人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 「人の話を真剣に聞かなければならない」というのは、わたしたちが俗に信じこまされている”常識”です。

 


 あるいは「自分の話も真剣に聞いてほしい」と思っている。

 人の話を聞かない、ということは不誠実なことであり、良くないことである。

 「聞く技術」なんて本が売られたりもする。

 


 一方で、人の話を聞いて、そこで引っかかった言葉が頭に残って、苦しんだりもしている。

 「人の話を聞くことが良いこと」であるなら、なぜ苦しむ事が起きるのか?

 


 人の話に引っかかる自分が悪い、ということで、修行僧のように「気にしないでおこう」と自己啓発に勤しんだり、

 「そもそも、人から指摘されないような更に良い人間にならなければ」となって、努力したり。

 

 しかし、すればするほど、さらに「余計な一言」をいわれて、苦しみは抜けない。

 

 


 一方で、あまり苦しんでいない人達がいる。

 実はトラウマを負っていない普通の人たちは、違う聞き方をしている。

 というか、実は人の話なんて聞いてはいない。

 


 適当に聞き流している。

 

 聞き流しているけども、表面的には「人の話を聞くことが大事」と言っている。

 

えっ、とおもいますが、これが暗黙のルールとなっている常識です。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 


 そして、そのことを悪用しているのがローカルルールです。 

 

 


 トラウマを負っている人は、「人の話を聞くことが大事」というローカルルールに苦しんでいる。


 本当の「聞く」とは何かがわからないまま、ローカルルールを真に受けていると、ずっと人の話で苦しむことになる。


 そのうち、人が怖くなったり、人と関わるのが億劫になったりし始める。 


 「またいつ嫌なことを言われるのか?」とビクビクしながら接することになる。


 


 ローカルルールに呪縛されてしまうと、健康な人のようには人の話を聞けなくなる。
 


 人の話を聞く、とはどういうことか?

 人の”話”とはなにか? 

 そもそも”人”とはどういう存在なのか?

 


 例えば、人が悩みを話すとき、聞き手がその話を真剣に聞いたとすると、話をした相手は余計に苦しむことになります。

 

 なぜなら、悩みにあるということは、ローカルルールに呪縛されている状態であり、そのことで苦しんでいる。発せられる言葉は自分の言葉ではない。本来の自分の言葉を発することができずに、押し込められている。

 


 わたしたちが日常で発する言葉はすべてが戯れ言で、全てが無意味なことです。特にローカルルールによって作られた言葉はその人の言葉ではない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 そのため、表面的に発せられた言葉を真に受けてしまわれると、悩みをもった人は、悩みから抜けれなくなる。

 重いドヨンとしたままで悩みが残ってしまう。

 

 

 反対に、聞き手が、真に受けず、あたかも聞き流すように聞いた場合はどうなるか?


 話し手は、だんだんと自分の表面にかかったベールが剥がれているような感覚を感じるようになる。

 そのベールの向こうにある、本来の自分を感じられるようになる。

(参考)→「わからず屋の刑事(デカ)のように生きる」  

 

 

 カウンセラーでも、ベテランのカウンセラーは共感の姿勢を示しながら、実は話は聞き流して聞いている。
 
 もし、親身になって聞くカウンセラーがいたとしたら、巻き込まれてしまって、クライアントさんも悩みが解消されなくなってしまう。
 
 溺れている人を助ける人も一緒に溺れるような感じです。

(参考)→「寄り添いすぎて目がくもる

 

 


 人間は、適当に聞き流されることで、悩みが抜けていくようになっている。

 また、聞き流されることで、話の奥にある、真の意味が立ち上がってくる。
 

 話をしている側がほんとうの意味をわかっていないことも多い。


 特にプライベートでの言葉はすべてが戯れ言です。


 ただ、言葉に戯れるように接しないと、人との会話を楽しむことができない。

 


 日常はローカルルールだらけです。

 

 でも健康な人は、愛着の土台に常識を柱として真に受けず、戯れとして接することで、呪縛されずに生きている。

 
 
