人の言っていることがすべて戯れ言 です。
真に受ける必要はない。
(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。」
これで言われてきた理不尽な言葉、自分への悪口、指摘もすべてローカルルールでしかない。
他の人から見て立派な人でも、人間は容易に解離してしまうもの。
すると、なんとなく思えるのは、
「すべてが戯れ言なら、真実はないの??」
という不安がよぎります。
「そうです。真実はありません。」と答えると、価値相対主義になります。
反対に、
「真実はあります。他の人の言葉は戯れ言ですが、私の言葉は信じてください」と答えると、怪しげな宗教になってしまいます。
では、どう考えればよいのか?
この問題は、実は、デカルト以降、カント、ヘーゲルなどなど、錚々たる哲学者が取り組んできた問題でもあります。
ヨーロッパでも、近世から近代にかけて「キリスト教の言っていることがもしかしたら戯れ言だったのでは??」という精神的な危機が訪れたからです。
権威ある言葉もどうも戯れ言であった、という恐ろしい事態。
ただ、人類の英知とは便利なもので、こうした難問にも答える知恵が見いだされてきました。
宗教のようなこれが唯一の真実という答えはもちろんありませんが、
実は、ちゃんと人間が安心して生きていく上での土台というのはあるのです。
健康に生きている人がよって立つことのできる“普遍的な何か”というものが。
まず、個々の人間の言葉には真実はありません。すべて戯れ言といって間違いがない。
ただ、社会全体には、なにやら”真実”とでも呼びたくなるような普遍性のあるアイデアや感覚というものがどうやらある。
例えば、世界の人々を魅了するような歌や、文学、絵画などは、そうした、普遍的な”何か”をアーティストが、あたかもシャーマンのように降ろしてきて表現したものです。
わたしたちの身体的な感覚としても腑に落ちて、しっくりきて感動し、魅了される。
そうした普遍的な“何か”のことを、プラトンは「イデア」と呼び、ヘーゲルは「歴史」「世界精神」、ルソーは「一般意志」などと呼んでします。
(このブログの中では、それらを「常識」「社会通念」あるいは「パブリック(グローバルな)ルール」と表現してきました。)
それらを目に見える形で表現することを「代表」といいます。
“普遍的な何か”というのは、直接に表現することはなかなか難しい。
作家や画家、作曲家といった人たちも、苦悶しながら、それを降ろそう(代表しよう)としています。
民主主義では、世論調査や選挙を通じて一般意志を「代表」させようとしていますが、なかなかうまくいかず、「自分たちの気持ちがわかってもらえていない」と不満を持つ人も多い。
科学などの専門的な知見もある意味、普遍的な“何か”を「代表」させる方法です。
最近では、統計、AIを使って、“普遍的な何か”を表現しようという試みもあります。
※ルネサンス(近世)以降の西洋の取り組みというのは、半ばローカルルール化した宗教から離れ、“普遍的な何か”を自ら作り上げようとしてきた歴史とも言えるのです。
個々の人間の言葉は戯れ言だ、というのは、AIやビッグデータで言えば、個別のデータには意味がない、ということと同じ意味です。
アンケート調査でも、ひとりひとりの意見は意味がありません。逆に真に受けると惑わされたりします。
ただ、それらを集計して、単なる合計ではなくその背後にある母集団、法則といったものを見出した際に、“普遍的な何か”に近づくことができます。
個別データも意味がないように、個々の人間には嫉妬や支配欲、不全感と言った能動的なバイアスがかかります。つまり、意図的に相手をコントロールするために自分の言葉を使おうとするのです。
それらが強く現れている状態を「ローカルルール人格」と呼びます。
(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」
特に、私的環境では頻繁に現れます。真に受けるなんて危険極まりない。
一方、公的な環境では、マシになります。
なぜなら、公的環境では、上記で書いたような「代表」という機能が働くからです。
人間は公的環境で、公的な役割・責任を背負うと、普遍的な何かを「代表」するという力が働きます。
例えば、仕事に没入しているとき「私」というものは背後に下がり、
その職務で果たすべき機能を自分が表現している、という実感をわたしたちは感じます。
さらに仕事に習熟し、没入していると、なにやら仕事の精神が自分に宿ったような、全体とつながって世界の一部になったような不思議な感覚になることがあります。
こうした感覚が「代表」という状態です。
そうしたときに発せられる言葉は、まだ信じることができます。
専門家の言葉が信用に足ると思われているのは、専門知識や職業意識などが普遍性を代表してくれていると思うからです。
