過去は、“その時期のこと”として自分と切り離して良い

 

 先日、たまたまヤフーニュースを見ていたら、ナインティナインの矢部さんのインタビュー記事が目に止まりました。

「高校卒業する18までは「人間」やったけど、芸人を始めた19から「人間」じゃなくなって無理して無理して……。子供できて40過ぎてからまた「人間」に戻って」といったことが書かれていました。

 

 芸人として売れるために無理をしたり、ピリピリしていたり、というそういう時期というのはあるようです。
 他の芸人さんでもそういう昔のエピソードはよく耳にします。同じ世代同士でケンカしたり、後輩をいびったり、といったようなこと。
 敵意を向けなくていい相手に失礼な発言をしたり、といったようなこと。

 

 明治大学教授の齋藤 孝さんなども、大学院の頃は、ピリピリしていて本当に嫌なやつだった、とご自身が書かれた本で見たことがあります。

 

 若気の至り、といえばそうなのですが、年齢的なことやまだ社会的にも何者でもない状態で、余裕がなければみんなそうなる、ということです。

 

 
 健康な人というのは、その時の環境で起きたことは、「その時期のこと」として流すことができている。

 ちゃんと記憶に主権があって、今の自分からみた解釈ができている。
 
 変に今の自分につなげてしまったりはしていない。ある意味切り離すことができています。

 そこには、「人間は弱い」という前提がありますし、「人間は変化する」ということが当たり前としてあります。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 反対に、トラウマを負った人は、過去の失敗や、痛いエピソードについて、いつまでもフレッシュな状態で変わらず、自分を責める材料にさせられている。
「その時期のこと(今の自分とは違う)」ということがない。

 

 なにより、「理想的であらねばならない」という基準に一度でも抵触した、という感覚から、自分の存在(Being)は汚れたものとして「実態がバレた」、あるいはその罪科を背負っていかねばならないという感覚があるのです。
(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 

 

 「君子豹変」ということばがあります。

 君子とは徳のある人で、豹変は過ちを改める、あるいは自分の意見をガラッと変える、ということです。 

 人間には一貫性の法則、というのがあるように、一貫していないことを嫌いますが、徳のある人は、一貫性にとらわれず状況に合わせて変わっていくし、変えていくものだ、ということです。

 

 君子豹変とは、変化する主権が自分にある、ということだと筆者は捉えます。

(参考)→「記憶の主権

 

 

 

 トラウマを負っていると、一貫性の法則どころか、自分の変化する主権を他者に奪われていて、自分が自由に判断、行動できる権利がないような感じがします。過剰な義理堅さ、に支配されている。

 トラウマによって引き起こされた、過去の失敗を「自分の責任」として引きずり、ずっとそれにとらわれている。 

(参考)→「「終わりがない悩み」こそニセモノである証拠となる。

 

 また、誰かからのイメージを忖度して、そのイメージ通りの自分でなければならない、なろうとしてしまう。

 誰かが「~~は、誰からも好かれない」「~~は、真面目な人間だ」というイメージを持っていると思えば、そのイメージに重力のように引っ張られてしまう。
(多くの場合、父親とか母親とかの言葉、イメージに従っている)

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 変わることがよくないことのような感じがして、固定されたイメージに無意識に沿ってしまう。実はそれは誰にでもあるような気がしているのですが、そうではありません。トラウマの症状です。トラウマとは自律神経の失調でもあり、代謝の異常をもたらします。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る
 

 

 私たちは、人生の直々で状況は変わりますし、苦境にあっては、なかなか痛い行動をすることもあるし、失敗も当然ある。みんなそうです。

 それにいつまでも向き合う必要はない。あっけらかんとするくらいに過去は別の人間、別の時代としてしまってよい。

 時期時期で「あの時代はこうだった」と区切ってしまって、もうそれは自分であって自分ではない。別の人間と捉える。
今の自分からは切り離していく、ということが当然のことといえるのです。
 
 
 主権は「今の自分」が持っていて、過去の自分はあっけらかんと切り離しつつ消化して、常に「今の自分」が統合していくのです。

(参考)→「記憶の主権

 

 

人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 「人の話を真剣に聞かなければならない」というのは、わたしたちが俗に信じこまされている”常識”です。

 


 あるいは「自分の話も真剣に聞いてほしい」と思っている。

 人の話を聞かない、ということは不誠実なことであり、良くないことである。

 「聞く技術」なんて本が売られたりもする。

 


 一方で、人の話を聞いて、そこで引っかかった言葉が頭に残って、苦しんだりもしている。

 「人の話を聞くことが良いこと」であるなら、なぜ苦しむ事が起きるのか?

