人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 前回、魔術的なものの介在する感覚が、私たちを苦しめる、ということを取り上げました。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 なにやらわけのわからないもので、私たちの存在が規定されるような感じ、結果が左右される感覚が私たちを生きづらくしてしまう、というものです。

 A をすれば Bになる、ということが当たり前ではない、予測できない、というものほど不安にさせるものはありません。

 この間の訳のわからないものを「魔術的なもの」と表現しています。

 一番、魔術的なものの介在を感じるのが、人間関係です。

 

 

 人というのは思ったとおりに動きません。いろんなタイプの人がいる。しかも解離します。突然分けのわからないことを言ったりするし、失礼なことを言ってきたりもする。

(参考)→「あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 睡眠や栄養、運動が不足するとてきめんにおかしくなります。
 子どもがわけがわからなくなるのも、眠い時、お腹が空いたときですが、成人も同様です。
 さらに、そこに自己不全感も影響しますから、人間がまともである時間は思っているよりも少ない。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 内的にも外的にも環境が安定している状態を、「愛着が安定している」あるいは、「機能している」といいます。
 そうした家庭で育てば、人間関係についても、A をすれば Bとなる、ということを感じやすくなります。 相手の反応を予測しやすい。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」 

 

 そこで「基礎」を身につけた後であれば、おかしな行動という「例外」も認識しやすくなります。

 
 学校などで、友達の態度が突然おかしくなる、急に無視される、というようなことについても、ショックは受けますが、「基礎」に対する、「例外」としてとらえることができます。

 やがて、「ああ、人間っていうのはおかしくなるものなのだ(「基礎」+「例外」で成り立っている)」というように学習することができる。

 
 「基礎」を学んだ上での「例外」は、「基礎」によって統制されたものであるために、「例外」でさえも、予測できるかのような安心感があるのです。

 

 

 中学、高校、大学と進むと、さらに嫉妬とか、上下関係とか、もっと難しい人間の心の機微への対応が生じてきます。
 しかし、それらは「応用」としてとらえることができます。
 難しい人間関係についても、身を守ったり、人間関係を落ち着かせるために必要な「礼儀」「社交辞令」も身体で覚えていくことができます。

 「基礎」+「例外」、そして「応用」と、あくまで外的な問題を学ぶ感覚で人間関係を学ぶことができます。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く」 

 

 
 一方、不安定な環境ではこうはなりません。
 不安定な環境とは、夫婦・家族の不和、過干渉な家族、反対にネグレクト傾向の家族、一貫性のない家族、学校でのいじめなどなど。

 相手の対応が不安定なので、A をすれば Bとなるとは感じられない。A をすれば C にもなり、Yにもなる。
 いきなり「例外」 からスタートです。

 

 なぜ、A が B になり、 Yにもなるのかを理解するために自分なりの法則を当てはめようとします。それが例えば、「自分がいい子じゃないから」というもの。

 

 「自分がいい子じゃないから」といったものを介在させると、一応「例外」を説明できたように感じますから、そのときは落ち着きます。
 「ニセの基礎」を自分でこしらたということです。どうとでも解釈できて結果を統制できない「魔術的なもの」です。

 

 それはあくまで「ニセの基礎」にすぎません。
 ニセモノだから、「応用」に進んだときに 全く機能しません。
 
 人間関係が比較的シンプルな小学校のときは友達関係がうまくいっても、中学以降に進むと人間関係につまずく人が多いのはこのためです。

 本当の「基礎」がないために、複雑な「応用」になってくると予測と対処ができないのです。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた」 
  

 

 そして、「ニセの基礎」とは、結局、「自分が悪い」と考えることで成り立っているものなので、「例外」「応用」に直面しても、すべて、「自分のせいだ」で対処しようとしますから事実をそのままに見ることができません。
 結果として、さらなるハラスメントを呼び込むことになります。

 

 「礼儀」や「社交辞令」についても体得できておらず、自信がありません。
 むしろ、過剰にへりくだったりしてしまいます。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・」 

