ローカルルール人格は信頼ができそうになると壊そうとやってくる。

 

 難しいケースのセッションをしていると、最近「クライアントさんと信頼関係が出てきたな」と感じることがあります。ラポールが取れてきたな、という実感を感じます。
 信頼関係ができるということはとても大切なことで、解決の後押しになります。

 

 しかし、よくあることなのですが、信頼関係が出てきたな、と感じると、不思議なことに次のセッションでは、ちゃぶ台を返すように、そのクライアントさんが文句を言い始めたりします。
 

 以前だと、その文句を真面目に承っていました。「えっ、なんで?」と戸惑ったりもします。

 

 しかし、経験を積んでくると、文句を言っている際に言っている内容が全く理屈が通っていないし、おかしいことに気がついてきます。どうも様子が変だ、という直感を感じるようになります。 

 こちらが真面目に反省したいと頭で思っていても、身体が違和感を感じてきます。承ろうと思っても、何やら腑に落ちない、という感覚を感じるようになってきます。

 

 それが、のちにローカルルール人格に接した際に特有の違和感なのだ、ということがわかってきます。

 

 信頼関係 → 文句  信頼関係 → 文句  ということが繰り返されていくと、だんだん特徴が見えてきます。
 

 

 それは、ローカルルール人格というのは、信頼関係ができそうになると壊しにやって来る

 

 ということです。

 

 
 なぜ、信頼関係ができそうになると現れるか、といえば、信頼関係を壊すことで、クライアントさんの本来の自分は孤独に陥ってしまいます。そうすると、神のように振る舞うローカルルール人格に頼らざるを得なくなり、ローカルルール人格は延命を果たすことができるからです。

 

 

 筆者も、実際のセッションで、違和感を感じた際に
 「それ、ローカルルール人格のせいではないですか?」と指摘すると、 
 クライアントさんが、キョトンとして、「そうなんです。なぜか文句を言いたくなるんです」「ローカルルール人格といわれて腑に落ちました」
 とおっしゃったりする。
 

 

 それからは、信頼関係を壊す人格はかんたんには出てこなくなったりする。

 実はこうしたことは精神医学や臨床心理の世界では、「理想化とこき下ろし」と呼ばれて、伝統的に知られていた事象でもあります。

 (参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 自己愛が傷ついた方、境界性パーソナリティ傾向のある方に顕著ですが、目の前の人を理想化して、崇めた方思ったら、ある日、「実は、無神経な発言に傷ついていた」「態度が不快だった」「私を異常者を見るような目で見た」「帰りの際に目をそらしたのは、私が嫌いだからだ」と
いって、”本音”を吐露して、こき下ろし始めるというものです。

 

 

 理想化したら、”必ず”次はこき下ろしが来る、というのは治療の現場では「あるある」だったりします。
(いきなり、こき下ろしが来ることもありますけれども)

 これも、ローカルルール人格が原因だった、ということです。人格がスイッチしているためにおきます。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 理想化は極端ですが、友人、知人や、家族、治療者などと信頼関係ができそうになると、ローカルルール人格はやってきます。ローカルルールとは、ファシズムやカルトみたいなものですから、外の常識に触れられてはまずいからです。
 できるかぎり敵を作り、統制して、自分に頼らせておきたい。だから信頼関係ができては困るのです。信頼関係ができると破壊する。

(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 私たちの中でも、信頼関係ができそうになるとローカルルール人格がやってくる、ということを知り、壊そうとする動きが湧いてきた際は、立ち止まってみることが大切です。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 歴史学の世界では、「史料(資料)批判」という言葉があります。

歴史の史料も、それが本当なのか、適切なものなのかを吟味する、取捨選択することを言います。

 歴史学以外の学問でも同様で、研究で得た素材をそのまま無批判に受けるということはありません。その史料がどういった性質のものか?誰がなんのために残したものなのか、その意図や、内容が虚偽ではないか、を確認していきます。

 史料として集めても、極端に言えば、9割以上は使えずに捨てるという結果になります。

 

 理系での実験データなどでも同様に、その内容は徹底的に吟味されます。統計でいろいろと数字を出してみても大半は意味のあるものではなく、試行錯誤して、ようやく意味のあるデータを拾い出す、という感じです。
 

 

 このように、得られた史料、データや素材をそのまま用いることはなく、厳しくチェックした上でエビデンス(証拠)として採用されていきます。虚偽が混じっていたり、解釈のできないデータが入っていたりして、論文などはかけませんし、ちゃんとチェックをしなければ信用を失ってしまいます。

 

 

