私たちは、人に弱みを見せるとダメだと思っています。
学歴、病歴、職歴、あるいは、日常での失敗談、などなど、
そうした失敗があたかも自分の存在の愚かさ、どうしようもなさを証明するかのように感じてしまい、口を閉ざしてしまう。
口を閉ざすというのは、つまり、自分の中では永続的に自分を責める負の材料、ローカルルールを証明する証拠としてあり続けるということです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
例えば、大学進学の際に浪人した、とか、志望校に行けなかった、というのも自分の頭の悪さ、努力ができない性分(Being)を根源的に示すように感じている人はいて、そのことを人に話せない、なんていうこともあります。
最近では弱まっていますが、離婚した、ということや、反対に独身であることが自分が変な人間だ、ということになりはしないか、と思っていることもある。
仕事で失敗した、トラブルになったことがある、ということなども、自分のおかしさを示すものとして表に出せない、と思っていたり。
(実際、不祥事を苦に自殺をする方は少なくありません。)
友だちが少ないことが致命的なことだと思っていることもよくある。
(高校生や大学生は一人でご飯を食べているところを見られたくないので、トイレで食べたりすることもあるそうです。)
主婦(主夫)であれば、料理が下手とか、家事が不得手といったことが、自分を駄目だと証明する証拠だと感じられていることもよくあります。
(実際、インスタント食品は当初手抜きと感じられて売上が上がらなかったのですが、メーカーが「賢い主婦ならこれを選ぶ」ということを打ち出して売れるようになった、という有名な事例があります。)
実際は、みんなできることしかできていないし、失敗もしているし、普段しっかりしている人が部屋の片付けが苦手だ、なんていうことはよくあることです。
しかし、日常で間違った買い物をした経験についても、「そんな失敗は自分だけで、自分はもしかしたら間抜けでどうしようもないかも」なんて思っていたりするから、隠そうとする。
筆者も、失敗はたくさんありますが、最近思い出したものとしては
昔、お金に関して大きな失敗をしたことがあります。
瞬間的な為替の変動で、自分の200万近い大金が一瞬で無くなったことがありました。システムの不具合なのかな?とおもっていると、お金がなくなっている!?
しばらくは頭がぼーっとして、誰にも言えない、ということがありました。
慣れないものはやるものではないな、と痛感した出来事です。これは、筆者の行動(Doing)の不完全さの故です。
“自分だけが”こんな失敗をしてしまうのだ、と感じてもいました。
普段は思い出すこともなく過ごしていましたが、このエピソードを久々に思い出したのは、久方ぶりにあった友人と話をしていた際のことです。
その友人は、しっかりもので、グループだと必ず感じの役回りをするような人です。
海外旅行が好きで様々な国を旅行してるのですが、あるとき、航空券を購入する際に、ドル建てであったのもあって、単位を間違えて、100万円のチケットを購入して、知らずに搭乗していたことがあるそうです。
帰国し、あとから届いた請求書に絶句したというのです。
普段はしっかりしているのですが、そんな失敗もしたりしている。
「ああ、人間は誰しも、色々と失敗をやらかしているよなあ・・」(そういえば、自分も昔、ミスで大金を失ったことがあったなあ)と感じたのです。
筆者のケースや友人のケースはお金についてですが、人間関係、家族、仕事、などなど、テーマや内容は違いますが、皆それぞれやらかしていたりするものです。
ただ、多くの場合は、学生時代に「テスト勉強してない」と平気で嘘をつくみたいに、皆「私、失敗しないので」と隠しているだけです。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている」
ローカルルールに取り憑かれている(トラウマを負っている)と、そのことが見えなくなる。自分の秘密なのですが、ローカルルールによって善悪の評価が入ってしまっていると、それはもう自分の秘密ではなくなる。
ローカルルールによって、「立派であるはずの人間の中で、お前はそうではない、おかしい」ということを暗示する秘密として持たされることになります。
ローカルルールとは多くの場合家族からやってきますから、自分の秘密だったものがいつのまにか、いわゆる自分を縛る「ファミリーシークレット」となってしまうのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
さらに、不全感を抱えてローカルルールに影響されていてYour NOT OK を必要としている他者が近づいてきたりします。
「そんな失敗をするというのは、あなたはよほど人間がおかしい」と言われてしまったりする。
このローカルルールの連鎖で秘密がさらに秘密になって、抜けれなくなってしまいがちです。
子ども時代、学生時代の失敗が未だに自分のおかしさを証明するものとして刻まれているという方も多い。
ずっと親から言われたこと(「こうあるべき」)を実現しようと頑張っている人もいる。
(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」
実は「人間は弱く、不完全だ」と捉えて、「私は~」といい、自己開示していると、そうした人は寄ってきにくい。「私も、素晴らしい存在であるはずの人間の一人ですよ・・」と失敗を隠している方が、人からの批判はもらいやすいものです。
なぜならば、後者はまさにローカルルールの世界観だからです。
ローカルルールを肯定するような前提で話をしているので、ローカルルールが維持されやすい。「自分はおかしいのでは?」とビクビクしているわけですから。
(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。」
前者は、「すべての人間は弱く、不完全だ」という前提ですから、他者も介入しにくい。
「あなた、何様のつもり。あなたも弱く、不完全ですよ」と言われたらローカルルールのおかしな熱も冷めてしまいます。
行動(Doing)が完全な人などこの世に一人もいないのですから。
ローカルルールによって失敗を取り繕っている人か、パーソナリティ障害傾向で自分の不完全さを自覚できていないか、ということだけです。
就職活動の面接において、挫折経験を聞いたりすることがよくあります。
よくあるということは、「誰でも挫折はあるはず」で、「それこそが成熟(人格の統合)をもたらす」という常識があるからです。
自覚できていない人でも、「すべての人間は弱く、不完全だ」という前提から話をされると、その人の中のアダルトの部分が活性化するので、「たしかにそうだ」(≒「自分のローカルルールに巻き込む余地はここにはない」)となります。
(参考)→「「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。」
「人間は弱く、不完全だ」という当然の前提、いいかえれば愛着的世界観、人間観からスタートすると、安心安全な環境、生きやすい状態を作られていくのです。
(参考)→「愛着的世界観とは何か」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
“「素晴らしい存在」であるべきと「弱さ、不完全さ」を隠していると、いつのまにかローカルルール世界にとらわれるようになる” への1件の返信
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