わけのわからなさを承認できていないと、他人のおかしさにも拘束されやすくなる

 

 他人のわけのわからない行動を見たときに、自分のほうが固まってしまうことがあります。

 相手のわけのわからなさを変に忖度してしまって、黙ってしまうことがあります。

 特に、ハラスメントを仕掛けられたり、ひどいことをされると、見てはいけないものを見てしまったかのように、相手のおかしさに自分が呪縛される感覚を感じてしまう。

 「え??なにこれ?」っていう驚きとともに、それをバラしてはいけない、指摘してはいけないような圧と、秘密に呑まれるような感覚。それを他人に伝えても信じてもらえないような不安、自信のなさがある。 

 まさに他者の秘密、闇の世界に拘束される瞬間です。

 人から暴言をはかれたときにさっとつっ込めない。

 おかしな態度、言葉の裏には「他人に言ってはいけないよ」という二重のメッセージを暗に受け取ってしまうのです。

 レイプ、性的虐待などはそうしたことの最たるもので、相手の闇に圧倒されて、他者にそのことを言えなくなってしまう。

 いじめもそう。

 会社でのハラスメントに対しても「おかしい」と言えなくなってしまう。

(参考)→「ハラスメント(モラハラ)とは何か?~原因と特徴

 

 実は、私たちは、自分の中にある「わけのわからなさ」を承認、受容できていないと、人のおかしさにもさっと反応できなくなります。

 ただ、自分の良い部分、合理的で“まともな”部分だけを受け取って、それ以外を排除していると、他者がわけのわからない行動を取ってきた時に反応できなくなるのです。

 
 特に、「感情」はその最たるもので、感情をぶつけられると固まって、凍りついてしまう。

 感情をぶつけられた瞬間、驚きとともに、その後に、自分の中心がひんやりするような恐れが腸、胃から喉に上がってきて、頭がボーッとしてしまったりします。

 しかも、そうした事象を捉える際も「わけのわからなさ」を排除し、まともな部分だけで捉えようとするので、出てくる答えは、「相手を感情的にさせるのは、よほど私が悪い」というかなりおかしな解釈だったりするのです。

 妙に客観的になり、自分の主観からそれを解釈することができなくなります。
主観から解釈できないと、その体験は「自分のもの」ではなくなり、他人にも伝わらなくなってしまいます。

 

 わけのわからなさを一番身近に感じるのは、自分の親です。
最初は親は神のように完全で大きな存在として現れますが、健全な発達プロセスではそれが段々と等身大のものに変化していきます。
 親だって完全ではない、理不尽なところもあると、相対化されていきます。

 しかし、わけのわからなさを十分に承認される文化、環境がないと、自分のわけのわからなさは否定され、親のわけのわからなさはのまされてしまうようになります。

 

 例えば、
 母の機嫌の悪さは、自分のせい。
 母の不安は自分のせい。
 父親のだらしなさ、ダメさは自分のせい。

 それへの反発も手伝って、自分は「ちゃんと」しようと、頑張る。

 

 親は等身大化されるのではなく、いびつな形で残ったまま、飲み込まされ、自己イメージも等身大になるのではなくいびつに歪んでしまい、妙に自信があったり、妙に自己否定的になったりします。 
 

 そんな状態では、自分が起こす失敗はあってはならないものになって、恥や自責に塗れるようになり、つねに人から見てうまくできていることばかりを気にしたりするようにもなります。すると、相手の都合や評価がイコール自分という形になり、自分というものが失われてしまいます。

 人と付き合う際も、相手に対して作った自分が自分になってしまい、自然体の自分で付き合うことができなくなります。

 落ち着く自分の土台がないために、過緊張になり、いつもどこか浮ついて、あがっているような状態にもなります。
 

 わけのわからなさに十分に受容できていると、そこが本来の自分として、他者の闇に対しても反応がしやすくなります。
お笑い芸人が、薄々感じていることを前意識を言語化して、さっと突っ込んだりするように相手のおかしさを相対化できる。なるべく解毒することができます。 
 社会的な関係性から言語化できなくても、頭の中で突っ込んだり、茶化したりすることで、相手の闇に飲まれなくなります。
 物理的に距離を取れたり、関係を持たないという選択をすることもできるようになります。

 こうしたことから、わけのわからなさを受容していると、世の常識にしっかりと足場を置いて自分を保つことができるということがわかります。

(参考)→「自分の弱さ、わけのわからなさ~他者向けの説明、理屈から自由になる

 

