良い文化を作る「ソーシャルワーク」という視点

 

 前回の記事では、「文化づくり」の大切さ、と文化づくりの8割は、いわゆる ソーシャルワーク といわれるものです、と書かせていただきました。

 

 ソーシャルワークというと、なにか福祉の専門職の話のように聞こえます。

 「ソーシャルワーカーさんに相談する」
 「ソーシャルワーカーさんに間に入ってもらう」

 病院や福祉の場面などで、そうした言葉を耳にしたことがある方もいらっしゃるかもしれません。

 実際、一般的には、ソーシャルワークとは、貧困、介護、病気など、社会的な相談や調整が必要な人に対して行われる支援、ということになるかと思います。

 しかし、ここで取り上げたいのは、もう少し広い意味でのソーシャルワークです。

 つまり、私たちが社会の中で生きていくうえで必要になる、さまざまな調整やアクションのことです。

 お金のこと。
 健康のこと。
 食事のこと。
 住まいのこと。
 仕事のこと。

 何か困ったことが起きたときに、どこに相談するのか。
 どう社会とつながるのか。
 どう具体的に動くのか。

 そうしたことは、一見すると心理の問題ではないように見えます。

 しかし、実は、生きづらさやトラウマから抜け出していくうえで、とても大きな意味を持っています。

 

 なぜ、カウンセラーが「ソーシャルワーク」の話をするのか。

 それは、お悩みというものの多くが基本的に、社会からもたらされるからです。

 私が『発達性トラウマ』という書籍の中でも述べたように、私たちの悩みや生きづらさは、個人の頭の中だけで生じているものではありません。

 社会からもたらされる。

 ただし、ここでいう社会とは、日本社会とか世界といった大きな社会だけを指しているのではありません。

 私たちの身近なローカルなソサエティ。

 地元。
 地域。
 親族。
 友人。
 知人。

 そして、一番大きいのは家族です。

 そうした身近な“社会”の中で、私たちはさまざまな影響を受け、さまざまなものを背負わされているということです。

 

 例えば、仕事やお金のことについて、私たちは自分では合理的に対応しているように感じています。

 しかし、実際には、かなり偏った対応しかできていないことがあります。

 例えば、
 なぜか億劫でできない。
 なぜか不安でできない。
 なぜかやる気が起こらない。

 あるいは、そもそも知識がなくどう対応していいかわからない、ということもあります。

 結果として、
 「なぜ、こんなことができないのか」
 「自分がだらしないのではないか」
 「自分の性格の問題ではないか」

 と自分のせいであるかのように思ってしまう。

 しかし、そんなことはありません。

 そこには、私たちが背負ってきた文化があります。

 

 

 前回の記事でも書かせていただいたように、私たちが何か問題や課題に直面したときに、どう対応するのか、どう対応できるのかは、文化の影響を強く受けています。

 そして、その文化とは、多くの場合、自分の家族です。

 親がどう動いていたのか。
 何かあったときに、どう対応していたのか。
 誰かに相談していたのか。
 それとも、相談せずに抱え込んでいたのか。
 怒る、責める、我慢する、なかったことにする、という形だったのか。

 そうしたことの影響は、とても大きいのです。

 何かあったときに、どう相談していくのか。

 どう社会とつながっていくのか。

 もっといえば、「ソーシャルワーク」とは、社会とつながっていくということです。

 これをいかに適切に行っていけるか。

 実は、ここはカウンセリングやお悩み相談において、案外盲点になっているところです。

 

 

 カウンセリングというと、悩みは心理の問題であって、個人の頭の中にある心理を、心理療法やカウンセリングでケアすればよくなる、というふうに捉えられがちです。

 しかし、そうではありません。

 生きづらさやお悩みの大半は、実はこうしたソーシャルワークの領域で解決できることが実務的にも多いのです。

 さらに、心の中のトラウマや愛着不安をケアするという視点においても、社会とつながること、具体的に相談すること、実務の中で問題を解決していくことは、とても大きな意味を持ちます。

 心の問題だから、心だけを扱えばいい。

 そうではないのです。

  

