トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 昔、会社で顧客のもとに打ち合わせに行ったときに、「人の話をよく聞くことが大事だ」と思っていた筆者は、一言一句漏らさないように話に耳を傾けていました。

 


 打ち合わせが終わって、帰りしなに、上司や先輩に、「先方がおっしゃっていたことは、~~ということですよね?」とたずねると、「いや、~~ということだよ」と自分が聞いたこととは違うことを言われたり、極端に言うと反対のことを言われたりしたことがしばしばありました。


 企業の打ち合わせでは、今後の方向性についてはっきりとは言わないこともあります。

 


 「前向きなのかな?」と思っていたら、「あれは断りの文句だ」とか、反対に「ネガティブかな?」と思っていたら、「あれは脈がある」といったように、言葉で表現されていることとは違うことも多い。

 上司たちはなぜかそれが読み取れていました。

 


 反対に、一言一句漏らさないように聞こうとしていた筆者の方はそれが読み取れずに、何が違うのか?と首をかしげることがありました。

 一生懸命聞こうとすればするほど、聞けなくなって、頭がボーッとしてきたり、眠くなってきたりする。それでとても悩んだことがあります。

 


 もちろん、経験の差、ということはあります。
文字の間を埋めたり、解釈の精度が違う、というようなことはある。

 

 ただ、実はそれだけではありません。
トラウマを解消して後に思うのは、「聞く」ということがトラウマを負っている人と健康な人とでは根本的に異なっているということ。

 

 


 それは、上司たちは、「聞き流して」聞いていたということです。


 聞き流して聞くことで、相手の真意や全体像が浮かび上がってきて、妥当な解釈を得ている。


 反対に、一言一句真に受けて聞くと、それができなくなる。


表面的な言葉に惑わされてしまう。

 (アニメも一枚一枚の画像にとらわれる人がいたら見れなくなります。見流すから動いて見える。)

 

 


 また、人間というのは、話をしている本人が話の真意を一番理解している、わけではありません。


 岡目八目で見れる、他者のほうが真意をつかめることは実は多い。

 


 当事者というのは、様々なことに悩んでいたり、迷っていたり、整理できていなかったりする。

 
 さらに、プライベートな環境では人間は容易に解離しておかしくなる。
悩みにとらわれているときもおかしくなっている状態。本来の自分ではなくなっている。


 そうしたときに話す言葉は、ローカルルールに呪縛されていて、その人の言葉ではない。


 だから、真に受けてもらっては困る。

 


 「それは本当の自分の言葉じゃないんだ!違うんだ!」と本来の自分は心のなかで思っていたりする。 

 

 まずは、表面の言葉はスルーして、適当に流してもらわなければ、真意はやりとりできない。

 

 


 特に、トラウマを負っている人は、養育環境で負った「人の話をよく聞け」というローカルルールの呪縛にかかっています。

ローカルルールとは、常識の殻をかぶった私的な情動、ニセルールのことです。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 表ではルールであることを語りながら、結局は、自分を大事にしてほしい、相手を支配したい、といったことからなされます。

 ローカルルールを刷り込むためには、自分の言葉には価値があると思わせなければならない。耳を傾けさせなければならない。
 

 

 そのために、自分の言動を神化する。

 


 「自分の言葉を大事に受け取れ」というメッセージを刷り込ませて、内面化させます。

 


 すると、刷り込まれた側のわたしたちは、いつの間にか、言葉を真に受けることが当たり前になってくる。そうしておいて、ローカルルールが入りやすいようにさせられている。

 


 その結果、わたしたちは、日常の戯れ言でも、全てが真実であるかのようにとらえて、一喜一憂し、傷ついて、振り回されたりする。

 


 プライベートで人との交流が楽しくなくなってくる。

 人との関わりが重く、おっくうになってくる。

 

 次第に、人見知りのようになってきて、関わるのがとても面倒に感じられるようになってきます。

 


 
  
 以前、居酒屋のトイレに「親父の小言」とかいう紙が貼ってありました。

昔の頑固親父の格言みたいなものです。

 その中で、「子どもの言うことは8,9聞くな」というのが確かありました。

 


 子どもの言っていることなんてほとんどが意味がないのだから聞き流せ、わがままに耳を傾けるな、といった意味なのだと思います。

 

 これは、子供だけではなく、実は大人でも同じです。


 「人の言っていることは8,9聞くな(というかすべて意味がない)」ということ。

 


