適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 どこのコミュニティも、そつなくこなしているように見える人はいます。とても関係づくりがうまく、うらやましいように見える人が。 

 

 例えば、幼い時は公園で友だちができて、お母さんたちとも馴染める。

 小学校では友達がたくさんいる。いろんな友達とうまく付き合える。

 中学校以降になると、部活で先輩ともぺこぺことうまくやりとりができる。

 大学に進むと、研究室の先生にも目をかけられ、院生ともうまく付き合いができる。

 就職した先では、上司に取り入り、得意先とうまく付き合いができる。

 結婚したら、パートナーとうまく関係が築ける。

 地域では、ご近所付き合い、ママ友、学校などとの地域の活動がうまくできる。

 

 こうしたことが「標準」「正常」であるというイメージを私たちは持っています。そして、これらのことからずれること、うまくいかないことは「異常」であり、自分が劣っている証拠であると考えてしまいます。

 そうして自分を責める。劣等感を持ってしまう。

 

 

 私たちは適応できることが善で、不適応を悪だと考えています。
 実際に、カウンセリングにおいても、適応を目指します。
 私たちは、最終的には社会に適応するしかない、とされます。
それは確かにその通りで、“社会”に適応するしかありません。 

 

 だから、一見すると「適応」はやはり善に見えます。

 これらは本当なのでしょうか?正しいのでしょうか?

 実はもっともに見えますが、まったく正しくありません。

 

 正しく言えば、適応するためには、「不適応」を起こさなければならない、もっといえば、自己を確立するためには、積極的に不適応を起こす必要がある、と言えるのです。

 適応しなければならないけど、不適応も必要? どう考えればいいのだろうか??頭が混乱しそうですが、難しい話ではありません。

 

 生物の世界、植物でも、動物でもどんな環境でも適応できる種は存在しません。必ず、生息に適した環境があります。 それを「ニッチ」というそうです。

 淡水魚は海水では生息できませんし、百獣の王とされるライオンも適した地域はかなり限られます。
 

 つまり、それぞれ適した場所でこそもともとの生命力を発揮できると言えます。

 

 

 人間でも同様のことが言えます。

よく言われるのは、企業や軍事での戦略の世界です。

 企業での戦略は、自分たちが得意な分野(ポジショニング)はどこか?を探すことだとされます。大企業であったとしても不得手なところにうって出ると必ず失敗します。

 

 軍隊でも、得意な状況は実は限られていて、
例えば、“最強”とされたモンゴル軍でも、自分たちが得意な平原から離れてくると力を発揮できなくなって、日本や東南アジアでは敗退しています。
 20世紀に世界最強とされたアメリカもベトナムで撤退するなど、実は適した環境は限られています。

 どんなところでも適応できなければならない、勝てなければならない、などと言うのは本当に幻想だということがよくわかります。

 

 スポーツ選手も、同じ競技でもチームが変わるだけで全く活躍できなくなるなんてことは珍しくありません。
 チームの戦術や、監督のパーソナリティ、リーグのスタイルでもかなり左右されます。

 実は会社も同様で、同じ業界でも、会社が違えば活躍できなくなることはあります。

 

 

 「あの人は、どんな世界に行っても活躍できる」というのは、比喩(そんな気がするだけ)であって、本当にどんな世界に行っても活躍できる人などは、人類史上一人も存在しません。

 もしいたら、その人を題材に、生物学(人類学?)の世界で論文を書けばノーベル賞を取れるかもしれません。
 
 絶対にありえないからです。

 

 私たちにとっての適応とは、「自分の持ち味を発揮できるところを得ること」です。

 自分にとっての強み、持ち味を発揮できる場所や人間関係はどこか?を見極めて、早くそこに立つことです。

 大谷翔平が事務職をしても不幸でしかありませんし、卓球やゴルフではきっと野球ほどには活躍できないでしょう。
(バスケットボール選手の天才的な選手であるマイケル・ジョーダンが、野球に行ってうまくいかなかったことはよく知られたことです)

 

  
 
 私たちが、各所で見る、「うまくやっている人」というのは、そこでうまくいっているだけで、実際に、すべての場所でうまくいくわけではありません。
 
 
 私たちの脳は、自分を否定するために、都合よく、それぞれの場所で「うまくいっている人」を取り上げては、それらと自分とを比較してダメ出しをしてきます。

 しかし、そんなご都合主義の比較に意味があるでしょうか?

