、ローカルルールとか他人の責任がくっついてじゃましているだけですよ、ということなのですが、本人は気づいていない。
 

 

「ローカルルールも含めて計算しないと正しい答えにならない」「現実の問題だけで解いたのでは自分勝手で冷たい、そっけない、罪悪感を感じる」という感じなのです。
 

 このように問題解決に進むことができていない、あるいは生きづらさを感じている、という場合、目の前の事象を連立方程式で捉えている、ということがあります。

 「自分は嫌なんだけどやらなければならない」「苦しみに耐えるのがあるべき姿だ」とか、というのも、まさにこの“連立方程式”になっている、ということ。

 

 健康な世界は、シンプルな1本の式のあつまりです。

 

 

 ハラスメントというのは、そこにローカルルールや他人の責任をくっつけて“連立方程式”にしまうことをいうのです。
 (社会学では、こういうことを「関係性の個人化」といいます。社会の構造的な問題である場合でも、個人の努力のせいだと言ったりする。こうした理屈もローカルルールといえます)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 変な式がくっつくことを昔の人は、因縁とか呪いとか、カルマとかなんとかと表現したのかも知れません。 
  
 
 自分の悩んでいることには何がくっついているのかを見てみることです。

 劣等感、自己否定感、罪悪感、義務感、責任 など・・・・

 それらはすべて本当のことではない。ローカルルールであるということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 「いや、現実に失敗してきた。事実こうだ」という場合は、それが「作られた現実」ではないか?ということをチェックしてみることです。

(参考)→「「事実」とは何か?その2

 

 

 まちがって、その“連立方程式”を解こうとしてしまうと、頭は終始ぐるぐるして、エネルギーを無駄に使い、解離してしまったり、依存に陥ってしまったり、はたまた妄想に走るしかなくなってしまう。

 

 “連立方程式”は解こうとしてはいけない。

 
 むかし、ベイトソンが、ダブルバインドといいましたが、まさに「ダブルバインド」は、解が出ない式がくっついてしまうこと。

 今では否定されましたが、一周回ってオープンダイアローグで大きく改善するようになったことを考えると、統合失調症なども、いってみれば連立方程式化で病状がなりたっているかもしれません。
(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント」  

 

 依存症でも、治そうとするとドツボにはまるが、開き直って“底をつく”とよくなったりする。依存症も連立方程式化した結果といえるのかもしれません。

 連立方程式を一時的に外すためには、酔っ払って酩酊するしかない、というわけですから。
(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと」 

 

 ひきこもりも、“連立方程式”が積み重なってしまっていると考えられる。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント

 

 人間の生きづらさや、苦しみとは、“連立方程式化”なんだ、と考えるとなかなか奥が深いものです。 

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 問題を連立方程式にしないことを、「免責」とか、キリスト教などで言えば、「祝福」ということになるのかもしれません。
 

 効果のある心理療法は、“連立方程式”状態を外すことが大きな目標であると言えます。

 外してしまえば、本来の式はシンプルですから、あとはご本人が勝手に解決していける、というようになります。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間とは、弱く、間違いをおかすものでもあります。
 人間はいい加減で、だらしがなく、まとまらない存在。
 よく「落語の登場人物のよう」といわれますが、こうした人間観、世界観は、「愛着的世界観」です。 健康な人にとっての見え方です。

(参考)→「非愛着的世界観

 では、弱く不完全であるということは、その存在がだめだということを表しているのでしょうか?

 そんな事はありません。

 その存在自体はなんの罪もなく、誰もが尊重されるに足ります。

 

 

 「もともと呪われている」「もともとがだめだ」というような考えというのは偽りで、滑稽なことです。

 

 例えば、カラスを見て、「カラスは呪われた生き物だ」なんて考えている人がいたとしたら、いつの時代の価値観なんだ!?と思われるでしょう。

 

 私たち現代人は、科学的な価値観を持ち合わせていますから、「カラスだってひとつの生き物だ」「いろいろな特徴や習性はあるが、それと存在の正邪は関係ない」と考えるでしょう。

 

 つまり、行動(Doing)と、存在(Being)とを分けて捉えていて、
 存在(Being)になにか根本的な問題がある、という考えはとりません。

 ゴミをつついたり、鳴き声がうるさくて迷惑をかけていたとしても、カラスは単なる生き物。存在(Being)自体にはなにも問題はありません。

 

 
 もちろん、存在(Being)にはなにも問題がない、からといって、カラスが完璧な生き物だ(生き物でなければならない)というわけではありません。

 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして、両立します。
 

 

 人間も同様です。

 冒頭に書きましたように、人間の行動(Doing)は、弱く、不完全です。間違いをすることもあります。
 しかし、それをもって、存在(Being)が「呪われている」「邪悪だ」ということを意味しません。

 人間においても、 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして両立するのです。

 
 愛着的世界観、健康な人間観では、存在(Being)は、行動(Doing)とは、全く別のものとして捉えられています。
 
 
 だから、安心して失敗できる。安心して自己開示できる。人を特別恐れることもありません。
  
 

 

 しかし、虐待とか、ハラスメントというものは、存在(Being)と行動(Doing)という別次元のものを無理やりつなげようとします。つながっているように見せる、刷り込む、そして行動(Doing)の不完全さによって存在(Being)の不完全を証明する、というトリックを行います。

 

 例えば、行動(Doing)の不完全さ、未熟さを取り上げて、存在(Being)がダメだと叱責する。
 子どもが失敗したことを取り上げて、「あなたは生まれてこなければよかった」といったことをいう。
 部下が失敗したことを取り上げて、「お前なんか、社会人として失格だ。クズだ」と暴言を浴びせる、といったようなこと。 

 

 健康な状態では別れていたはずの存在(Being)と行動(Doing)が繋げられて、しかも、存在(Being)が不完全だと思わせて呪縛にかけます。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 ここからがさらに厄介なのですが、ハラスメントを仕掛けられた人(被虐待者)は、その状態から抜け出そうと努力をします。

 努力というのは、行動(Doing)によって行われます。

 しかし、存在(Being)と行動(Doing)はもともと別次元のものであるために、いくら行動(Doing)を頑張ったとしても、存在(Being)のキズは癒やされることはありません。なぜなら、種類が違うから。

 

 存在(Being)のキズは、そもそも、呪縛によって仕掛けられたものなので、行動(Doing)よって挽回されるものではなく、あくまで、呪縛自体を覆しにかかる必要があるのです。

 

 しかし、そのことがわからないまま、行動(Doing)によって挽回しようとして、へとへとになってしまいます。

 特に、存在(Being)の完全性を取り戻すために、行動(Doing)レベルでも完璧さを求めて、絶対正しい、絶対に間違いのない、という領域を目指そうとして、挫折を繰り返すことになります。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 さらに、人間の本性は、行動(Doing)レベルは、弱く不完全なもの、ですから、どこまでいっても不完全なままです。うまくいったとしても、ゴールポストを動かされてしまえば、成功も失敗と判定される。

 「やっぱり、自分は存在自体が不完全なんだ、だって行動(Doing)レベルの証拠があるもの」となって、さらなる呪縛へと落ち込んでしまうのです。

 

 トラウマの裏には、存在(Being)と行動(Doing)との間違った接続、同一化が存在しています。

 

 

 

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