 


 人の話に引っかかる自分が悪い、ということで、修行僧のように「気にしないでおこう」と自己啓発に勤しんだり、

 「そもそも、人から指摘されないような更に良い人間にならなければ」となって、努力したり。

 

 しかし、すればするほど、さらに「余計な一言」をいわれて、苦しみは抜けない。

 

 


 一方で、あまり苦しんでいない人達がいる。

 実はトラウマを負っていない普通の人たちは、違う聞き方をしている。

 というか、実は人の話なんて聞いてはいない。

 


 適当に聞き流している。

 

 聞き流しているけども、表面的には「人の話を聞くことが大事」と言っている。

 

えっ、とおもいますが、これが暗黙のルールとなっている常識です。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 


 そして、そのことを悪用しているのがローカルルールです。 

 

 


 トラウマを負っている人は、「人の話を聞くことが大事」というローカルルールに苦しんでいる。


 本当の「聞く」とは何かがわからないまま、ローカルルールを真に受けていると、ずっと人の話で苦しむことになる。


 そのうち、人が怖くなったり、人と関わるのが億劫になったりし始める。 


 「またいつ嫌なことを言われるのか?」とビクビクしながら接することになる。


 


 ローカルルールに呪縛されてしまうと、健康な人のようには人の話を聞けなくなる。
 


 人の話を聞く、とはどういうことか?

 人の”話”とはなにか? 

 そもそも”人”とはどういう存在なのか?

 


 例えば、人が悩みを話すとき、聞き手がその話を真剣に聞いたとすると、話をした相手は余計に苦しむことになります。

 

 なぜなら、悩みにあるということは、ローカルルールに呪縛されている状態であり、そのことで苦しんでいる。発せられる言葉は自分の言葉ではない。本来の自分の言葉を発することができずに、押し込められている。

 


 わたしたちが日常で発する言葉はすべてが戯れ言で、全てが無意味なことです。特にローカルルールによって作られた言葉はその人の言葉ではない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 そのため、表面的に発せられた言葉を真に受けてしまわれると、悩みをもった人は、悩みから抜けれなくなる。

 重いドヨンとしたままで悩みが残ってしまう。

 

 

 反対に、聞き手が、真に受けず、あたかも聞き流すように聞いた場合はどうなるか?


 話し手は、だんだんと自分の表面にかかったベールが剥がれているような感覚を感じるようになる。

 そのベールの向こうにある、本来の自分を感じられるようになる。

(参考)→「わからず屋の刑事(デカ)のように生きる」  

 

 

 カウンセラーでも、ベテランのカウンセラーは共感の姿勢を示しながら、実は話は聞き流して聞いている。
 
 もし、親身になって聞くカウンセラーがいたとしたら、巻き込まれてしまって、クライアントさんも悩みが解消されなくなってしまう。
 
 溺れている人を助ける人も一緒に溺れるような感じです。

(参考)→「寄り添いすぎて目がくもる

 

 


 人間は、適当に聞き流されることで、悩みが抜けていくようになっている。

 また、聞き流されることで、話の奥にある、真の意味が立ち上がってくる。
 

 話をしている側がほんとうの意味をわかっていないことも多い。


 特にプライベートでの言葉はすべてが戯れ言です。


 ただ、言葉に戯れるように接しないと、人との会話を楽しむことができない。

 


 日常はローカルルールだらけです。

 

 でも健康な人は、愛着の土台に常識を柱として真に受けず、戯れとして接することで、呪縛されずに生きている。

 
 
