筆者が以前、休日にスポーツをしていたときに、仲間の振る舞いに嫌悪感を感じたことがありました。
「たぶん、これが学校だと、いじめられるだろうな・・」という言葉が頭の中で湧いてきました。
別に、その人が好きにしているのだから、イライラすることもないわけで、頭ではわかっていますが、なぜか嫌な気持ちは抑えられませんでした。
帰りにふと、なぜそんなことを思うのだろうか?と振り返っていたら、「あ、そうか、これは学校スキーム、学校のカルチャーの影響だ」と気づきました。
私たちは、小学校、中学校、高校とクラス制の中で育ってきています。
人間関係も、そうした中で学んでいきます。
クラス制とは、単一のクラスの場の空気に合わせて生活をすること、といえます。
色々な性格のメンバーが集っているにも関わらず、1つのカルチャーに染まることを余儀なくされて、1つの文化や、価値基準の中で序列がなんとなく決まってしまう。
そうした多様性のないカルチャーの極点が学校カースト、そして極限がいじめという現象です。
世の中には人を測る物差しは無限にあるにも関わらず、ごく限られたもので規定され、ニセの序列までつけられてしまう。
しかも、教師も、多様性のないカルチャーで育ってきているために、知識では、個性を尊重と頭でわかっていても、それを支える経験、体験、リソースが圧倒的に不足しているために、気持ちがついてこない。
そこで、自分の限られた経験からくるローカルルールで判断して、「いじめられる側にも問題がある」「もっと本人が空気を読まないと」という感覚になってしまう。
多様性の欠如を生むのはもちろん学校だけではありません。家庭はもっとひどいもので、機能が不全に陥ると、親の不全感からくる理不尽な単一文化の牢獄となります。
いじめの構造研究で知られる社会学者の内藤朝雄氏は、そうした状況を打破するために、学校においては、いわゆる大学のように、クラス制ではなく、科目ごとにクラスを編成し直すなど、多様性を担保するしくみを提案しています。
そうした取組は必要でしょうし、その他にも、特に学校においては、いかにすれば多様性、多元性を担保できるか、をもとに環境が設計される必要があります。
なぜ、こうしたことを書くかと言えば、生きづらさの原因の多くが、取り巻く環境、文化の多様性の欠如によってもたらされるからです。
そして、自身の生きづらさや悩みというものは、ご自身の「頭(心)の中」にあるのではない、と知ることはとても大切なことです。
悩みの原因は環境の側にあります。
仮に認知行動療法になどで取り組むにしても、影響している文化、環境、そして経験を変えるのだ、という観点が必要です。
みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)
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