 以前、ブログの中で、大阪の西成高校が取り組んでいる「反貧困学習」を取り上げたことがあります。

 西成高校のある地域には、生活保護を受けている家庭が多かったり、経済的にも、さまざまな面でも困難を抱えている家庭があったりします。

 そうした環境で育った生徒さんたちは、学校でのお勉強以前に、家庭での支援を十分に得られなかったり、社会で生きていくために必要な知識や経験を得る機会が少なかったりすることがあります。

 反貧困学習とは、そうした状況の中で、社会的な知識を身につけ、自分を守るための学習です。

 例えば、アルバイトをする。
 そのときに、ブラックなアルバイト先で、労働基準法などを知らないがために、本来なら守られるはずの権利を守れないことがあります。

 給料が払われない。
 不利な条件で働かされる。
 無理な働き方をさせられる。

 そうしたことが実際にある。

 すると、やる気をなくしてしまう。
 自尊心も損なわれる。
 また働きに行っても、悪い条件で働かされる。

 本来であれば、勉強して、大学や専門学校に進む、あるいは就職するにしても、よりよい条件に向かっていける可能性がある。

 しかし、家庭の環境や、社会で生きるための知識がないことによって、どんどん悪循環に陥っていく。

 反貧困学習とは、そうしたことを防いでいく取り組みなのです。

 

 近年の状況は、少し悪い意味でいうと「心理主義」です。

 何でもかんでも、個人の頭の中、心の中の問題にされがちです。

 「やる気がない」
 「自己肯定感が低い」
 「メンタルが弱い」
 「自分に問題がある」

 そういうふうに、問題が個人の内面に流し込まれてしまう。

 

 しかし、西成高校の例でもわかるように、実は多くは社会的な問題です。

 経済の状況。
 家庭の状況。
 社会につながっていくための知識。
 社会につながっていくためのスキル。
 相談する経験。
 相談してよいという感覚。

 そうしたものがないために、相談できないままになってしまう。

 あるいは、相談したとしても、あまりよろしくないところに相談してしまい、さらに悪循環に陥ってしまう。

 生きづらさとは、そうしたところからも生じているのです。

 私たちも大人ですが、普段、どこに相談していくのか、ということはとても大事です。

 日本にも、思っている以上に、社会的な相談機能や制度は整ってきています。

 もちろん、十分ではない部分もあるでしょう。

 ただ、相談できる場所がある。
 使えるものがある。
 頼れる仕組みがある。

 それを知っているかどうか。
 それを使えるかどうか。

 それだけでも、状況は大きく変わってきます。

 今であれば、AIも含めて、いろいろなツールがあります。

 しかし、それをうまく使えない、ということもあります。

 それもまた、個人の能力の問題だけではありません。

 そうしたものを使う文化がない。
 相談する文化がない。
 社会につながる文化がない。

 そういうことなのです。

 

 トラウマとは、すなわち機能不全な文化を背負っている、背負わされているということです。

 ですから、トラウマから抜け出していくこと、生きづらさから抜け出していくことは、単に心の中を見つめることだけではありません。

 社会とつながり直すこと。
 相談すること。
 適切にアクションすること。
 自分を守るための知識や手段を持つこと。

 そうしたことも、トラウマから抜け出していくためには、とても大事な視点です。

 悩みは、個人の心の中だけにあるのではありません。

 “社会”とのつながりの中にあります。

 だからこそ、「ソーシャルワーク」という視点が必要なのです。

 

 

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「文化づくり」という視点

 昔、私が夕方、マンションの階段を上っていたら、人がいないはずのスペースに人がいたことがありました。ドキッとして鼓動が早くなります。なんだ??と。

 どう考えても、人がいるはずもないところに人がいて何やらスマホを見ている。

 たぶん、泥棒か何かなんだ、と思い、どうしようか?と逡巡します。

 そこで、勇気を振り絞り、何やってんだ!と声をかけると、その人物は、すみません、とかなにかを言い、一目散に逃げていきました。

 

 