 

 

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私たちは多様性のある関係(文化)を育む訓練をしてきていない~学校文化の悪影響

 

 
 筆者が以前、休日にスポーツをしていたときに、仲間の振る舞いに嫌悪感を感じたことがありました。

「たぶん、これが学校だと、いじめられるだろうな・・」という言葉が頭の中で湧いてきました。

 別に、その人が好きにしているのだから、イライラすることもないわけで、頭ではわかっていますが、なぜか嫌な気持ちは抑えられませんでした。

 帰りにふと、なぜそんなことを思うのだろうか?と振り返っていたら、「あ、そうか、これは学校スキーム、学校のカルチャーの影響だ」と気づきました。

 私たちは、小学校、中学校、高校とクラス制の中で育ってきています。

 
 人間関係も、そうした中で学んでいきます。

 
 クラス制とは、単一のクラスの場の空気に合わせて生活をすること、といえます。

 色々な性格のメンバーが集っているにも関わらず、1つのカルチャーに染まることを余儀なくされて、1つの文化や、価値基準の中で序列がなんとなく決まってしまう。
 

 そうした多様性のないカルチャーの極点が学校カースト、そして極限がいじめという現象です。

 世の中には人を測る物差しは無限にあるにも関わらず、ごく限られたもので規定され、ニセの序列までつけられてしまう。

 

 しかも、教師も、多様性のないカルチャーで育ってきているために、知識では、個性を尊重と頭でわかっていても、それを支える経験、体験、リソースが圧倒的に不足しているために、気持ちがついてこない。
 
 そこで、自分の限られた経験からくるローカルルールで判断して、「いじめられる側にも問題がある」「もっと本人が空気を読まないと」という感覚になってしまう。

 
 
 多様性の欠如を生むのはもちろん学校だけではありません。家庭はもっとひどいもので、機能が不全に陥ると、親の不全感からくる理不尽な単一文化の牢獄となります。
 
 

 いじめの構造研究で知られる社会学者の内藤朝雄氏は、そうした状況を打破するために、学校においては、いわゆる大学のように、クラス制ではなく、科目ごとにクラスを編成し直すなど、多様性を担保するしくみを提案しています。

 そうした取組は必要でしょうし、その他にも、特に学校においては、いかにすれば多様性、多元性を担保できるか、をもとに環境が設計される必要があります。

 なぜ、こうしたことを書くかと言えば、生きづらさの原因の多くが、取り巻く環境、文化の多様性の欠如によってもたらされるからです。
 

 そして、自身の生きづらさや悩みというものは、ご自身の「頭(心)の中」にあるのではない、と知ることはとても大切なことです。
 
 悩みの原因は環境の側にあります。

 仮に認知行動療法になどで取り組むにしても、影響している文化、環境、そして経験を変えるのだ、という観点が必要です。

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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神話と虚構

 

 

 私たちの周りには実は神話、虚構にあふれています。

 例えば、
 「あの人はしっかりしているから、そんな事を言うとは思えない」とか、

 「あの人は、会社では評価されているし、友達も多いから、あの人の言うことは間違いない」とか、

 「学歴が良くて、良い会社に言っているし、部長にもなれているから成功者だ」とか、

 

 反対に、自分に対しても虚構は存在します。

 「こんな失敗をする自分は、よほどだめに違いない」とか、
 
 「あんな発言で人を傷つけてしまった自分は罪深い」とか、

 「親との関係がうまくいっていないのはだめなことだ」とか、

 

  実は、こうした、自分はだめだ、とか、あの人はうまくいっている といったことは、わずか数点の情報から成り立っているだけの虚構に過ぎません。

 

 数点から成り立つものを、心理学ではヒューリスティックといいます。

 私たち人間は、現実の全てを認識することはできません。
 日常において全ての事象に対してそれだけの処理力はないし、全てに対してありのままの処理をしていまうとパンクをしてしまいます。

 だから、数点の情報から判断しようとする性質があります。

 ヒューリスティックとは、そうした意識の省力化のことです。

 

 神話や虚構というのは、その数点の柱を操作されてしまうことによって生じます。

 

 
 たとえば、友達グループの中で、人望がある、成功している、とされる人が「まともだ」というのも単に、いくつかの情報で判断している。
 

 ・割と立派な会社に努めている
 ・いつも、落ち着いて発言する
 ・友だちもいる

 だから、あの人はまともだ

 など

 