ただ、もちろん生身の人間ですから、ちょっと気を抜くとノイズも入りやすいです。
公的な環境においてもそうです。
専門家でも、専門領域の内輪の理屈を優先したり、過度に専門的すぎて普遍性から離れてしまうと「専門バカ」と呼ばれて、信頼されなくなります。
だから、公的環境の言葉も真に受けすぎずに、できる範囲で都度吟味はします。
でも私的領域に比べれば、かなりマシです。
気をつけておかなければいけないのは、公的環境とはハコ物が揃っていれば成り立つものではないということ。学校、会社や職場という環境は実は、公私が曖昧です。
なぜなら、組織に機能不全がない学校や会社はなく、機能不全な環境では、私的領域(ローカルルール)が生まれ、モラハラ、パワハラが横行し始めたりもするからです。
(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」
以上は、理屈を整理したものですが、私達が現実に生きていく上においては、難しく考えなくても大丈夫です。
世の中の「常識」や「社会通念」というのは、思っている以上に、信じるに足る“普遍的な何か”であります。
特に、社会がバランスが取れて、多元性が保たれていれば、かなりの程度、普遍性を代表してくれています。
(参考)→「常識、社会通念とつながる」
このように、わたしたちは、「常識」という名の“普遍的な何か”を拠り所にして生活をしています。
常識を拠り所にできるためにはいくつかの条件があります。
それは、
・健全な愛着が土台としてあること。
・そして反抗期を経て、自他の区別がついていること。
・社会の中で位置と役割(いわゆる仕事)を得て、社会の中で自己を解消していること。
・さらに、睡眠、食事、運動が適切に満たされ、心身が安定していること。
そうして、「常識」を拠り所にして違和感なく生きることができます。
本来の親の養育や、社会の教育、というのも、“普遍的な何か”を、身近な大人が代表して伝える営みです。そうして、常識を伝えていくものです。決して、親の個人的な信念を伝えるためにあるのではない。
健全な教育を受けていき、さらに、反抗期で一旦それを総否定することで、自我が形成されて、自分で再編成した「常識」を支えに社会に出ていく。
さらに、職業など公的な役割を得ることで、“普遍的な何か”を代表する。
それにより、ほんとうの意味で自己一致という状態に至ることができるのです。
(このような人格陶冶をヘーゲルは「教養(ビルドゥング)」と呼びました)
(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」
別に特別なことではなく、愛着に問題がない健康な人であれば、自然とできていることです。
反対に、上記の条件に欠けがあると、生きづらさを感じたり、「ローカルルール」に巻き込まれたりしてしまうのです。
つまり、私達が悩みや生きづらさを抱えていたりするのはこうしたことが背景にあるのです。トラウマとは”普遍的な何か”から切り離されている機能不全状態のこととも言えます。
人の言葉はすべて戯れ言であって、真実はそこにはありません。
(人の言葉はビックデータのための個別データとしてならかろうじて活用できるかもしれませんが)
人の言葉というのは、戯れ言として聞き流していると、ローカルルールに巻き込まれずにスルーすることができます
そうしていると、“普遍的な何か”を身体で感じることができるようになる。
別に“真実”などという大げさなものではなく、「常識」といわれるようなもの。
身体感覚で感じる“普遍的な何か”を拠り所にしながら、
人の言葉は戯れとして適当に楽しむ。フリをしながら付き合う。
そうして初めて人との一体感、つながりが生まれてきて、「気が合う」「一緒にいて楽しい」と感じられるようになる。
人の話を真剣に耳と傾けていたときには「疎外感」「生きづらさ」を感じていたのに、
‘戯れ言”としていい加減に聞き流し始めると、楽しく感じられるようになる。
マジメに人の中に‘真実”を追い求めていたときは、「絶望」を感じたり、自己啓発のグルの言葉でかりそめの癒やしを得ても満たされなかったのに、人の言葉はすべて戯れ言であり、世の中に真実はないとわかると、「代表」が機能し始め、普遍的な何かを感じることができるようになる。
(参考)→「「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。」
戯れ言とは、「戯れ(遊び)の言葉」ということ。
戯れ言とわからなければ、人の言葉は楽しく感じることができないのです。
このような感覚が、みなさんが悩みが解消した先にある、普通の世界なのかもしれません。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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