 ローカルルールに呪縛されることが、いわゆる“悩み”ということになりますが、その場合は、聞き手に”いい加減に”聞き流してもらうことで、ローカルルールから逃れて、本来の自分に戻ることができている。

 

 

 親身に聞く、というのは本当に親身ではなく、それは社交のための”フリ”であり、逆に、フリで聞いてもらわないと、真剣に聞かれたら聞かれる側も困るのです。

 

 もし、本当に親身に聞かれたら、聞き手もローカルルールに呪縛されて、悩みが抜けなくなってしまいますから。

 「人の話を聞くことが大事」ということをほんとうの意味は、話を聞いているふりをして、真に受けずに、聞き流せ! ということ。

 


“聞いているフリ”のことを、世の中では「礼儀」といいます。

 

 そうして初めて、人間同士はわかりあえたり、楽しくコミュニケーションをとることができる。

 

 

 わたしたちが「人と一体感がえられない」と苦しんでいた大きな原因の一つは、「人の話を真剣に聞かなければならない」というローカルルールにあった、ということです。

 

 

 

 わたしたちは、犬や猫に癒やされたり、まちなかで出会った気楽なおじいさんとかおばあさんと雑談することで気持ちが軽くなることはあります。


 犬や猫は人間の話を理解できません。でも癒やされます。


 人の話は真剣に聞いてはいけないし、聞いてもらわれてもいけない。


 人間の言葉、日常の言葉は”悪貨”で、良貨はその奥に埋もれてしまっている。

 だから、聞き流すようにしないと悪貨は取り除けない。


 プライベートでは、悪貨でもそれはそれとして戯れとして楽しむ。

 

 言葉は本来神のものであって、人の言葉は何も表していない。人間の言葉はすべて神の言葉に擬したニセモノなのです。

 

 言葉に関するローカルルールを壊すと、本当の自分が立ち現れてきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 パソコンや、スマホでメールを使っていると、よくスパムメール、詐欺メールがやってきます。

「警告!」とか、

「[LINE緊急問題]」とか、

「Amazon でのショッピングの決済が完了しておりません」とか
 
「AppleIDが停止されました」とか


 共通するのは、不安を煽るような内容で、しかも、「あなたに問題があるから至急対処せよ」ということです。


 そうして、フィッシングサイト、偽サイトに誘い込こんで、情報を取られたり、詐欺に巻き込まれていきます。

 


 気持ちが安定していると、「バカバカしい」と相手にしませんが、不安定な状態だと、「私に問題があるのかも?!」と思って、巻き込まれてしまう場合もあるのでしょう。


 

 

 不安を煽って、ニセの責任、因縁をつけて巻き込む、という詐欺メールの手口。

 これは、ローカルルール(人格)がわたしたちを巻き込む手口ととても良く似ています。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの」 

 

 

 わたしたちも、世の中を生きていく中で、対人関係で、こうした詐欺メールのようなローカルルールへの巻き込みに遭遇します。


 「あなたは私を傷つけた!(すぐに対処せよ)」

 「あなたは空気が読めない人間だ(だから、理不尽な目に合うことを受け入れよ)」

 「私をイライラさせるな!お前の態度が気に入らない!(私の相手をしろ)」

 「あなたにはダメな人間だ(You’r NOT OK と因縁をつけて、I’m OK と思いたい)」


 などなど


 何やら、本物のコミュニケーションに見えますが、全てはスパム、ニセモノです。


 もし、引っかかって、「私に問題があるのかも?!」「なんとかしてあげないと」と対処してしまうと、相手の不全感、ローカルルールに巻き込まれていってしまいます。


 詐欺メールを無視するかのように、取り合わずに無視する必要があります。  

 

 

 さらにやっかいなのは、取り合わないと決めていると、「あなたは冷たい」という言葉も飛んでくる。


 これも、実は、ローカルルールに巻き込むために用いられるよくある言葉です。


 ローカルルールというのは、そこに巻き込むために、そして、それを成立させるために、二重、三重にトラップが敷いてあります。


 「あなたは冷たい」というのも、まさにそう。

 
 もともと、「いい人でいなければ」とか、「あなたはおかしい」というローカルルールの刷り込みがある方にはてきめんに効果があります。

 もちろん、これも全く取り合う必要はありません。

(参考)→「気持ちを理解しろ、物事を先回りしろ、あなたは冷たい、傷ついた!などもローカルルールや巻き込むためのメッセージ

 