 
 「目利き」という言葉があります。
 例えば、宝石商の人が宝石の価値を鑑定したり、偽物かどうかを見極めたりします。

 最近は中古品買い取りが一大ビジネスになっていますが、ブランド物のバッグもマニュアルを作ったり、訓練を受けた係員が値打ちを判断し、買取額を判定します。
 

 鑑定せずすべてをホンモノだとして買い取ったりしたら会社は大損をしてしまいますし、顧客の信用を失ってしまいます。

 
 世の中は偽物も多く、まだ騙そうとする人もいます。そのため、それを選別したその判断をすることで秩序が保たれています。

 

 

 

 そんな中、私達の日常に視点を戻してみると、あれ?と思うことがあります。

 それは、「人の話をよく聞かなければならない」という考えが正しい、とされていることについてです。

 

 トラウマを負っている人たちに顕著ですが、「人の話はよく聞かなければならない、受け止めなければならない」という考えを私たちの多くは持っています。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 特に、
 「耳の痛い話ほど、受け止めなければならない」ということを私たちは独りよがりにならない戒めとして信じています。

 

 しかし、これはかなりおかしな、そして危険な考えです。

 

 

  
 例えば、私たちは、食べ物でも、毒のあるものは食べません。長い歴史の中で、人類は毒のあるものとそうではないものとを見分けてきました。キノコなどは猛毒のものもあります。間違って食べたら即死してしまいかねません。

 腐っているものも食べません。お腹を下してしまいます。
 だから親切に消費期限や賞味期限という情報が提供されています。

 食べ物は選り分けるのが普通で、なんでもかんでも食べるなんてことはしていません。体に悪いものは食べない。そうしなければ健康的な生活をおくることができなくなります。

 

 
 この世界で健康的に生活したり、事実を掴むためには、接する事物を吟味し、そして多くを捨てなくてはならないのです。まず受け入れることの前に、チェックし、捨てることが最初にあります。

 

 

 そうした常識の中、
 私たちは、なぜか、「人の話はすべて受け止めなければならない」という考えを信じています。

 そして、過去に言われた家族や友人知人たちからの言葉を、あたかも神からの託宣のように受け止めて、その呪縛に苦しんでいます。

 

 なぜ、このような考えが、正しいと受け止められて、広まってしまったのでしょうか?

 

 

 臨床などでわかってきたことで、このブログでも度々ご紹介していますが、人間というのは容易に解離します。ちょっとした刺激で人格がスイッチする生き物です。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 最近問題となっている、あおり運転をみればよくわかります。ちょっとした刺激で人格が変わります。並走車に割り込まれたり、相手がゆっくり走っていたりしただけで、不全感を刺激された人格が豹変して相手の車をあおり、暴力や、果ては殺人まで起こすということが起こります。

 

 DVもそうです。仕事では優秀な社員とされている紳士的な人が、家では人格が変わり、暴力を振るう。そして、常識からはわけのわからない理屈をこねて、暴力を正当化します。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策
 

 

 いじめもそうで、かわいいはずの子どもたちが、同級生をいじめて、最悪は死に追いやる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 そこにもおかしな行為を正当化する勝手な理屈があります。

 その勝手な理屈をローカルルールといいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 人間社会にはそこここにローカルルールというものが存在します。不全感から起きるネガティブな感情を正当化して、人を攻撃したり、支配したりすることです。

 

 ローカルルールは人から人へと感染していきます。
 特に私たちの中の人格に感染し、感染した人格は刺激を受けて前に出てきます。普段はまともなひとが、急におかしなことを言い出すのはそのためです。

 

 

 また、立場が近い人ほど互いに嫉妬に巻き込まれることもわかっています。 
嫉妬というものは厄介で、いくら理性で抑えようとしても抑えることは叶わず、嫉妬を刺激されると破壊的な人格に変身して、他者を惑わす言葉を吐いたり、攻撃したりします。

 こうしたことから自由な人は誰ひとりいません。
どんな立派な人でも嫉妬は沸き起こります。

 

 

 
 人間は、公的な環境では、本来の自分でいられますが、私的な環境におかれると解離しやすく、すぐにおかしくなってしまうのです(ローカルルール人格にスイッチするのです)。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 ローカルルール人格は、支配欲や不全感を発散させたいというネガティブな感情から、思わせぶりな発言をしたり、意味深なことをいったり、非難してみたり、そして、それを常識だとして騙ったり、様々なことをして、他者を惑わせています。 

 

 