 でも、実際その人がまともかどうかなどは全くわかりません。

 事実、DVの加害者などは、上記の特徴に全て当てはまったりします。

(参考)→「DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 
 不祥事を起こす有名人たちなども、上記の特徴を満たしたりしていますが、実際蓋を開けてみると、その各条件を維持するために、周囲が犠牲を払っていることもしばしば。

 本人がその負担に耐えかねて、おかしな行動を取る、なんてこともあります。

 「ベストマザー賞」「ベストファザー賞」を受けた有名人が続けて不祥事を起こしていることが話題となりましたが、それなども、仮にも賞はだれかが選考していて当然なにかの情報から選んでいるわけですが、まさに虚構を掴まされているわけです。

 

 東大などの学歴があるということの背景には、幼い頃から、かなり窮屈に塾通いをしていて、ある種の歪みを抱えてしまっている人もいます。
 本当にオーガニックに頭がいい人いうのは稀で、だいたい、その領域で良い成績を取るための文化に過剰適応をしてしまっていて、融通が利かなくなってしまう代償を払うことも生じます。
 

 そうしたことへの違和感を書いたのが、例えば、東大の安冨歩教授が書いた「東大話法」に関する本などです。
 東大話法というのは、事務仕事などについてバランス感覚に優れたとされる東大出身者たちが発する、現実を歪める歪な会話や立場主義やを批判したものです。
 
 成功者やエリートとされる人たちも、ある種の歪みの上に成り立っていたりします。

 

 おごれる平氏も久しからず、ではありませんが、うまくいっている、ように見える状態と言うのは、ある一定の条件下で可能になっているだけでしかありません。

 とくに、水面下の水かきは世間には見えず、華麗な一面だけしか表には出てきません。

 

 スポーツ選手など、華麗なプレーの背景には、日々の努力があり、引退してからはもう競技に触れたくない、と言う人も少なくありませんし、プロになった時点ですでに、もうその競技に飽きていて、うんざりしている、なんてケースも珍しくないようです。

 学生時代に輝いていた人、成績の良かった人に、あとで話を聞いたら「当時は結構大変だった・・」なんていう裏話を聞くことなんていうのも珍しくありません。 

 

 学生時代にみんなから頼りにされていた人が、実は、アダルトチルドレン状態の結果「しっかりしている子」になっていただけ、ということもよくあります。
 

 

 経営者も、現役時代は華麗な業績を上げていても、実はそれは不正のためだったということもあります。
 資本主義というのはレバレッジを特徴としており、ブラック企業とされるくらいにおかしな企業でも上場するまではいきますし、大企業であれば、おかしな経営をしても5~10年は良い業績を出すことは普通にあるのです。アメリカのGEや日本の日産、ビックモーターのように、のちに問題が明らかになったりします。
 (さながら、ある特定の栄養素だけを接種したり制限をする単品ダイエットのようです。栄養のバランスを崩せば人間はダイエットに一時的に成功しますが、それは本当のダイエットでも何でもなく、その代償を後に払うことになりますがそれと同じです。) 

 

 でも「ほら、あの会社はうまくいっている、あの人はうまくいっている(なのにお前は)」と言われたら真に受けてしまう。トリックでしかありません。
 

 

 さらにいえば、そもそも、人間がまともだ、ということ自体が虚構です。
 ある一定の条件下でかろうじてまともに見えるのが人間というものです。 
このことは『プロカウンセラーが教える 他人の言葉をスルーする技術』(フォレスト出版)で書かせていただきました。

 人間は社会的な動物ですが、足場に多様性を欠き、ローカルな環境に過剰適応をしてしまうと、「しっかりしていて、まともにみえるけども(実はおかしい)」という状態に容易になってしまうのです。

 

 一方、虚構は自己評価にも向いています。

 ・自分は今働いていない
 ・友達も居ない
 ・上手くコミュニケーションが取れない

 だから、おかしい

 など

 ほんの数点のことで判断させられてしまっている。 
 

 これなども虚構です。

 ちょっとゴールポストを動かされてしまえば、数点の柱などを揃えることなどは造作もありません。

 そうして幻惑されると、「だめな自分」の完成です。

 一旦成立してしまうと、自尊心も失われてしまいますから、失敗を繰り返すことになります。

 そうして、虚構は何がしかの説得力のある”証拠”で固められて、事実のように思わされてしまいます。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 
 トラウマが長引く場合は何が原因かといえば、こうした虚構、神話があって、そのもつれ具合、絡まり具合がその主要な要因としてあり、それをほぐすのに時間がかかるということが背景にあります。