 ローカルルールに呪縛されることが、いわゆる“悩み”ということになりますが、その場合は、聞き手に”いい加減に”聞き流してもらうことで、ローカルルールから逃れて、本来の自分に戻ることができている。

 

 

 親身に聞く、というのは本当に親身ではなく、それは社交のための”フリ”であり、逆に、フリで聞いてもらわないと、真剣に聞かれたら聞かれる側も困るのです。

 

 もし、本当に親身に聞かれたら、聞き手もローカルルールに呪縛されて、悩みが抜けなくなってしまいますから。

 「人の話を聞くことが大事」ということをほんとうの意味は、話を聞いているふりをして、真に受けずに、聞き流せ! ということ。

 


“聞いているフリ”のことを、世の中では「礼儀」といいます。

 

 そうして初めて、人間同士はわかりあえたり、楽しくコミュニケーションをとることができる。

 

 

 わたしたちが「人と一体感がえられない」と苦しんでいた大きな原因の一つは、「人の話を真剣に聞かなければならない」というローカルルールにあった、ということです。

 

 

 

 わたしたちは、犬や猫に癒やされたり、まちなかで出会った気楽なおじいさんとかおばあさんと雑談することで気持ちが軽くなることはあります。


 犬や猫は人間の話を理解できません。でも癒やされます。


 人の話は真剣に聞いてはいけないし、聞いてもらわれてもいけない。


 人間の言葉、日常の言葉は”悪貨”で、良貨はその奥に埋もれてしまっている。

 だから、聞き流すようにしないと悪貨は取り除けない。


 プライベートでは、悪貨でもそれはそれとして戯れとして楽しむ。

 

 言葉は本来神のものであって、人の言葉は何も表していない。人間の言葉はすべて神の言葉に擬したニセモノなのです。

 

 言葉に関するローカルルールを壊すと、本当の自分が立ち現れてきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 パソコンや、スマホでメールを使っていると、よくスパムメール、詐欺メールがやってきます。

「警告!」とか、

「[LINE緊急問題]」とか、

「Amazon でのショッピングの決済が完了しておりません」とか
 
「AppleIDが停止されました」とか


 共通するのは、不安を煽るような内容で、しかも、「あなたに問題があるから至急対処せよ」ということです。


 そうして、フィッシングサイト、偽サイトに誘い込こんで、情報を取られたり、詐欺に巻き込まれていきます。

 


 気持ちが安定していると、「バカバカしい」と相手にしませんが、不安定な状態だと、「私に問題があるのかも?!」と思って、巻き込まれてしまう場合もあるのでしょう。


 

 

 不安を煽って、ニセの責任、因縁をつけて巻き込む、という詐欺メールの手口。

 これは、ローカルルール(人格)がわたしたちを巻き込む手口ととても良く似ています。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの」 

 

 

 わたしたちも、世の中を生きていく中で、対人関係で、こうした詐欺メールのようなローカルルールへの巻き込みに遭遇します。


 「あなたは私を傷つけた!(すぐに対処せよ)」

 「あなたは空気が読めない人間だ(だから、理不尽な目に合うことを受け入れよ)」

 「私をイライラさせるな!お前の態度が気に入らない!(私の相手をしろ)」

 「あなたにはダメな人間だ(You’r NOT OK と因縁をつけて、I’m OK と思いたい)」


 などなど


 何やら、本物のコミュニケーションに見えますが、全てはスパム、ニセモノです。


 もし、引っかかって、「私に問題があるのかも?!」「なんとかしてあげないと」と対処してしまうと、相手の不全感、ローカルルールに巻き込まれていってしまいます。


 詐欺メールを無視するかのように、取り合わずに無視する必要があります。  

 

 

 さらにやっかいなのは、取り合わないと決めていると、「あなたは冷たい」という言葉も飛んでくる。


 これも、実は、ローカルルールに巻き込むために用いられるよくある言葉です。


 ローカルルールというのは、そこに巻き込むために、そして、それを成立させるために、二重、三重にトラップが敷いてあります。


 「あなたは冷たい」というのも、まさにそう。

 
 もともと、「いい人でいなければ」とか、「あなたはおかしい」というローカルルールの刷り込みがある方にはてきめんに効果があります。

 もちろん、これも全く取り合う必要はありません。

(参考)→「気持ちを理解しろ、物事を先回りしろ、あなたは冷たい、傷ついた!などもローカルルールや巻き込むためのメッセージ

 