 ローカルルール人格が発する言葉や理屈というのは、全く意味がありません。
 なぜなら、実態は個人的な感情だからです。

 以前の記事でも書きましたが、クレームについても9割はローカルルール人格が行っているニセのクレームです。あおり運転を行う人の文句と同じです。

(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 ローカルルールというのは、もっともらしい理屈を言ってみても、意味深な内容に見えても、中身は空っぽです。
 ですから、切って捨てないといけない。真に受けてはいけない。
 人間のコミュニケーションには相手を支配したり、呪縛したりして、拘束する側面もある。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 真に受けると、その方の本来の自分が蔑ろにされてしまうからです。
 

 

 

 世の中ではローカルルール人格による巻き込むためのニセの本音が飛び交っています。それらは、まともに相手にするようなものではないのです。 

 そうした環境に生きている中、「人の話はよく聞かなければならない」という考えは果たして適切なのでしょうか?

  
 当然ながら、全く正しいものではありません。

 

 人の話には、そのまま受け止めるのはあまりにも不純物が多すぎる。

 

 

 食べ物に置き換えてみれば、 
 「すべての食べ物はチェックせずにそのまま食べなければならない」といっているようなものです。毒や腐ったものにあたって死んでしまいます。

 

 実際に、人の話をよく聞かなければ、と真面目に考えている私たちは、人の話を受け取って、頭が真っ白になったり、体が固まったり、相手の発言が気になってぐるぐる回ってどうしようもなくなったりしています。

 人から言われた言葉を真に受けて、答えを探そうと私たちは何年もその事を考え続けてしまいます。

 本当は意味などなかったのです。切って捨ててよかった。

 

 

 これまでの心理療法では、話を受け取ったあとにいかに頭が真っ白になったり、ぐるぐる周りが起こらないか?ということに取り組んできましたが、よくよく考えれば、受け取る時点で、チェックして受け取らない必要があります。
 毒を食べてからでは遅いのです。

 

 そのためには、当たり前と信じてきた「人の話を受け取らなければならない」という考えを疑わなければなりません。
 

 

 正しくは、

 「人の話は聞いてはいけない(基本はすべて捨てて良い)」

 

 もっといえば、
 「よく吟味して、怪しいものはすべて捨てて、本当に大丈夫なものだけ、自然と伝わって来たものを吸収する」ということになります。

 

 特にローカルルール人格が発する発言は、全く意味をなしません。
 聞く価値はありません。

 以前の記事のも書きましたように、いじめっ子の身勝手な論理に耳を傾けるようなもので、本来は、一刀両断に切って捨ててしまわなければならないのです。 

 間違って寄り添うと
 「誤った共感」になってしまいます。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 意味深で、なにか意味があるのかも、とおもったり、人の話を聞かないと独りよがりな人間になってしまう、と考えてしまうとおかしな呪縛にかかってしまいます。 

 

 

 学問における、「優秀な研究者」とは、資料やデータを徹底して疑う人たちです。

 「良い目利き」とは、疑い、ニセモノや価値の無いものを捨てていく人たちのことです。

 

 同様に、「聞き上手」とは、人の話を真に受けない人のこと。人の話を聞かない人のことです。

 世の中で、「ちゃんと私の話を聞いてくれる」とか、「共感してくれる」という人は、実は、「人の話を聞いていない」のです。

 人の話を聞かないことで聞き上手になっている、というのは、ニセモノを見極め除いて、本物を受け取ってくれる、ということです。

 

 

 トラウマを負っている人たちは、
 「人の話をよく聞かなければならない」ということを強く信じている傾向にあります。

 それは、養育環境の中で、理不尽にさらされていたから。
 理不尽な家族や友人知人が、ローカルルールを強制する環境にいたために、「何を捨てるのか、何を捨てないのか」を混乱させられた環境で生きてきたから。
 

 直接的に「あなたは人の話を聞いていない(もっと私の話をありがたく聞け)」といった叱責を浴びてきた人もいるでしょう。
 
 あるいは、機能不全に陥った家族をなんとかしようとして、真面目に一生懸命、理不尽なものを全部を受け止めさせられてきたからです。

 恣意的にゴールポストを動かされて作り出された事実を客観的なものだと信じさせられてきた人もいます。
  
 トラウマとは、まさにローカルルールの毒気にあたった、中毒状態と言えるかもしれません。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 ここで書いてあることも、健康で、世慣れた人にとっては、実は常識といえるもので、「(人の話をいちいち真に受けて聞かないなんて)そんなの当たり前じゃない」ということだったりする(言葉には出さないけど実は常識という“裏ルール”)。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 でも、トラウマを負った人にとっては、わざわざ拭わなければならないくらいの枷となっていることでもある。

 

 

