人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 「人の話を真剣に聞かなければならない」というのは、わたしたちが俗に信じこまされている”常識”です。

 


 あるいは「自分の話も真剣に聞いてほしい」と思っている。

 人の話を聞かない、ということは不誠実なことであり、良くないことである。

 「聞く技術」なんて本が売られたりもする。

 


 一方で、人の話を聞いて、そこで引っかかった言葉が頭に残って、苦しんだりもしている。

 「人の話を聞くことが良いこと」であるなら、なぜ苦しむ事が起きるのか?

 


 人の話に引っかかる自分が悪い、ということで、修行僧のように「気にしないでおこう」と自己啓発に勤しんだり、

 「そもそも、人から指摘されないような更に良い人間にならなければ」となって、努力したり。

 

 しかし、すればするほど、さらに「余計な一言」をいわれて、苦しみは抜けない。

 

 


 一方で、あまり苦しんでいない人達がいる。

 実はトラウマを負っていない普通の人たちは、違う聞き方をしている。

 というか、実は人の話なんて聞いてはいない。

 


 適当に聞き流している。

 

 聞き流しているけども、表面的には「人の話を聞くことが大事」と言っている。

 

えっ、とおもいますが、これが暗黙のルールとなっている常識です。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 


 そして、そのことを悪用しているのがローカルルールです。 

 

 


 トラウマを負っている人は、「人の話を聞くことが大事」というローカルルールに苦しんでいる。


 本当の「聞く」とは何かがわからないまま、ローカルルールを真に受けていると、ずっと人の話で苦しむことになる。


 そのうち、人が怖くなったり、人と関わるのが億劫になったりし始める。 


 「またいつ嫌なことを言われるのか?」とビクビクしながら接することになる。


 


 ローカルルールに呪縛されてしまうと、健康な人のようには人の話を聞けなくなる。
 


 人の話を聞く、とはどういうことか?

 人の”話”とはなにか? 

 そもそも”人”とはどういう存在なのか?

 


 例えば、人が悩みを話すとき、聞き手がその話を真剣に聞いたとすると、話をした相手は余計に苦しむことになります。

 

 なぜなら、悩みにあるということは、ローカルルールに呪縛されている状態であり、そのことで苦しんでいる。発せられる言葉は自分の言葉ではない。本来の自分の言葉を発することができずに、押し込められている。

 


 わたしたちが日常で発する言葉はすべてが戯れ言で、全てが無意味なことです。特にローカルルールによって作られた言葉はその人の言葉ではない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 そのため、表面的に発せられた言葉を真に受けてしまわれると、悩みをもった人は、悩みから抜けれなくなる。

 重いドヨンとしたままで悩みが残ってしまう。

 

 

 反対に、聞き手が、真に受けず、あたかも聞き流すように聞いた場合はどうなるか?


 話し手は、だんだんと自分の表面にかかったベールが剥がれているような感覚を感じるようになる。

 そのベールの向こうにある、本来の自分を感じられるようになる。

(参考)→「わからず屋の刑事(デカ)のように生きる」  

 

 

 カウンセラーでも、ベテランのカウンセラーは共感の姿勢を示しながら、実は話は聞き流して聞いている。
 
 もし、親身になって聞くカウンセラーがいたとしたら、巻き込まれてしまって、クライアントさんも悩みが解消されなくなってしまう。
 
 溺れている人を助ける人も一緒に溺れるような感じです。

(参考)→「寄り添いすぎて目がくもる

 

 


 人間は、適当に聞き流されることで、悩みが抜けていくようになっている。

 また、聞き流されることで、話の奥にある、真の意味が立ち上がってくる。
 

 話をしている側がほんとうの意味をわかっていないことも多い。


 特にプライベートでの言葉はすべてが戯れ言です。


 ただ、言葉に戯れるように接しないと、人との会話を楽しむことができない。

 


 日常はローカルルールだらけです。

 

 でも健康な人は、愛着の土台に常識を柱として真に受けず、戯れとして接することで、呪縛されずに生きている。

 
 
 ローカルルールに呪縛されることが、いわゆる“悩み”ということになりますが、その場合は、聞き手に”いい加減に”聞き流してもらうことで、ローカルルールから逃れて、本来の自分に戻ることができている。

 

 

 親身に聞く、というのは本当に親身ではなく、それは社交のための”フリ”であり、逆に、フリで聞いてもらわないと、真剣に聞かれたら聞かれる側も困るのです。

 

 もし、本当に親身に聞かれたら、聞き手もローカルルールに呪縛されて、悩みが抜けなくなってしまいますから。

 「人の話を聞くことが大事」ということをほんとうの意味は、話を聞いているふりをして、真に受けずに、聞き流せ! ということ。

 


“聞いているフリ”のことを、世の中では「礼儀」といいます。

 

 そうして初めて、人間同士はわかりあえたり、楽しくコミュニケーションをとることができる。

 

 

 わたしたちが「人と一体感がえられない」と苦しんでいた大きな原因の一つは、「人の話を真剣に聞かなければならない」というローカルルールにあった、ということです。

 

 

 

 わたしたちは、犬や猫に癒やされたり、まちなかで出会った気楽なおじいさんとかおばあさんと雑談することで気持ちが軽くなることはあります。


 犬や猫は人間の話を理解できません。でも癒やされます。


 人の話は真剣に聞いてはいけないし、聞いてもらわれてもいけない。


 人間の言葉、日常の言葉は”悪貨”で、良貨はその奥に埋もれてしまっている。

 だから、聞き流すようにしないと悪貨は取り除けない。


 プライベートでは、悪貨でもそれはそれとして戯れとして楽しむ。

 

 言葉は本来神のものであって、人の言葉は何も表していない。人間の言葉はすべて神の言葉に擬したニセモノなのです。

 

 言葉に関するローカルルールを壊すと、本当の自分が立ち現れてきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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