 実は、トラウマという観点で言えば、すでにわたしたちは、巻き込まれていたりする。


 親が教育やしつけと思って言っていたことは、結局自分の不全感や嫉妬からくる感情の発露を、常識と偽ったローカルルールでしかなかった。

 


 イライラして「私の気持ちをもっと考えろ!」「イライラさせるな!」とか、「あなたはだめな人間だ」「悪い子だ」といったような言葉。

 


 単なるスパム(戯れ言)でしかなかったのに、わたしたちは真に受けて、「少なくとも2,3割は自分にも問題があったかも」「親がイライラするのも理解してあげないと」なんて思ってしまっている。

(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 


 過去に言われた人の言葉がぐるぐると頭から抜けなかったり、自己否定感、自責感、そして、自信がなかったりする、というのは、実は、まだ、ローカルルールに巻き込まれて、フィッシングサイト(詐欺サイト)の中にいるような状態と言えるのかもしれません。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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気持ちを理解しろ、物事を先回りしろ、あなたは冷たい、傷ついた!などもローカルルールや巻き込むためのメッセージ

 

 「人の気持ちを理解しろ(あるいは理解しなければならない)」

 「物事を先回りして対処しろ、段取りを組め、といったようなこと」

 
一見すると、正しいように見えますが、実はこれらもローカルルールになります。


 
 ローカルルールとは、「私的な感情(不全感)」から来ている言動を常識だと騙ることです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 


 そのため、不全感を満たしてくれるように相手に求めるメッセージを投げてきます。

 

 私的領域というのは、不全感が渦を巻いています。
 相手の私的領域をのぞき込んでしまうと、だれでもローカルルールのおかしな世界に巻き込まれてしまうのです。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。」 

 


 不全感を抱える人は、フィッシングメッセージ(おとりの言葉)を投げつけてきて、他者に自分の私的領域をのぞき込ませて、巻き込もうとしてきます。

 

 それが、「人の気持ちを理解しろ」ということをや「物事を先回りして対処しろ」ということです。
 

  「私のワガママに答えて不全感を癒せ」
  「私の言っていることはおかしなことではない、ひっかからないあなたがおかしい。」
  「もっと先回りしてこちらの要望に答えるのが常識だ」というわけです。

 

 相手を「お前はひどい人間だ」「私を傷つけた!」といって因縁をつけることもあります。
 

 

 相手がその因縁に怯めば、しめたもの。

 


 次には、「いかに私が傷つけられたか、私の内面をのぞき込んでよくよく考えろ」と言って、私的領域に巻き込んでくるのです。

 

 

 みなさんが出会ってきた、理不尽な親や、学校の同級生や先輩、会社の上司、(結婚していれば)パートナーなどがまさしくそうです。


 本当は真に受けてはいけない。
 相手の私的領域に立ち入ってはいけないのです。

 

 しかし、トラウマを負った人、生きづらさを抱えた方は真面目で誠実な方が多いですから、そうしたメッセージを真に受けて、相手の要望を実現しよう、謝罪しようと奔走します。

 


 ローカルルールを仕掛けてくる相手は、さらに巻き込むために、ゴールポストを動かします。そうして、何をしても「違う!わかっていない!」と非難し、相手を無能扱いし、否定し、さらに巻き込むようにしてくるのです。

 

 もともとは、因縁はその人の不全感(私的な感情)でしかないので、取り合う必要はありません。「不全感(私的な感情)」であることを隠すために屁理屈をこねているだけなのですから。

 


 巻き込まれないようにしていると、「あなたは冷たい!」と言ってくることもある。これもフィッシングメッセージ。ローカルルールです。

 

 善意をもつ良い人ほど、これにグサッと来て、巻き込まれます。

 