 「形ではなく本音で人と付き合う」を理想にしていたりもしますから、どこか「礼儀」をニセモノとして軽視している場合もあります。
 結果として、自分を守ることもできず、人間関係を安定させる形式も自分のものとすることができずに、どうしていいかわからなくなってくる。
(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ」 

 
 

 やがて、人がモンスターのように怖くなってきます。
 

 なにやら「自分はおかしなものを引き寄せやすい」とか、「そもそも、嫌われやすい」と言った具合に、目の前の現象を説明するために、さらに魔術的な考えにとらわれることになります。
 

 親などからの養育環境で入った暗示が入っているとさらに厄介で、「ほら、やっぱりあなたはおかしい」となって、暗示も強化される、という構造になっているわけです。

 

 

 
 ネガティブな自己イメージからポジティブな自己イメージへ、というように、解決策にも魔術的なものを求めてしまいます。
 (そういうことで“夢”を売って商売している人も世の中にはたくさんいるのです)

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」 

 次から次へと本を読んでは失望する。セミナーを受けては実行できず、自分を責めて、がっかりする、といったことになってしまうのです。

 そうしたものから逃れるためには、本当の「基礎」に立ち返る、Being とDoing を切り離す。そして、物理や現実が一番自分を守ってくれます。
(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」 

 

 

 

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目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する

 

 現在私たちが住む社会は近代社会と呼ばれます。

 近代社会の定義というのは色々取りますが、一つには、出自によって制限がないこと、とされます。
 
 出身地や身分によって、差別されたり、制限を受けることがない。

 

 言い換えれば、Being(存在) ではなく、Doing(行動) のみで評価され、Doing(行動) によって人生を切り開くことができる。

 以前記事にもかきました、ウェーバーという政治学者のテーゼというのは、まさに、プロテストタントは、予定説によって、Being(存在)の部分をまるごと神に預けて、人間はDoing(行動)に専念する。
 それが、近代資本主義社会の駆動力になったのではないか?というものでした。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 反対に、Being と Doing をつなげてしまうのは、前近代的な仕組みです。

 なぜくっつくの?と聞かれたら、「いや、そうきまっているから」とか、「生まれがそうだから」といった答えが返ってくるような世界。
 つまり、Being とDoing の間が、なにやら非合理的な、魔術的と言ってもいいものによって繋げられている状態です。

 

 技術についてもそうです。

 近代化された世界であれば、AをすればBになる、CをすればDになる、ということで、そこには非科学的なものが入る余地はありません。

 すべてDoing の世界です。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感

 

 しかし、前近代的な発想であれば、Yさんが、Aをするから、Bになる。 ZさんがAをしても、Bになるかはわからない。Yさんも気持ちがこもらなければBにならないかもしれない。といったもので、AとBの間に、Beingの良し悪しや、何やら目に見えないものが介在していると考えるものです。
 

 

 臨床心理では、フラクタル(相似形)という概念が用いられることがあります。
 個人や社会のある部分で成り立つことは、形が似た他の場面でも成り立つというもの。

 近代社会云々という例を取り上げましたが、人間個人の発達についてもこうしたことは当てはまります(フラクタル=相似形)。 
 

 

 人間が成人するというのは、まさに社会に置き換えれば前近代の状態から近代社会へと発展するということと相似形と考えられます。

 

 実は、かつての社会であっても、一人前になる、というのは、その人が生きる世界において身分のや出自の制約が少なくなるということです。
 例えば、大工の棟梁になる、というのは、それによって自分が生きる世界では制約が少なく自分の腕を振るうことができるわけです。

 簡単に言えば、自分のBeing とDoing との間の繋がりが切れて、目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなる。

 あくまで、Doing によって評価され、自分のBeingは、Doingの成否や良し悪しで左右されない状態になる、ということです。

 気兼ねなく、Doing に集中することができます。

 

 スポーツで言えば、試合に集中できている状態で、人格云々は問われない。
 
 Doingのみに集中できていることで、社会の中で位置と役割を得て、それがやがてBeingへと健全にフィードバックされてくる、という感覚。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 

 