 ガントチャートで、すべての項目がMAXでなければ人としておかしい、なんてそんなことありえるでしょうか?

 ライオンが、スズメみたいに空は飛べない、水の中では魚に勝てない、モグラのように土の中では、だからライオンはダメだ、などと都合よくダメなところを比較して、意味があるでしょうか?

 

 

 多くの場合、私たちは、親などや養育環境の中での間違った比較やこうあるべきを押し付けられて自信を失っている場合もよくあります。

 

 確かに、いろいろな場所で相対的にうまくいってそうな人はいるかもしれません。そつのない人もいます。

 しかし、器用であるが故の不幸もあるのです。

 以前、ブログで紹介した、なんでも器用に100点の回答をしてくる東大生たち。彼らは果たして幸福でしょうか?

(参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 その器用さゆえに、壁(不適応)に当たらないことで、本来の自分の場所が見つからない、という恐ろしいことも生じるのです。

 実際にそつがないゆえに、会社などで出世していって、でも、本来のその人の人生を生きてはいない、なんていうことはたくさん存在するのです。
 

 たまたま数字のある部署に配属されて、それで役員(子会社の社長)まで行く、なんていうのは大企業ではよくある型です。良いことのように見えますが、それも本当に幸せなのか?
 

 どこかで「この仕事は合わない」「この組織は合わない」というシグナルが来て、別の会社や職に就くことが、その人の本来のいる場所、かもしれません。

 しかし、器用に適応したがために、自分の本来の道を見つける機会はついぞ失われてしまうわけです。

(参考)→「誤った適応

 

 

 例えば、印象的なのは、以前、社会問題となった宗教団体でネクタイを締めたスーツ姿の幹部たちが会見をしている場面をテレビで見たことがあります。

 あの人たちは、その宗教団体という組織の中で適応し、出世した人たちです。

 おそらく、仕事もできるのでしょう。
 その組織の中で覚えめでたく、上司にも好かれ、だから出世したのでしょう。

 一方その宗教団体を訴える人たちは、その団体で搾取されてきた人たちです。
もしかしたら、搾取されただけではなく、馴染めず、出世できなかったのかもしれません。

 
 しかし、適応した幹部たちは果たして真に幸せなのでしょうか?

 社会問題となるような集団ですから、「こんなところはおかしい」と不適応を起こすほうが自然ではないでしょうか。

 そこに適応して出世までできたというのは、良い適応では全くありません。

 私たちは、不適応、不適応、不適応のフィードバックの中で自分を作り、そして持ち味を発揮できる場所や人、自分にとっての“社会”に適応していくものなのです。

(参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない

 

 

 

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私たちは多様性のある関係(文化)を育む訓練をしてきていない~学校文化の悪影響

 

 
 筆者が以前、休日にスポーツをしていたときに、仲間の振る舞いに嫌悪感を感じたことがありました。

「たぶん、これが学校だと、いじめられるだろうな・・」という言葉が頭の中で湧いてきました。

 別に、その人が好きにしているのだから、イライラすることもないわけで、頭ではわかっていますが、なぜか嫌な気持ちは抑えられませんでした。

 帰りにふと、なぜそんなことを思うのだろうか?と振り返っていたら、「あ、そうか、これは学校スキーム、学校のカルチャーの影響だ」と気づきました。

 私たちは、小学校、中学校、高校とクラス制の中で育ってきています。

 
 人間関係も、そうした中で学んでいきます。

 
 クラス制とは、単一のクラスの場の空気に合わせて生活をすること、といえます。

 色々な性格のメンバーが集っているにも関わらず、1つのカルチャーに染まることを余儀なくされて、1つの文化や、価値基準の中で序列がなんとなく決まってしまう。
 

 そうした多様性のないカルチャーの極点が学校カースト、そして極限がいじめという現象です。

 世の中には人を測る物差しは無限にあるにも関わらず、ごく限られたもので規定され、ニセの序列までつけられてしまう。

 