 虚構や現実は、前回の記事でお伝えしたような複数箇所でのハラスメント経験で強固なものとなります。

(参考)→「複数箇所での常識を揺るがされるハラスメント経験

 多くの場合、本人も、虚構だとは思えず、思うことじたいが「逃げ」「都合の良い解釈」「ピンとこない」として放棄されていることも珍しくありません。

 今回しているような「虚構、神話」についてお伝えしても「たしかにそうですが、でも、私はダメなんです」として無意識に流されてしまうということが生じます。

 

 

 

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“足場(前提)”の複雑なねじれ

 

 

 トラウマとは、ストレス障害+ハラスメントの大きく2つで構成されています。
 

 その中でも、ハラスメントは厄介で、簡単に言えば、より良く生きようとする意思を悪用し、その方の土台(足場)となるものを狂わせてしまいます。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 ハラスメントは、矛盾するコミュニケーションを使って、相手を支配しようとします。

 簡単に言えば、不全感から発した言動をルール、常識でコーティングして、呑み込ませようとする。

 自分が単に自分の不全からイライラしているだけなのに、それを「お前が悪いからだ」といってねじ伏せようとする。

 人間はDoingレベルではミスをする生き物ですが、Beingレベルでは無謬、無答責の存在です。

 しかし、Doingレベルでのミスを盾にして、Beingレベルを侵害して良い、というごまかしを行って、相手を支配する根拠とします。

(参考)→「哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 そうしたことを長い時間行われると、経験、体験レベルで”足場”が歪められてしまうようになります。

 さらに、より良く生きようとする意思や、世の中にある表面的な道徳が邪魔をします。

 道徳とは、
 「相手のせいにせず、自分に原因を求めて、改善しなければならない」
 「嫌なことをされても、相手を恨んではいけない」
 「感情は抑えなければならない」
 「家族は大事にしなければならない」
 「友人は大事にしなければならない」
 といったようなことです。 
 

 そうしてくると、段々と土台がねじれてきます。

 直感(本来の自分)では、相手に対する怒りや憎しみを感じていますが、それを直視してはいけない、それは抑えるべきものだ、としており、そのこともねじれの原因となります。

 さらに、問題の根源に怒りが向かずに、眼の前の人や物に怒りが向くという現象も起きると、もう訳がわからなくなります。

 

 

 

 ねじれとは例えばこのようなものです。

 1.親からハラスメント、マルトリートメント(不適切な関わり)を受けていた。
 
 2.しかし、それは自分がいい子ではないせいだ、自分が可哀想な親の代わりに頑張らなければ、しっかりとしなければいけない。
   (親は何をしてほしいかは言わずに、子供に忖度させるような関わりしかしないため、責任は忖度した側に負わされてしまう)

 3.機能しない親への怒りを感じる。

 4.しかし、それは抑えなければならない。感情は抑えるべきものであるし、親は可愛そうな人だから。

 5.親に認めてもらいたいのに、認めてもらえない。

 6.親に認めてもらうためには、いい子でいなければいけない、そのためには自我を抑えなければならない。

 7.認めて、と言うことも自我だから抑えなければならない。しかし、親は認めてくれない。更に怒りを感じるがそれは抑えなければならない。

 8.7までのことと、世間で流布されている道徳にまつわる表面的な言葉が結びついて、区別できなくなってしまう。
   「親は大事にしなければいけない」
   「人のことを悪く言ってはいけない」
   「愚痴を言ってはいけない」
   「努力して頑張らなければならない」など

   ※親が宗教などに傾倒しているなどの影響がある場合は、家の中でもそのような言説が通っているために、”道徳”の影響はより強く作用します。

 

   
 9.7までのことは、家の秘密として外ではうまく言語化できない。言語化できないためと、秘密であるため、とで自覚が薄れていく。
   (言語化困難はトラウマの影響もある) 

 10.社会恐怖、対人恐怖も相まって、世の中とはそのようなものだ、として家の中の出来事は「大したことがない」として記憶されていく。

 11.解放の足場となるべき外の大人が機能不全。親戚や学校など。
    場合によっては、親戚も巻き込まれていて、表面的な道徳を言われて混乱する(「いい子でね」「親を大事にね」など)
 
 12.7までのことは問題としてもはや自覚できなくなる(アプリオリ=所与の前提となってしまう)。

 

 

