経営学者として有名であったP.F.ドラッカーは、社会が成立するための一般理論、全体主義の研究において、非常に優れた書籍を残しています。
人間が自由であるためにはなにが必要なのか、をわかりやすくまとめています。
『産業人の未来』という本の中で、
「人間を完全無欠なものとして認め、あるいは人間は完全無欠になるための方法を知りうると認めるならば、必然的に専制と全体主義がもたらされる」
「人間を完全無欠のものとするならば、自由は完全に否定される。」
反対に、
「人間を基本的に不完全で、はかないものとするとき、初めて自由は、哲理上、自然かつ必然のものとなる。」と述べています。
どういうことかというと、
ある人間が完全無欠である、あるいは、自分たちが完全無欠な真理に到達できる、という考えの前では、疑ったり、自由に選択したり、ということが愚かな行為とみなされ否定される。
反対に、完全無欠な真理とは存在するかもしれないが、それは人知の及ばないところにあって、私たちは、自ら懐疑し、選択する存在である。
「多元的で多様な社会、人間」という連立方程式を解ける人間は存在しません。
だから、それぞれの多様さを認めて代表しながら、自らの役割の中で意思決定を行っていく。そうしたことが「自由」というものです。
完全無欠、という考えの中には、多様さはありません。
と、難しい理屈は置いておいて、実際に私たちが感じる生きづらさをみればこうした事はよくわかります。
他者が自分よりも正しいように感じて、自分の考えや選択にいつも自信がない。
「あなたの考えや行動は間違っている。これが真理だ」といわれるのではないかと、ビクビクしている。
完全無欠へのあこがれがあって、しゃにむに努力したりもしますが、結局、完全無欠は得られない。
むしろ、自分の態度が力みすぎたり、傲慢になったりして、そのことを他人に指摘されて落ち込む。
他者に完全無欠を見出そうとして、恐れを感じたり、反対に、依存的になったりする。
(参考)→「「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。」
そうして、気がつくのは、自分に「主権(自由)」がないということ。
植民地の住人があくせく動き回っているみたいに、見かけの行動(Doing)の自由はあるかも知れません。でも、存在(Being)の自由はない。
トラウマを負った私たちは、行動力は他人よりありますが、そこに自由(私)はないのです。
(参考)→「「私(自分)」がない!」
興味深いことは、哲学や社会学や政治学レベルの考察でも、弱さ、不完全さと自由とは密接につながっている、と考えられていることです。
(自由とは、主権と言い換えてもよいでしょう。)
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
弱さ、不完全さを認めるとは、「こんなダメな私でもがんばって生きます」といった感傷的なことではありません。ローカルルールから自由になり、現実を見る、事実を捉えるということです。
弱さ、不完全さを認めることで、「私」というものが立ち上がってくる。
(参考)→「愛着的世界観とは何か」
弱さ、不完全さを必死に隠して、自分が立派だと必死に証明しようとすることは、実は、ローカルルールの世界を肯定し、知らない間にそこに巻き込まれてしまうことになります。
反対に、弱さ、不完全さを当然の前提とすることは、自他の区別をつけ他者の干渉を遠ざけ、自分の主権を取り戻すことになるのです。