 実は、トラウマという観点で言えば、すでにわたしたちは、巻き込まれていたりする。


 親が教育やしつけと思って言っていたことは、結局自分の不全感や嫉妬からくる感情の発露を、常識と偽ったローカルルールでしかなかった。

 


 イライラして「私の気持ちをもっと考えろ!」「イライラさせるな!」とか、「あなたはだめな人間だ」「悪い子だ」といったような言葉。

 


 単なるスパム(戯れ言)でしかなかったのに、わたしたちは真に受けて、「少なくとも2,3割は自分にも問題があったかも」「親がイライラするのも理解してあげないと」なんて思ってしまっている。

(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 


 過去に言われた人の言葉がぐるぐると頭から抜けなかったり、自己否定感、自責感、そして、自信がなかったりする、というのは、実は、まだ、ローカルルールに巻き込まれて、フィッシングサイト(詐欺サイト)の中にいるような状態と言えるのかもしれません。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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気持ちを理解しろ、物事を先回りしろ、あなたは冷たい、傷ついた!などもローカルルールや巻き込むためのメッセージ

 

 「人の気持ちを理解しろ(あるいは理解しなければならない)」

 「物事を先回りして対処しろ、段取りを組め、といったようなこと」

 
一見すると、正しいように見えますが、実はこれらもローカルルールになります。


 
 ローカルルールとは、「私的な感情(不全感)」から来ている言動を常識だと騙ることです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 


 そのため、不全感を満たしてくれるように相手に求めるメッセージを投げてきます。

 

 私的領域というのは、不全感が渦を巻いています。
 相手の私的領域をのぞき込んでしまうと、だれでもローカルルールのおかしな世界に巻き込まれてしまうのです。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。」 

 


 不全感を抱える人は、フィッシングメッセージ(おとりの言葉)を投げつけてきて、他者に自分の私的領域をのぞき込ませて、巻き込もうとしてきます。

 

 それが、「人の気持ちを理解しろ」ということをや「物事を先回りして対処しろ」ということです。
 

  「私のワガママに答えて不全感を癒せ」
  「私の言っていることはおかしなことではない、ひっかからないあなたがおかしい。」
  「もっと先回りしてこちらの要望に答えるのが常識だ」というわけです。

 

 相手を「お前はひどい人間だ」「私を傷つけた!」といって因縁をつけることもあります。
 

 

 相手がその因縁に怯めば、しめたもの。

 


 次には、「いかに私が傷つけられたか、私の内面をのぞき込んでよくよく考えろ」と言って、私的領域に巻き込んでくるのです。

 

 

 みなさんが出会ってきた、理不尽な親や、学校の同級生や先輩、会社の上司、(結婚していれば)パートナーなどがまさしくそうです。


 本当は真に受けてはいけない。
 相手の私的領域に立ち入ってはいけないのです。

 

 しかし、トラウマを負った人、生きづらさを抱えた方は真面目で誠実な方が多いですから、そうしたメッセージを真に受けて、相手の要望を実現しよう、謝罪しようと奔走します。

 


 ローカルルールを仕掛けてくる相手は、さらに巻き込むために、ゴールポストを動かします。そうして、何をしても「違う!わかっていない!」と非難し、相手を無能扱いし、否定し、さらに巻き込むようにしてくるのです。

 

 もともとは、因縁はその人の不全感(私的な感情)でしかないので、取り合う必要はありません。「不全感(私的な感情)」であることを隠すために屁理屈をこねているだけなのですから。

 


 巻き込まれないようにしていると、「あなたは冷たい!」と言ってくることもある。これもフィッシングメッセージ。ローカルルールです。

 

 善意をもつ良い人ほど、これにグサッと来て、巻き込まれます。

 