 私たちが、日常生活において、特にプライベートな空間でかわされる言葉の9割(99%?)以上は、真に受けず捨てて良い。ローカルルールが飛び交う中で、まともにうけるには人の話はあまりにも危険だからです。

 

 聞くべき話があるとしたら、お金を払って専門家からアドバイスを貰うか、信頼できる書籍の中からなどしかありません。つまり、ローカルルールが入る余地を排除した公的な状況でなければ人からは真に受けて良い情報は得られないのです。

 

 それでは安心して日常会話ができなくなってしまう、と思うかもしれませんが、会話が持つ役割が違うということです。
 日常におけるプライベートな会話とは、”戯れる(たわむれる)”ためにあるもので、真に受けるためにあるものではない、ということ。

 

 “戯れ”として接することができれば、リラックスして会話を楽しむことができます。稀にローカルルール人格が前面に出て失礼な発言があった際には、ツッコミをいれて、公的な状況を作り出して相手を我に返す。

 日常でおしゃべりを楽しんでいる安定型の人は実はこれができている。

 

 仕事(や学校)は公的な場ですが、社風(校風)にもよりますが、残念ながら特に社内というのも、どちらかといえばローカルルールがはびこりやすい私的環境に当たります。嫉妬や不全感と言ったものが顔を出しハラスメントが横行することもあります。

 真に受けられるのはどちらかといえば信用できるのは、お金のやり取りがある取引の場面での会話のみで、職場の会話も戯れとして聞く必要があるのでしょう。

 

 

 元ソニーの社員が書いた「できる社員は「やり過ごす」」という本でいわれているのは、まさに人の話は戯れとして真に受けず大事な仕事を見極めて打ち込め、ということなのだと思います。 

 反対にトラウマを負った人は、人からの話はすべて客観的な事実であり、神からの託宣のように受け取って、意味などないそのない意味をずっと考え続けさせられています。
  

 日常における人の言葉はまったく意味がない。戯れ※として楽しみ、流す。
 すると、自然と本当に受け取るべき本質が見えてきます。
 

 

 ※「戯れ(たわむれ)」とは、「遊び興じること。ふざけること」ですが、「戯言」と書くと「ざれごと」と読み「たわけた言葉。ばかばかしい話」という意味になります。

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ニセの責任~トラウマとは、過責任(責任過多)な状態にあるということ

 

 悩みの根源としてあるのは、「安心安全」の欠如、ということでしたが、
安心安全を得ることを阻む最大のものがあります。

(参考)→「「0階部分(安心安全)」の回復は問題解決の中核」 

 

 それは、「責任」というものの存在です。

 責任とは、人間の自由意思に基づく主体的な行動を前提として、その影響(原因)について、道徳的、法的に応答する義務、といったものです。「responsibility」 というように、応答する、反応する能力とも言い換えられます。

 

 愛着障害/不安定型愛着に「回避型」という類型があるように、私たちは、責任を取ることを極度に恐れます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 誰かのせいにしたり、ウソをついてしまったり、謝るけども腑に落ちないまま、といったことが生じます。
 応答する能力、ということでいえば、人とコミュニケーションをとる際は、正中と正中同士が向き合って接するというよりも、半身の姿勢で、いつでも逃げれるように接してしまいます。

 

 

 回避、防衛をすることに人間は膨大な労力を使っていて、それが、真にその人が力を発揮することを妨げています。

 「安心安全」に生きたいのですけども、社会で過ごしているとどこからか不意に「責任」を押し付けられて、それで身動きが取れなくなることを私たちは極度に恐れています。

 
 回避するために、問題行動を起こしてしまったり、うつや不安、依存、といった心身の症状に悩むようなことも生じる。

 

 結果どうなるかといえば、人生の主導権というか、主体性を失ってしまう。

 人間が自分の主体性を発揮していて、「責任」を取っていると感じられるときは生き生きしています。

 

 ですから、責任をとれるようになろう、ということで認知行動療法とか、自己啓発などで、自分の回避癖、防衛を取りましょう、という趣旨のセミナーとか、セラピー、ワークなどがあったります。
 しかしながら、うまくいくことはありません。
 やればやるだけ、反対に身動きが取れなくなります。

 

 なぜかといえば、それは、「防衛」「回避」している人は、責任を取っていない、取りたがらない、取れない、のではなく、責任を取りすぎている(取らされすぎてきた)からです。

 実は、ふつうの人以上に過剰に責任を負わされてきている。表面的には回避して頼りなく見えるかもしれませんが、責任感がとても強いのです。過剰に責任を取らされてきて、「もうこれ以上、責任は負えないよ!どうすればいいの!」という状態だからです(過責任)。