 反対に、発達の過程でトラウマを負っているとこうはいきません。

 必ず、Doing とBeing には変な癒着がつけられています。目に見えないもの、魔術的なものが介在させられている。

 「自分だからダメだ」「自分は変だ」といったものがついていて、Doingに専念できない感覚がある。
 
 Beingにケチが付いていて、Doing と切り離すことを許されていない。

 多くの場合は、親などの家族や、学校といった生育環境でその癒着という暗示をつけられている。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 

 A をすればBになるという確信がないから、仕事が積み上がらない。
 他人がすればなるけど、自分の場合はそうなるかどうかわからない。
 
 日々Aをして、Bになってよかった~!とほっとして、なんとか仕事をこなすのに、やりすごすのに精一杯という感覚。

 そうしている間に時間は立つけど経験は身についた感覚はなく、精神はヘトヘト、というふうになっている。

(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。

 

 

 トラウマを負っていると、スピリチュアルなものにどこか親和性を感じる方が多いのですが、それも、実はBeing とDoing の癒着、魔術的なものの介在という暗示にかかっていることが背景の一つとして考えられます。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 やっかいなのも、生きづらさや悩みから解決を図るはずのセラピーも、ポップなものほど、魔術的なものを肯定していたりする。
 それが例えば、ポジティブシンキングであったり、口ぐせであったり、引き寄せ、といったものであったり、などなど。
 魔術の世界から脱出させるのではなく、その世界の中にとどまったままで対抗しているような感覚。ここには大きな落とし穴があります。

 

 
 映画「ハウルの動く城」で、魔法使いハウルが魔女を恐れて自分の部屋でたくさんのまじないやお守りに囲まれているシーンがありますが、まさにあのようになってしまいます。

 目に見えないもの、魔術的なものというのは、結局はイメージや言葉の世界なので、他人から容易にひっくり返されやすいものです。
 だから、安心! という感覚はなくどこかオドオドしているのです。

 

 悩みを解決するために進むべき道は、魔術的なものの介在を排除することです。多くは家族などからもたらされています。物理や現実に立脚することが何よりも強く、私たちを守ってくれます。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。

 

 孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざく」といいましたが、まさに至言です。
 (ゴータマにもたしか似たようなエピソードがあったと思います。)
 

 Being と Doing そして、Doing間での目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなっていくと、私たちはもっと生きやすく、自由になっていきます。

 

 

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人に対して幻想、信仰を持ってしまう。

 

 
 トラウマのダメージを負うと、人格の成熟の過程でエラーが生じるとされます。

 他者のイメージや、自己のイメージが妙に大きくなってしまったり、小さくなったりする。

 他者については、なんか妙な信仰をもってしまう。

 自分から見て、「この人はしっかりしているな」とか、「安定しているな」と思うような人、「この人に認められたい」と思う人に対して、妙な信仰心とでも言うような感覚を持ってしまう。

 妙な感覚なので言葉にするのはなかなか難しいのですが、ベタッとした、媚びるような、子どもが憧れのお兄さんに認めてもらいたいという羨望のような感覚を持ってしまう。

 自分でもなんか変な感覚だな、と感じたりする。
でも、無意識的にそのように感じてしまう。

 

 「この人は、何をやっても感情が乱れないんじゃないか?!」みたいな気さえしてきたりする。(実際は、怒ったりしますけど)

 それで、相手にベタッとした関わりをして、相手を怒らせるような言動をして、相手が怒ったらショックを受けて、神様に怒られたがごとく自分がとんでもないようなきがしたり、相手が豹変した悪魔のように見えたりするようになる。 

 あるいは、妙な信仰を感じている相手から自分を否定するような言葉が来てショックを受けたりする。

 信仰を感じている相手から、内面が見透かされたような感じがしてしまう。 
 

 
 現実には、相手は信仰するような対象でもなんでもなく、ありのままのその人を見ることができていないことから生じるのですが、トラウマを負っているとどうしてもそういう事が起きてしまう。

 人以外でも、会社、団体、組織、に対してそのような幻想を持つこともあります。

 マスコミに取り上げられるような会社などは、自分に自由と解放をもたらしてくれる理想の仕組みがあるに違いない、と考えてしまう。

 実際はそんな事はありませんけども。  

 

