わからず屋の刑事(デカ)のように生きる

 

 過去に理不尽な目にあった人は、なぜ相手が自分に対しておかしなことをしてきたのか?について答えを求めようとします。

なぜ相手があんな言葉をかけてきたのか?行動をとったのか?

相手があのような行動に及んだ心理は何なのか?

なぜ、自分なのか?

自分にも非があったのではないか?

 頭の中がぐるぐるします。

 

 クライアントさんの中には、その分析を何年も何年もずーっと行っている方もいらっしゃいます。

 

 カウンセリングでは、辛いことでも話をしたりすることで和らいだりすると考えられています。分析することも、悩みを解決する上で役に立ちそうな気がします。

 しかし、結論から言うと、残念ながら、理不尽な目にあったことをいくら分析しても、反芻しても良くなることはほぼありません。特に、加害者(ハラッサー)の心理を分析したりすることは、むしろ症状は悪くなります。

 

 

 理不尽なことの正体はなにかといえば、「私的な感情」です。そこにいろいろな理屈をつけてコーティングしてそれらしく見せているだけなのです。

 だからそこには中身はない。あるのはその人の闇(ネガティブな感情)だけです。

 そうしたものを「ローカルルール」と呼びます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 正体は「私的な感情」にすぎませんから、実は分析する価値はないのです。
闇を覗くようなかっこうになり、その闇を隠すための屁理屈に巻き込まれて、「自分が悪い」と思わされたりするようになります。

 例えば、最近問題になっているあおり運転について、被害者が「加害者がなぜ、あんなことをしてきたのか?」「なぜ、私だったのか?」と分析しても意味がないのと同じです。

 

 何も出てこないのです。ただ、相手が運転の際に刺激を受けると人格が変わる人だ、ということ以外に理由はありません。

 

 いじめでも、なぜいじめっ子がいじめてくるのか?ということを分析しても意味がないのと同じです。

 いじめの研究でわかっていることは、ターゲットに選ばれるのは「たまたま」であり、強いて理由をあげるとしたら、いじめっ子は家庭などで不全感を抱えている可能性が高い、ということだけです。つまりすべて加害者の都合で完結しているのです。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因
 

 

 しかし、そのことがわからずに、加害者の心理を分析しようとする人は、取り込まれてしまいます。そうした例は枚挙にいとまがありません。

 いじめっ子をかばい、いじめられっ子にも非があると考える教師
 オウム真理教事件の際に、加害者にも寄り添って理解してあげなければ、と考える知識人、ジャーナリストたち
 やまゆり園事件の犯人にも、やったことは悪いが動機は理解できると考える人たち

なども、巻き込まれた状態の典型です。

(参考)→「寄り添いすぎて目がくもる

 

 

 不全感を抱えた人、言い換えるとローカルルール人格にスイッチした人というのは、独特な惹きつける魅力があります。凶悪犯や、悪人は特にそうです。

 

 それは、本当の魅力ではありません。

 単にパーソナリティに失調をきたした人が醸す独特の匂いでしかなく、偽物の魅力でしかないのです。

 

 繰り返しになりますが、ローカルルールにはニセの魅力があります。

 ※とくに、「ローカルルール」という名の通り、ニセモノでも「ルール」を握っている側ですから、魅力(権威)をまとっていないとローカルルールを成立させることができません。

 いじめっ子も魅力があって、いじめられっ子はいじめっ子に認められたいと思っていたりすることがある。毒親でも、親から認められたいと思っていたりもする。それらはニセの魅力からくるものです。

 

 

だから、分析したり、なぜか?と考えるとそこに巻き込まれてしまうのです。
 

 ですから、わたしたちも、
 「なぜ、自分の親はあんなことをしてきたのか?」
 「なぜ、私の上司はああいう人なのか?」
 といったようなことは考えてはいけないのです。
  

 

 

では、どうすればいいのでしょうか? 

 

 ヒントは、「わからず屋の刑事」にあります。

 サスペンスやハードボイルドのドラマ、小説では、主人公やあるいは同僚や先輩として、わからず屋の刑事が登場します。

起きた事件には魅力的なストーリーがあって、犯罪者もなんらかの背景を背負っています。感情移入をしてしまいそうな気になります。

 

 しかし、わからず屋の刑事は、「オレにはよくわからねえ」と取り合うことはありません。

 その刑事には共感力がない?

 
 いいえ、それでいいのです。
 刑事コロンボも、名探偵コナンも、感情移入して感傷に浸ったり、巻き込まれたりはしません。

 

 

 そういえば、映画「デスノート」で、犯人である夜神月が、エルの計略にかかり正体を暴かれた際に、世の中がいかに汚れていて、犯罪者たちを抹殺することが正当であるかを語るシーンがあります。

 それによって、エルたちを巻き込んで起死回生を狙います。

 

 視聴者である我々も、その迫力に気圧されながらも、おもわず「もしかしたら、なるほど正しいかも?」と少し気持ちが傾きます。

 

 しかし、エルは「(夜神月は)単なる精神異常者」と一刀両断にします。

 

 それでいいのです。

 

 わたしたちも、加害者(ローカルルール人格にスイッチした人たち)に対しては、同様の捉え方、接し方が大切です。

 

 「母親はなぜあんなことをしたのか?」なんて考えない。分析しない。

   
 人間は、私的な環境ではローカルルール人格にスイッチすることがあり、ローカルルール人格とは異常な状態なのだ、という理解だけで終わりです。

 

 加害者とまではいかなくても、日常で人と接するときは相手を分析したり、共感したりしない。人は容易に解離してしまうからです。

 リスペクトをもって接し、あくまで常識の土台の上で応対する。それを逸脱する状況は相手にしない。

 

 相手から、頭に残る意味深なことを言われたとしても、わからず屋の刑事のように「戯言」として切って捨ててよいのです。

 

 

 じつは、「わからず屋の刑事」とは、愛着が安定した、常識に足場を置いた、本来の健康な状態に近いものなのです。
 反対に、相手に共感したり、常に自分にも悪いところがあるのでは?と考える状態は、愛着不安やトラウマによって引き起こされたものといえます。
 

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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