 

 しかも、その責任とは、実は本人の責任ではなく、「ニセの責任」や「他人の責任」を負わされてきているのです。
 

 「ニセの責任」とはどういうことかというと、例えば子供のころ、親がイライラしている、親が単に機能不全であるのですけども、そのイライラというのは、親の情緒不安定さ、であるわけですが、その責任を子供になすり付ける。

 「お前がいい子にしないから、私がイライラする(イライラするのはお前の責任だ)」

 親同士がけんかするのも「お前の責任だ」とされる。

 

 カウンセリングをしていてよく耳にするのは、
 子供が親から「お前は(仲の悪いほうの親と)顔や態度が似ている(お前はだからダメだ。その責任をとれ)」、というような暴言を浴びせられること。
 (「お前は、父に似ている」「お前は母に似ている」といった言い方です。)

 まさに、親という役割を放棄して(機能不全)、自分の感情や嫉妬といったことから「因縁」をつけているだけ。子供の責任をねつ造して、自分を優位に立たせたり、パートナーとの関係での不満の腹いせをしているだけ。何ら合理的な意味がない。

 

 

 別のケースでは、いじめがある。
 いじめはまさに、「責任のねつ造(因縁)」の典型。
 「空気が読めない」だの「ぶさいく」だの「くさい」だの、
 無いこと、無いことをでっち上げていけにえを作り出して、ローカルルールの私情を満たそうとする。

 いじめの被害者は、負わされた「ニセの責任」でその後も苦しむことになります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 さらに、いじめという集団といったケースを取らなくても
 1対1でも同様のことは生じます。
 
 自分の嫉妬や支配欲といった、私情でしかないものを、公的なことだとすり替えて、「あなたは~~だ」「これは常識だ」と相手に因縁を吹っかけて、責任をねつ造して、呪縛する。
 (例えば、「~~さんって、××だよね」といった失礼なことをいきなり言われたり)

 呪縛している間は、その相手は動きが鈍りますから、それを見て留飲を下げる。
 

 

 

 「責任」というのは、実はかなり怪しい概念です。実は個人の責任であることはほぼ存在しない。

 会社でも失敗の責任は、担当者の責任にされますが、例えば、売り上げがノルマに達しない場合も、
  ・ノルマが現実的ではない
  ・そもそも商品、サービスが悪い
  ・販売を支援する仕組みが整っていない。
  ・会社のブランド力が低い

 など様々な要因があって、商品が売れる売れないは、一番最後の話。仕事とは総合力。
 
 さらに、日本経済の成長率や、人口動態も大きく影響する。成長というのは近代資本主義の神話でしかありません。常に成長することなどは約束されていない。

 現場でできる工夫などはかなり限られている。
 戦術的成功は戦略を越えられない、というのは軍事上の常識ですが、戦略のないままに、「戦術的に大成功をおさめろ、それが担当者の自己責任だ」といわれているケースはとても多い。

 

 ミスにおいても、同様です。会社自体にミスを防ぐ仕組みがない。仕組み、書類がそもそもミスを誘発しやすい、といったこともある。

 サッカー解説者の戸田和幸さんが本で書いていましたが、サッカーでは、最後にキーパーが脇を抜かれてゴールを決められる、その前にはDFがミスをしたように見えるのでそこだけ切り取られると、キーパーやDFのミスのように見えるけども、そもそも、ボールを失ったときの失い方、あるいはその前の攻撃の時に攻め込みすぎていないか、といったことでゴールは決まってしまっている、といいます。

 

 テニスでも同様で、ポイントを取られる、2,3個前のプレーで決まってしまっている。ダブルスだったら、自分がミスしているように見えて、パートナーのプレーによって、決まってしまっていたりもする。

 

 などなどと考えると、仕事においても、責任とは何? ということはとても難しい、多くの場合、その人の責任ではないものを、無理矢理責任にされてしまっている。

 トラウマを負っている人というのは、しばしばこうした、自他の行動の範囲があいまいな環境、責任がねつ造される環境に置かれています。

 

 健康な状態であれば、ストレス処理の仕組みによって、ガードされて、愛着が安定していれば自他の区別もつきますが、長年のストレスでストレス応答系が失調し、愛着不安で自他の区別がつきにくいために、「自分の責任ではありません」とは言えなくなって、あいまいな中、すべて自分の責任だと思わされてしまう。

 

 そうしていると、「ゴミ拾い」をしているかのように、他人の行為についても先回りして気をもんで、自分の責任ではないものまで自分のものとするようになる。(過剰適応)
 
 常に気をつかってへとへとになる。

 