 
 トラウマを負っている人から見ると、驚くような感じですが、実はこれが健康な人の、対人関係観だったりするのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

「言葉には心を越えない~♪」というのは昔大ヒットした歌の歌詞です。

言葉には意味がないのよ、というのは昔から人間が感じていたことです。

 一方、言葉が最初にあった、というように言葉の価値の大きさもわたしたちは知っている。

 

カウンセリングでも、「傾聴」ということが重んじられるわけです。

では、本当の傾聴ってなんだろう?と考えたくなります。

 

 傾聴とは、鵜呑み、真に受けではありません。

 人間が解離しやすく、内的な人格が分かれているという性質を持つ以上、すべて真に受けることはありえません。発せられた言葉を吟味し、選別し、本来の人格の声を見つけること。それも治療者の役割と言えます。

 

 ハラスメントやローカルルールといったものを見るにつけて、強く思うのが、「日常の人間の言葉は本当に意味がない」ということです。

 

 なぜかといえば、繰り返しになりますが人間は容易に解離してしまう存在であり、おかしくなってしまうからです。
 これは誰でもそうです。

 とくに私的環境では簡単に人格スイッチしてしまう。 

 そして、私的な情動(不全感)をもとに、相手を支配しようとしたり、攻撃しようとして、おかしな発言をする。

 

 人間は、公的な環境で、公的な役割を背負ってはじめて理性的でいられる。
 実際に、古代ギリシャでは、公的な役割がなければ完全な人間ではない、と考えられていました。

 
 それは、私的な環境では人間がいかにおかしくなってしまうのか、ということを経験的にわかっていたからかもしれません。

 日常生活で人間は、夜中に食べたくもないラーメンを無性に食べたくなるくらい、本心というのはわからない存在。本心って一体何?と不思議に思います。
 

 言葉はもっといい加減。

 

 日常で発せられる言葉、とくに責任を負わない消費者という立場には、ローカルルールが頻繁に介入してきます。そのため、無駄な買い物をしたり、クレーマーになってみたり、おかしなことだらけ。

 

 臨床の現場でも、言葉を吟味せずに治療者がすべて真に受けては、クライアントさんにとっても危険で本来の人格とローカルルールからきたものとを、よほど吟味しないといけない。

 

 悩みを抱える、とはなにかといえば、ローカルルールを内面化した状態、と定義できます。

 

 
 例えば、クライアントさんが
 「仕事でミスをする人がどうしても許せない」と言ったとしたら、

 それは、「ミスをしてはいけない(ミスをする人は存在してはいけない)」という内面化したローカルルールから来た言葉だとわかります。

 

 その「ミスをしてはいけない」はどこから来るか?といえば、

 養育環境で親などが、イライラする自分の不全感を発散させるために感情を子どものぶつけることを正当化しようとして、「お前がミスをするからだ!」「ミスをしてはいけない、というのは常識だ。だからお前を叱責しているのだ(自分の私的感情からイライラしているのではありませんよ)」ということから始まり、

 それを「期待に応えなければ」と思う真面目な子ども(クライアントさん)が真に受けて、内面化し、忠実に実行してきた。

 そして、親のローカルルールに感染した「ローカルルール人格」が子ども(クライアントさん)の中に形成されます。

 
 そうして長い年月を経て、発した言葉が「仕事でミスをする人がどうしても許せない」ということ。

 

 そうなると、それはその方の本来の発言ではありません。ローカルルールに言わされている、ということです。
 ”ローカルルールの現れ”として捉える必要があります。

 
 そして、治療者が「それ、ローカルルールのようですね」と区分けしたり、本来の自分ではない、とあえて否定したりする必要がある。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 治療者が、まさか「傾聴が大事」なんて真に受けてしまっていたら、クライアントさんは良くならない。
 クライアントさんの本音は、「今私が話している言葉は本来の私ではなく、ローカルルールに言わされているんです~。誰か気づいて、助けて~」と思っているのですから。

 
  
 別の場面で、
 「治療者の言葉や態度が気に入らない」と言ったとしたら、それも内面化したローカルルールから来ている。
 まさか真に受けて、治療者が「態度を改めよう」なんていうことは全く必要ない。勘違いして、もし態度を改めたら、クライアントさんは余計にローカルルールに呪縛されてしまう。
 

 それも、「ローカルルールから来ているようですね」といって、区分けしてあげないといけない。

 