 残念ながら、真に受けてしまうと、何十年と頭の中で残り、その言いがかりを実現しようと努力しては破れて、努力しては破れてを繰り返すようになります。

 

 クライアントさんの中には、母親に言われたこと、父親に言われたことが頭に残り、その理不尽な要望を実現しようとずっともがいている方はとても多い。


「それ、単なるローカルルールですよ」というのですが、
「たしかにそうなのかもしれないけど、ローカルルールであっても言っていることには理がある」として、頭から抜けないのです。
  

「ローカルルールがなくなったらすべてが崩壊しそうで、なくなった世界がイメージできない」という場合もあります。

 

 

 フィッシングメッセージを真に受けさせられ、ローカルルールに巻き込まれる背景には、「人間とは立派なものだ(神のような存在だ)」という間違った前提(人間観)があります。
 「立派な存在(神のような存在)からのメッセージをむげに扱うわけにはいかない」というわけです。
 「人の話をよく聞け」と刷り込まれている場合もあります。

 

 

 神のような存在だと思うのは、発達の過程で、自他の区別がうまくつかなかったり、自我や他者イメージの形成に不具合を起こしてしまっていることから起こります。

 

 赤ちゃんにとって親は神のような存在で、自己は万能ですが、発達の中で等身大になっていく、そして、「自分も他人も皆人間は弱く、それほど大したものではない(でも、それぞれに愛嬌を持っている)」と考えます。これが普通の感覚です。

 

 立派な人を見ても、「でも、プライベートではだらしないところもあるんだろうね」と同時に思えたりもする。でもバカにするわけではなく、苦労を重ねてきた人間同士ねぎらうような感じで「リスペクト(敬意)」の感情が湧く。

 相手の発言をスルーしたり、ペンディングすることができる。

 

 

 反対に、トラウマを負い、自我や他者イメージの形成に不具合を起こしてしまっている人は、相手を神のように崇める気持ちと、こき下ろす気持ちとが大きな波のように揺れ動いたりする。不具合を起こしている人にとってのリスペクトとは「崇拝」です。

 そのため、相手の言っていることを真に受けたりする。自分に対する指摘は「客観」だと捉えてしまう。

 

 

 事実はそうではありません。

 人間は神ではなく等身大の動物。霊長類では最も脳が発達しているとはいえ、脳は混乱しやすく、容易に解離しておかしくなります。

 それは、おかしな人だけがそうなるのではなく、万人がそうです。
 


 特に私的な環境にいる場合はおかしくなりやすい。

 
 人間とは、公的な環境で公的な役割を背負っていて、睡眠や栄養を十分取れている、というわずかなタイミングでしか、まともでいられないのです(それもかろうじて)。 


 ちょっとでもそれらの条件が崩れるとグダグダになってしまう。

 
 だから、普段の会話などはすべて戯言でしかなく、まともに取り合う必要のあることはほとんどありません。


 過去に親に言われたこと、友だちが言ってきた気になる一言、上司の嫌味、すべてがローカルルールによるものでしかなかった。


 
 反対に言えば、頭にずっと残るということ自体が、ニセモノであることをあらわしています。なぜなら、自然なものほど簡単に代謝されていくものだからです。

 

 こうした実像が見えてくると、もっともらしい言葉にも呪縛されなくなってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

まず相手の気持ちや立場を考える、というのは実はかなり変なこと

 


 前回、ニセの良識、ニセのバランス感覚について書きました。

(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 


 トラウマを負った人というのは、ニセの常識(ローカルルール)を背負わされている、ということがあります。


 高潔にその常識を守っているのですが、実はそれはニセモノの常識だった、ということです。

(参考)→「人格者になりたい

 


 「えっ、今まで当たり前とおもっていたことが実は違うの?」というばかりです。


 健康的な人、愛着が安定している人というのは、建前と本音の世界に生きています。

 実際は言わないだけで、実は良識なんて守っていない。あくまで“社交”としてフリをしているだけ、ということがほとんど。

 
 健康な人は、人が喋っていることがすべて戯れ言だとわかっている。 

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 


 でも、それでよい。そうしてはじめて人と気楽に付き合っていける、ということなのです。

 なぜなら、健康な人というのは、「安心安全」を体感として持ち、社会全体の一部であるような感覚で生きているからです。

 自分が特別に高潔である必要がない。

 