 そのあと、この事態をどうしようか?と考えていました。
警察に通報するべきか、別に何も起こらなかったからそのままでいいか?と。

 その時点で私は人生で110番通報をした経験は一度もありません。

 その後の手間などを想像したり、あと、昔に自転車を取られたときの面倒くさそうな交番のおまわりさんの対応を思い出すと、どうせ通報したって、、という気持ちもわいてきます。

 

 しかし、この時に浮かんできたのは「文化づくり」という観点です。

 ここで、私が通報しなければ、よほどでなければ通報しないという文化が自分にも、自分の家族にも生まれてしまいます。

 避難訓練というものがあるように、人間というのは行動したことがないこと、練習したことがないものはできないようにできています。

 初見では臨機応変に対応できる、というのは幻想で、人間は過去に練習したことしか基本はできません。

 これは知人から聞いたことですが、自分や家族が具合が悪くなった時も「救急車を呼ぶ」ということが案外できなかった、というのです。それはその方が救急車を呼ぶということを過去にしたことがなかったからです。医療関係者からは「そういう時は呼んだほうがいいよ」と言われたそうです。

 

 

 そんなこんなを考えた時に、私は、何もなかったとしても、ちゃんと対応されなかったとしても、一度通報したほうがいい、とおもい警察に電話しました。

 すると、3人の警察官が来て、いろいろと調べてくれました。いわゆる調書みたいなことはなかったのですが、管理人にも話をしてくれて、後日、マンションには監視カメラが付くようになりました。

 結果的にはセキュリティは上がりました。

 これは一つの事例です。

 このこと以外でも、私は「文化づくり」というのは日頃からも意識しています。
 

 

 

 会社などの組織も、文化というものがありますが、その文化とは何か?といえば、結局は「過去にその会社とそのメンバーがとった行動の集積」ということです。

 過去にどんなことをしたかが文化になって、先例になって、参照されて、有形無形の文化となって現在に影響している。例えば、過去に問題があって、謝罪や返品といった対応をすれば、そういう誠実な文化にもなりますし、ごまかせばそういう文化にもなります。

 

 家庭もそうです。
 特に問題が生じた時、失敗が生じた時にどう対応したのか?がその家の文化になります。

 適切な行動ができないことはもちろんですが、家庭でよくあることとしては、学歴や財産、世間体といった見た目から逆算した表面的な行動ばかりしているということ。本来的な行動がなければ、曲がった文化、機能不全な文化になります。

 

 あるいは、特に親などの大人たちが自身の不安や引き継がれてきたトラウマ、不全感といったものを隠したまま間違った行動や対応をしているというようなこと。そうした対応からは、不安や不全化からの行動が「文化」となります。

 こうした曲がった文化が蓄積された家が「機能不全家族」というものです。

 

 機能不全な家庭だと、多くの場合、その家系で家長となるべき人(たち)が機能せずに、おかしな行動を繰り返していたりするものです。もちろん、それは、生育環境からの愛着不安、トラウマによって生じます(近年は、祖父母の世代の戦争のトラウマが及ぼす影響が注目されていたりもします。)

 それらがおかしなものとして認識されていればいいですが、なにやら理屈でごまかされたり、親族などによって追認されていたり、することで、ローカルルール化してしまいます。

 社会的存在、文化的な存在である私たち人間にとって、その影響はすさまじいものがあります。

 トラウマというのは私たちが背負ったそうした機能不全な文化のことである、といっても過言ではありません。

 

 

 カウンセリングなどではよく「認知(信念)」を変えるといったようなことが言われますが、そんなことでは生きづらさの解消には追いつきません。
 私の経験では、身体へのアプローチについても影響は限定的です。なぜなら人間はロゴス、ポリスの生き物だからです。

 

 そして、必要なのは“個人の”「認知」ではなく、「文化」を変える、という視点です。

 認知を変えるとしても、身体や行動を変えるとしても、それは「文化を変える」という視点がなければ効果はなくなってしまいます。
(身体の動かし方でさえ、かつての日本の文化と西洋の文化は違うと言われます)

 

