「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 前回、意思決定、選択プロセスについて、結果論からマウンティングされると、結果から最善手を求めるようになり、自分の主権が奪われる。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 ということを書きました。

 

 その背後には、マウンティングする側が自己を神とするような万能感の錯覚が潜んでいることにも触れました。
 

 

 
 ローカルルール(人格)とは、それ自身がルールを創造する小世界のニセ神のような存在です。
 そのなかでは、あたかも神のように振る舞う(正統性を偽装する)ことでなければ、成立しません。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 その証拠に全体主義の国では指導者や組織は神に擬せられ、神聖化されます。カルト教団の教祖は神のようですし、機能不全家族の親もあたかも自分は全能であるかのように言動します。

 

 

 トラウマを負った人は、

 「私はいつもだめです。判断のおかしさを指摘されてきました。」
 「自分の親や、他人はいつもしっかりしていて、正しい。なぜなら結果がそうだったから」
 

 といいますが、実はそれはニセ神化した他者が、結果論で評論をしていただけだったのではないか。

 自分に自信を持つとは、自分の判断や選択、行動に自信を持つということです。

 

 

 なぜ自信がないか?といえば、その一つに、判断や選択の主権を奪われてきたから。

 自分が選んだことも「これが正しいかわからない」となる。

 では結果から判断しようとしますが、結果が最善手ではないことを取り上げて「やっぱり、自分の考えは信用できない」となって自信を失ってしまう。

 他人からも「もっとこうしておけば」と指摘されて、「ああ、他人のほうが優れている」となって、自信を失う。

 

 

 でもそれは、「結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想」でしかないものです。

 前回も触れましたが、人間は最善手を打つことは絶対にできないのですから、結果から判断することは実は意味がない。
 

 

 求めていることと全く違えばそのプロセスを改善することは意味があるかもしれませんが、次善手であれば万々歳といっていいのです。

 仮に失敗であったとしても、自分の価値基準(フォーム)から意思決定をできたのであれば、それは大いに褒められることです。

 なぜなら、人生は判断の連続です。
 自分の価値基準(フォーム)で生きるしか、主権を持って生きる方法はないのです。

 
 人間は弱く認識能力は限定されており最善手にはアプローチすることはできない。
 世の中には常に次善手しか存在しない、ということを知ることを成熟といいます。

 世の中は、多元的ですから、自分のスタイルに沿った瞬間に、評価の次元が自分軸になりますから、次善手が最善手となります。 
 そして、自分のスタイルに沿った選択の結果を「縁」というのです。

 

 

 一方、人間の能力は高いはずで、そこに向けて努力するべきだ、と考える考えをハラスメントといいます。
 DV、虐待、モラハラ、クレーマーにはすべてこのおかしな人間感が背景にあります。

 そして、幼い子どもが完全な人間(立派な人間)でないことに腹を立てて激しい折檻をしたりして、命を奪ってしまったりするのです。

 クレーマーは、自分の趣向や思考をエスパー(完全な人間、立派な人間)のように汲み取れない店員に腹を立てて、「気が利かない」として怒り出す。 

 

 

 人間の能力が高いはずだと捉えて、最善手を求めるものは、しらずしらずのうちに、人間の判断力を超越した不思議なめぐり合わせや、自分に備わる特別な力を信じるようになります。

 なぜなら、そうでなければ、最善手に達することはありえないからです。

 例えば、株が最高値で売れるかどうか、最安値で買えるかどうかなど予め分かるはずもありませんが、人間の能力は高いはずで、最善手が予め分かるということが成立するためには、自分だけが特別で不思議なめぐり合わせがやってくる、というおかしな考え(トリック)をもってくるしかありません。

 

 

 これは「縁」とは実は全く異なる概念です。「縁」とは人間の力が有限であることを背景に、自分のスタイル、価値基準で得た選択(次善手≒自分軸では最善手)との出会いの中に感じるなんともいえない感覚のことです。

 

 自分の価値基準に基づきますから、あたかもフォームができたスポーツ選手がコンスタントに結果が出せるように、また次の「縁」に出会うことができて、縁が積み重なり、人生が拓かれていく。

 

 

 一方、人間の能力が高いはずだ、自分もそうあるべきだ、と捉えて、最善手を求めるものは、自分の価値基準を崩して主権を他者に奪われた状態です。
 主権を奪われた状態にもかかわらず、頭の中でだけ不思議なめぐり合わせを信じていますが、主権が奪われていますから、目の前に来たものが最善かどうか判断することができません。
 常に、判断に迷い選びきれず、選んでも結果論から最善手でないことを悔い、他人の後出しジャンケン批評にマウンティングされ続けることになるのです。