 ローカルルール人格というのはまさに、ウイルスによって、パソコンが乗っ取られているような状態です。社会学者の内藤朝雄氏の本でもいじめに加担した生徒の声が載っていますが、「何かそれ、うつっちゃうんです」という状態。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 だから、乗っ取られた状態を真に受けて「そうなんですね~」なんて傾聴で応じていてはいけない。

 しっかりと観察して、区別して、指摘して、ローカルルール人格というものの影響を明らかにしていかないといけない。
 それによって、クライアントさんも本来の自分に戻ることができるようになる。
 

 

 

 繰り返しになりますが、日常で発せられる言葉というのは本当に意味がない。
 

 冒頭に書きましたように、言葉の価値は本来大きいのですが、「言葉が尊い」という場合のそれは本来は「神の言葉」という意味。人間はそれを承るだけの存在だし、完全には理解できない。
 その言葉の価値を悪用しているのがローカルルールです。ニセの神様のようになって、言葉を弄んでいる。

 人間の言葉はすべて戯言です。

 

 公的な環境になると人間の言葉がかろうじて意味を持ってくるのは、それは公的な役割を通して「一般意志」をいくらか”代表”できるようになるから。
 一般意志とはルソーの概念ですが、社会の普遍的意志のことです。
 (普遍的意志は、近代以前は、シャーマンや聖職者が、神がかって降ろしたりしていました。占いなどもそうですが、なんとかして神の言葉を読み取ろうとしていたのです。)
 

 作家や歌手の言葉が感動を呼ぶのは、普遍的意志を降ろしてくるから。
 でも、それができるのは瞬きのような一瞬で、いつもではない。だから、しばしば薬物に手を出すようなアーティストも出てくる。

 

 一方、日常では「悪貨は良貨を駆逐する」というように、価値のない悪貨だらけの世界であることを知らなければならない。
 東大の安冨歩教授は「世の中はハラスメントでできている」といっています。ハラスメントの言葉だらけ。本当に価値のある言葉が埋もれている状態。

 

 目の前の貨幣(言葉)が本物か偽物かを吟味することをせずに、すべてを受け取らなければならない、という間違ったルールに従わされている。 

 

 

 「傾聴が大事」と思いこまさせられている人たちが、まさにハラスメントの犠牲者になっている。親やいじめっ子や、上司の盲言を真面目に受け止めさせられて、カウンセラー役をさせられてしまっている。
 

 

 反対に、健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしていたりします。

 元ソニーの社員が書いた本はまさにその様になっています。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

 やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、というのです。

 

 
 カウンセリングでも、本来大切なのは傾聴ではなく観察。

 治療者であれば、クライアントさんの様子を、よーく観察する。
 言葉は真に受けない。あくまで観察のための材料。基本的にはやり過ごして、聞き流さないといけない。

 良い料理人が目利きをするみたいに、素材を選り分ける。
 良い研究者やジャーナリストみたいに、証拠を吟味して、取捨選択をする。

 

 言葉が1000あれば、そのうち本来の言葉はかろうじて3つあるかないか、かもしれません。
 日常であれば、ほぼ0といってもいいくらい、言葉には意味がない。言葉は本来神のものですから。

 

 ローカルルール人格とはニセの神様になった状態のことです。
 (いじめを行っている人たちや、あおり運転の人たちも、まさに神のような全能感を持って他人を裁いている様が最近であれば動画で記録されています。)

 日常の言葉とは、その方の生育歴からくる雑多な感覚を目の前のものに投影してただ吐き出しているだけ。何も”代表”していない。

 
 悩みを抱えている人にとっても、こうしたこと知るのはとても大事。

 

 自分自身がローカルルールの影響から逃れるためにも、ですが、日常でハラスメントにあわないためにも、です。
 人が発する言葉にはすべて意味がないと知れば、「~~さんって嫌なところがあるよね」みたいな気になる意味深な言葉も、全く意味がないとスルーできるようになります。

 

 日常の言葉は戯れ言としてすべて聞き流す。言葉は何も表していない。
 (聞き流してはじめて本当のコミュニケーションが取れるようになります。)

 

 

 今までは理想化して、恐れていた人が、大したことがない存在であること、「解離しやすいおサルさん」でしかなく、話す言葉も意味深なだけの意味のない言葉であることがわかってきます。人に対する怖さがなくなってきます。

  
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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恐れる必要はない

 

 