 しかも、教師も、多様性のないカルチャーで育ってきているために、知識では、個性を尊重と頭でわかっていても、それを支える経験、体験、リソースが圧倒的に不足しているために、気持ちがついてこない。
 
 そこで、自分の限られた経験からくるローカルルールで判断して、「いじめられる側にも問題がある」「もっと本人が空気を読まないと」という感覚になってしまう。

 
 
 多様性の欠如を生むのはもちろん学校だけではありません。家庭はもっとひどいもので、機能が不全に陥ると、親の不全感からくる理不尽な単一文化の牢獄となります。
 
 

 いじめの構造研究で知られる社会学者の内藤朝雄氏は、そうした状況を打破するために、学校においては、いわゆる大学のように、クラス制ではなく、科目ごとにクラスを編成し直すなど、多様性を担保するしくみを提案しています。

 そうした取組は必要でしょうし、その他にも、特に学校においては、いかにすれば多様性、多元性を担保できるか、をもとに環境が設計される必要があります。

 なぜ、こうしたことを書くかと言えば、生きづらさの原因の多くが、取り巻く環境、文化の多様性の欠如によってもたらされるからです。
 

 そして、自身の生きづらさや悩みというものは、ご自身の「頭(心)の中」にあるのではない、と知ることはとても大切なことです。
 
 悩みの原因は環境の側にあります。

 仮に認知行動療法になどで取り組むにしても、影響している文化、環境、そして経験を変えるのだ、という観点が必要です。

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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『anan(アンアン)』2023/03/08号 No.2338[つながるチカラ/櫻井翔&菊池風磨] にて記事が掲載されました。

 

 本日(3月1日)発売の『anan(アンアン)』2023/03/08号 No.2338[つながるチカラ/櫻井翔&菊池風磨] にて 当センターのみきいちたろうが取材協力しました記事が掲載されました。
 
 「職場や友人、SNS…人間関係に疲れた人へ。備えておきたい現代コミュニケーション自衛術」というタイトルでSNSとの付き合い方や、スルースキルについてまとめたものです。
 書店やコンビニにてご覧、お買い求めいただけます。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

不良の論理

 

 ハラスメントとは、本来、人と繋がりたい、とか、自分がよりよい人間であろうとする人であれが誰もが持つ心性を悪用してなりたちます。

 子どもでしたら、親から愛されたい、といったことが原点にあって、機能不全な親が子どもに対して適切に関与できず(せず)に、自己都合で関わって相手を支配してしまう、ということです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 その一番悪化したといえる状態が、以前の記事で見ました、例えば、「変化したいが、変化すると他者(家族)が喜ぶから変化したくない、できない(自立したいが、自立すると家族、親が喜ぶから自立したくない、できない)」
というものです。

(参考)→「主体を喪失し、すべてが他者(親)起点となる

 こうなると、抵抗するための足場さえ「親(他者)」にあり、どこに重力をかければよいのかわからない。
 かけたらそれは親を頼ることになって嫌だ、抵抗したくない、となって、もうわけがわからなくなります。
 

 また、そうした状況は、自我が確立されていませんから、何がしたい? ではなく、親をどうしたい、という恨みとして表現されることになります。
感情も相手起点で、なかなか解消されることがありません。

 

 

 機能不全というのはなかなか厄介なものですが、そんなことを考えると、いわゆる不良というのは、なかなかたくましいものだな、と感じます。
 
 いわゆる不良というのは、親とか先生に反抗して自分の仲間でつるんで、ということをします。社会的には良いこととはされませんが、多くの場合家庭環境等に問題を抱えていて、そこに対して反抗することで自分を守っているといえます。