 これら裏ルールは体感のようなものですから、わざわざ言語化されることがありません。言語化するのも野暮なことです。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 


 
 以前も書きましたが、実はこれは子どもでもそうで、筆者が少年野球をしていたとき、周りの子ども達は嘘をついて水を飲んだり、練習をサボったりしていたのですが、筆者はそれがあまりわからず、自分の真面目さと周りとのズレに驚いたことがありました。

(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう

 

 

 じゃあ、筆者が高潔で正しく、周りがずるくて汚いのか、といえばそうではありません。周りの子供達のほうが大人からは可愛がられたり、多くの友達とコミュニケーションが取れたりする。


 人間とはそういうものなのです。


 「そんな世の中は変えなければならない」と考えるのは、トラウマを負った人に多い、あたかもテロリストのような考え方です。

(参考)→「トラウマを負うと一元的価値観になる

 

 


 嘘をつく子供たちにこそ、実は悩み解決のヒントがあります。


 例えば、嘘をつける、というのは発達心理学では、自我の発達(自他の区別)にとって良い影響があるとされます。嘘を付くことで自他の区別がはっきりする。

  嘘をつけない、高潔である、というのは、自他の区別が曖昧になるという致命的な副作用を伴い、その後の生きづらさにも関わるのです。

(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 


 
 「相手の立場を考える」というのも、常識のようにおもわれていますが、実はニセの常識(ローカルルール)です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 


 「えっ、なんで?相手の気持を考えるのが良い人間であることでしょ?」
 「自分のことしか考えない、独善的な人間に嫌な目にあってきたからこそ、自分はそんな人間にはなりたくない!」

 と思う方も多いかと思いますが、
 それも、ローカルルールによって強制された思考なのです。 

  
 健康な人は、「まずは自分の主観、都合からスタートする」ものです。

 


 コンピューターのプログラム風に言えば、


 1.まず、主観からスタートして自分の体感(愛着の土台)を参照する。


 2.ついで、その体感から伝わってくる、社会の常識(パブリックなルール)を参照する 


 3.2に照らして、相手の態度が常識的かどうかを判別する。

 
 4.常識的でないと分かれば、それ以上は相手にしない。


 5.もし常識的なら、その際は、相手の立場も考える。


 という感じになっている。

 

 

 反対に、トラウマを負った人は、


 1.まず、客観(ニセの客観、良識)からスタートして、頭で考える。
 
   ※頭で考えることで、自分の親から受けたローカルルールに巻き込まれます。


 2.相手の立場や心理、感情に移入する。

   ※相手の立場に移入することで、相手のローカルルールに巻き込まれます。


 3.自分にも悪いところがあるのでは?と反省し、自分を責める。


 という様になっています。

 

 


 つまり、まず、客観的になろうとしたり、良識的になろうとすること、そして相手の気持を考えたり、というのはおかしいのです。


 実はそれは、ローカルルールに巻き込まれているだけ。

 


 人間というのはミラーニューロンでつながっている、という説があります。

 そうであれば、解離して因縁をつけてきている相手の気持を考えれば、相手のローカルルールに巻き込まれるのは当然のことです。

 

 本来は、自分に主観、体感からスタートしなければならないし、それが自然なことです。

 


 これは決して、独善的になるとか、そういうことではありません。
そうすることが人間の発達、そしてあり方としても正常なことなのです。

 人間は自分の体感(いわば無意識)を通じて、社会とつながるのです。

 

 自我、そして身体が成熟した者が、社会的な役割、責任を背負って初めて「人間」でいられるのです。
(アリストテレスが「人間は本性上、ポリス的動物である」と言っているのはこうしたことです)

 

 そうして「人間」になってはじめてちゃんと相手のことを考えられる、のであって、最初に相手のことを考える、というのは、人間の在り方としてもおかしいことなのです。

 

 自分がどういった順番で、何を参照しているのかをチェックしてみると、問題が見えてきます。
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 