 日々自分の行動で、自分の人生の「文化」を作っているという視点が重要です。

 パートナー同士であれば家庭の中、さらに、お子さんをお持ちであれば、親の役割は「文化」づくりである、と考えるとわかりやすいです。
 (いわゆる、”背中”で見せる、ということです)

 いかに、社会を“代表”して、理屈がちゃんと通った行動をとれているか、機能した行動を適時、適時に行っていけるか、がとても問われます。
 (こうしたことを、東洋哲学では「中庸」と呼ばれます)
  

 文化づくりにおいては、こうするべき、といった意識からであったり、不安からアクションしてもそれは全く機能しません。なぜならそれは多くはトラウマ由来のものだからです。
 メンバーから、無意識に「それ、あなたの不安ですよね」と感じ取られて、「従う道理なんてない」とされてしまうのです。

 

 そして、もし、無理やり従わせることができても、結局は、不安が文化になってしまいます。

 会社でも、経営者や上司がただ不安から部下を詰めたり、ワーワー理屈を言っている、という景色はよくあります。そうした会社の文化はどこやら強迫的になっていきます。

 

 不安もよくありませんが、立派であろうとすることや、完璧であろうとしたり、過度に正しくあろうとすることも、文化づくりとは対極にあるものです。それらも結局不安でしかありません。
 
 文化 とは、もっと実質的、機能的、愛着的、そして社会的なものだからです。

 文化づくりの8割は、いわゆる ソーシャルワーク といわれるものです。

 

 

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ハラスメント理解から見えてくる、私たちの可能性――不全感の連鎖を止めるということ

・「人文知」を活用(リバイバル)する必要性

 ここまで見てきたように、ハラスメントとは、単なる迷惑行為といったことにとどまらない、人間の本質にかかわるテーマであることがお分かりになるかと思います。

 もともと、ハラスメントとは、人間関係における呪縛や侵害に関する概念であり、人類学者グレゴリー・ベイトソンの「ダブルバインド」理論(“Toward a Theory of Schizophrenia,”論文)を源流とします。
 日本でも実際に東京大学の東洋文化研究所の安富歩教授や大阪大学の深尾葉子教授が「魂の脱植民地化」プロジェクトを立ち上げて研究されるなど、実は、「ハラスメント」は、人間という存在を解き明かす可能性を持つ「人文知のテーマ」と捉えられてきた歴史があります。

 モラル・ハラスメント自体は、フランスの精神科医イルゴイエンヌが提起したものですが、その背景には単なる迷惑行為や個人に対する侵害への問題提起を越えた深いの領域が控えているのです。

・知見の分断

 しかし、これらの知見は分断にさらされてきました。残念ながら、行政や労務におけるガイドラインを参照しても参考文献にこうした研究は全く登場しません。また、当事者を支援する専門家たちの書籍でも、こうした研究に触れられることは、ほとんどありません。
 メカニズムなど問題の本質に迫るような知見に関心がもたれずに、ただ外形的なガイドラインか、当事者の事例をまとめたようなものが通例になってしまっています。

 こうした知見の分断の背景には、心理臨床や精神医学におけるガイドライン依存や心理を問う機運の衰退など、簡単に言えば、事象の本質、メカニズムを深く掘り下げて定義する文化が失われていることがあるのかもしれません。

・人文知が求められる時代

 実は、今、大企業(マイクロソフト、グーグル、ソニー、サイバーエージェントなど)において、哲学や人類学を専攻していた人材を積極的に採用して、その知見を活用しようという流れが話題になっています。

AI時代を迎えて、大規模情報がコモディティ化し、AIが瞬時に情報を整理してしまえる中で、人間にできるより深い抽象的な思考、とくに「人文知」の活用が求められています。

 ここまで見てきたように、ハラスメントという事象を理解し、実際にそれによる適切な対処を知るためにも、あらためて「人文知」は威力を発揮することがわかります。

・不全感の連鎖を止めるために~ハラスメント理解からみえてくる私たちの可能性

 ハラスメントのメカニズムを知ることは、単に職場を改善するだけではありません。私たちが「自分らしくあること(実存)」を取り戻すプロセスそのものです。

 何よりも必要なのは、「不全感」について私たちが賢くなること。 従来のように被害者個人に対処の負担を押し付けるのではなく、社会全体が、不全感を隠した「ローカルルール」に気づき、「NO」と言うこと。 そして、相手の「存在(Being)」を尊重し、「行為(Doing)」に限定した言葉(Iメッセージ)でやり取りすることを当たり前としていくこと。