 残念ながら、真に受けてしまうと、何十年と頭の中で残り、その言いがかりを実現しようと努力しては破れて、努力しては破れてを繰り返すようになります。

 

 クライアントさんの中には、母親に言われたこと、父親に言われたことが頭に残り、その理不尽な要望を実現しようとずっともがいている方はとても多い。


「それ、単なるローカルルールですよ」というのですが、
「たしかにそうなのかもしれないけど、ローカルルールであっても言っていることには理がある」として、頭から抜けないのです。
  

「ローカルルールがなくなったらすべてが崩壊しそうで、なくなった世界がイメージできない」という場合もあります。

 

 

 フィッシングメッセージを真に受けさせられ、ローカルルールに巻き込まれる背景には、「人間とは立派なものだ(神のような存在だ)」という間違った前提(人間観)があります。
 「立派な存在(神のような存在)からのメッセージをむげに扱うわけにはいかない」というわけです。
 「人の話をよく聞け」と刷り込まれている場合もあります。

 

 

 神のような存在だと思うのは、発達の過程で、自他の区別がうまくつかなかったり、自我や他者イメージの形成に不具合を起こしてしまっていることから起こります。

 

 赤ちゃんにとって親は神のような存在で、自己は万能ですが、発達の中で等身大になっていく、そして、「自分も他人も皆人間は弱く、それほど大したものではない(でも、それぞれに愛嬌を持っている)」と考えます。これが普通の感覚です。

 

 立派な人を見ても、「でも、プライベートではだらしないところもあるんだろうね」と同時に思えたりもする。でもバカにするわけではなく、苦労を重ねてきた人間同士ねぎらうような感じで「リスペクト(敬意)」の感情が湧く。

 相手の発言をスルーしたり、ペンディングすることができる。

 

 

 反対に、トラウマを負い、自我や他者イメージの形成に不具合を起こしてしまっている人は、相手を神のように崇める気持ちと、こき下ろす気持ちとが大きな波のように揺れ動いたりする。不具合を起こしている人にとってのリスペクトとは「崇拝」です。

 そのため、相手の言っていることを真に受けたりする。自分に対する指摘は「客観」だと捉えてしまう。

 

 

 事実はそうではありません。

 人間は神ではなく等身大の動物。霊長類では最も脳が発達しているとはいえ、脳は混乱しやすく、容易に解離しておかしくなります。

 それは、おかしな人だけがそうなるのではなく、万人がそうです。
 


 特に私的な環境にいる場合はおかしくなりやすい。

 
 人間とは、公的な環境で公的な役割を背負っていて、睡眠や栄養を十分取れている、というわずかなタイミングでしか、まともでいられないのです(それもかろうじて)。 


 ちょっとでもそれらの条件が崩れるとグダグダになってしまう。

 
 だから、普段の会話などはすべて戯言でしかなく、まともに取り合う必要のあることはほとんどありません。


 過去に親に言われたこと、友だちが言ってきた気になる一言、上司の嫌味、すべてがローカルルールによるものでしかなかった。


 
 反対に言えば、頭にずっと残るということ自体が、ニセモノであることをあらわしています。なぜなら、自然なものほど簡単に代謝されていくものだからです。

 

 こうした実像が見えてくると、もっともらしい言葉にも呪縛されなくなってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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まず相手の気持ちや立場を考える、というのは実はかなり変なこと

 


 前回、ニセの良識、ニセのバランス感覚について書きました。

(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 


 トラウマを負った人というのは、ニセの常識(ローカルルール)を背負わされている、ということがあります。


 高潔にその常識を守っているのですが、実はそれはニセモノの常識だった、ということです。

(参考)→「人格者になりたい

 


 「えっ、今まで当たり前とおもっていたことが実は違うの?」というばかりです。


 健康的な人、愛着が安定している人というのは、建前と本音の世界に生きています。

 実際は言わないだけで、実は良識なんて守っていない。あくまで“社交”としてフリをしているだけ、ということがほとんど。

 
 健康な人は、人が喋っていることがすべて戯れ言だとわかっている。 

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 


 でも、それでよい。そうしてはじめて人と気楽に付き合っていける、ということなのです。

 なぜなら、健康な人というのは、「安心安全」を体感として持ち、社会全体の一部であるような感覚で生きているからです。

 自分が特別に高潔である必要がない。

 