 

 筆者も、お店とか仕事で店員さんとかジムとかでインストラクターとかされている方で「しっかりしているな」と感じるような人が、トイレから出てくることに遭遇すると、(そりゃ、人間だからトイレに行くこともあるわけですが)、少し意外さを感じている自分がいることに気がついて、「あっ、ないとおもっていたけど、自分はその人を全体で見れていなかったな、理想化、幻想を持っていたのかも?」と自覚することがありました。

 

 よく、「ありのまま」というと、きれいな素の存在、本来あるべき理想の存在、というような感じで間違って解釈されていますが、ありのままとは、文字通りありのままで、いいところもわるいところもひっくるめてのもの。

 

 「全体対象関係」と専門的にはいいますが、トラウマが取れて人格が成熟してくると、現実をそのまま捉えることができるようになってきます。

 妙な信仰をかぶせてみるのではなく、ベールを剥いでそのまま見れるようになる。

 

 現実が怖い、嫌なものと感じているから、妙な信仰も延命してしまっている部分がありますが、怖い現実というのは、ローカルルールがもたらしたニセのものです。本来はそのままの現実というのは、ニュートラルで、そのまま捉えることができるようになると、自分のIDでログインする事ができるようになります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 

 

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記憶の主権

 
 筆者も、過去の失敗がフラッシュバックのように襲ってきて、自分を否定する衝動が襲ってくることがあります。

 特に、トラウマを強く負っていたときは、顔から火が出るような言動がありました。

 「トラウマのせいなんだから、仕方がないじゃん」ということですし、それでいいのですが、なぜか“自分の問題”だと思ってしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 皆様も、自分の過去について重く引きずっていることは結構あるのではないでしょうか?
 悩みとは、結局、その過去の負債をどうにかしたい、ということだったりします。

 
 でも、負債の重みがなかなかとれない。処理しきれない。

 もちろんこれはニセの責任のせいです。
他人から負わされた負債を背負っている、ということで、本当は自分の負債ではない。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 
 親の借金を負わされてそれを返済した人の話をよく耳にすることがありますが、まさにそんな感じ。

私たちは家系や環境からの負債(ニセの責任)を負わされていることがよくあります。

 いじめで後々まで残るような心の傷を負った。会社のパワハラ、モラハラで自信を奪われた。

誰の責任か?といえば、加害者に決まっています。

 なのに、被害者が負債を背負っている。

(参考)→「悩みとは実は他人(親など)の責任の尻拭いだったんだ?!

 

 大切なのは、「ニセの責任なんだ」と気づくこと。「自分の問題ではない」と気づくことです。

 

 

さらに、重要なことがあります。

 それは、「記憶の主権」を自分に取り戻す、ということです。

 過去の記憶について、公開や恥、自責の念がある、というのは、過去の自分の記憶を解釈する権利を他者に奪われている、ということ。

過去の自分の記憶について、それを解釈する権利は、本来自分にあります。

 しかし、いじめや虐待、ハラスメントといったことは、他人にストレスを与える、ということだけではなく、過去の記憶の主権を私たちから奪います。

そして、ローカルルールのおかしな理屈で私たちの記憶を解釈してしまう。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

  
 時間が経っても、いろいろな取組をしてもなかなか過去について自責の念や、後悔が抜けない、といったときには、必ず「記憶の主権」がなくなっている、ということがあります。

 そして、「これは、記憶の主権が奪われているのだ」と気づくだけでも、自責の念や後悔はぐっと減ります。

 

 結局、弱く不完全な人間でできている社会の中で、自分の記憶を解釈する権利は自分にしかない、という当然のことに気がつくと、自分の体に力が戻るようなそんな感覚になってきます。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 

 

 

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「言葉」偏重

 

 SNSが普及した現代では、ニュースや投稿に様々なコメントが寄せられます。
それぞれのコメントなど真に受ける人はいませんが、量や勢いで圧倒されて「炎上」ということが起きることはあります。

 

