SNSが普及した現代では、ニュースや投稿に様々なコメントが寄せられます。
それぞれのコメントなど真に受ける人はいませんが、量や勢いで圧倒されて「炎上」ということが起きることはあります。
かつてのインターネットがない時代では、世の中に自分の意見を言える人というのは、それぞれの分野でそれなりの実績があり、発信する資格があると認められていた人達に限られていました。
出版社やマスコミ、各種団体等がそのフィルタになっていたわけです。
人間の言葉とは常に戯言でしかありませんが、かろうじて意味があると認めてもらうためには実績、資格が必要だったということです。
(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」
近所のおじさん、おばさんが世間話で、政治や哲学を立派に語っていても真に受ける人はいません。
「そうなんですね~」と言いながらスルーしています。
居酒屋で偉そうに武勇伝や説教をしている酔っぱらいの話を聞いて、真に受ける人もいません。
スポーツなどで、あまり上手ではないのに「教えたがり」の人がいますが、それもそのまま真に受ける人はいません。
それぞれに共通しているのは、「(それを言う)資格がない」ということです。
人間の言葉とは、何を言うか、ではなく、「誰が言うか(資格、筋合いがあるか)」です。
上記の近所のおじさんが「安倍首相はね~」というのは、内容は正しいかもしれません。でも、正しくても真に受けたりはしないものです。
それは、健康な状況では人間は、「言葉」ではなく、「態度」や「資格」「筋合い」に目を向けるからです。もっといえば、物理的な現実を見ている。
言葉ではなく、その「実態」を見ている。
言葉は立派でも、そこに劣等感や嫉妬などを感じ取れば、それは、「劣等感」「嫉妬」なんだと捉えます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
近所のおじさんが「あなたはね~」と言っても、真に受けたりはしない。
「安倍首相」が「あなた」になっただけで、近所のおじさんがそれをいう「資格」「筋合い」がないからです。
この「資格」「筋合い」の範囲というのは、思っている以上に狭いものです。
基本的に、なにか契約とか権限がなければ言うことはできません。
どんな立派な人でも、通りすがりの人を捕まえて説教をたれたりすることはできない。「なんの筋合いでそんな事を言ってきているんだ?」でおしまいです。
電車の中などで、マナーの悪い人に注意する、ということでも、よほどわきまえてないと、トラブルになってしまうのは、「筋合い」が明確になりにくいからです。
街中で人に関わる、というのは、「僭越ながら」という弁え(わきまえ)がないと成り立たないと言えそうです。
では、家族同士はどうか?といえば、実はこれも基本的には同じです。
家族といえども別の人間。
夫婦などがわかりやすいですが、意見が通るためには「やることをやっていないと」いけなかったりします。
「やること」とは、夫としての機能(役割)、妻としての機能(役割)。
しかもそれは時代とともに微妙に変化もしていきます。
家のことを何もしないで、夫(妻)が妻(夫)に対して偉そうなことを言っても、話が通るわけがありません。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」
あと、例えば、キッチンなど妻の領域については、基本的には夫の意見は通らない。そこは権限(なわばり)外だからです。
(家のこともしっかりやっていれば、聞いてもらえる一時的な資格は得られるかもしれませんが・・・)
(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント」
機能不全家庭に育ってトラウマを負ってしまった人は、その「資格」や「筋合い」がわからず、家のことはしないまま、妻や夫に実の母や父の役割を求めて怒り出したりして、混乱を起こしたりすることはよくあります。
さらに、何が問題かわからず、「相手は頑固だ」とさらにイライラしてしまう。でも、それは相手が頑固なのではなくて、町中の人に説教するのとおなじく、資格、筋合いがないから耳をかさないのです。
親子でも同様です。
基本的には別の人間同士であって、さらに子どもは今は未熟でも将来は一人前の社会人として独立することが予定されていますから、過度に価値観を押し付けたりする筋合いは、実の親にもありません。
かつては生みの親というものの価値は低く、「~~親」という社会的な役割はたくさんありました。
子どもは共同体で育てるもの、という考えもあるように、「血が繋がっている」というだけでは、ほとんど正統性はありません。
(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント」
親は、自分の価値観を伝えるのではなく、社会の常識を自分が翻訳(代表)して伝える役割である、と言えます。