 不良は、おかしな環境から抜け出すために、同じ境遇の仲間とつるみます。
 良い仲間や先輩に恵まれれば、外部に自分の足場を構築できます。

 ただ、反抗することで無理ゲーの大枠を破壊して、自分を脱出させています。
 これは家庭や学校の理不尽なハラスメントに対して、反抗して別の場所に別の常識を作り、自分を守ろうとする工夫です。

 

 不良の場合は、ヤンキーの文化やルールの中に身をおくことでそれを果たしています。

 社会は多様であり、学校が定めた優等生の一元的な理屈ではなかなか収まらないということもあるでしょう。

 

 不良の論理というのは、自我を確立する際の参考になります。

 ハラスメントの侵入経路である「良い人間でありたい」ということを一旦捨てて、別の場所に足場を置いて、そこから立ち上がろうとするということです。

 

 

 

 ただ、すべての人がヤンキーという意味での”不良”になれるわけではありません。

 気質に差があるためです。
 気優しい方もいらっしゃいますし、色々なタイプがあります。

 
 そこで、”反抗”には、別の例、形態もあります。

 例えば、音楽や、漫画、小説、本などの趣味やサブカルチャーに足場を置くというものです。

 親のローカルルールとは違う、別の世界を持ってそこを足場とする。
 遠い世界の作家やアーティストをメンターとしてそこで自分の世界を構築していく。

 いじめなどに耐えれた子供の例などでも、学校以外に自分の世界があった、というケースがあります。

 別の形では、スポーツもあります。
 あるいは、仕事に求めてそこで、というケースもあります。

 学校の先生や、親戚がある種の親代わりとして居場所となるケースもあります。
 
 伝統的な宗教に求めてそこで足場を得るということもあるでしょう。

 ゲームやネット空間に求めるケースもあります。
  

 

 人間は社会化されてはじめて人間でいられるわけですが、優等生みたいに「良い人間でありたい」ではあまりにも脆弱です。

 良い人間であることにも前提が必要であり、良い人間は階層の2階以降にしか来ないものなのです。

 それが1階に来てしまうと、自分が都合よく支配される側になってしまうのです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 以前も紹介したことがありますが、社会学者の宮台真司が『うんこのおじさん』という本の中で、「法を守るよりも、むしろ法を破ったときの共通感覚によって、仲間とそうでないものとを分けるのが人類のもともとのあり方です。」

「法に過剰適応した人は、自動機械みたいにコントロールされます。母の肯定に過剰適応した人が、自動機械みたいにコントロールされるのと同じです。」

「僕たちの本体は法の外にあります。」「仲間かどうかは、法外のシンクロでわかります」「仲間を守るために法を守り、法を破ります。」「本当の正義は、法外にあります。」

 と書いていましたが、
 ルールというのは破られる側、反対側も同時に持ち合わせてはじめて機能する。

(参考)→「ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。

 

 

 同様に、人間も社会化する一つのルートが難しい場合は別のルートを借りる。
 あるルートがローカルルール化する場合もありますので、”社会化”と同時に”反社会(≒反抗)”ということも同時に持つ。

 免疫として、反社会的(不良な)な要素も自分の中にあって良いし、それもあって人として成熟できる、バランスが取れる、と知っておくことはとても大切なことです。

 人間というのは多元的(多声的)でないと成立しない。
 様々な要素があった、多重人格のようにいろいろな顔を持っている必要がある。
 その上でアイデンティティを束ねる自我がしっかりと君臨している、というのがよい状態。

 

 

 決して、機能不全の親や周囲に認められたい、良い人間でありたい、といったようには考えない。
 
 それは、結局、相手が持つローカルルールに規制されてしまい、「変化したいが、変化すると他者(家族)が喜ぶから変化したくない、できない(自立したいが、自立すると家族、親が喜ぶから自立したくない、できない)」とあまり変わらない状態に陥ってしまうことになるのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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