 

 自信はまったくないのですが、心のどこかで「自分は特別だ」と思っている。

 それもそのはず「自分は特別だ」というのは、上でも書きましたように、最善手を求める錯覚が成立するために必要なトリックだからです。

 
 実は、トラウマを負った人がもつ「自分はだめだ」というスティグマ感は、そのコインの裏側です。

 結果論で裁かれることと、予め分かるはず、ということをつなぐのは、自分はだけが特別にだめで、いつも悪い結果が起こる、というローカルルールしかないからです。

 

 最善手が予め分かるはずなのにできないのは、自分は特別にだめらから、ということで、親や他者から裁かれてきたためです。
 「ほら、他の子は出来ている」と、たまたまできている最善手らしき例を後出しで取り上げて、結果論が正統だと真に受けさせられてきた。
 

 トラウマを負った人には、「自分は特別だ」という変な自信と同時に、どんなに学歴やキャリアなど実績があっても拭えないくらい深い自信のなさとが存在するのです。

 

 主権を回復したいけど、どうしていいかわからない。
 わかっていてもできない、という場合は、最善手の幻想(ローカルルール)にかかっています。

 自信がないから主権がない、とか、自分で選べないのではありません。最善手の幻想が成立させるために(それによって)、万能感やスティグマ感、長年苦しめられてきた「自信のなさ」が必要なのです。
 

 

 この不思議な構造が見えてきたということは、「最善手の幻想」を壊すことで、自信のなさや、自他の区別がない、自分はおかしい、ということを変えていくことができるかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 

 

 TVも新聞も、毎日、新型コロナウイルスのニュースばかりです。
 健康と経済生活とを両方天秤にかけながら、政治・行政も難しい決定が強いられているな、と感じます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 
 意思決定というときにしばしば問題になるのは「結果」です。
 

 結果が悪いと、「なぜ、あのときもっとこうしておかなかったのか!」と叩かれてしまいます。

 

 私たちも、失敗すると、「ああ、なぜあのときこうしておかなければ」と後悔することがあります。
 
 特にトラウマを負っていると、自責感、後悔というのは激しく心のなかでうずまきます。

 自分を責めて叩いて、後悔する。

 そして、次に同じ機会が訪れたときに、結果が気になって萎縮してしまって、自信を持って決断できなくなる。
 

 今度は失敗するまいと判断する範囲や情報を広げすぎてしっちゃかめっちゃかになってしまう。

 「自信がない」「決めることができない」
 これは、トラウマを負っているとよく見られる現象です。
 

 

 

 例えば、野球などのスポーツでも、「あのときこうしておけば」というのはあります。

 阪神ファンのおっちゃんは、みな監督気分ですから、「あそこで、あの球に手を出せば」とか「あそこに投げていれば」ということを言いますが、当事者の立場になれば、果たしてそれができたかどうかはわかりません。 

 人間というのは全知全能ではないですから、常に結果から見て最善手を打てるわけではないからです。

 その瞬間には不十分な情報と時間とで判断をくださなければならない。

 

 新型コロナウイルスの件でも、例えば、最初の時点で外国からの往来を完全に止めていれば日本での感染は広がっていなかったかもしれません。
 しかし、それは結果論で、そのときにそれが判断できたかはとても難しい。
 往来が止まって仕事を失うと、それによって命を断つ人も実際には存在するからです。
 

 

 人間は全知全能ではない。
 しかし、近現代の傾向として、人間は自分たちが全能であると錯覚しやすくなっているので(近代人のトラウマティックな万能感)、人間の判断力を大きく見積もって、「(人間はもっと賢いはずのだから)あのときこうしておけば」と批判する傾向があります。

 たまたまうまく言ったケースを持ってきて、「できている人がいるんだから、できるはず」と考えて、万能感は修正されなくなってしまう。

 

 

 

 人間の判断力は思っている以上に小さく、限界があります。
 弱い人間にとってはすべてを見通すことはできない。

 できることは、プロセスが適切であったかどうか、価値観の軸がブレなくあったかどうか、だけです。

 野球においても、先日亡くなった野村監督は、ピッチャーが打たれた際にキャッチャーにリードの選択の根拠を聞いて、根拠があれば叱らなかった、というエピソードがあります。

 人間は結果を常に制御できるわけではなく、少なくとも自分として根拠(プロセス)があるかどうかが大切ということです。
 

 