 「不全感」という目に見えない”悪”の存在を社会が自覚したとき、私たちはハラスメントの呪縛から逃れ、本当の意味での多様性や信頼を築くことができるはずです。

ハラスメントの理解から、私たちの新しい可能性が始まります。

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どこからどこまでがハラスメントか?――現場で使える判断の基準

 「どこまでが指導で、どこからがハラスメントか?」 この問いに、現在の法律やガイドラインは明確な答えを出せていません。その結果、現場では「ホワイトハラスメント」や「指導の放棄」という新たな混乱が起きています。

 本稿では、前回のメカニズム編(「「ハラスメント」とは、本当は何か?」)を受け、日常の現場で使える「どこからどこまでがハラスメントか?の真の基準」を提示してみたいとおもいます。

 ハラスメントのメカニズムを知ったうえで、実際に日常の現場でどこからがハラスメントで、どこからがそうではないのかを見ていきたいと思います。

1.ハラスメントの基準を知るための前提

 まず、「ハラスメントとは加害者が自分の不全感をかりそめに癒すために表面的な規範を道具に、私たちの社会性、善性を悪用する行為」という理解が基本です。

 そうした関わりをされると、された側も何とも言えない嫌な感覚がわいてきます。「不全感」という概念はあまりなじみがないかもしれませんがとても重要です。

・「不全感」の存在を知る

 人間の言動の背景には実は不全感が含まれていることがあり、それが人間関係や組織(家庭、学校、地域、職場など)をおかしくしているのだ、ということについて私たちは正しく認識する必要があります。これらを知っているだけでもハラスメントの基準についてかなりのことがわかります。

 そして、不全感をかりそめに癒すために他者の社会性、善性を悪用することがない関わりであれば、まずはそれはハラスメントではない、ということです。

2.行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分ける

 そのうえで基準をより明確にするために、行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分けてとらえてください。

 行為レベルの迷惑行為・ストレス事象のみの場合は厳密にはハラスメントには当たりません。

・口は悪いが不全感による侵害行為はないケース


 例えば「口は悪いのになんだか憎めない、嫌な感じがしない」というのはこうしたケースです。あるいは、熱意をもって叱咤するといった上司の姿などもある意味同様です。(※ただし、実務や現場における総論としては、できれば避けるべき行為として取り扱われます)。

・単なる迷惑行為であるケース

 最近、職場で人が立てる音が気になって困るということで「音ハラ」ということが言われるそうです。これも音を立てる人が不全感から意図して発しているのでないのであればハラスメントではなく、単なるストレス事案、迷惑行為となります。

 このように何でもハラスメントになるということを防ぎ、基準をもって切り分けていくことができます。

3.存在レベルに立ち入っているか否か?不全感の解消が意図されていないか?

・行為レベルのやり取りはハラスメントではない

 次に、社会におけるかかわりの原則は、他者の存在レベルの事柄には立ち入る(相手の人間性を云々するようなこと)権利は誰にもない、ということ。できることは行為レベルでのやり取りであるということです。特に仕事などでは、行為レベルでの改善や要求をやり取りできなければ仕事にならないため、それらについての関わりは基本ハラスメントではないことがわかります。

・疑われる行為は検証を行う

 行為レベルのやり取りの際に、暗に存在レベルへの侵害がないかどうか?については現場でも検証をすることです。
 例えば、不機嫌になりながら指示をするといった行為は、暗に「お前が自分を不機嫌にしている」というメッセージが込められている場合(かりそめに自分の不全感を癒そうとする行為)があり、ハラスメントになりえることがわかります。

・コミュニケーションは行為レベルに限定された「Iメッセージ」で行う

 もちろん人間ですから、仕事で迷惑をかけられて腹が立つことはあります。その際は必ず、「Iメッセージ(私は困ります。こう改善してください)」つまり、自分を主語にした1人称で、相手の存在を尊重したうえで、行為レベルに限定して発せられる必要があります。

・基準の共有と吟味~社員の多元性、多様性が尊重されているか?

