評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 ローカルルールとは、私的な感情に基づくニセの常識の世界です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

「ルール」と名前がつくように、そこにはルールに基づく評価や評判が必ず伴います。

 「あなたはこんな人だ」
 「この行動はだめだ」

 といったように。

 

 ニセの常識ですから、物理的な現実には全く根ざしていません。

 ある切り口を取り上げて、単要素が世界のすべてだと偽っています。
だから、かなりおかしいのですが、ローカルルールにハマってしまうとそれが見えなくなってしまいます。

(参考)→「“作られた現実”を、さらに解体する。

 

 

 いつしか物理的な現実から切り離されて、「評価」「評判」がすべてであるかのようになります。

 とくにトラウマを負った人にとっては、「評判≒自分そのもの」になっています。

 悪い評価、評判があれば、自分そのものが汚染されたような感じになり、まさに自分がその評判通りであるように感じてしまいます。

 反対に良い評価をされても、その評価どおりになってしまう。

 つまり、自分と他人の区別がなく、人の言葉は事実そのものと受け取っている状態です。

(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」

 

 
 人からの評価や評判というのは、実は客観的な指標のふりをした「私的な情動」です。

 ですから、人からの評価や評判を気にするということは、人の私的な領域を覗き込まされてしまっているということ。
巻き込まれてしまうということを意味します。

 巻き込まれてしまうと、私的領域(ローカルルール)という不思議世界が現実であるように思い込まされて、容易には抜けれなくなります。
 

 「評価」「評判」というのは、客観的な何かを表しているように思わされていますが、これもすべて戯言であるということです。戯言なのに、「評価」という形を取ることで正統性を偽装している。

(参考)→「人の考えも戯れでしかない~考えや意見は私的領域(生育歴)の投影でしかない。

 

 

 物理的な現実はどうか?というと、
 人が人を評価するというのは基本的にはできない。

 本来、人間は違う文化、世界同士ですから、ものさしが違いすぎる。それぞれがあたかも小宇宙のように独立しています。

 
 人が人を評価するというのは、どの立場でもできない。とっても僭越な行為です。それ自体便宜的な虚構です。

 個々に独立したものを評価するというのは本来はムリなことで、とても変なことなのです。

 相手の中にニセの感情(罪悪感、不安感など)を揺り動かすなりして、巻き込まなければ成立しない。
 (ヤクザが大きな音をたてるみたいに)

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 日常で、私たちは「あの人は~~だ」とか「あれは~~だ」と人のことをとやかく言っていますが、あくまで戯れにおこなっていることで、本来は成り立たないことをしている。

 仕事など、公的な実務においては、その実務の都合上、技能やパフォーマンスについて便宜的に評価をしますが、その人そのものがどんな人かを評価することは誰にもできない。大企業でも試行錯誤していますが、客観的な評価はなかなか難しいのはそのため。

 

 仕事も本来は他者の評価を目指すものではなく、技能や経験を通じて普遍的な何かにつながることが目標になります。 

 お客さんの評価や評判を集めてもいい商品はできない、と言われるように、物理的な現実に根ざし、普遍的な何かに繋がり、というのが仕事でも本来の姿です。
 

 普遍的な何かとは偶然に得られることもありますし、先端を行く人の感性による場合もあります。

 (参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 いずれにしても他者の私的領域に巻き込まれては、こうしたことは得られない。

 

 仕事においても健全な発達というのは存在し、仕事の技能や役割とは、私的領域に巻き込まれないための柱として存在しているのだと言えそうです。
  
 技能や役割も与えられず、数字だけで評価される環境というのは、機能不全家庭の子供のように、自他の区別が曖昧で、公的なふりをした私的領域(ローカルルール)が支配する世界です。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」 

 

 

 プライベートな環境においても、「評価」や「評判」が気になるというのは、自他の区別が曖昧になっていて、相手の私的領域を覗き込まされてしまっている、巻き込まれているということ。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」

 

 本来であれば、反抗期などを経て、そうしたものは一旦全て否定して、自分の軸(自他の区別)を獲得するものなのです。不適切な環境の場合は、それが得られずに苦しむことになります。 

 

 私たちはポリス的動物ですから、ルールに弱い。
また、「評価」「評判」には「耳を傾けなければ」と思わされていたりする。

(参考)→「「ポリス的動物(社会的動物)」としての性質を悪用される

 

 とくに、理不尽な目にあってきた人は、「ルール無用に理不尽に振る舞う人と同じ様になりたくない」という意識も手伝って、相手の気持を覗き込もうとしてしまう。過度に客観的であろうとしたり、ニセの「評価」「評判」を真に受けてしまいがちです。

(参考)→「ニセ成熟は「感情」が苦手「過剰な客観性」

 

 

 
 「評価」「評判」というだけで、巻き込まれる要素があるのです。

 そこにはローカルルールが存在している、ということに気づく必要があります。

 

 人の評価が気になったら、「あっ、巻き込まれている」「人の頭の中を覗き込まされている。これがローカルルールというものなんだ」と立ち止まってみる。
   
 とくに、人の評価が自分そのものになっている場合は完全に巻き込まれているので要注意。

 
 頭の中で、親の評価や価値観と同一化している、ということもとてもよくあります。

 親が「あの人は~だ」とか、「あんな人はだめだ」といったことを真に受けている。その価値観通りに動かされている。

 これも結局はローカルルールでしかないもの。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 

 そうやってチェックしていくだけでも、結構楽になって、自他の区別がついてきます。
 (反抗期で自然に起きるはずのものを意図的になぞって、主権を自分に取り戻す作業といえます。)
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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