 

 私たちの日常は、常に長距離戦で、1回の勝負で終わりではありません。常に次がある。

 長期戦で結果を出すためには、プロセスが大事で、自分の基準や価値観(フォーム)を持つことがとても大切になります。
 
 目の前の結果を出すために自分のフォームが乱れてしまうよりは、自分のフォームを成熟させて、長期で結果が出るほうが良いのです。
 

 

 

 しかし、日常生活や職場でも、結果論で相手をマウンティングする人というのはいます。「だから、こうしておけば」ということを言うのです。

 「結果がすべて」ということを言われますから、一見正しいように見えます。

 人間は全能ではないので、途中のプロセスですべてが見通せるわけではありません。結果が出なくても、プロセスとしては、そのように判断するしかないことがほとんどなのです。

 「結果がすべて」という言葉を間違ってとらえて、その批判を真に受けてしまうと、自分のフォームが崩れてしまいます。

 

 

 日常生活でも親が子どもに対して、結果だけを取り上げて、「だから、言わんこっちゃない」とか、「だから、あなたはいつもだめだ」といったことを繰り返すと、子どもの価値観の軸が崩れ、自信が育たなくなります。

 そのことが続くと、他人の判断や価値観が正しく、自分の価値観が間違っているように感じられ、自他の区別がなくなり、自信を持って意思決定ができなくなります。

 本当は他人の価値観が正しいわけではなく、それは「結果論」から正しそうに見えていただけだった。
 

  
 結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想にとらわれると、同じように結果が出せない自分に自信がなくなり、自分の「主権」が奪われるようになる。

 「結果論」で相手の意思決定を批判する、というのは実はローカルルールだったのです。

 

 

 私たちにとって、目先の結果が悪くても、自分で決定することは必須です。人間にはそれしかありえない。

 もちろん、意思決定のプロセスや価値観の未熟-成熟ということはあります。より良い意思決定はあります。
 しかし、それも、「自分が意思決定をして」「成功と失敗も繰り返して」身につける以外に道はない。

 選手の代わりにコーチが打席に立つことはできないのですから。

 

 「結果だけを見て判断したり」「意思決定の基準を他者に求めること」では、人間は成熟にたどり着くことはできない。
 

  
 
 自分の判断基準を持って、自分で決定をする。

 その場合に、俯瞰の立場に立って見ている自分がいて、迷いがあったら要注意。

 それは、冷静な目で自分のことを見ることができているのではなく、「結果論を振りかざす他者に目線」を内面化している、ということ。別の表現で言えば、他人の価値観で判断している、ということです。

(参考)→「「過剰な客観性」

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 

 私たちは常に自分の主観で見て(主観的客観性)、その瞬間得られる不完全な情報でしか判断できません。

 自分の主観で物事を見るようになると、無意識(身体感覚)が協力してくれるようになります。  

 思考の力の上に、腑に落ちる-落ちないという基準が出てくる。

 だんだんと概ね間違いのない決定できるようになってくる。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」  
 

 

 

 もちろん、「間違いのない」とは、結果から見て最善の手ということではありません。

 以前、TV番組で投資のプロの方がおっしゃっていた言葉で印象に残った中に、「一番安いときに買えると思うな。一番高いときに売れると思うな」というものがあります。

 人間は全知全能ではないのですから「一番安いとき」や「一番高いとき」を判断できません。
 だから、あとから見て、「あのときに売らなければ」「あのときに買っておけば」はまったく意味がない、ということです。

 

 

 人間は結果から見て最善の手を打つことは「絶対に」できないのです。
 投資の世界でも、できることは自分の判断基準を持ってブレなく実行する、ということだとされるそうです。

 そのように考えると、私たちも日常において、自分の価値基準を持つことが大事で、結果は、六勝四敗くらいか、場合によっては三勝七敗くらいで、勝ち方も最善ではなく、ほどほどくらいでよい(というかそれしかできない)。

 

 でも、トラウマを負っている人は、結果から見て最善手を打つことを強いられている。
 常に頭の中で焦って、最善手を打つことができないことを責める他人の評価を気にしている。

 

  
 結果から見て最善の手を打とうとすると、どうなるかといえば、他人の価値観(ローカルルール)に支配され、自分の主権が奪われてしまうのです。 

 

 頭の中で私たちを責める「あなたはだめだ」「あなたはいつも~だ」という言葉とは、あたかもインチキ評論家が結果で物事をあとから論じて自分は事前に見通せていました、というように、自分の親や身近な他人が結果論(後出しジャンケン)で全能の神を演じていただけだったのです。