 ローカルルールが面倒なのは、少しでも、自分にも非がある、という意識があるとそこから水が浸透するように、自分の中に入り込んで、苦しめ続ける、ということです。

 
 「ローカルルールをすべてを否定して、自分を100%肯定するのは都合が良すぎるのでは?」
 「せめて、2,3割は反省しなければ」といった感覚もトラウマを負っている人によく見られます。

 


 いじめやハラスメントを受けていながら「自分にも悪いところがあった」というのです。

 


 例えば、親からひどい目にあった、という場合、
 「相手がすべて悪い」で良いのです。100:0で こちらに責任はありません。

 

 それなのに、「自分にも悪いところがあったのでは?」「完全に悪者にしたら申し訳がない」といった気持ちになってしまい、中途半端なところで、「自分にも非があった」「相手も良かれと思ってした部分もあった」としてしまう。

 

 それで、悩みが完全に取れれば何も問題はありません。

 

 しかし、「自分にも非があった」「相手も良かれと思ってした部分もあった」を残したことが命取りになります。
 日常生活を過ごしていても、過去の問題がフラッシュバックして、自分を責める気持ちが湧いたり、なぜ、相手があんなことをしたのか?という気持ちが湧いてきて頭がぐるぐるしたり。

 

 なにより、自分に自信がなくなる。本当に自己を肯定しきれない感覚になる。

 


 トラウマを負った人の傾向として、「善なる人」「良識を志向する人」というところがあります。
 それは、理不尽な目に合わせた人と同じ人間になりたくないという気持ちも背景にあります。「あんな独りよがりな人間にはなりたくない」

 


 だから、感情を否定し、軽蔑しますし、常に客観的で、冷静で、良識的でありたいと考えています。

 

 しかし、そのことで、高い理想で自分を責め続けて、結局疲弊して慢性的なトラウマ状態(自律神経など三調整系の失調状態)におちいってしまったり、ローカルルール人格にスイッチした他者からそれを悪用されたりするのです。


 
 実はこうした感覚も、ローカルルールからもたらされるものだったりします。

 


 例えば、親が自分の感情から理不尽なことをしていることを隠すために、「あなたのせいだ」として非を認めなかったり、地域や学校でトラブルがあっても、子どもの味方をしなかったり「あなたにも悪いところがあった」というような親のローカルルールを内面化しているような状態。


 
 夫婦げんかに巻き込まれて、父親、母親の悪口を言われ続けたり、果ては、「父親(母親)に似ている」といったようなことを言われたり。


 いじめなどにあっても同様です。理不尽な目に合わされ、「それはあなたがおかしいから」と因縁をつけられたり。

 

 

 あと、現代にまで残る「喧嘩両成敗」というおかしなローカルルールの影響もあります。

 
 先日の記事でも書きましたが、喧嘩両成敗とは、ローカルルールを正当化するために用いられている、詭弁の道具です。

 (参考)→「「喧嘩両成敗」というローカルルール

 

 


 もう一つの問題点は、モラハラを裁く側もローカルルールに感染しやすいということです。

 


 例えば、学校の教師もいじめなどが起きた際に、容易にいじめのローカルルールに感染するのは、様々な事件で知られています。
 
 明らかにいじめがあって親が何度問い合わせても「いじめはない」と回答する。
 
 下手をすると教育委員会レベルまで感染は広がります。
 
 
 教師もローカルルールに感染しますから、ローカルルールからみて「こいつはムカつく」とか、「こいつはいじめられても致し方ない」という感情を隠すために、喧嘩両成敗といったおかしな理屈が持ち出されてしまうのです。

 参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 
 会社でも同様です。モラハラがあって会社に訴えても、ローカルルールに感染していれば、「お前にも問題があった」「行き過ぎはあったが、指導の一環であった」といったようにされてしまいます。

 参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 


 本当は、愛着(安全基地)を背景にして、すべて押し返して、完全に否定しなければならないのですが、それができない状態で、さらに、上に書きましたような「あんな奴らになりたくない」としてニセ成熟の理想主義(客観的で、良識的でありたい!)を採ってしまうためにどこまでいっても、自分を完全に肯定できない、自分に自身が持てない状態がずーっと続くのです。