 トラウマによって引き起こされることで一番大きなことは、やはり対人恐怖ではないかと思います。

 人というのが、何を考えているのかわからず、裏で恐ろしい企みをして、自分を貶めるような感覚が襲ってきます。

 動じない人を見ると怖くなったり、

 幸せそうな人を見ても脅威を感じたりするようになります。

 精神的に強いや安定している人は皆、サイコパスのように感じられたりする。

 わけのわからないことを言う人は、何やらとてつもない策略をもっているように感じてしまう。

 

 その根本にあるのは、理不尽な家族との関わりです。

 

 自分の全てを見抜いた上で、自分にとって嫌なことをしてくるように感じる。意味深なことを言ってきて、自分を縛る。

 

 不気味な怖さを感じてしまいます。

 たしかに、モラルハラスメントを仕掛けてくる人が狡猾さをもっていることは事実です。なかなか侮れない。気のせいではない。

 

 しかし、それはローカルルールの世界においてのみ成立する、ということです。

 

 いじめなどもそうですが、いじめられている空間においては、狡猾さは完璧に見え、そこから自分は逃れられないような気がしてしまいます。加害者は全てを掌握し、支配し、自分のすべてを知りぬいた上でハラスメントを仕掛けてくる感覚があります。

 

 ただ、常識の光が照らされて、ローカルルールの魔法が解けるや嫌な、や児戯に等しい異常さや、拙さがそこにあるだけということが見えてきます。

 

 呪縛されている間は完全なものに見える、
 ローカルルールというのは、そうした性質があります。

 
 なぜかといえば、
 「ルール」という言葉が含まれるように、ルールというものを悪用しているところにその理由があります。

 

 かくれんぼでも、トランプでも、草野球でもそうですが、その遊びをしている間は、わたしたちはそこで決められたルールを絶対のものとしています。

 その世界で没頭しています。ルールは強制力を持ち、それに従って過ごします。

 

 もし、遊びの世界で”王様役”というものがあれば、本当に王様のように振る舞い、皆それに従います。

 さながら小宇宙のようであり、それがすべてのように感じられます。

 しかし、遊びが終わるやいなや、それは雲散霧消してしまい、もとの常識の世界へと戻っていきます。

 「ルール」には、かんたんに小宇宙を形成する力があるのです。
 
 

 たとえば、理不尽な親や上司がとてつもなく狡猾に見え、賢く見え、自分が弱々しく見えるのはなぜか、といえば、それはローカル”ルール”の世界にいるから。

 ルールから外れれば、小さな、年老いた親がそこにいるだけ、だったりする。

 相手を騙すような頭の良さもなければ、能力もない。
 

 

 考えてもみてください。

 もし本当に悪魔のような狡猾さがあるのであれば、政治家か、社長にでもなって、もっと世の中で大活躍しているはずです。
 実際はそんな知力も、能力も持ち合わせてはいない。

 

 強く、したたかに見える加害者(親や上司や、パートナーや、知人)は能力が高いわけではありません。

 強く見えるのはローカルルールの世界の中で、ルールの大本を握っているから、そう見えるだけです。 
 それは、ごっこ遊びの世界で王様役の人がいろんな事ができるように見えるのと同じ。本当は大した能力など無い。

 大切なのは、「恐れない」ということです。

 恐れる、というのはルールに同意する、協力する、ということ。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 単に「恐れるな」といえば道徳になってしまい、「そんなの無理」となりますが、上にも書きましたが、相手はそんな力はない、という事実を知ることです。

 

 人間というのは大した能力を持ち合わせている人は、100万人に1人くらいしかいません。

 私たちの周りにいる人で、そんな力のある人はいません。
 

 「いや、いますよ。うちの親(上司)がそうで・・いつも私を狡猾に支配してくるんです」というのは、ローカルルールというニセの小宇宙の中でだけの力だということです。

 

 「裸の王様」の話のように、同意する人がいなくなれば、王様は単なる裸の人になってしまうものです。

 そのことがわかるだけでも、ローカルルールはこわれていきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 私たちが日常で出会う「ニセの公的領域」について書いてきましたが、視点を社会に移した時、社会的な現象としてのニセの公的領域の典型は、ファシズム、全体主義というものです。

 

 ファシズムというのは、本来多元的であるはずの社会の規範を一元的に単純化して、ニセの公共を作り出す現象です。

 