 かつてのインターネットがない時代では、世の中に自分の意見を言える人というのは、それぞれの分野でそれなりの実績があり、発信する資格があると認められていた人達に限られていました。

 出版社やマスコミ、各種団体等がそのフィルタになっていたわけです。

 人間の言葉とは常に戯言でしかありませんが、かろうじて意味があると認めてもらうためには実績、資格が必要だったということです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 近所のおじさん、おばさんが世間話で、政治や哲学を立派に語っていても真に受ける人はいません。

 「そうなんですね~」と言いながらスルーしています。 
  

 居酒屋で偉そうに武勇伝や説教をしている酔っぱらいの話を聞いて、真に受ける人もいません。
 

 スポーツなどで、あまり上手ではないのに「教えたがり」の人がいますが、それもそのまま真に受ける人はいません。

 

 それぞれに共通しているのは、「(それを言う)資格がない」ということです。

 人間の言葉とは、何を言うか、ではなく、「誰が言うか(資格、筋合いがあるか)」です。
 

 上記の近所のおじさんが「安倍首相はね~」というのは、内容は正しいかもしれません。でも、正しくても真に受けたりはしないものです。

 

 それは、健康な状況では人間は、「言葉」ではなく、「態度」や「資格」「筋合い」に目を向けるからです。もっといえば、物理的な現実を見ている。

 言葉ではなく、その「実態」を見ている。

 

 言葉は立派でも、そこに劣等感や嫉妬などを感じ取れば、それは、「劣等感」「嫉妬」なんだと捉えます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 近所のおじさんが「あなたはね~」と言っても、真に受けたりはしない。

 「安倍首相」が「あなた」になっただけで、近所のおじさんがそれをいう「資格」「筋合い」がないからです。

 この「資格」「筋合い」の範囲というのは、思っている以上に狭いものです。

 基本的に、なにか契約とか権限がなければ言うことはできません。

 
 どんな立派な人でも、通りすがりの人を捕まえて説教をたれたりすることはできない。「なんの筋合いでそんな事を言ってきているんだ?」でおしまいです。

 

 電車の中などで、マナーの悪い人に注意する、ということでも、よほどわきまえてないと、トラブルになってしまうのは、「筋合い」が明確になりにくいからです。
   

 街中で人に関わる、というのは、「僭越ながら」という弁え(わきまえ)がないと成り立たないと言えそうです。

 

 

 では、家族同士はどうか?といえば、実はこれも基本的には同じです。

 家族といえども別の人間。

 夫婦などがわかりやすいですが、意見が通るためには「やることをやっていないと」いけなかったりします。 

 「やること」とは、夫としての機能(役割)、妻としての機能(役割)。
 しかもそれは時代とともに微妙に変化もしていきます。
 
 家のことを何もしないで、夫(妻)が妻(夫)に対して偉そうなことを言っても、話が通るわけがありません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 あと、例えば、キッチンなど妻の領域については、基本的には夫の意見は通らない。そこは権限(なわばり)外だからです。
 (家のこともしっかりやっていれば、聞いてもらえる一時的な資格は得られるかもしれませんが・・・)
(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 機能不全家庭に育ってトラウマを負ってしまった人は、その「資格」や「筋合い」がわからず、家のことはしないまま、妻や夫に実の母や父の役割を求めて怒り出したりして、混乱を起こしたりすることはよくあります。
 
 さらに、何が問題かわからず、「相手は頑固だ」とさらにイライラしてしまう。でも、それは相手が頑固なのではなくて、町中の人に説教するのとおなじく、資格、筋合いがないから耳をかさないのです。

 

 

 親子でも同様です。

 基本的には別の人間同士であって、さらに子どもは今は未熟でも将来は一人前の社会人として独立することが予定されていますから、過度に価値観を押し付けたりする筋合いは、実の親にもありません。 

 かつては生みの親というものの価値は低く、「~~親」という社会的な役割はたくさんありました。
 子どもは共同体で育てるもの、という考えもあるように、「血が繋がっている」というだけでは、ほとんど正統性はありません。  