 

 

 たまたまうまくいった人はどこにも必ずいますから、それと比べて「うまくいった人がいて、自分はできていいないのは事実だ」というのは、“作られた事実”でしかありません。※「他にうまく行っている人がいますよ」というのは詐欺の常套句です。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

神はお急ぎにならない。急がされたり、焦燥はローカルルール

 

 「焦らされる(どんくさいお前は変だ、遅いのは無能だ、など)」というのは、ローカルルールによく見られます。

 急いだり、効率的であることが良いという感覚。丁寧さよりもスピードを重視する。時間を浪費することを過度に嫌がる。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 背後には、親をはじめ大人への怒りが潜んでいたりします。

 丁寧さやゆっくりするということへの嫌悪がある。

 人前で作業するときも、人の目を気にして急いでしないといけないと感じて焦ったり、過度に緊張してしまったりします。

 これは、ローカルルールによって、焦らされている状態。

 もっと言えば、「自分の時間を奪われている」状態です。

 

 

 「自分の時間」とは、時間の流れの基準が自分の内部にあって、自分の内部から時間が流れていく感覚。
 反対にそれが奪われるとは、時間の流れの基準が外部にあって、その流れに支配されている感覚。

 「でも、時計のように時間って客観的でしょう?」と思うかもしれませんが、トラウマを負った人は、客観的な時間、時計に従っているわけでもない。

 

 ローカルルールの時間に踊らされている。もっとベタに言えば、他人の私的な感情の影響を受けている。
「遅いと思われたらどうしよう?」「どんくさいと思われたらどうしよう」「仕事ができないやつと思われたらどうしよう」「怒られるのではないか」といった感覚。
(参考)→「焦燥感、せっかちな態度、慌ただしさ、不安、ビビリなどもすべて巻き込まれるためにあるニセの感情に過ぎない」 

 

 安心安全のある人というのは、自分の中に時間の流れがある感覚を持っている。

 

 例えば、仕事でも、安心安全のある人が作業していると、落ち着きがその人の中からにじみ出ていて、周りが「早くして」とは言わせない雰囲気があったりします。

 時間の流れがその人の中にある。

 自他の区別がちゃんとある。

 自他の区別というのは、空間や意識のみならず、時間にも及ぶということです。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 

 

 ガウディが、サグラダ・ファミリアについて「いつできるのか?」と問われた際に、「神はお急ぎにならない」と答えたといいます。安心安全とはまさにそんなかんじ。必要な時間が必要なだけかかるというだけ。
  

 

 「焦り」「焦燥」というのは、ローカルルールの世界であり、「急げ」といのは、ローカルルールが巻き込むために仕掛けるフィッシングメールだったりします。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」 

 

 

 トラウマを負った人が、普段焦ったり、急がなければ、と思う気持ちが湧いてきたら、それはローカルルールに巻き込まれているからで、自分の時間が奪われてしまっていることに気づく必要があります。

 ローカルルール人格は自分で問題を作り出しているのに、その人や周りのせいにします。(泥棒が警察に「治安が悪い」と文句を言うみたいに)

 

 目の前に動きの遅い人がいて、他人に時間を奪われた気がしてイライラする、という場合、「その人に時間を奪われている」と思っているのは実はローカルルールに巻き込まれているだけで、本当に時間の主権を奪っているのはローカルルールの側なのです。

 

 「なぜ、急げないのか?!」と焦らせてきたら、「お前が時間の主権を奪っているからだろ!時間の主権を返せ」と言い返す必要があります。 
 (治療者に対しても、ローカルルール人格が「早く治せないのか!遅い」と文句を言うことが実際にあります。ローカルルールが悩みを生み出しているのですから、まさに「盗っ人猛々しい」とはこのことです。)

 私たちは、ローカルルールから自分の時間の主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

 そのためには、急いだり、焦ったりすることの反対に、「ゆっくり動き」「ゆっくり話すこと」を心がける。
 

 

 これは決して道徳や心構えのため、ではありません。

 
 医師の小林弘幸さんが書いた本を読んだ際に、書かれていたエピソードですが、小林さんがイギリスに留学した際のイギリスの医師(外科医)たちは、みんな動きがゆっくりだったそうです。

 カルテを書くのもゆっくり、話すのもゆっくり、でも、手術は結果として速く終る。

 忙しく、スピードが重視されるような現場で、医師たちは努めてゆっくりゆっくり動いていたそうです。

 日本でも、神の手と呼ばれるような外科医も、動きはゆっくりですがその結果は速いそうです。

 

 

 なぜ、ゆっくりなのでしょうか?
 