 社会の状況が深刻な際は、問題が輻輳して閉塞感が覆っている中で、問題が単純化されるので、その社会にいる人々は一気に問題が解決したような気になります。

 

 ただ、実際は解決したわけではないですし、多元的である現実世界とは不適応を起こします。そこで、一元的なニセの公共を維持するために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とします。

 

 ナチズムであれば、反ユダヤ主義、反資本主義、反社会主義、反軍国主義、反平和主義、反キリスト教、反無神論・・
 何についても「反」で、互いに矛盾していてまったく合理的ではありません。
 内容はめちゃくちゃなのですが、「反(You are NOT OK)」とすることで成り立たせています。
 (ドラッカーは「全体主義には、前向きな心情がないかわりに、おびただしい否定がある」(「経済人」の終わり)としている。)
 

 「反((You are NOT OK))」を必要とするのは、それがなければ一元的に単純化した規範を維持できなくなるからです。
 だから、ファシズムというのは常に敵を必要とします。
 (これがファシズムというもので、日本で素朴に理解されているように、必ずしも、ファシズム=軍国主義というわけではない。
 「反」であればなんでもよいので、平和主義のファシズムもあるし、民主主義のファシズムもあるし、人道主義のファシズムも成り立つ)

 

 

 私たちの身近な現象に視点を戻した時に、私たちが接する「ニセの公的領域」もまさにこうしたことが当てはまります。

 たとえば、「いじめ」。
 いじめは典型的なニセの公的領域、ファシズム的現象です。

 (参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 「いじめられっ子」のいない、いじめというものは存在しないように、「いじめ」でいじめる側が主張する「空気が読め」「ノリに乗れ」といったことは、多様な人間の在り方には全く反します。
 ノリに乗らないマイペースも人間の素晴らしいリソースであるし、人間のタイプは様々です。暗い性格でもよいし、運動ができなくてもよい。
 

 

 しかし、「いじめ」は社会の多元性を否定して、一元化して、人を裁きます。

 

 実際に、いじめについての研究書の中で、インタビューされた学校の先生の発言に「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかないし、それはわかるんですよ」といった発言があります。
 いじめがおきると、教師もその空気に支配されて、一元的な価値観で人を判定するようになってしまいます。
 

 一元的な価値観(ニセの公的領域)というのは現実と齟齬を起こしますから、「敵((You are NOT OK))」を作り出して、一元的価値観が正しいことを維持しようとします。
 (「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかない」≒だからいじめには正当性がある)

 

 

 いじめまでいかなくても、私たちが日常で接するハラスメントも同様です。
多元的であるはずの人間の在り方を、一元化しているために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とする。
 だから、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」というメッセージを私たちに投げかけてきます。

 

 「ニセの公的領域」は、もっともらしく見えても、直感的には矛盾だらけですから、直感的に矛盾を感じたら、「You are NOT OK」といわれていても、真に受けずに、「I’m OK」と受け流す必要があります。

 

 

 例えば、親から投げかけられる「You are NOT OK」も、ニセの公的領域の典型といえます。
 「あんたは理屈っぽい」
 「あんたはかわいげがない」 
 「あんたは文句ばかりで、やかましい」

 といって、親の不全感から、子供を否定する親というのは少なくありません。

 ただ、よくよく見ると矛盾だらけで、たとえば、兄弟がいるケースだと、ある兄弟にはダメだけど、同じことをした別の兄弟は許されたり。親自身に非があっても謝らずごまかしたり、といったことが起きています。

 そうした矛盾があっても気が付かず、子供への否定を繰り返すのは、
 私的な情動から生まれたニセの公的領域を正当化するためなのです。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 本来、多元的な社会の中にある、真の「公的な領域」というのは、成員すべての「I’m OK」を成り立たせるために存在しています。そのため、すっきりもしませんし、ある意味あいまいなところも多い。

 法律に反するなど他者の「I’m OK」を侵害すると制されますが、極端に何かを否定(You are NOT OK)することもありません。 

 

 私たちが日常で、
 「You are NOT OK≒I’m NOT OK」を感じたときは、
 その元となっている「公的な領域」が本当はニセモノではないか、
 あるいは、自分の中にある過去に形成された規範がニセモノではないか、と疑ってみる必要があります。

  (※例えば、目の前にある人は「You are NOT OK」とはいっていないけど、過去に親や学校から受けたトラウマによって、
   「You are NOT OK」と捉えてメッセージを受け取っていることもあります。)
 

 

 

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