 本当は主体性からでもなく、自由意志でもなく、ねつ造された他人の責任を取らされているだけ、なので、責任を取っていても腑に落ちないのです。

 さらにいえば、もっと遠回りに環境の影響の積み重ねで追い込まれて、不本意ながら問題行動をおこしてしまうこともある。

 例えば、以前も紹介しました『反省させると犯罪者になります』という本で描かれていることはそうで、犯罪というのは当人が行っているわけですが、でもその背後には、貧困や教育の欠如、養育環境の問題、などさまざまなことがあり、
 追い込まれて追い込まれて、最後に、当人は犯罪を行ってしまう。

 

 最後の瞬間だけを見れば、その人の責任でしかないようにみえるのですが、
 実は長い長い背景がある。追い込まれて追い込まれて、私たちは最後に行動をしてしまう存在です。

 だから、反省させても腑に落ちない。直感的に、自分の責任ではない、おかしいと感取している。

 

 このように、私たちは、ねつ造されたニセの責任によって、責任過多となり、主体性を奪われてしまっている。

 そのうえさらに、「自分の人生という責任に向き合いなさい」といわれても、パンクしてしまうだけ。

 「もうこれ以上どうすればいいの!!」といいたくなります。

 
 場合によっては、医師やカウンセラーからも、「さらに責任をとれ」といわれているような気がして、治療自体が嫌になることもあります。現代は、近代個人主義の時代で、人間は主体的な存在だ、というドグマは根強いものがあるからです。
 

 ただ、自分の責任に向き合えれば好転する、ということは経験的には事実です。確かにその通り。

 
 でも、そこに至るためには、必要なことがあります。

 それは、まずは、ねつ造されたニセの責任をすべて降ろす作業が必要なのです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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理由を考えてはいけない。

 

 自分が理不尽な状態にあった時、私たちは、自分はなぜそんな目にあったのか?と理由を考えようとします。

 「自分がダメな人間だから、舐められたのかな?」とか、
 「自分が失礼なこと、不愉快なことをしたから、相手が怒ったのかな」

 などなど

 

 トラウマを負った人には、「過剰な客観性」がありますから、
 本人は、客観的に理解しようとして、理由を探します。

(参考)「過剰な客観性」

 

 

 そうすると、かならず、「自分が悪い(I’m NOT OK)」というところに帰結してしまいます。
 

 なぜなら、その理不尽な状況というのはしばしばニセの公的な領域であり、その特徴の一つは、「敵(You are NOT OK)を作る」ということにあるからです。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 「過剰な客観性」があるため、私的情動を公的領域だと偽っているものも、「それは客観的な事実に違いない」と錯覚して受け取るようになってしまいます。
 

そのため理由を考えてしまうと、結局自分が悪い、ということに至る。
 

 もう一つよくあるケースでは、
 現時点には「ニセの公的領域」がない場面でも、過去に自分が内面化した「ニセの公的領域」が反応して、相手の反応を誤って捉えてしまう、という場合もあります。
 

 

 例えば、相手の中立な反応に
 「自分がないがしろにされた」とか、「自分が否定された」「バカにされた」と感じてしまうようなことです。

 
 不安を強く感じているときに、
 カーテンを見て、幽霊だと感じるようなことです。

 
 これも、過去に親や学校、職場などで受けた理不尽な仕打ちに対して、理由を考えて、そして「反省」して、そのニセの公的領域の「規範」を内面化したために起きている現象です。

 

 規範に引っかかるような、当時と似た反応に接すると、
 自動的に「あなたはだめだ((You are NOT OK))」というメッセージとして受け取ってしまうようになります。

 

 ひどくなると、「関係妄想」と呼ばれる症状に至ります。
「関係妄想」とは、頭がおかしな人がなる、というものではありません。公的領域から切り離されて「安心安全」がなくなれば、誰でもそうなります。
 (例えば、世間からバッシングを浴びた著名人が、人間不信に陥った、というようなことはこうした例の一つです)

 

 

 

 では、どうすればよいのか?