 小林医師によると、ゆっくりすることで自律神経が整います。自律神経が乱れないことで、結果として早く正確に動くことにつながるというのです。

 反対に、「急いだり」「焦ったり」すると、自律神経が乱れ、動きは遅くなり、ミスも増えます。

 私たちの筋肉は力を入れると反対に動きのブレーキにもなります。
スポーツでも、力を入れると反対にブレーキになるよ、とコーチに指導されたりします。

 サッカーでも、ゴール前でいかに焦らないかが大事だと言われます。
 急ぐことが大切なスポーツでも、急ぐことが結果にはつながらない。

 
 トラウマというのはストレス障害のことですが、ストレス障害の主な影響とは自律神経の乱れですから、まさに焦らされるというのは、トラウマそのものといえます。

 
 ローカルルールとは、まさに私達を焦らせることで、時間の主権を奪い、本来の力が発揮できないようにします。
 

 

 

 ローカルルールから主権を回復するためにはどうすればよいのか?

 それは、「神はお急ぎにならない」と思い、常にゆっくり動き、ゆっくりと話す。

 その際に、「急げ」と焦らせる声が聞こえてきたら、自分の母親や父親の声だったりすることに気づく必要があります。
 結局はそれはローカルルールにすぎないということに。
 
 
 ゆっくり、ゆっくりで、ローカルルールに奪われた時間の主権を取り戻す必要があります。
 

 ゆっくり動くことは、自他の区別にも繋がります。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 常に自分の寝室(私的領域)に他者を上げたり、他者の寝室(私的領域)に上がり込むようなコミュニケーションは、例えば、親が自分の不全感を慰めるために子どもに仕掛けていたローカルルールでした。

 「私の気持ちを察しなさい、そうしないあなたは悪い子だ」と

 子どもが距離をとって反応しなかったら

 「あなたは冷たい」
 「あなたは気が利かない」

 とフィッシングメールで巻きこんで、自分の心の中の寝室(私的領域)に連れ込んでいた。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 こうしたことをが繰り返されると、子どもはそうしたコミュニケーションが当たり前だと思うようになる。むしろ、そうしたコミュニケーションこそが親密であり、正しいのだと思い込まされてしまう。

 大人になっても、相手の私的領域に上がり込むようなスタイルが抜けなくなる。

 あるいは、相手が自分の私的領域に入ってくることを期待する。
 
 自他の区別が曖昧な状態が本来なのだと思わされてしまう。

 

 

 すると、自他の区別がちゃんとできている人の態度がそっけなく見えて、それが自分への見捨てられ不安のサインだと錯覚して、不安になったり、怒りを覚えるようになったりする。

(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」

 

 これは歪められたコミュニケーションスタイルでしかない。

 

 

 愛着不安になると「見捨てられ不安」という状態になりますが、これは、実は上記のようなことも背景にあると考えられる。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

    →「境界性パーソナリティ障害を正しく理解する7つのポイント~原因と治療

 

 

 人間というのは健全に発達し、自他の区別がちゃんとついていれば、私的領域には立ち入らず、人との関わりはさっぱりしたものになり、いちいち、ウェットに他者のことを気にかけたりはしなくなる。ドライなスタイルになる。

 そして、人の言葉も戯言だとわかっていて、言葉に価値を置かずに気楽に使うことができる。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 ドライで、言葉を戯れに使うことができる結果、人との付き合いが軽くできるようになり、「あの人は気が利く」とか、「思いやりがあるわね」なんて言われるようになる。

 

 これが本来の状態なのですが、ローカルルールによるコミュニケーションスタイルの歪曲によって、他者の健全なコミュニケーションスタイルが見捨てられのサインだと思い込まされてしまう。

 

 

 素っ気く、自分に関心がないのは、相手が怒っているからだ、自分が無価値だとされているからだ、と感じさせられてしまっている。

 ドライなコミュニケーションスタイルは、自他の区別が着いている健全なことで、自他の区別をつけて接してくれるからこそ、私達も自他の区別をつけることができて良い関わりができる。

 

 

 そっけなく見えるコミュニケーションは大歓迎でなければいけない。

 反対に、ウェットなコミュニケーションは、実はそれはローカルルールの歪んだもので、本来のものではない。
 実は不全感を抱えた親のローカルルールの世界観でしかなかったりする。