 


 こうしたことが残っていると、いくらセラピーを受けても、なぜか自分に自信が持てない、という状態が継続することになります。
 

 

 ローカルルールを内面化したニセのバランス感覚、ニセ良識とでもいうものです。

 


 「バランス感覚が大事」とか「良識的でありたい」というのは、ローカルルールの反動で起きたもので、それ自身もローカルルールの一部だということです。

 


 
 なぜ、ローカルルールに接した場面で、自分を完全肯定してよいか、といえば、カンタンです。

 ローカルルールとは単なる私的な情動にすぎないからです。そこに一部の理もない。ただ、ローカルルールは根拠がないために、根拠を捏造するために常識を悪用したり、相手のせいにしたりしているだけだからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 人間というのが容易に解離しやすい動物であり、東大の安富先生が「世の中はモラハラでできている」というように世の中はローカルルールがそこここにあります。

 


 ローカルルールにおもねったバランス感覚や良識といった理想主義で、自分が守られるようにはできるような要件を世の中は備えてていません。
 


 ニセのバランス感覚や良識というもので、「2,3割は非を認めて自分を否定しよう」というのは、「家の窓やドアの2,3割は、鍵をかけないでそのままにしておこう」というくらいにおかしなことです。
  

 バランス感覚や良識そのものが、かつて親などが子どもにかけたローカルルールを成立させるために、演じさせられている、ということがあります。

 

 トラウマを負っていない、安定型の人から見ると、「なんでそんなに、自分を悪く思わないといけないの?」と不思議がられてしまいます。愛着を土台にしながら、自然と自分をすべて肯定している。

 

 本来、健康な人間というのは、愛着の土台の上に、自他の区別を持ち、社会の常識(パブリックなルール)とつながって生きています。自分でありながら、社会全体の一部であるような感覚があります。

 完全肯定というのは、そうした安定感、つながりを感じている感覚です。

 

 たとえば、目の前のりんごを「みかんだ」といわれても、そうは思えない、というくらいの感覚。決して、ムキになるとか、意固地になって、自分が正しい、という感覚とは違います。

 

 

 ポイントは「自分が正しい」とは思っていない。「自分が正しい」というのは、どちらかというと病的な自己愛性の感覚であって、健全な感覚というのは、善悪、正誤というよりは、「肯定」という感覚です。


 自然界の動物には、善悪、正誤という感覚はありませんが、でも、自分を責めたり、疑うという感覚はありません。あのような感じに近いものです。

 

 

 敵意とかトラブルに見舞われたら、さっと自分のみを守る行動を取ります。
その時も「自分が悪い」なんて感覚はありません。場合によっては、相手をやっつけますが、もちろん「自分が悪い」という感覚はありません。
 相手への「慈悲」はあるかもしれませんが。


 
 慈悲とは、自分を完全に肯定してなお成立するものです。

 

 自然界の生き物は、「自分を100%肯定するのは都合が良すぎるのでは?」「せめて、2,3割は反省しなければ」なんて思いません。

 それで良いのです。

 


 実際の社会では、因縁をつけて、「善悪」「正誤」のローカルルール世界へと巻き込もうとしてくる人が出てきますが、愛着が安定していると、そこには価値を見いだせずに、あまり巻き込まれません。

 

 正しい正しくないというのは、”常識”が決着をつけてくれる、という安心感があります。 

 


 反対に、愛着が不安定だと、因縁をつけられると容易に動揺し、「善悪」「正誤」の世界に巻き込まれて、罪悪感を持たされたり、あきらかに「自分は正しいけど100%は言い切れないから、2,3割は悪いことにしておいて」といったことにしてしまう。
 


 これは、他者のローカルルールを成立させるために行わされていることに過ぎません。


 
 「自分を肯定するなんて、自己中な人間みたいになりたくない」という気持ちがあったら、それはローカルルールに感染している、ということです。


 
 自分を完全に肯定する、ということは自然なことですし、そうすることがごくごく普通のことなのです。 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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