 ※社会に出てから

 13.他者に投影されてイライラが向く。眼の前の人が悪いからだとどうしても怒りが湧く

 14.他者に問題がないとすると、自分に問題がある、自分が負けたということになって、それは受け入れられない。

 15.現実の生活や仕事、学校でミスやハラスメントが続いて、自分が駄目な証拠が積み重なってしまう。
    (自分のだめな原因が、1~7のせいだとは言えなくなってくる。)
 
 16.自分を改善するために自己啓発などに励んで、一瞬良くなるが、だんだんそこで書かれた道徳が自分を縛るようになってくる。

 ※あるいは、

 16.自分の問題を解決しようとして、心理学セミナーや本をたくさん読む。
    そこに書いてある俗な理論や言葉(クリシェ)を当てはめて、状態を説明しようとしてしまい、逆に身動きが取れなくなる。
       
   ※言葉というのは慎重に使わないといけません。
    例えば、私達の生きづらさを特定の宗教やマルクス主義などの言葉で当てはめていくと、最初は良くても段々と窮屈になって、現実をそのまま捉えられなくなりますが、それと同様です。

 17.本来足場となるべきパブリックルールに対して気後れと反感があり、そこに足場が置けず、迂回ルートを通ろうとしてしまう。

 

 
 このような状態の方は少なくありません。多くの方に当てはまります。

 ですが、見ての通り、わけがわからない状態になっています。

 そうして、世の中の道徳とごちゃごちゃになった状態に足場を置いているために、問題を覆すための”支点(足場)”を得ることもできなくなっています。

 こんなにごちゃごちゃしていれば、スピリチュアルなどに頼って、「ログアウト」したくなるのも無理はありません。
       

 解離性同一性障害(多重人格状態)にある人などは、この上にさらに、内面化した人格が喋り続けたりして、カウンセリングが困難になります。
 「1~7に目を向けましょう」と提案しても、ごまかしたり、邪魔をしたり、退行(幼児返り)したりするようになります。

 

 ねじれを起こすのは、
 前回の記事でもかきましたように、

 ・表面的な道徳の言葉が当てはめられてしまって、反論ができなくなってしまっている
 ・経験や体験として、複数箇所で「自分が悪い」を感じてしまっているために前提を疑えなくなっている。「自分は本当は大丈夫」ということを捉えきれない。
 ・「これは絶対に正しいはずだ」として所与のもとして、初めから疑う、検討から除外、している。
 ・前提を見たくない、前提を疑うことは自分が間違っているということを認めることになる、という感覚
 ・加害者との”共犯関係”(加害者のマネージャー役、お世話係)になっている。
 
 というようなことがよくあります。

 

 最後の、共犯関係というのはやっかいで難しいものです。
 
 自分が属するグループ(家族)自体がおかしい場合には、自分もその構成員として属しているために、「自分も共犯」と言う位置に置かれてしまうことがあります。

 これは、その方にも問題がある、ということではありません。
 そのように思わされてしまう、ということです。

 
 戦時中やコロナ禍などもそうですが、社会全体がどこかおかしくなってしまう場合、例えば、個別の事象について違和感を感じても、それを全面的に表明することは難しく、最低限は社会に適応しなければならなくなります。

 そのために、完全に身ぎれいであることは難しく、反対したら「変人」扱いとなり、批判され、いじめられる。
 積極的に関われば「体制に順応した」となり後で責められる。
 消極的に無視をしても、「無視は加害といっしょ」ということにもなります。

 それぞれはなかなか難しい。マスクをしているだけでも、同調圧力に協力したことにもなりえます。

 

 家族についても同様で、賢い子供ほど、自分の責任と感じて、家族の問題の解決に積極的に取り組もうとして巻き込まれ、共犯化され、「お前もおかしなことをした」と言われたり、あるいは、抵抗して「あいつは変わり者だ」とされたり、するようになります。

 長年、おかしいなモノ扱いされ、あるいは、親の代わりに責任を引き受けしていくうちに、足場がねじれていきます。
 
 
 自分が問題解決に頑張ってきて「敗れた」プロセス全体としてですから、これを自分だけできれいに制することは難しく、さらにそこに屋上屋を架すようにして、さらにねじってしまう人もいます。

 屋上屋には、俗な心理学も含まれます。

 
 多かれ少なかれ、こうしたねじれは誰にでも存在し、そこから抜け出すことができるかどうかが、解決がスムーズに進むか否かに関係してきます。

 

 

 

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