さらに、子どもの年齢(発達の段階)によって関わり方も変わってきますから、柔軟に対応していかなければなりません。
うまく関わればよい(質)のではなく、関わる時間(量)も必要です。
そうしてようやく、子どもに何かしら、偉そうなことを言える権利は発生します。でも、聞くか聞かないかは子ども側の権限です。
子どもは、反抗期には精神的に直訳していた価値を殺して独立していきます。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」
ここまで見たように、何かを言うためには、資格が必要で、それ以外の言葉は受け取ってもらえません。
「友達からなにか言われて傷ついた」という場合も、相手には言う資格がありませんから、もちろん「意味のない音」としてスルーする。
愛着的人間観は、「人は皆、だらしがなくて、いいかげんで、どうにもまとまらないもの(人は弱い)」というものです。
誰も自分を棚に上げて、他人のことを言うことはできません。
立派に見える人でも、そう見せているだけ。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている」
社長を継いだ二代目が社員から認めてもらえずに苦労した、という話はよくあります。社長という肩書があっても、その役職に足る力があると認めてもらえなければ、部下も言うことを聞かないのです。
戦国武将などもそうであったようで、部下の武将から認められるように常に心を砕いていた。
(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本」
親もそうで、親として日々機能していなければ、子どもも言うことを聞かないのは当然のことです。
「とにかく、お母さんの言うことを聞きなさい!」というのは、「資格がないけど、私の私的感情をのみ込んでくれないと、居ても立っても居られないのよ」といって恐怖で言うことを聞かせているだけです。
人が他人に介入できる場面というのは、本当にごく限られたもので、よほどの実績と筋合いと、さらに相手の同意とがなければ成り立たないものです。
(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」」
野球では“超”がつく実績があるイチロー選手ですが、実は、マリナーズでは孤立して、最後は逃れるように移籍していったことがありました。どうやら、ストイックな態度がチームメイトから反発を買ってしてしまったようです。
サッカーの元日本代表で、かつてローマなどで活躍した中田英寿選手がいましたが、ドイツワールドカップの日本チームの中では、海外の経験からこうするべきと主張するものの軋轢を生み、孤立してしまったようです。
あれだけの選手でも、チームメイトの同意、つまり、相手の領域を尊重するといったことがなければ、その話(意見)を真に受けてもらうことはできない、ということです。
実績で劣る選手でも同じプロ同士、「イチロー選手のご意見であればなんでも承ります」とはならないものです。
自他の区別が厳然として存在していて、
そこで人に何かを云うためには、資格、実績が必要。
さらに、すごい実績があったとしても、相手の領域を尊重することがなければ(関係性ができなければ)、耳を傾けてもらえなくて当然。
(参考)→「自他の区別がつかない。」
つまり、人間は、そもそも人の意見などは聞く筋合いはない、というところからスタートしているということです。相手がいくら偉い人でも、自他の区別の境界は絶対です。境界を明け渡すことはありません。
(参考)→「他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。」
これは会社の中であっても同様です。社長でも実績がなければ部下は言うことを聞かないのですから。
かろうじて耳を傾けるとしても、せいぜい話半分で受け入れる、ということが人間にとっては健康なスタイルだ、と言えそうです。
イチロー選手や中田選手の言うことでさえチームメイトは耳を傾けなかったのに、なぜ、私たちは、はるかに実績の劣る親や友達の言葉(おかしな理屈)を真に受けなければならないのでしょうか?
しかし、ローカルルールとは、恐怖や不安とかなり変な理屈とで、こうした手続きを壊して、全権を委任したかのように、「すべての言葉を真に受けろ」という形にしてしまいます。
変な理屈とは、「親子だから」「上司と部下だから」「あなたはおかしいから」とか、冷静に見れば、なんの根拠にもならないような因縁のことです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
そして、いつの間にか言葉をやたらと真に受け重んじるような「言葉」偏重の状態、さらには言葉=現実としてしまうのです。
●よろしければ、こちらもご覧ください。