私たちは、人から干渉されることをとてもおそれます。
それは、過去に似たような状況で干渉されてきたトラウマによるものです。
人が人に干渉することが当たり前だと思っています。
しかし、実際はそうではありません。
人間は社会的動物です。
責任や権限、道理、根拠の有無にはとても敏感です。
道理があるところで、それを超えることはかなりむずかしい。
(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」」
さらに、人間というのは、誰もが弱く、だらしがない生き物でもあります。
「強く、しっかりした人もいる」と思うかもしれませんが、それは見かけだけです。
実態は見栄を張って隠しているだけ。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている」
見かけだけをそうしているだけで、本当はそうではありません。誰しもが弱く、だらしがない。
(「男はやせ我慢」みたいな台詞というかキャッチコピーがありましたが、我慢しているということは、内面はそうではないということ)
だから、人はだれも他人のことを裁く権利のある人はいない。
1.他者に干渉する権利もない、2.他者を裁く資格もない、というのが大原則です。
大前提なのですが、
この前提を見えなくさせるものがあります。
それが「不全感」というものです。
不全感というのは、要は「承認がない状態」「安心安全がない状態」のことです。
不全感を癒やすためには、他人を巻き込んでむりやり自分に関わらせるか、他人のNOを突きつけて自分をYESと浮き上がらせるか、しかありません。
そのためには、社会的動物である人間を巻き込むためにむりやり因縁をつける必要があり、「ルール」を騙り、ローカルルールを作り出すことになります。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
その際、自分が干渉する権利もない、裁く資格もない、という原則は脇にやられ、さながら自分が神様のような存在になります(エセ神化)。
エセ神化すると、その瞬間だけはニセの責任、罪悪感にまみれていた自分を解放することができます。
でも、すぐに苦しくなるので、ローカルルールの状態を続けていく必要があります。
さながらアルコール依存、薬物依存のように、抜けられなくなってしまいます。
依存症の人も人格がスイッチしたようになりますが、まさにスイッチした状態がローカルルール人格とも呼べるモードです。
(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」
「じゃあ、不全感を抱えた人に関わると干渉されるのでは?」と不安に感じてしまいます。
でも、不安には及びません。
よく見ればわかりますが、不全感を抱えた人も干渉するためには、偽のルールが必要なように、やはり人間は社会的動物であることには変わりがない、ということです。
つまり、道理をわきまえているところでは、干渉することはできない、ということです。
ヤクザでさえそうです。道理を越えることができない。
だから、因縁をふっかけて問題を起こして、自分のしのぎを確保するわけです。
因縁がなければ反社会的な人格であるヤクザでも他者に干渉できない、ということでもあります。
以前書きましたように、人間は公的環境ではまともでいられるが、私的環境ではおかしくなりやすい、というのもこうしたことを反映しています。
特に、「私は~と思う」「私は~と感じる」といって私を主語にしていると自他の区別が明確になり、公的環境が生み出されて、他人は干渉することはできません。どう感じるか、考えるかはその人の問題だからです。
(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム」
しかし、私を脇において、「人間とは~」「世の中とは~」といった話し方をしていると、他者を主語に置いていますから、他人がその内容に干渉する道理が生まれてきます(だって、他人の話ですから、他人も口出しできる余地があるように受け取られるのも理解できます)。
だから、トラウマによって、対人不安、社会不安になって、自分を隠して自己開示できなくなると、余計に他者からの干渉を受けやすくなるのはそのためです。(まさに、「私」、そして主権が奪われた状態。)
(参考)→「自分のもの(私が~)と言えないから、他人に干渉される。」
ただし、それも、あくまで言葉の内容に対してであって、その人の「存在」に対しては干渉することはできません。
(干渉というのは、結局は、かなり無理を敷いた幻想の中でのこととも言えます。だから、抜け出すこともできる。)
健全な状態であれば、人間は相手に干渉する権利がない以上、言葉とは、発する側に、ではなく、受け取る側に主権があります。
どう受け取るかは、受け手が決めるということです。
コミュニケーションは、相手に何かを伝えたり、相手から情報を得たり、
さらに内容を踏み込んで相手のことを述べたり、評論したりします。
それは相手に干渉する道理がなく、受け手に主権がある以上、やはり、すべての言葉とは「戯れ(たわむれ)」でしかない、ということです。
(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。」
それぞれの道理、領域が自他の区別のもとに明確にされた上で、戯れに言葉をやりとりする、というのが人間の交流のスタイルと言えます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。