 こうした基準の共有、吟味とコミュニケーションの配慮、必要に応じてトレーニングがされれば、会社で若手社員に恐る恐る接するといったような「ホワイトハラスメント」なるおかしな現象は生じなくなります。

・飲み会はハラスメントか?を吟味する

 例えば、飲み会についても、存在レベルでの侵害(来て当然だ、来ないやつはダメな奴、など)がないか?などは吟味し、必要性への了解と、相手の事情を配慮したうえで開催することが原則です。飲み会そのものや、誘うこと自体はストレスがあったとしても行為レベルのもので、基本的にはハラスメントではないと捉えます。

 仕事において、さらに突っ込んだやり取りが必要な場合、規範や責任についてやり取りが必要な際は、それが真に妥当なものか?不全感を隠した関わりではないか?といった吟味が必要になります。

・本来、職場とはどうあるべきなのか?

 「ブラック」「宗教的」といったような批判を受けるような職場は、経営者の不全感がそのまま企業理念や社員規範となっている場合があり、本来は、経営者個人の不全感は脱臭・昇華した理念にする必要があります。
 具体的には、パブリックルール(社会の良識)のフィルタを通し、社員の多元性、多様性を尊重したものである必要があります。マインドセットや意欲といったことが求められる場合でも、社員の人格Beingを云々するのではなく、あくまで行為レベルのものとして扱われるべきものです。

 さらにいえば、相互の尊重や信頼が十分に醸成されている職場では、「自分の不全感から他者の社会性、善性を悪用する」という危険性がなくなるため、トークストレート(率直な会話)ができるようになります。実際に実現している会社は存在します。そうした会社では、相手の立場などに臆せず、言うべきことを言う、しかし、イシューと人格は切り分けられている、ということが当たり前になっています。

 ここまで見たように、ハラスメントのメカニズムという視点があれば、これまでにない様々な応用やアイデアが涌いてきます。

ハラスメントの抑止と対処~メカニズムを理解、応用した環境づくり

 ハラスメントのメカニズムという視点を持つことによる応用やアイデアとは、たとえば職場においては、どのような職場づくりをすればハラスメントの防止に有効なのか?ハラスメントのメカニズムを理解した上での職場づくりはどうすればいいのか?すでに世の中で知られ、実施されている取り組みについてもその意味や効果が別の角度で見えてきます。

・ダイバーシティ、パーパスなど経営施策の本当の意味

 例えばダイバーシティ、パーパスといったことも、それらが経験的に有効というのは経営の観点からわかっていることですが、実は心理学やハラスメントに関する知見から捉えると、それらが、ハラスメントを抑止するために必要な多元性、多様性を醸成する効果があることがわかります(パーパスの策定などは、経営理念や文化に含まれる創業者や経営者個人の不全感を昇華させて、真にパブリックな会社にする効用もあります)。

 こうしたことは既存の経営書などにも書かれていない視点です。

 

・「ハラスメント」とは、私たちのあり方、他者とのかかわり方など根源的な問いを含む問題

ここまで見てきたように、ハラスメントか否かを判断するためには、行為(Doing)の問題なのか、存在(Being)への侵害が生じているのか、そして、その背景に「不全感の解消」という意図が含まれていないかを見極める視点が重要になります。

こうした整理があれば、「何でもハラスメントになる」という混乱や、「何も言えなくなる」という萎縮を避けることができます。

しかし同時に、ここまでの議論は、単なる職場ルールや対処法の話にとどまらないことにも気づかれるのではないでしょうか。

ハラスメントという現象は、人間がどのように他者と関わり、正しさや規範をどのように使ってしまう存在なのか、という、より根源的な問いを含んでいます。

次回は最後の回となりますが、ハラスメントを理解することで見えてくる私たちの可能性と、人文知を活用する意味について触れてみたいと思います。