 理不尽に接したら、理由を考えるのではなく、“しくみ”を知る ということです。

 例えば、
 ・この世の中には客観というものは存在せず、主観のぶつかり合いでしかない。
 ・社会には支配欲や嫉妬というノイズが渦巻いているもの。
 ・「ニセの公的領域」はあるし、それは敵を作り出すという特徴を持つ。
 ・ノイズを客観として真に受けてしまうと、疑心と恐怖の世界とつながってしまう。
 ・反対に、ノイズをクリアにした先には信頼の世界がある。

 など 

 そのうえで、沸き起こる「I’m NOT OK」でさえ、それは、「ニセの公的領域」の特徴なのだと理解して、スルーする。

 
 「本当の世の中は多元的で、自分がおかしいというような判定は決してなされない」
 「自分は他と同様に素晴らしい」 
 

 ということをしっかりと踏まえることです。

 そうしていると、徐々に、世界がありのままに見えてくるようになります。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

物理的な現実への信頼

 

 数年前、科学の論文の不正事件が世間を騒がせたことがありました。週刊誌やワイドショーでも取り上げられていました。
 世紀の大発見であったものが、単なる不正、トリックではないか、ということでその落差もあってか、世間から大バッシングとなりました。

 その論文にかかわった、とても優秀な研究者が、事件のさなかにあえなく首を吊って自殺されたことを覚えています。非常に実績があって、論文の作成では天才的ともいえる能力があったそうです。

 

 客観的に見れば、「一流大学を出て」「頭もよくて」「科学の世界で実績があって」ということです。
 事件に巻き込まれたとしても、十分立ち直ることはできます。自殺する必要はないように思います。

 しかし、おそらくその方にとっては、自分の評判、イメージが崩れたことが死に相当するようなことであり、自殺するしかなくなってしまったのかもしれません。

 

 カウンセリングを行っていても、非常に学歴も高くて、良い会社に勤めていて、という方が、自信がなくてお悩みであることは珍しくありません。

 傍から見れば、「大丈夫ですよ」と思いますが、ご本人からするとそうは思えない。
 「~~もダメで、~~もダメで」という風に本人は思わされてしまっている。
 

 カウンセラーに言わせれば、養育環境で刷り込まれた「負の暗示」の影響、ということになります。負の暗示のせいで、自分がおかしいと思わされている。
 悩みを解決するためにはそれらを変えればいい、ということでそのお手伝いをするのがカウンセラーの仕事、ということになっています。

 

 ただ、うまくいかないことも多い。なぜでしょうか?
 

 昔から、精神の力で現実を変えよう、変えることができないか、という取り組みはなされてきました。願望実現などもその一つでしょうか。

 ただ、いくらポジティブに考えても現実は思うようには変わってくれない、ということで、その試みは敗れてしまいます。

 カウンセリングでも、考え方を変えよう、と取り組んでみますが、なかなか容易には変えられず、「やっぱり駄目でした・・」ということも珍しくありません。

 

 

 人間にとって現実とは何か?ということについては古代から研究されてきています。

 

 その中で20世紀に哲学者フッサールが始めた現象学という哲学があります。

 現象学とは、人間にとっての認識の構造を明らかにしようとしていて、主観と客観とを統合してそのしくみを理解しようとします。世界は、最初から客観としてあるというよりは、主観が持つ志向によって現われてくるものとします。

 ただ、主観的であればなんでも自分の思い通りに現実を構成できるか、といえば、そうではなく、物理的な現実は主観を「ねじ伏せるように」立ち現れるとします。

 

 簡単に言えば、目の前に壁があった時に、いくら「壁はない」と思っても、すり抜けることはできず、その思いをあたかも「ねじ伏せるように」私たちに立ちふさがってきます。
 ただ、それによって、主観は修正されて、「ここには壁がある」というように現実をありのままにとらえることができます。

 物理的な存在は主観が暴走して妄想のような状態になることを防いでくれます。

 

 こうしたことを繰り返して、私たち人間は現実をうまく認識して、適応していくことができるようになります。

 

 悩みを持つ人にとって「物理的な現実」というのは、「容易に変わらない冷酷なもの」というイメージがあるかと思います。

「物理的現実」というのは、「冷たい」「見たくないもの」というイメージかもしれません。

 

 悩みの原因は、やはり「物理的な現実」なのだ、と思ってしまいます。

 だから考え方を変えて、その現実の解釈を変えたり、不思議な力で現実そのものを変えるのだ、と。

 セラピーもそのためにあるのだ、と。

 

 でも、それは間違っているのかもしれない。

 

 

 実は、負の暗示を良い暗示に変えようとする営み自体が私たちの悩みの根幹を生み出している、ということが見えてきます。

 

 