 これら裏ルールは体感のようなものですから、わざわざ言語化されることがありません。言語化するのも野暮なことです。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 


 
 以前も書きましたが、実はこれは子どもでもそうで、筆者が少年野球をしていたとき、周りの子ども達は嘘をついて水を飲んだり、練習をサボったりしていたのですが、筆者はそれがあまりわからず、自分の真面目さと周りとのズレに驚いたことがありました。

(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう

 

 

 じゃあ、筆者が高潔で正しく、周りがずるくて汚いのか、といえばそうではありません。周りの子供達のほうが大人からは可愛がられたり、多くの友達とコミュニケーションが取れたりする。


 人間とはそういうものなのです。


 「そんな世の中は変えなければならない」と考えるのは、トラウマを負った人に多い、あたかもテロリストのような考え方です。

(参考)→「トラウマを負うと一元的価値観になる

 

 


 嘘をつく子供たちにこそ、実は悩み解決のヒントがあります。


 例えば、嘘をつける、というのは発達心理学では、自我の発達(自他の区別)にとって良い影響があるとされます。嘘を付くことで自他の区別がはっきりする。

  嘘をつけない、高潔である、というのは、自他の区別が曖昧になるという致命的な副作用を伴い、その後の生きづらさにも関わるのです。

(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 


 
 「相手の立場を考える」というのも、常識のようにおもわれていますが、実はニセの常識(ローカルルール)です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 


 「えっ、なんで?相手の気持を考えるのが良い人間であることでしょ?」
 「自分のことしか考えない、独善的な人間に嫌な目にあってきたからこそ、自分はそんな人間にはなりたくない!」

 と思う方も多いかと思いますが、
 それも、ローカルルールによって強制された思考なのです。 

  
 健康な人は、「まずは自分の主観、都合からスタートする」ものです。

 


 コンピューターのプログラム風に言えば、


 1.まず、主観からスタートして自分の体感(愛着の土台)を参照する。


 2.ついで、その体感から伝わってくる、社会の常識(パブリックなルール)を参照する 


 3.2に照らして、相手の態度が常識的かどうかを判別する。

 
 4.常識的でないと分かれば、それ以上は相手にしない。


 5.もし常識的なら、その際は、相手の立場も考える。


 という感じになっている。

 

 

 反対に、トラウマを負った人は、


 1.まず、客観(ニセの客観、良識)からスタートして、頭で考える。
 
   ※頭で考えることで、自分の親から受けたローカルルールに巻き込まれます。


 2.相手の立場や心理、感情に移入する。

   ※相手の立場に移入することで、相手のローカルルールに巻き込まれます。


 3.自分にも悪いところがあるのでは?と反省し、自分を責める。


 という様になっています。

 

 


 つまり、まず、客観的になろうとしたり、良識的になろうとすること、そして相手の気持を考えたり、というのはおかしいのです。


 実はそれは、ローカルルールに巻き込まれているだけ。

 


 人間というのはミラーニューロンでつながっている、という説があります。

 そうであれば、解離して因縁をつけてきている相手の気持を考えれば、相手のローカルルールに巻き込まれるのは当然のことです。

 

 本来は、自分に主観、体感からスタートしなければならないし、それが自然なことです。

 


 これは決して、独善的になるとか、そういうことではありません。
そうすることが人間の発達、そしてあり方としても正常なことなのです。

 人間は自分の体感(いわば無意識)を通じて、社会とつながるのです。

 

 自我、そして身体が成熟した者が、社会的な役割、責任を背負って初めて「人間」でいられるのです。
(アリストテレスが「人間は本性上、ポリス的動物である」と言っているのはこうしたことです)

 

 そうして「人間」になってはじめてちゃんと相手のことを考えられる、のであって、最初に相手のことを考える、というのは、人間の在り方としてもおかしいことなのです。

 

 自分がどういった順番で、何を参照しているのかをチェックしてみると、問題が見えてきます。
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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