 

 

 「世の中の人は価値のないあなたには興味がなく、誰も相手にしない。その証拠にそっけない態度をとってくるでしょう?それはあなたに価値がなく見捨てられている証拠」「私的な領域に立ち入ることが本来のコミュニケーションなの」と親のローカルルールは言っていて、それをトラウマを負った人は内面化しているだけなのです。

 

 その結果、普通の人の態度を見て、「やっぱり、私は価値がない」(見捨てられ不安)と思わされているのです。

 

 ウェットなコミュニケーションが当たり前だと思うので、いつまでたっても自他の区別がつかず、生きづらいままにさせられてしまっている。

 

 これらは、単なる親のローカルルールですから、放おっておいてよいのです。

 

 むしろ、自他の区別がついた素っ気ないコミュニケーションは大歓迎。

 

 もし、日常で、見捨てられ不安を感じたら、これはローカルルールの影響では?と立ち止まってみることがとても大切です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 最近、いくつかのケースに共通して気がついたことですが、

 
 社会を“外”、自分の家族や実家を“内”としたときに、

 守る必要のない“内(ローカルルール)”を一生懸命守らされている人が多いということ。

 “内”とは、特に家族から強制され、内面化されたローカルルールのこと。

 これを一生懸命に守っている。

 

 

 本人は、家族のことをちゃんと否定しているつもりでいる。
 客観的に見ているつもりでいる。

 でも、実際はそうではない。

 
 さながら、家族や親の守護者・救済者、カウンセラーとして、家族の否定的な感情を癒やし、家族の期待に応え、家族の秘密を守らされている。

 家族の秘密は、とんでもない極秘事項のように思わされて、大事に大事に守らされている。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすることは、トラウマ、生きづらさを生む

 

 

 “内”を守れなくなると、世界が崩壊する、といったくらいに感じている場合もあります。

 一方、(家の)外に対しては、不信感があったり、疑わされて、一体が得られずに苦しんでいる。

 

 そのため、カウンセリングを受けているし、治療者を信頼していないわけではないけど、本当の問題(内を守らされている、ということ)は俎上に乗っていない、なんていうこともあります。

 なんてたって、“極秘事項”ですから。

 

 実際に、その極秘事項というのは、他人が見たら、すごくもなんともない。
 本当につまらないことだったりする。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 

 家族が安全基地だと思っていますが、実際はそうではありません。
 家庭は、機能が正常に発揮されていないと安全基地にはなりません。

 トラウマを負った人にとって、(機能不全の)家庭とは、緊張や呪縛をもたらす場所です。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 

 “内”を守らされていることで、一番良くないことは、自他の区別がつかなくなること。

 自我というのは、自分の中に秘密ができ、家族を一旦否定し、社会に参画していくことで形成されていく。

 自分を“内”として自我が確立していれば、社会に参画して自分も保ちつつ、他者と付き合うことができる。

(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 

 以前も書きましたが、本来の人間というのは、パブリックな場面においてはじめて可能になります。

自分とは、社会に参画して普遍的な何かを代表して、はじめて成立するもの。

 

 一方、

 家族を“内” そして、社会が“外”だとすると、
 両者にまたがる自分の中に“内側”は存在しなくなってしまう。
 

 さながら、家族のローカルルール自体が自分となって、自分がないために苦しみ。
 さらに、社会に出ては、自他の区別がないために他者のローカルルールへの防壁がなく苦しむ。
 ひどい場合は、パニック障害といった身体症状に現れることもある。

 

 トラウマを負った人というのは、多くの場合、「自分がない人」です。
自分がないというのはつまり、自他の区別がなく、ローカルルールを代表させられている、ということです。

 ローカルルールを代表させられているので、自分があるようで自分がない。
 

 

 自分の中に“内”がなく、そのために、社会のストレスを浴びて、仕事ができなくなったり、対人関係に苦しんだりする。

 
 いったん、家族から与えられた“内”(ローカルルール)を捨てる必要がある。
 その上で、自分の中に“内”を作って、社会に参画していく。そうして、パブリックな存在となっていく。

 人とうまく付き合うというのは、決して心の壁を取り払うことではない。
反対に、自分の内と外を明確にしていくことです。

(参考)→「自他の区別がつかない。」

 

   
 ニセモノの“内”を懸命に守らされていないか、“外”を敵とされていないかどうか?確認し、自分の中に本当に自分の“内”を作っていくことで、生きづらさを解消していくことができます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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