 例えば、子どものに対して否定的な親がいるとします。

 本来であれば、無垢でかわいい子供に対して、ありのままをみずに、「お前は~~だ」「お前のこういうところが嫌いだ」「ダメだ」といって 接します。
 
 そうしたことが繰り返されることで、子どもは負の暗示を背負います。

 
 認知療法などでは、負の暗示を正の暗示に変えようとする。

 
 ただ、「悪いイメージ」→「良いイメージ」に、というように、いわゆる「観念、空想の世界」の中でのやりとりになるので、また、何かの拍子で自信が失われることもある。

 認知を変えると確かに感覚は軽くなるし、効果は確かめられているのですが、根本的なところの自信は今一歩、という感覚になることがある。

 それは、「観念、空想の世界」での改善だから。

 イメージ、観念を変えただけだからまた、心無い言葉をかけられると、オセロのように簡単に変わってしまうことがある。結果、良くなるんだけど、なかなか良くなりきらない、ということが起こる。

 

 一方、本当によくなるケースもある。
 その場合、無理によいイメージに変える、というよりは、素直にシンプルに自分の良さを知るようになるようなイメージ。本質的に改善されて、生きづらさがなくなって、楽になる。

 

 両者の違いは何か?といえば
 

  「負の暗示」から「正の暗示」ではなく、
  「負の暗示」から「物理的な現実への信頼」へ ということであるということです。

 

 上の例でいえば、無垢でかわいい子供、であるという「物理的な現実」は親がいくらひどい言葉でゆがめようとしても、結局は変わらないわけで、そのことを知る、感じる、信頼するということ。

 学歴も能力もあるのに、なぜか自信がない、という人がいれば、「物理的な現実」を信頼する、ということ。

 

 実際に、「物理的な現実への信頼」は、難ケースを解決していくことが知られています。

 

 依存症などの回復プロセスとして有名な「底をつき体験」というものがあります。

 アルコールなどに依存して、会社にも行けなくなって、家族からもバカにされて、というようなボロボロの状態になっていて、通常のカウンセリングでは太刀打ちできない。

 「ボロボロの自分」を、「良いイメージの自分」に変えようとしてもダメで、またすぐに元に戻ってしまう。

 お酒やお金を隠したり、周りからサポートされてもうまくいかない。また依存行為を繰り返して、見放されてしまう。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 でも、ダメな自分をすべて出していって、うけいれていくと、あるとき、

 「あれ?これ、自分でどうのこうのしようとしてもダメじゃないか。もう何かわからないけど任せるしかない」と感じるようになり、
「ああ、そうか、結局、自分は自分でしかないんじゃないか」と感じるようになる(底をつく)。
 

 ひどい負の暗示に巻き込まれていた子供が、結局、何を言っても「無垢でかわいい子供」でしかない現実があるように、依存症という手ごわい症状にさいなまれていて、社会的な名誉を失うほどになったとしても、「生命体としての自分」という現実は変わらない。

 
 社会的に何かを為した人とそうではない人とではもちろん名声は異なりますが、ふとしたことで誰でも転落するし、大きな病気をしてあっという間に命を落とすかもしれない、裸になれば結局だれでも一緒。

 
 自分は自分でしかないんじゃないか。

 

 社会の中でひどいことを言ってくる相手は、結局、嫉妬や不安をこちらにぶつけてきただけで、そこから発せられる言葉は、神の言葉のように思っていたけど、単なる一個体の鳴き声でしかないのではないか、と気がついてくる。

 

 これまでは、本などを読んで「良い自己イメージ」を持とう、持たなければ、と思っていたけど、そんなことは必要ない。

「物理的な現実」である自分は自分でしかなく、そこを信頼すればいいだけだ、と思えるようになる。

 
 「物理的な現実」は自分にとって願望実現の邪魔者ではなくて、世の中を生きる中で浴びるノイズやハラスメントの防波堤となってくれる。

 

 白鳥に向かって「お前はアヒルだ」といわれても、現実の白鳥は「現実には白鳥なんですけど、あなたはなんでそんなこと言うのですか?」

と一言いえば、ハラスメントを仕掛けてくる相手は何も言えなくなる。

 現象学もいうように、現実は観念をねじ伏せるように立ちはだかる、からです。

 

 会社で「お前はクズだ」といわれても、物理的な現実はクズではなく対等な人間なのですから、現実を信頼すると、物理的な現実がその言葉をねじ伏せてくれます。
(さらに、その後押しをしてくれるものが「愛着」というなのOSなのですが)

 

 仏陀も、肉体を滅却するような荒行を否定したのもそういうことかもしれません。
 気功とか瞑想においては、身体は邪魔なものではなくて、アンカーとなる必要なものとされます。

 

 心理療法においても、観念を操作するようなセラピーは結局、弱い。

 

 実際に、物理的な現実をありのままに見れると、しばしば自分の本当に願うものが向こうからやってきます。

 「物理的な現実」を信頼することの自然さ、シンプルさ、そして強さ
 

 トラウマが取れてくると、そんな景色が見えてきます。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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