(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 親は、自分の価値観を伝えるのではなく、社会の常識を自分が翻訳(代表)して伝える役割である、と言えます。

 さらに、子どもの年齢(発達の段階)によって関わり方も変わってきますから、柔軟に対応していかなければなりません。 

 

 うまく関わればよい(質)のではなく、関わる時間(量)も必要です。
  
 そうしてようやく、子どもに何かしら、偉そうなことを言える権利は発生します。でも、聞くか聞かないかは子ども側の権限です。   

 子どもは、反抗期には精神的に直訳していた価値を殺して独立していきます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ここまで見たように、何かを言うためには、資格が必要で、それ以外の言葉は受け取ってもらえません。

 
 「友達からなにか言われて傷ついた」という場合も、相手には言う資格がありませんから、もちろん「意味のない音」としてスルーする。

 愛着的人間観は、「人は皆、だらしがなくて、いいかげんで、どうにもまとまらないもの(人は弱い)」というものです。

 誰も自分を棚に上げて、他人のことを言うことはできません。

 立派に見える人でも、そう見せているだけ。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 社長を継いだ二代目が社員から認めてもらえずに苦労した、という話はよくあります。社長という肩書があっても、その役職に足る力があると認めてもらえなければ、部下も言うことを聞かないのです。

 戦国武将などもそうであったようで、部下の武将から認められるように常に心を砕いていた。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 親もそうで、親として日々機能していなければ、子どもも言うことを聞かないのは当然のことです。

 「とにかく、お母さんの言うことを聞きなさい!」というのは、「資格がないけど、私の私的感情をのみ込んでくれないと、居ても立っても居られないのよ」といって恐怖で言うことを聞かせているだけです。

 

 人が他人に介入できる場面というのは、本当にごく限られたもので、よほどの実績と筋合いと、さらに相手の同意とがなければ成り立たないものです。

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 
 野球では“超”がつく実績があるイチロー選手ですが、実は、マリナーズでは孤立して、最後は逃れるように移籍していったことがありました。どうやら、ストイックな態度がチームメイトから反発を買ってしてしまったようです。

 

 サッカーの元日本代表で、かつてローマなどで活躍した中田英寿選手がいましたが、ドイツワールドカップの日本チームの中では、海外の経験からこうするべきと主張するものの軋轢を生み、孤立してしまったようです。

 

 あれだけの選手でも、チームメイトの同意、つまり、相手の領域を尊重するといったことがなければ、その話(意見)を真に受けてもらうことはできない、ということです。

 

 実績で劣る選手でも同じプロ同士、「イチロー選手のご意見であればなんでも承ります」とはならないものです。

 

 自他の区別が厳然として存在していて、
 そこで人に何かを云うためには、資格、実績が必要。
 さらに、すごい実績があったとしても、相手の領域を尊重することがなければ(関係性ができなければ)、耳を傾けてもらえなくて当然。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 つまり、人間は、そもそも人の意見などは聞く筋合いはない、というところからスタートしているということです。相手がいくら偉い人でも、自他の区別の境界は絶対です。境界を明け渡すことはありません。

(参考)→「他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。

 

 これは会社の中であっても同様です。社長でも実績がなければ部下は言うことを聞かないのですから。
 

 かろうじて耳を傾けるとしても、せいぜい話半分で受け入れる、ということが人間にとっては健康なスタイルだ、と言えそうです。

 

 イチロー選手や中田選手の言うことでさえチームメイトは耳を傾けなかったのに、なぜ、私たちは、はるかに実績の劣る親や友達の言葉(おかしな理屈)を真に受けなければならないのでしょうか?
 

 

 しかし、ローカルルールとは、恐怖や不安とかなり変な理屈とで、こうした手続きを壊して、全権を委任したかのように、「すべての言葉を真に受けろ」という形にしてしまいます。

 

 変な理屈とは、「親子だから」「上司と部下だから」「あなたはおかしいから」とか、冷静に見れば、なんの根拠にもならないような因縁のことです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そして、いつの間にか言葉をやたらと真に受け重んじるような「言葉」偏重の状態、さらには言葉=現実としてしまうのです。

 

 

 

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