“作られた現実”を、さらに解体する。

 

 物理的な現実に根ざす、と聞いても、

 「そうはいっても、私の容姿は物理的に劣っている」
 「学歴がないのは、物理的な現実です」

 という考えが拭えない、という場合があります。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 もちろん、それもローカルルールによるもので、それ自体が、「物理的な現実」ではありません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 「でも、容姿は物理的なものでしょう!?」というかもしれません。

 これもやっぱり、実はローカルルールによるものなのです。

 

 確かに、実際には、人間の能力には凸凹があります。
 容姿にも違いがあります。

 ただ、それは、「違い(差異)」であって、「優劣」ではないのです。

 

 例えば、ある女性芸能人がいらっしゃいますが。その方はとてもふくよか(太っていて)で、いわゆるモデルさんのような容姿では全くありません。
 
 しかし、ふくよかな容姿が好きな男性はいて、モテモテなのだそうです。

 

 よく言われますが、AKBなどのアイドルも、必ずしも容姿で順位が決まるわけではないとされます。センターにつくようなアイドルが、「ブサイクだ」「どこが可愛いかわからない」と言われることはしばしば。でも、投票されるとセンターになるのです。

(参考)→「人の考えも戯れでしかない~考えや意見は私的領域(生育歴)の投影でしかない。

 

 つまり、物理的なものであるように見える容姿も、見る人によってかなり様々なのですし、俗に良いとされる容姿という要素が最も重視されるわけでもない。

 

 

 学歴もそうで、たしかにあるカテゴリでは学歴は有利ですが、
別のカテゴリでは、学歴は不利に働くことがあります。

 実際に、叩き上げの職人さんを相手に働く国立大卒の方は、「叩き上げに憧れる」といって、むしろ学歴があることに劣等感を感じるというのです。

 また、プロスポーツの世界では、実力が物を言いますから、学歴は関係がなくなります。 

 

 

 以上のように、なにか単一の要素ですべてが決まる、と考えることはローカルルールからくるものです。
 ローカルルールとは、目の前の事象、状況をうまくとりあげて「これが現実だと」と偽ります。

 ローカルルールとは、特定の要素に意図的に絞り物事に優劣をつけることで、ニセの秩序を形成します。

 

 対して、常識(グローバルルール、パブリックルール)とは、多元的、多層的です。
 物事が見方、切り方によってさまざまで、実は価値判断を安易に下さないし、下せないというわきまえがあります。多様なものが共存する場としてが本来の機能なのです。

 

 そうした観点から見れば、物理的な事象も、単なる「違い(差異)」でしかありません。

 これが本来ある「物理的な現実」です。

 

 「物理的なもの」が、たちまち「物理的な現実」なのではありません。
それは、入手した資料のすべてが「証拠」ではないのと同じです。

 

 ローカルルールはしばしば、都合よく目の前にあるものを利用します。

 

 常識を支えにして、そのためまとわりついている、おかしな価値判断(ローカルルール)を剥ぎ取る必要があります。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 単要素(単次元)だけで価値判断を下して、「現実だ」と騙るのはローカルルールです。

 そして、そこに劣等感だとか、罪悪感だとか、不安感だとかいう感情をまとわりつかせていく。俗な知識もまぶしていく。
 さらに言葉が真実だと、を真に受けさせることで、単要素だけの価値判断があたかも正しいかにみえる言葉ばかりが入ってくるようにする。
 やがて、それが“現実”だと感じさせられ、「作られたものだ」ということがわからなくなってしまう。

 
 これが、私たちがさいなまれる、劣等感や自信のなさの正体です。

 

 

 物理的な現実に根ざす、ということの一番の意味は「本来の自分(や社会)」を知る、ということです。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

イメージや印象と言ったことに巻き込まれない。物理的な自分を捉える。

 自分というのは、多元的、多層的です。

 決して一つ要素では語ることができません。

 そうしてみていくと、「自信がない」とか「劣等感だ」とかが作られたものであることが明確になってくる。

 

 「物理的な現実に根ざす」と、恵まれて見えていた他者がそうでもないこともわかってくる。それぞれに不幸であることが。

 例えば、ハラスメントを仕掛けてきてモンスターのように見えていた他者も不全感を抱えていて、単次元の要素だけで価値判断をするようなローカルルールでもなければ優劣を維持できないほど弱いこと、大したことがないことも見えてくる。
 

 

 物理的な現実に根ざす、ということも、発達の過程で自然に起きることでもあります。神のように見えていた他者や、万能感を持つ自己が等身大になってくる、ということ。

 

 言葉を戯言として「物理的な現実」に根ざすとは、ローカルルールとトラウマに阻まれて等身大に物事を見ることが機能しなくなった状態を意識的に回復させるために行うこと事ができる方法です。

 

 

 例えば、失礼なことを言われていたり、劣等感をもっていて、何をしてもそれが拭えなかった人が、「今まで真に受けていた評価って、結局ローカルルール似すぎない。単にその人が自分の不全感を解消するための戯言に過ぎなかったんだよな」

「あれ?自分は結局自分でしかない。劣等感なんて感じる必要なかった」

 と思うようになってくる。

 

 物理的な現実に根ざす、という視点がなく、ただ、考え方を変えよう、イメージを変えようというアプローチだと、ローカルルールの世界の中で踊らされているだけなのでどこまで言っても劣等感が拭えなくなる。
 人の言葉一つで簡単にひっくり返されてしまう。虚構の世界同士だからです。

 

 言葉は戯言だと知り、物理的な現実に根ざしていくと、魔女の魔法の家(ローカルルール)から出て、外の世界がいかに大きく多元的で多層的か、そして、ローカルルールを仕掛けてきていた他者がいかにちっぽけで大したことがなく、自分は自分なのだ、ということが見えてきます。

 

 物理的な現実に根ざすと「代表」も機能するようになってきますから、社会の位置と役割の中で、異物のようであった自分というものが解消されていく感覚が得られるようになってきます。

 (参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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